2008年02月02日 00:00
加島とクスノキ
加島は中国街道沿いにあり神崎の渡し場でもありました。古くから交通の要所であるとともに、銭座がおかれ加島銭を鋳造したり、遊女などもいて「天下第一の楽地」といわれ、江戸時代にはかなり栄えていたということです。
続きを読む前にクリックお願いします。 → <人気ブログランキング>
いつもクリック ありがとうございます。
現在の加島は阪神高速や国道10号線、十三筋や新幹線、JR線などが四方八方に横切り、地域は細かく分断されてしまいました。また、加島の交差点は交通量も多く、いつも車が渋滞し、環境は決していいとはいえません。しかし、道路を一歩中に入ると、昔ながらの街並みが残っていました。

千年以上も歴史のある香具波志(かぐはし)神社。大きなクスノキが出迎えてくれます。

山門をくぐった所にも大きなクスノキがあります。この写真は山門の方を振り返ったところです。

本殿の左手にも大きなクスノキがあります。大阪市指定の保存樹に指定されています。

楠木正儀(まさのり)卿駒繋樟(こまつなぎくす)。樹齢は800年を越え、高さ27mと大阪市で一番の巨木で、大阪府の天然記念物に指定されました。残念ながら昭和45年に枯れてしまいました。

楠駒繋の樟(東淀川区史より)。枯れたのが昭和45年なので探せばもっときれいな写真が残っているはずです。

阪神淡路大震災で本殿の崩壊など壊滅的な被害を受けました。その残骸が境内に残されています。

平成10年、氏子崇敬者の尽力により主要建物が復興されました。

歴史のある町です。お地蔵さんもどこか品格があります。

街道沿いのお米屋さん。夕焼けが似合うたたずまいです。

こんな旧家が残っていました。以前は農家だったのでしょうか。大阪市内にこんな民家が残っているとはびっくりです。

町中に大きなクスノキを見つけました。

クスノキの下は昭和の雰囲気が残っていました。

定秀寺の敷地内にも大きなクスノキがありました。
(追記)地図の今昔です。

明治19年の地図。赤い印は香具波志神社と富光寺(ふっこうじ)です。太く書かれている道が中国街道です。

現在の地図(Googleマップより)
明治19年の地図を合わせると、中国街道がわかります。右に三津屋村がありその先は十三の渡しになります。左の突き当たりに神崎の渡しがありました。
(追記)
モスリン橋は富光寺の裏手にあり、尼崎市戸ノ内町と加島と結んでいました。

昭和25年頃のモスリン橋「淀川今昔写真館」より
明治29年(1896年)毛斯綸紡織株式会社が設立されました。大正12年(1923年)園田村戸之内に工場を設立、対岸の加島へ通ずるモスリン橋を建設し村に寄付しました。

神崎川に架かる毛斯倫(モスリン)大橋
(追記)

大阪くらしの今昔館で平成20年4月6日まで企画展が行われています。モスリンは明治から昭和初期にかけて流行しました。特に長襦袢や子供用の着物として普及したようです。
←ここにも参加しています。クリックお願いします。
加島は中国街道沿いにあり神崎の渡し場でもありました。古くから交通の要所であるとともに、銭座がおかれ加島銭を鋳造したり、遊女などもいて「天下第一の楽地」といわれ、江戸時代にはかなり栄えていたということです。
続きを読む前にクリックお願いします。 → <人気ブログランキング>
いつもクリック ありがとうございます。
現在の加島は阪神高速や国道10号線、十三筋や新幹線、JR線などが四方八方に横切り、地域は細かく分断されてしまいました。また、加島の交差点は交通量も多く、いつも車が渋滞し、環境は決していいとはいえません。しかし、道路を一歩中に入ると、昔ながらの街並みが残っていました。

千年以上も歴史のある香具波志(かぐはし)神社。大きなクスノキが出迎えてくれます。

山門をくぐった所にも大きなクスノキがあります。この写真は山門の方を振り返ったところです。

本殿の左手にも大きなクスノキがあります。大阪市指定の保存樹に指定されています。

楠木正儀(まさのり)卿駒繋樟(こまつなぎくす)。樹齢は800年を越え、高さ27mと大阪市で一番の巨木で、大阪府の天然記念物に指定されました。残念ながら昭和45年に枯れてしまいました。

