2008年03月09日 00:00
梅田北ヤードができる前3
北野中学篇
設立が明治16年(1883)の名門校が、手狭になった堂島校舎から北野芝田町に移ってきたのは明治35年(1902)です。校名も堂島中学校から北野中学校に変わりました。この地で十三に移るまでの29年間、数々の優秀な人材を輩出することになります。そして「北野」ブランドを確立することになるのです。
続きを読む前にクリック。→ [人気ブログランキング]
明治35年の6月に新校舎の落成式が行われました。面白いのは、式は12時に終わるのですが、その後1時から陸上大運動会が開催されています。在校生はもちろん、卒業生、他校生、来賓も参加し、7時に全てが終了したそうです。文武両道の北野ならではのエピソードです。
規律も厳しかったようです。
「通学途中、学校に向う一筋道で、後から来られる先生の気配を察すると、並行になった途端、直立不動でゲートルばきの征服制帽の可憐な中学生は先生に向って挙手の礼をしたものであります。先生は一つ大きな顎(あご)をしゃくって、又足早にスタスタと先きを急がれます。」(北野百二十年より)
また、学生らしいこんなエピソードも
「そのころ、毎年きまって現在の母校の近傍までの十三・中津間の小形マラソン大会が催され、全校生徒が、各班に分かれて走ったものだが、その道中で十三大橋北詰にあった名物十三の焼餅を悪童共は、窃かに買い求め頬張るのが、何よりの余徳とばかり喜んだものであった」(北野百二十年より)
昭和3年(1928)、本校舎移転改築案が大阪府会に提出され議決されました。昭和6年(1931)の移転にともない校名の変更問題が起こりますが、反対運動が起こり、北野の校名は受け継がれることになります。後に移転先の十三南之町という地名は新北野という地名に変わるりました。地名まで変えてしまうブランド力がこの地で作られたのです。

昭和4年(1929)の地図
移転が昭和6年ですので、その2年前です。北ヤードはもうこんな感じ。地下道がもうできていますね。

芝田町校舎略図 「北野百二十年」より
校舎の西側が運動場です。文字が読みにくいですが木馬が読めました。校舎内では雨天体操場と生徒控室、東側は講堂と書かれています。

新築当時の北野芝田町校舎「北野百二十年」より
開校当初の写真ですが、前が田んぼですね。刈り入れの季節でしょうか。稲を乾すためか、竹を組んでいますね。

北野芝田町校舎正門「北野百二十年」より
この時代は、正門前は民家が建っています。手前に屋根や電柱が見えますね。

北野芝田町校舎中庭「北野百二十年」より
中央奥に講堂が見えます。

北野芝田町校舎正門「北野百二十年」より
塀が木製から煉瓦造りに変わっています。いい感じの門構えです。

運動場から見た生徒控室(左)と博物教室(右)「北野百二十年」より
博物教室が完成したのは昭和元年(1926)です。数年間しか使われなかったんですね。

生徒控室「北野百二十年」より
ここで夢を語り合ったりしていたのでしょうか。この時代は学校で異性の話とかはできなかったんでしょうね。

教員室「北野百二十年」より
ストーブのまわりに椅子が並べてありますね。先ほどまであたっていたのでしょうか。ストーブの上にはヤカンではなくバケツです。白衣の先生も見えます。物理化学の先生でしょうか。校舎内には立派な物理化学教室もありました。
※北中についてこちらのコメントも参照ください。
http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-4.html
(関連記事)
『さよなら梅田北ヤード』 2013.11.20
『大阪七墓・梅田墓地について』 2013.09.13
『さよなら梅田貨物駅』 2013.07.24
『梅田貨物駅最後の日を微速度撮影』 2013.03.19
『うめきた・梅北(梅田北ヤード)の歴史』 2011.02.21
『梅田北ヤードができる前 6 移転先篇』 2008.03.17
『梅田北ヤードができる前 5 金蘭女学篇』 2008.03.14
『梅田北ヤードができる前 4 梅田高女篇』 2008.03.12
『梅田北ヤードができる前 3 北野中学篇』 2008.03.09
『梅田北ヤードができる前 2 工業学校篇』 2008.03.06
『梅田北ヤードができる前 1 文教地区篇』 2008.03.05
『大坂七墓巡り(梅田・南浜・葭原)』 2008.10.22
『初代大阪駅の場所』 2008.03.03
『大阪駅ができる前は墓地があった』 2008.03.01
ポチッと、応援よろしく♪
北野中学篇
設立が明治16年(1883)の名門校が、手狭になった堂島校舎から北野芝田町に移ってきたのは明治35年(1902)です。校名も堂島中学校から北野中学校に変わりました。この地で十三に移るまでの29年間、数々の優秀な人材を輩出することになります。そして「北野」ブランドを確立することになるのです。
続きを読む前にクリック。→ [人気ブログランキング]
明治35年の6月に新校舎の落成式が行われました。面白いのは、式は12時に終わるのですが、その後1時から陸上大運動会が開催されています。在校生はもちろん、卒業生、他校生、来賓も参加し、7時に全てが終了したそうです。文武両道の北野ならではのエピソードです。
規律も厳しかったようです。
「通学途中、学校に向う一筋道で、後から来られる先生の気配を察すると、並行になった途端、直立不動でゲートルばきの征服制帽の可憐な中学生は先生に向って挙手の礼をしたものであります。先生は一つ大きな顎(あご)をしゃくって、又足早にスタスタと先きを急がれます。」(北野百二十年より)
また、学生らしいこんなエピソードも
「そのころ、毎年きまって現在の母校の近傍までの十三・中津間の小形マラソン大会が催され、全校生徒が、各班に分かれて走ったものだが、その道中で十三大橋北詰にあった名物十三の焼餅を悪童共は、窃かに買い求め頬張るのが、何よりの余徳とばかり喜んだものであった」(北野百二十年より)
昭和3年(1928)、本校舎移転改築案が大阪府会に提出され議決されました。昭和6年(1931)の移転にともない校名の変更問題が起こりますが、反対運動が起こり、北野の校名は受け継がれることになります。後に移転先の十三南之町という地名は新北野という地名に変わるりました。地名まで変えてしまうブランド力がこの地で作られたのです。

