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梅田北ヤードができる前4( 梅田高女篇) 

2008年03月12日 00:00

梅田北ヤードができる前4
梅田高女篇


明治43年(1910)、明治19年に設立された女学校が堂島から北区北梅田町に移ってきました。校名も大阪府立堂島高等女学校から大阪府立梅田高等女学校へ改称されます。校地面積は6,040坪、校舎は瀟洒でハイカラな建物でした。

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当時の義務教育は尋常小学校(6年間)までです。さらに高等教育を受ける場合、経済的にも裕福な家庭に限られていました。当時は共学の学校はありません。男子は中学校(5年制)、女子は高等女学校(4~5年制)などで、それぞれ別に学んでいました。
当時の梅田高等女学校は、本科(4年制)と実科(後に専攻科→高等科)に分かれていました。教育の目的は良妻賢母になるための教育です。修身、家事、裁縫などと一般教養を学びました。

規律も厳しく、服装や髪型に自由度はありません。男女の交際も厳しく禁じられ、「男子学生と口をきいてはいけない」「帰途、梅田の方へ出れば、北野の生徒と逢うのでそちらへ行くことを禁ずる」なんてことも言われていたそうです。今の時代では考えられないですね。

大正12年、学校は大手前に移転することになります。梅田の地に学校があったのは13年間という短い間でした。しかし、この13年間で梅田高等女学校の名声は天下に伝わることになったのです。

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大正3年の地図。大阪駅から近かったことがよくわかります。

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明治45年の梅田女学校校舎「大手前百年史-資料集」より

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梅田女学校校門・校舎「大手前百年史-資料集」より
かなり立派な佇まいです。門構えも立派ですね。門の左手にある松の形が特徴があります。屋根のアクセントが工業学校の屋根形状とよく似ています。

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梅田女学校校舎「大手前百年史-資料集」より
この時計台が梅田校舎の特徴ですね。

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梅田女学校数学教室「大手前百年史-資料集」より
規律の厳しい学校なだけに、髪もきちっとまとめています。まじめに授業を受けています。衣装は袴姿なのでしょうか。大正時代って、はいからさんスタイルのイメージなのですが、ちょっと地味な感じですね。

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梅田女学校裁縫教室「大手前百年史-資料集」より
裁縫の授業のようですが、後ろに着物が掛かっています。同じ着物を作っているのかな。

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梅田女学校 家事洗濯「大手前百年史-資料集」より
洗濯しているようですが、普段着を洗っている感じでもないですね。奥の人は帯を洗っているのかな。

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大運動会 変更標語競争「大手前百年史-資料集」より
こんな運動会も面白いかのしれないですね。

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校庭の掃除「大手前百年史-資料集」より
掃除の風景ですが、無邪気な笑顔が印象的でした。まだ下級生でしょうか、表情に幼さが残っていますね。この後、落ち葉?を燃やすのかな。

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掃除のあと「大手前百年史-資料集」より
こちらは、掃除の後に手を洗っています。水道はまだないんですね。


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コメント

  1. alcoholicdrunken | URL | -

    戦前の窮屈な時代が偲ばれます

    「堂島高女」「梅田高女」は、後の「大手前高女」、現在の府立大手前高校ですね。
    旧制北野中学においても、
    「生徒だけで、府立中之島図書館と、宝塚歌劇へは行くべからず。」
    という校則があったそうで、学校側が
    「生徒がこれらの施設へ行くことによって男女交際に発展し、生徒の勉学に支障を来たす恐れがある。」
    と考えていたようです。
    北野芝田町時代の北野中学では、生徒によって、
    「図書館へ行くがいい。宝塚へ行くがいい。」
    と墨で書かれた貼紙が校内に掲出される騒動があり、校則に対する生徒からの不満もあったようです。なお、この貼紙の「犯人」は、後に作家になる梶井基次郎先輩だったそうです。
    戦後の新制高校発足・男女共学化の際に、「北野中学」と「大手前高女」との両校交流(生徒と教員を半数ずつ交換)が行なわれた史実には運命のイタズラを感じます。
    (もし、新之介様が、今後記述される予定の事項をここに含んでいますれば、小生、深くお詫び申し上げます。)

  2. TOSSY | URL | mXJ0wlpU

    女学生

    私の母も 梅田女学校でも大手前でもないですが 大阪市内の女学生でした
    はかまをはいて 登校したそうです
    市電が どのルートに載っても均一料金で 回り道をしながら帰ったとか行っていました

    ハイカラさんをしのばせるエピソードとしては 当時英語の教師をしていた 後の大阪府知事 左藤ぎせん(漢字忘れました)氏は 生徒を指名する時には Miss ○○ と呼ばれたそうです

    袴をはいて アイススケートもしたといっていました
    自転車には乗れなかったようです

    写真が残っていないのが残念です

  3. alcoholicdrunken | URL | -

    TOSSYさん

    「左藤義詮」知事(故人)のことですね。
    小生、この知事、「さとう よしあき」さんだとばかり思っていました。「ぎせん」さんが正しい読み方だったのですね。
    (「詮」には、「詮索」=「穿鑿」とも書く、「詮衡」=「選考」とも書く の熟語から、「明らか」の意味がありますから…)
    「左藤義詮」さんは、北野中学出身の「黒田了一」さん(故人)に敗れて、知事を降りることになってしまったわけですが、ここにも縁を感じます。

  4. 新之介 | URL | u6i4c2k.