楠駒繋の樟(東淀川区史より)。枯れたのが昭和45年なので探せばもっときれいな写真が残っているはずです。

阪神淡路大震災で本殿の崩壊など壊滅的な被害を受けました。その残骸が境内に残されています。

平成10年、氏子崇敬者の尽力により主要建物が復興されました。

歴史のある町です。お地蔵さんもどこか品格があります。

街道沿いのお米屋さん。夕焼けが似合うたたずまいです。

こんな旧家が残っていました。以前は農家だったのでしょうか。大阪市内にこんな民家が残っているとはびっくりです。

町中に大きなクスノキを見つけました。

クスノキの下は昭和の雰囲気が残っていました。

定秀寺の敷地内にも大きなクスノキがありました。
(追記)地図の今昔です。

明治19年の地図。赤い印は香具波志神社と富光寺(ふっこうじ)です。太く書かれている道が中国街道です。

現在の地図(Googleマップより)
明治19年の地図を合わせると、中国街道がわかります。右に三津屋村がありその先は十三の渡しになります。左の突き当たりに神崎の渡しがありました。
(追記)
モスリン橋は富光寺の裏手にあり、尼崎市戸ノ内町と加島と結んでいました。

昭和25年頃のモスリン橋「淀川今昔写真館」より
明治29年(1896年)毛斯綸紡織株式会社が設立されました。大正12年(1923年)園田村戸之内に工場を設立、対岸の加島へ通ずるモスリン橋を建設し村に寄付しました。

神崎川に架かる毛斯倫(モスリン)大橋
(追記)

大阪くらしの今昔館で平成20年4月6日まで企画展が行われています。モスリンは明治から昭和初期にかけて流行しました。特に長襦袢や子供用の着物として普及したようです。

