このエントリーをはてなブックマークに追加

三好長慶の飯盛城と芥川山城をフィールドワーク

2022年11月05日 00:45

天下人・三好長慶の飯盛城と芥川山城

戦国時代に畿内(摂津・山城・河内・和泉・大和)や四国などを支配し最初の天下人とされる戦国武将の三好長慶。その居城であった山城・飯盛城と芥川山城をフィールドワークしてきました。どちらも摂津国と河内国を一望できる素晴らしい場所。当時の痕跡も数多く残っています。ほどよくいい汗がかけるよいコースでした。

飯盛城をフィールドワーク



IMG_8416_20221103220824f6f.jpeg
四條畷神社

IMG_8767.jpeg
境内に飯盛城跡への登山道があります。

IMG_8453_20221103220826bd9.jpeg
ここから登っていきましょう。

IMG_8470.jpeg
尾根を登っていく斜面はかなり急峻。

IMG_8480.jpeg
登り切るといい眺めが現れました。

IMG_8489.jpeg
飯盛山は地質図を見ると花崗閃緑岩のようですね。コアストーンがむき出していました。

IMG_8524_2.jpg
登ってきた場所からは京都方面が見えます。正面に男山と天王山。その奥が京都盆地です。

IMG_8520_2.jpg
少し左に目線を移すと芥川山城方面が見えます。

IMG_8539.jpeg
ここは堀切。

IMG_8535.jpeg
堀切とは尾根を遮断する空堀。いまはその堀切の底を歩いてる。

IMG_8572.jpeg
自然石を使った野面積みの石垣。

IMG_8614.jpeg
20m以上の長さで続く石垣。一部が豪雨で崩落して応急処置を施している。

IMG_8644.jpeg
飯盛城と天下人・三好長慶
飯盛城は標高314mの飯盛山に築かれた戦国時代の山城です。城の範囲は東西約400m、南北約700mを測り、大阪府内最大級の規模を誇ります。飯盛城は、享禄年間(1528~32)、河内守護代木沢長政によって築城され、天文20年(1551) に安見宗房が入城した後、永禄3年(1560)、三好長慶が芥川山城(高槻市)から移り、居城としました。 長慶は、近畿と四国の大部分を治め、将軍足利義輝を京都から追放して政治の実権を握った人物で、「最初の天下人」として知られています。長慶の入城後、 飯盛城では大規模な連歌会(飯盛千句)が催されたことや、イエズス会の修道士ロレンソ了斎が長慶配下の武将を洗礼したことなどが記録からわかっています。
飯盛山頂の南側の尾根にはVⅢ郭 (千畳敷郭) を中心とした曲輪が築かれています。 近年行われた発掘調査で建物の礎石や壁土、食器類、茶道具などが見つかっていることから、居住のための空間であったと考えられます。 一方、山頂北側の尾根にはⅠ郭 (高櫓郭)を中心に大小様々な曲輪が階段状に配され、要所に堀切や土橋、切岸などが設けられていることから 防御のための空間であったと考えられます。
Ⅰ郭とV郭 (御体塚郭)を取り巻くように築かれた石垣は、飯盛城が安土城に先行する本格的な石垣づくりの城であったことを物語っています。これらの遺構は、三好長慶によって整備されたものと考えられ、「天下人の城」にふさわしい威容を誇っています。

IMG_8646.jpeg
広範囲に山城の痕跡が残っていることがよくわかります。

IMG_8649.jpeg
急斜面の石垣は段築状にして崩れないようにつくられています。

IMG_8654_2.jpg
本郭があった場所からの眺め。六甲山や明石海峡、上町台地がよく見渡せます。当時は手前に広大な深野池がありました。

IMG_8665.jpeg
高櫓郭があった場所に飯盛城趾の石碑があります。

IMG_8675.jpeg
堀切と土橋。尾根を分断する堀切に土橋を設けていますが、この土橋を切り崩せば敵に侵入を防ぐことができる。

IMG_8704.jpeg
飯盛城の南端にある南丸。左側の高まりは土塁。この下は虎口になっています。

IMG_8717.jpeg
飯盛城の出入口である虎口。入り口の両側にも石垣が残っています。

芥川山城をフィールドワーク



IMG_8811.jpeg
三好山(芥川山城)への入り口

IMG_8810.jpeg
ここから登っていきます。

IMG_8816.jpeg
芥川山城の入り口付近にある堀切と土橋。

IMG_8821.jpeg
城山城跡の碑の左側にある坂道を少し下がると

IMG_8825.jpeg
大手石垣があります。中央部が崩れていて下にその石が転がっていました。

IMG_8834.jpeg
山上は木々が整備されて見晴らしが素晴らしいです。

IMG_8832_2.jpg
正面に生駒山と飯盛城はその下に位置します。

IMG_8843.jpeg
主郭部は平坦な広場になっていて三好長慶と長慶に仕えた松永久秀を祀った社がありました。西側と北側は急峻な崖で天然の要害であったことがよくわかります。

IMG_8849.jpeg
芥川山城跡(大字原)
芥川山城跡は三好山(通称城山)にあり、大阪平野を見渡す天然の要害を巧みに利用した戦国時代屈指の城郭である。最高所に主郭を設け、 周囲の郭には土塁や空堀、大手には当時としては珍しい石垣を配置するなど、その偉容を今に伝える。

IMG_8844.jpeg
永正13年(1516)までに管領細川高国が築城し、家臣の能勢頼則に城を守らせた。その後、阿波・徳島から摂津に進出した三好長慶が、主君である細川晴元に替わって、天文22年(1553)に入城した。長慶は永禄3年(1560)、長子義興に家督を譲り、河内飯盛城に移るまでの約七年間、座城。配下で高槻ゆかりの松永久秀らを重用しつつ、足利将軍家を擁立せずに畿内一円に号令した。さながら城は政権の首都であり、長慶が織田信長に先駆けた天下人とされる所以である。長慶は、眼下の真上村と郡家村の水論(水争い)を裁いたように、地域の人々と向き合う政治に力を注ぐ。堺の商人と交わって、連歌や茶の湯に親しみ、キリスト教を認めるなどの教養を示した。
主郭の発掘調査では、本格的な建物跡がみつかり、戦国時代の城郭のイメージを一変する成果となっている。永禄11年(1568)、三好一族を追った織田信長はまず、この城を目指し、天下の形勢を見定めた後に上洛を遂げた。将軍足利義昭の家臣和田惟政が入城し、高山右近の父である飛騨守を城代とするも、翌年には高槻城へと移り、芥川山城は徐々に役割を終えることになった。

スポンサーサイト





コメント

    コメントの投稿

    (コメント編集・削除に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)

    トラックバック

    この記事のトラックバックURL
    http://atamatote.blog119.fc2.com/tb.php/888-6cb259ee
    この記事へのトラックバック