昭和4年(1929)の地図
移転が昭和6年ですので、その2年前です。北ヤードはもうこんな感じ。地下道がもうできていますね。

芝田町校舎略図 「北野百二十年」より
校舎の西側が運動場です。文字が読みにくいですが木馬が読めました。校舎内では雨天体操場と生徒控室、東側は講堂と書かれています。

新築当時の北野芝田町校舎「北野百二十年」より
開校当初の写真ですが、前が田んぼですね。刈り入れの季節でしょうか。稲を乾すためか、竹を組んでいますね。

北野芝田町校舎正門「北野百二十年」より
この時代は、正門前は民家が建っています。手前に屋根や電柱が見えますね。

北野芝田町校舎中庭「北野百二十年」より
中央奥に講堂が見えます。

北野芝田町校舎正門「北野百二十年」より
塀が木製から煉瓦造りに変わっています。いい感じの門構えです。

運動場から見た生徒控室(左)と博物教室(右)「北野百二十年」より
博物教室が完成したのは昭和元年(1926)です。数年間しか使われなかったんですね。

生徒控室「北野百二十年」より
ここで夢を語り合ったりしていたのでしょうか。この時代は学校で異性の話とかはできなかったんでしょうね。

教員室「北野百二十年」より
ストーブのまわりに椅子が並べてありますね。先ほどまであたっていたのでしょうか。ストーブの上にはヤカンではなくバケツです。白衣の先生も見えます。物理化学の先生でしょうか。校舎内には立派な物理化学教室もありました。
※北中についてこちらのコメントも参照ください。
http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-4.html
(関連記事)
『さよなら梅田北ヤード』 2013.11.20
『大阪七墓・梅田墓地について』 2013.09.13
『さよなら梅田貨物駅』 2013.07.24
『梅田貨物駅最後の日を微速度撮影』 2013.03.19
『うめきた・梅北(梅田北ヤード)の歴史』 2011.02.21
『梅田北ヤードができる前 6 移転先篇』 2008.03.17
『梅田北ヤードができる前 5 金蘭女学篇』 2008.03.14
『梅田北ヤードができる前 4 梅田高女篇』 2008.03.12
『梅田北ヤードができる前 3 北野中学篇』 2008.03.09
『梅田北ヤードができる前 2 工業学校篇』 2008.03.06
『梅田北ヤードができる前 1 文教地区篇』 2008.03.05
『大坂七墓巡り(梅田・南浜・葭原)』 2008.10.22
『初代大阪駅の場所』 2008.03.03
『大阪駅ができる前は墓地があった』 2008.03.01
ポチッと、応援よろしく♪

スポンサーサイト
コメント
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
稲架け
素材は竹と違い、木材かも知れませんね。
ちょうど1年前、我が家のおよそ150年前の納屋・土蔵・もと牛小屋など数棟を解体しましたが、特殊な構造の納屋に大量の「稲掛け」用木材が保管されていました。
稲を直接架ける長い木材は、播州地方では「なる」と呼ばれていて、基本的には建築用の足場丸太と同じです。
( 2008年03月09日 10:22 [Edit] )
新之介 | URL | -
稲掛け
pinboke_planet様
竹ではないですね。田舎で見る稲掛けを思い出すと、確かに木材でした。ありがとうございます。稲掛けで画像を検索すると、田舎ののんびりした風景が出てきます。この辺りの風景もそれに近い感じだったのでしょうか。
150年前の納屋・土蔵とは、またすごいものが残っていたのですね。田舎には古いものが残っています。そういう風景みながら、昔の十三の町をイメージしたりしていました。
( 2008年03月10日 10:27 )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
地下道
地下道は スカイビルに行くときに通る地下道ですか?
これは古いなぁとお思いながら 歩いていました
「北野120年史」 この本見たことないのです
同窓会報で 宣伝していたは 覚えていますが・・
工業学校と比べると 建物貧弱・・ですね
十三の昭和校舎とえらい違いです
珍しい写真ありがとうございました
稲を干すもの 稲掛けというのですね
子供のころ 小学校の回りは田んぼで 秋になると写生はいつも稲掛けのある風景でした
大阪市内ではありませんが・・
( 2008年03月11日 19:49 [Edit] )
新之介 | URL | u6i4c2k.
地下道
TOSSY様
地下道はスカイビルに行くときの地下道です。
古いんですね。
北野百二十年は手頃な大きさで、内容が充実していていいです。六稜百三十年は旧校舎の解体の記録がしっかり残されていてこれもいい資料です。とにかく北野は資料が豊富です。そこもすごいところですね。でも百年史はちょっとでかすぎます。
読みにくい(笑)
( 2008年03月12日 01:03 [Edit] )
つまみ食い | URL | jbqo2yn2
大阪で一番古い旧制中学(→新制高校)
ほんと、旧跡のあたりに「北野町」の名前を復活させて欲しいですよね。
この地名があってこその、北野高校であり、淀川区新北野ですから。
( 2011年03月02日 12:33 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
つまみ食いさん
消えた地名の復活はおおいに賛成。
そんな粋な事をやってくれる人って
誰かいるだろうか?
( 2011年03月08日 14:38 [Edit] )
コメントの投稿