    梶井基次郎

    alcoholicdrunken様

    梶井基次郎氏のエピソードは面白いですね。
    北野と大手前の交流の話は少し知っていましたが、
    北野出身の方ならではの紹介の仕方ですね。
    梶井氏は北野中学だったんだ。
    学生の頃、「檸檬」を読んだなぁ。

  5. 新之介 | URL | u6i4c2k.

    ハイカラさん

    TOSSYさん

    ちょうど卒業式シーズンなので、袴姿の学生をよく見かけます。着物も女性らしくていいんですけど、袴姿はなぜが女学生って感じがします。

    袴をはいてアイススケートとは女学生らしいエピソードですね。梅田に女学校があった時代は、ハイカラさんの時代でしたね。大手前に移って、すぐに制服に変わっています。

  6. pinboke_planet | URL | EBUSheBA

    屋根の素材

    工業学校の写真では分らなかったので、銅板かな?とも思っていたのですが、屋根の素材は瓦だったことがよく分りました。工業学校もたぶん同じでしょうね。
    しかし、どちらの校舎も優に100年以上は使える立派なものだったので、惜しいですね。

    落ち葉は、燃やして「焼き芋」をしたのでは?
    笑顔を見て、ふとそう思いました。
    高校のとき、用務員さん夫妻に取り入って仲良くなり、お茶を沸かしたあとの残り火で「焼き芋」をして部室で食べました。
    芋はクラブの主将がボストンバッグ(当時の一般的な男子学生の通学鞄代わり)に満杯で持ってきていました。この前史上はじめて日本で一瞬話題になったハンドボール部です。
    兄の一人(昭和9年生まれ)が大手前と交換のときの当事者でした。

    (十三モータースは、R176十三の交差点のすこし南西寄りにありました。マツダのデーラーでもあり、映画「三丁目の夕日」の鈴木モータースと同じく職住おなじ町の整備工場風でしたが、あの年(昭和33年)前後に岡町に当時ではまあ豪邸を建てたので、映画の鈴木モータースの設定は5年ほどのズレがあるように思ってしまいます)

  7. 新之介 | URL | -

    焼き芋

    pinboke_planet様

    落ち葉を、燃やして「焼き芋」を焼いて食べるのは一度やってみたいと思いながら、いい歳になってしまいました(笑)。都会に住んでいるとなかなかできないですよね。いつかやってみたいんですど…。当時はあちこちで落ち葉焚きの光景が見れたんでしょうね。煙の匂いは郷愁を誘います。子供の頃、母親の田舎で嗅いだお風呂を焚くときの匂いとも重なります。

    十三モータースは父親に聞いてみます。知っているかも…私もうっすらと記憶の片隅にあるような、ないような…

  8. alcoholicdrunken | URL | -

    「梶井基次郎先輩」→「手塚治虫先輩」へのエール?

    1年遅れで申し訳ありません。
    「梶井基次郎先輩」の「宝塚へ行くがいい」の時代はご存知なかったですが、旧制北野中学には、「宝塚歌劇」からヒントを得て描かれたとされる「リボンの騎士」等、「漫画」を「日本発の文化」と言われるまでの功績を残された手塚治虫先輩がおられます(梶井先輩は芝田町学舎時代、手塚先輩は十三学舎時代に、旧制北野中学に在籍)。
    手塚先輩は現在の豊中市(旧豊能郡岡町→豊能郡豊中町)で産まれましたが、幼少時は兵庫県宝塚市(旧川辺郡小浜村 だったらしい。現在の 売布神社 のあたり)に住まわれていました(その縁で、記念館が宝塚にある)。
    そう思いますと、梶井先輩は、まだ見ぬ手塚先輩にもエールを送られたことになると思わずにはいられなくなります。

  9. 新之介 | URL | sDz630us

    梶井基次郎さんと手塚治虫さん。
    「宝塚」で繋がっていたんですね。

    梶井基次郎さんが中学生の頃の
    宝塚歌劇団といえばまだまだ創生期。
    でも学校の校則にでてくるということは、
    もうかなり認知されていたんですね。


  10. あのまのかりす | URL | ixivxIWw

    あの光景

    上から6枚目、あの帯を洗っている写真ですが、おそらく着物地の「洗い・貼り」をしてる光景じゃないでしょうか。うちの祖母がやっていたので見た記憶があります、わたしはその道具で遊んでましたが。この当時は和裁と共に「乙女の嗜み」だったんでしょうね、これが出来ないとお嫁に行けなかったのでは無いでしょうか。

  11. 新之介 | URL | sDz630us

    あのまのかりすさん

    なるほど。
    とても貴重なコメント、
    ありがとうございます!

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