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梅田北ヤードができる前1(文教地区篇)

2008年03月05日 00:04

梅田北ヤードができる前1
文教地区だった時代

大正時代の地図を見ると、梅田北ヤードの辺りには、
まだコンテナホームや線路などがありません。
よく見るといくつかの学校の文字が確認できる。
大阪駅の北側は文教地区だったようですね。

taisyo7.jpg
大正7年の地図

地図を見ると工業学校中学校の文字がまず目に入る。
工業学校とは「市立大阪工業学校」です。
開校は明治41年。
現在の「市立都島工業高等学校」と「大阪市立大学」の前身になります。

中学校「府立北野中学校」
現在の「府立北野高等学校」ですね。
その右上の梅花女学は「私立梅花高等女学校」です。

駅に近い場所に赤文字で高等女学校金蘭女学校の文字が見えます。
高等女学校とは「府立梅田高等女学校」です。
現在の「大手前高等学校」になります。
金蘭女学校は「私立金蘭会高等女学校」で、
現在の「金蘭会中学、高等学校」です。
金蘭会高等女学校は、高等女学校の同窓会である金蘭会が、
女子のための技芸学校の設立をめざし設立された学校です。
2校はとても深い関係だったのですね。

大正9年頃からどの学校も移転問題が発生したようです。
大正14年頃には北野中学校を残して全て移転しました。
北野中学校も昭和7年に現在の十三地区に移転することになります。


(関連記事)
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コメント

  1. TOSSY | URL | mXJ0wlpU

    金襴会

    大手門の同窓会が金襴会といって 金襴会女学校を作ったということは 知っていましたが 大手前女学校が元はこんな所にあったという事は知りませんでした
    金襴とは隣同士だったのですね

    大阪城公園 大手前に 金襴会(同窓会のほう)の記念碑がありますよ

    どの学校も子供のころから聞いていた名前の学校です

    どの地名にも頭に北野とついていますね
    このあたり全体を 北野と言ったのですね

    ちなみに戦後の学校制度改革のときに男女共学にするのに 北野と大手前で 先生と生徒の交流(入れ替え)をしました

  2. ゆきひろ | URL | XoxlQHfE

    北ヤードと国道176号線の整備とでこの辺りの土地利用はすっかり変わったということがよく分かります。阪急はまだ併用軌道で北野駅の位置が後の時代と違いますし中津駅がありません。大阪駅が平面なので阪急が上を越していますね。阪神北大阪線も阪急中津駅前ではなく、北野中学のすぐ北側を通っています。
    電車に乗れば2~3分で通過してしまう所ですが、いろんな変遷があったのですね。

    地図は私も小学校の頃からよく眺めていました。
    土地関係の仕事をするようになってから測量に興味を持ったのですが、もともと西野田工業電気科卒業なので専門外の分野です。昨年、一念発起して測量の資格を取り、少しずつですが専門の本を読めるようになってきたことがとても楽しく、嬉しいです。
    江戸期においても、伊能忠敬以前でも和算を使った測量技術者と絵師の手により境界争いの解決にはかなり正確な実測図が作成されていたそうです。ただし、移動手段が徒歩・かご・馬の時代には縮尺や方位を明らかにした、実測を基にした地図はまったく必要なく、いろいろな情報が書き込まれた絵図の方が日常生活では便利で普及したのは当然ですね。
    地図・図面というものは”何に使うのか”という目的によって精度や表現方法が異なるのだ、という基本的なことを再確認させられています。