スポンサーサイト
コメント
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
かぐはしさん
こんなにフウに再建されたのですね
震災直後のなんとも悲しい風景 思い出しています
お寺と違って檀家と言うものを持たないのでなかなか再建資金が集まらないと聞いたことがあります
定秀寺さんも再建されましたが 比較的早かったです
このカーブした古い道は 中国海道だったのですか 知りませんでした
このみちの かぐはしさんの道との交わったT字路の角に 郵便局がありました そこは 加島の1,2の旧家でした
このあたり 確か 浜の町といったと思います
昭和45年に枯れた楠」 枯れる前の姿はまったく記憶にないです
( 2008年02月02日 02:22 [Edit] )
新之介 | URL | -
カーブした古い道
TOSSY様
カーブした古い道は、私の勘違いでした。
香具波志神社の北側の道が中国街道です。
街道をまっすぐ行くと富光寺ありますね。
私の実家は富光寺の檀家です。祖父と祖母の法事の時はご住職が来てくださいます。
カーブした古い道は御幣嶋村や佃村につながる道ですね。大和田街道とも繋がります。古くからある道です。
加島周辺の震災の被害状況は最近知りました。かなりひどかったようですね。境内の残骸を見ると当時のことが想像されます。
( 2008年02月02日 22:49 )
ゆきひろ | URL | XoxlQHfE
私の母が加島の出身で、今でも叔父や従兄弟が住んでいます。
交通で分断されてしまっているので加島の特定の地域しか行ったことが無いのですが、西国街道を昨夏自転車で初めて通ってみたところ、とても雰囲気があり歴史を感じることができました。
香具波志神社も初めてだったのですが、ちょうどお祭りをやっていて威勢の良さそうな兄ちゃんやおっさん(と呼ぶにふさわしい)がうろうろしてとても賑やかでした。
同じ街道筋なのに隣の三津屋村とはまた違う文化がありそうですね。
( 2008年02月03日 10:48 [Edit] )
夢一番! | URL | -
加島
加島ですかァ~
私の住む佃からは非常に近い存在です。
加島に行くには、国道2号線まで出て神崎大橋を渡り、
御幣島、竹島を経由してようやく到着します。
佃1丁目突端からの橋があればすぐなんだけどネ~
加島は近くて遠い存在なのです。
( 2008年02月03日 14:07 )
新之介 | URL | -
佃
夢一番様
昔は佃の突端に渡しがあったようですよ。
佃の辺りも歴史のある場所ですね。先日、佃の田蓑神社の辺りをうろうろしていました。はじめて知ったのですが、佃周辺は震災の被害がひどかったようですね。佃のことも書いてみたいと考えています。
( 2008年02月04日 02:11 )
新之介 | URL | -
香具波志神社のお祭り
ゆきひろ様
私も加島はあまり行かなかった地域で、行ってみて新しい発見がたくさんありました。地域が分断されてしまったことが残念ですね。香具波志神社のお祭りは歴史がありそうですね。三津屋のお祭りも見てみたいです。
書かれているように、加島と三津屋は距離的に近いのに文化が違うような気がします。
おそらく、三津屋が他とは違う文化を持っているのではないでしょうか。三津屋は奥が深い町だと思います。
( 2008年02月04日 02:22 )
まぁさ | URL | -
はじめまして まぁさと申します。
歴史が好きですが、地域の歴史は身近に感じられて 特に興味深く拝見いたしております。
私は実家が戸の内でして、子供の頃、モスリン橋を渡って香具波志神社のお祭りに行ってました。
また 十三に出て行くには、加島からバスに乗るほうが便利がよく、利用してました。
モスリン橋に続く坂道を下りきったところに、旧家を改造したようなパン工場のようなところがありまして、工場前にパンの陳列棚がありました。
あの辺り、2~30年前は古い町並みが残ってましたね。
( 2008年02月06日 10:21 )
新之介 | URL | -
モスリン橋
まぁさ様
コメントありがとうございます。
モスリン橋って不思議な名前ですよね。古い写真を探している時に、モスリン橋を知りました。その名前が強烈に印象に残っています。毛斯倫という繊維会社の私橋だったようですね。
旧街道沿いでパンを売っていたのですか?
今は静かなところですが、当時は人通りも多かったのでしょうね。またお気づきのことがありましたらコメントいただけたらと思います。これからもよろしくお願いします。
( 2008年02月07日 00:33 )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
パン工場
北寅パンです
北さんと言う旧家がされていました
関連施設で 美津島中学の隣(十三より)に キタトラガーデンと言うのがあって ドライブイン食堂が ありました
今もお店などがあるところですが 経営が北さんか どうかは知りません
子供のころ 父親の工場では残業食にキタトラパンを出していたので 残った分はあくる日の子供のおやつで ブドウパン よく食べていました
バスが走るようになってからは 旧街道はそんなに人通りは無かったと思います
( 2008年02月07日 09:50 [Edit] )
新之介 | URL | -
北寅パン
TOSSY様
さすがお詳しいですね。
キタトラパンってすごく気になりました。
キタトラパンという響きにすごく懐かしく思われる方が結構いらっしゃるのかもしれません。私の父親とかは知ってるかも。今度、聞いてみます。
旧街道は、おっしゃるように十三通りができたときに裏通りになってしまったんでしょうね。
( 2008年02月08日 01:27 )
ゆきひろ | URL | XoxlQHfE
ガーデンキタトラ、懐かしい。
小学生の頃、叔父が二人そちらで結婚披露宴を催し、庭園で記念写真を撮った記憶があります。
久し振りに思い出しました。
( 2008年02月08日 22:32 [Edit] )
