十三のいま昔を歩こう

梅田の街と十三(じゅうそう)の町を中心に、大阪の近代史を歩く歴史ブログです。

2008年

01月01日

(火曜日)

十三大橋の渡り始め

十三大橋の渡り初め

昭和7年1月に十三大橋が完成しました。昭和7年というのは五・一五事件があった年で、海外では満州国が建国されています。少しずつ戦争の足音が聞こえ始めた時代です。

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開通式は、吉辰の日の昭和7年2月2日、戦前の雑誌「道路の改良」によると、朝から薄雲に覆われた天気だったようで、淀川の川面を吹く風が寒かったと書いています。しかし、朝の9時には南北の両詰の道路や堤防上は見物の人で賑わい、沿道の家や新橋上に国旗などが美しく飾られ、煙火や祝賀飛行機が上空を飛んでいたようです。午前11時、内務大臣代理、齋藤大阪府知事、大阪府会議長、大阪市長など約2千人が参列し祝賀式典が行われました。午後1時、式典終了後、参列者は列を成して南詰より通り初めをし、北詰からは地元の小学生が手に国旗を持って渡りました。

十三大橋渡り始め
写真は「なにわ橋づくし/露の五郎」より

十三大橋の渡り初めの写真です。小学生が日の丸の旗を持って渡っていますが、ちょっと寒そうですね。みんな厚着をしています。どこの小学校でしょうか。「北詰からは地元の小学生が…」と書かれていたので、神津小学校か中津第三小学校か十三小学校かでしょうね。現在は橋全体が白く塗られていて、白いイメージがありますが、開通当時はライトグレーだったそうです。当時の雑誌「道路の改良」に開通時の記事があるのですが、そこに当時の交通量が書かれていました。昨年4月の交通調査によればと前置きがあり、一昼夜に自動車1600台、自転車7500台、荷車1400台、牛車2100台、歩行者5500人だったそうです。昨年4月とは昭和6年になりますので、十三大橋の横にある十三橋の交通量だと思います。大阪府下では阪神国道(今の国道2号線)の西成大橋に次ぐものだそうです。西成大橋とは淀川大橋が架橋される前の橋です。当時はまだ車より人の往来の方が多かったのですね。


十三大橋竣工空撮
「道路の改良」より
画像のコンディションが悪いですが、竣工式の空撮です。十三側から見ている写真で、橋のアーチの部分に大きな国旗が見えます。十三大橋の右手に旧の十三橋があります。阪急電車は宝塚線と神戸線の2本しかまだありません。手前の道路沿いの建物は今里屋久兵衛ですね。よく見ると手前の道路はまだ舗装されていない感じですね。右側の堤防に小屋がいくつも見えます。何なんでしょう?それにしてもすごい人だかりです。地域だけでなく、大阪が発展していく上でも非常に重要な橋だったのだと思います。




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2007年

11月24日

(土曜日)

消えた中津川 3

消えた中津川 3 十三篇

十三の渡しがあった川は今の淀川ではなく、その前にこの地に流れていた中津川です。昔から中国街道や能勢街道の通行の要として「十三渡」と木川の「新橋渡」が利用されていました。

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明治11年、中津川に私設の十三橋が完成し十三の渡しはなくなりました。明治後期の淀川改修工事でその橋もなくなります。その後、新淀川に十三大橋(先代の十三大橋)が架橋され、中津川は河川としての機能を失い埋め立てられていきます。中津川の跡を歩きましたが、その痕跡はまったく見当たりません。唯一、土地が隆起している地域がありました。ただ、これが中津川の堤防跡かは不明です。

中津十三01
現在の地図(Googleマップより)。
緑色の辺りが隆起している所です。1は空楽寺周辺。2は銀座通りにある地蔵尊。3はその西側にある地蔵尊。4は元今里墓地です。それぞれ歴史があり、昔からこの地にありました。当時どの辺りにあったかをみていきたいと思います

中津十三02
明治42年の地図です。中津川の埋め立てが進み、明治40年には修徳館の建設が始まっています。緑色の隆起している辺りは、この当時中津川の堤防からは離れており、大野川(中島水道)との間にあたります。2と3の地蔵尊は中津川の堤防沿いにあったことがわかります。元今里墓地も中津川と大野川(中島水道)に挟まれた場所にありました。

中津十三03
明治18年の地図です。緑色の隆起している辺りは、中津川と大野川(中島水道)との間で今里村の辺りになります。細い街道は野里や尼崎方面につながっており、この道しかありませんでした。この地域は昔から水害の多く、少し小高い土地を利用して今里村の集落が出来たのかもしれません。1の空楽寺は、まだここにはありませんでした。

ガレージ神社
1の空楽寺の横のガレージの中にある地蔵尊です。いつからあるのかは不明ですが、昔の今里村集落の中心に位置するので、由緒あるお地蔵さんかもしれません。

空楽寺
空楽寺。1577年に開基とあります。1908年(明治41年)に西区からこの地に移ってきました。

空楽石垣
空楽寺の敷地内にある石垣。この地が平坦でなかったので家を建てるときは、こんな石垣があちこちにあったのではないかと思います。

隆起01
空楽寺の裏の私道。写真ではわかりにくいですが、隆起しています。

隆起02
上の写真の反対方向からみた写真。撮影場所自体が少し坂になっていて、この路地はさらに隆起しているのがわかります。

隆起03
さらにその下から見た写真。左の家をみると高低差がわかります。この道の後ろは大野川跡の道路になります。北から南方面を見ています。

銀座
2の銀座通りにあるみかえり地蔵尊。お社が新しくなりました。

風呂近
3の福智延命地蔵尊。目立つ場所にあって、子供の頃から一番親しみのあるお地蔵さんです。

元今墓地
4の元今里墓地。いつからこの地にあるのでしょう。今里村のお墓です。




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2007年

10月28日

(日曜日)

消えた中島大水道3

消えた中島大水道 3

中島大水道の名残が残っていないか歩いてみましたが、ほとんど残っていません。十三バイパスの辺りに数ヶ所堤防の石段がかろうじて残っているくらいです。

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中島大水道は十三バイパスから外れ西へほぼ直角にカーブします。その辺りの道は、くねくねと蛇行しており、川の名残といえば名残かもしれません。道路はくねくね蛇行しながら、ダイヘンを超え、元今里墓地の横を通り、田川を抜けて、JRの高架下をくぐり、大野川遊歩道へとつながって行きます。
十三バイパスの下にひっそりと「身かわり地蔵」が祀られています。昔からずっと川のたもとで町の移り変わりを見守っていたのでしょうね。

中島01
堤防の階段跡

中島02
階段を上がった所。ここを川がまっすぐ流れていたのでしょう。

中島00
商店街近くの路地にも階段が残っていました。

中島03
十三バイパスから直角に曲がったところ。

中島04
くねくね蛇行する道路。先にダイヘンがあります。この辺りの電柱看板は全部ダイヘンです。

中島05
元今里墓地の横をくねくね。

身がわり
十三バイパス下に身かわり地蔵がありました。由来は不明です。

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(関連ブログ)
『消えた中島大水道 1』
『消えた中島大水道 2』

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新之介

Author:新之介
塚本と十三で育つ。
196X年生れ。大阪の歴史をわかりやすく伝える方法を研究中。
若い人達にも関心を持ってもらえるように、大阪の近代史を面白く伝えていきます。目指すは『一分で読める歴史ブログ』。

戦前、十三公設市場近くに淡路屋という米屋がありました。新之介のルーツがそこにあります。

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