  3. 西岡邦夫 | URL | -

    懐かしい昔の大阪駅の話

    しばらくコメントしませんでしたが、実はしようとしても立派な皆さんのコメントを拝見していると出来なかったのです。しかし次々と新しい事を教えて下さる新之介様の記事、特に昔の地図や写真にはどのようにして見つけ出されるのか全く感嘆の一語につきます。最近の大阪駅近傍の記事は特に興味深く拝見しました。実は私の父は関東大震災の復興の時、当時の関東都督府(昔は大連は日露戦争の結果日本領土になり、ここの行政機関でした)より帝都復興院(大正12年9月発足)に移り、戦災復興業務に従事後、昭和4年頃に大阪市役所に変わっています。それは大阪市役所が昭和初期から大阪駅前の区画整理の遠大な計画をたてており、この仕事のために大阪に来たとよく聞かされていました。当時大阪駅の近傍がどのような状態であったかは聞かされていませんでしたが、今度詳細を教えて頂き懐かしい思いにかられました。この時から昭和20年まで十三に住んでいたわけです。北野中学、都島工業、大手前女学校(妹は卒業生です),金襴、梅花女学校など昔の懐かしい学校が大阪駅の近傍にあったとは驚きでした。十三と言う言葉にひょんなkとから拝見が始まった新之介様のブログ、これからも興味深深で拝見します。

  4. 新之介 | URL | -

    北野

    TOSSY様

    確かに北野という名前が全ての地名に付いていますね。この当時、「北野」は知名度があったのでしょうね。この地域が今後どんな呼び方に変わっていくのか楽しみです。この地域をどう呼ぶかの面白いページがあります。

    http://gorimon.com/blog/log/eid792.html

    みんな色々な想いがあるのだと感じました。
    新しい街の名前は、市民の意見を聞いたうえで決めていただけたらと思いますね。

  5. 新之介 | URL | -

    阪急が上を

    ゆきひろ様

    そうか、十三大橋は出来たのが昭和7年ですから、中津の辺りはまだ高架じゃないんですよね。地図を見ると確かに阪急が国鉄の線路の上を通過しています。電車の路線だけでも結構楽しめる地図ですね(笑)

    江戸時代の地図は私もよく見ますが、アバウトすぎてあまり楽しめませんでした。伊能忠敬の地図の方が面白がっていたのですが、ちゃんと訳があったのですね。かなり奥の深い面白そうな分野ですね。

    西野田工科高等学校の設立も明治41年ですね。歴史のあるすばらしい学校です。

  6. 新之介 | URL | -

    大手前女学校

    西岡様

    ひさしぶりのコメントがすごくうれしかったです。
    お父様はすごく立派な方だったのですね。
    私も大阪駅周辺の昔に関心があります。昭和に入ってからの街の変貌はすごいものがあります。それにお父様が関わっていたかもしれないと聞くとますます興味が湧いてきます。じっくり大阪駅の辺りの昔を探しながら歩いていきます。

    またひとつ驚いた事があります。以前、妹様が昭和4年生まれと聞いていましたが、大手前だったのですね。私の叔母も昭和4年生まれで、神津小学校を出て、大手前女学校を卒業しています。なんという縁でしょう。毎年、1~2回同窓会で大阪に来ます。今度話をしておきます。

  7. | |

    承認待ちコメント

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  8. 新之介 | URL | -

    本当に奇縁ですね。

    (西岡様からのコメントです)

    新之介様の叔母さまが東京の方にお住まいと前に伺っていましたことを思い出し、妹に電話で聞きました。妹は現在市川市に住んでいるのですが、本当に奇縁でした。大手前の時のSさんを知っているかと聞きました所、現在は舟橋市にお住まいでYさんと改姓されているが、毎年年賀状の交換をしている。昔は直ぐ近所でお米屋さんだったこともよく覚えていまして、Sさんと聞いた途端に、お米屋さんだったと言いました。ミード幼稚園にもよく遊びに行ったことも言われて、私の物忘れのひどさを痛感しましたが、S様とはかっては色々ご縁があったのだと改めて思っています。

    西岡様

    本当に奇縁ですね。叔母と西岡様のご兄妹が幼馴染だったとは。それも小学校に入る前からとは驚きです。叔母と父は10歳年が離れていますので、父がまだ生まれていなかった時からのお知り合いということになります。コメントを読んだときは、思わず笑ってしまいました(笑)十三公設市場の近くで店を構えていた時代のことを覚えておられるのが、すごくうれしかったです。店(自宅)は昭和14年の十三大火災で焼けてしまい、その後、銀座通りの近くに引越し、昭和20年の空襲でその家も焼けたと聞きました。

    不思議なご縁です。

  9. 西岡邦夫 | URL | -

    女子の学校には何故高等とついたか

    大正7年の大阪駅近傍には学校が多く点在しており、文教地区だったのですね。それにしても男子の学校は北野中学校、大阪工業学校などですが、女子の方は梅田高等女学校(後の大手前高等女学校)と何故高等という言葉がついたのでしょうね。(?)男子の方は高等学校(一高、三高など)があったからかも知れませんが、WEB金蘭会で大手前高女の歴史を見ても、明治19年に大阪府女学校として設立され、翌年明治20年には大阪府高等女学校と改称されています。不思議ですね。

  10. 新之介 | URL | u6i4c2k.

    高等女学校

    西岡様

    この間まで旧制中学校のこともよくわかっていなかった私が答えるのも変な話ですが…(笑)

    私も素朴な疑問として同じことを思っていました。金蘭会の資料を読んでる時に思ったのですが、金蘭会は最初は女学校からスタートします。その後、高等女学校令ならびに高等女学校施行規則の条件をクリアし、申請し認可されて、金蘭会高等女学校になっています。
    高等が付いたのは、実業学校等の女学校と区別するためではないでしょうか。
    (中学校、高等女学校)と(甲種実業学校、乙種実業学校)に大きく分けられるように思うのですが。

  11. 西岡邦夫 | URL | -

    尋常高等小学校

    新之介様の高等に対するご意見拝見しながら、昔の私の小学校の名前を思い出すと、神津尋常高等小学校でした。当時の小学校には義務教育の6年間を終えたあと、2年間の高等科があり、この過程がある小学校は尋常小学校ではなく、尋常高等小学校だったのでしょう。自分の通学していた小学校でしたが、現実に高等科の生徒がいたと言う記憶はないのですが。(笑)
    男女共学など全く考えられず、電車通学の時も男子と女子は乗車する車両まで違っていた時代に子供時代を過したことを考えると世の中の変革の大きさを痛感しています。

  12. 新之介 | URL | u6i4c2k.

    尋常高等小学校

    西岡様

    おっしゃるように、この時代は尋常高等小学校もありましたね。大阪工業学校の進学の条件を見ると、本科は14歳以上で高等小学校卒業以上。撰科は12歳以上でした。

    中学校では、小学校尋常科を卒業後、中学受験に失敗して小学校高等科へ進学し、再度中学校を受験して入るということもあったようですね。画家の佐伯祐三さんのプロフィールをみるとそうでした。

    この時代は、すごく複雑ですね。

  13. 西岡邦夫 | URL | -

    佐伯祐三画伯の文字を拝見して

    新之介様の博学ぶりには毎日感嘆してブログ拝読しているのですが、佐伯祐三の名前が出てきて思い出したことがあります。佐伯祐三は私が若いときから特に好きであった画家で、展覧会があると欠かさず見に行ったものです。佐伯画伯は中津のお寺に生誕され、北野中学卒業です。梅田北ヤードにあった頃の同校の筈で、新之介様のブログは佐伯画伯が幼い頃に見られた風景も示しておられますね。

  14. 新之介 | URL | -

    佐伯祐三氏

    西岡様

    博学なんて言われたのは生まれて初めてです。お世辞でもうれしいです(笑)

    佐伯祐三氏が北野中学に通っていたのは、明治45年から大正6年のようですね。実家の光徳寺からは歩いて通える距離です。中津の光徳寺は十三とも縁のある富島神社のお隣です。北野中学での成績は良くなかったようです。そういうのを読むと親近感が沸きます(笑)。

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