新之介 | URL | u6i4c2k.
ガーデンキタトラ
キタトラ、私だけが知らないのがくやしい!!
どこかで写真を見つけます!
( 2008年02月09日 01:22 [Edit] )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
10枚目の写真
150年以上経つ我が家の母屋(当時は藍染と農業)に良く似ているので思わず見入ってしまいました。
これはスケッチですが、右半分を昨年解体、左部分はたいへんですが維持したいと思っています。
http://www.flickr.com/photos/pinboke/299976820/
モスリン企画展会場は、もと北市民館のあったところですか? 生家から徒歩5分圏内ですね。
( 2008年03月24日 10:16 [Edit] )
新之介 | URL | -
立派な家ですね
pinboke_planet 様
立派な家ですね。
半分解体は残念ですが、維持が大変なんですね。
こういう立派な家がなくなっていくのは本当に残念です。
母屋だけでも残ってうれしく思います。
大阪くらしの今昔館は、おっしゃるようにもと北市民館だと思います。
天六の市立住まい情報センターの中にあります。
http://house.sumai.city.osaka.jp/museum/frame/0_frame.html
期待せずに行ったのですが結構よく出来ていました。
( 2008年03月24日 11:23 )
なつかしや | URL | -
そうそう
キタトラパンは学校の給食でした。豊中市立庄内西小学校です。
加島や尼崎との境目のためここから10分くらいだからと思います。おいしかったですよ。
( 2010年07月25日 01:07 )
Empizzo | URL | X/aoCwEI
加島は私の“Border of Memory”
北寅パン。私はそれで育ちました。
新猪名川が戸ノ内の西で開削される前、
園田に向かうボンネットバスの戸ノ内停留所が今の戸ノ内橋東詰南方にありました。
箱状の停留所屋根があり、そこに大きな看板がかけてありました。、
それが「北寅パン」でした。
私が住んでいた南の町(醤油工場の北あたり)の近くのパン小売店は
ほとんど北寅パンの商品ではなかったでしょうか。
考えて見れば、1kmも離れてはいない工場の直接出荷だったのでしょう。
私はいつも母にねだって食パンの一辺の半分くらいの大きさの
角パンをたびたびねだって買ってもらいかじっていたそうです。
現在は廃業されたようで、悲しい思いです。
お示しの古いモスリン橋。
今のように上り下りのないフラットな形状でした。
私が幼い頃のある時、この橋で悪者の乗ったクルマを追う
パトカーが追跡に失敗して神崎川に落ちた事故(事件)がありました。
新しい橋に付け替えるために旧モスリン橋が途中でクランク形状の
仮設橋になっていたからでした。
( 2010年07月25日 08:40 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
北寅パン
なつかしやさん
Empizzoさん
みなさん、北寅パン育ちなんですね ^^
僕は残念ながらまったく記憶がないのですが、
みなさんのコメントを読むと当時の
北寅パンブランドの強さを感じます。
ちなみに、現在も美津島中学校の隣に北寅という
日本料理のお店があるのですが、
関係があるのかな?
また調べておきます。
( 2010年07月31日 22:08 [Edit] )
いなろく | URL | -
北寅パン。懐かしいです。
他の方も書いてらっしゃるように、工場であり、角にショーケースのある直売所でもあったんです。
もちろん食パンやぶどうパンなどもありましたが、コッペパンに砂糖をまぶしただけのやつが10円・20円くらいで売ってました(30年くらい前の話です)。
半ズボンのポケットに小銭ちゃらちゃら云わせて自転車で通ったものです。
( 2011年09月17日 13:47 )
トシ | URL | jBAhGx3k
北寅パン!
こんばんわ。。
洲到止の元住人トシです!
北寅パンは 私も給食でたべたんよ~
ここはいつ来ても 懐かしい話題満載やね!ww
庄内西小学校の給食では、コッペパンと食パンの
2種類しかくってないですけどね~
庄内西小学校の給食は昭和41年までは、学校内に
給食を作る厨房がありましたが、その後は豊中市の
給食センターで作って配送していたようです!
どちらも 北寅だったかは、あまり記憶がありませんがね~
( 2011年09月19日 01:57 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
いなろくさん
なるほど!
この記事はだんだん北寅パンのページになってきた。
ちょっと面白い ^^
トシさん
庄内西小学校も北寅パンだったんですね!
「大阪アホげな小発見。とか」に北寅パンのケースが載ってました。
探せばまだありそう…
http://osaka.way-nifty.com/blog/2008/11/post-c84d.html
( 2011年09月25日 21:47 [Edit] )
勇一郎 | URL | DexK2noU
北寅パンかあ...
2階が従業員の社宅になっていて同級生の女の子が住んでいました
加島小学校からの帰り道よく、寄り道してはパンをもらったものです。 ちなみに富光寺の娘も 同じ加島小学校の同級生です
( 2012年02月17日 15:46 [Edit] )
kotaro | URL | 8nGiSIKA
加島との縁
私の乗っている古い車の修理工場が、加島の南の竹島にありましたので、御幣島からこのあたりに20年近く、よく通いました。
JR加島駅が出来る以前は、十三からここまで市バスに乗り、商店街の入り口からてくてく歩いたものです。
西淀川区の一部という認識はなんとなくで、しかし豊中から一回車を、モスリン橋を渡って工場まで運んでもらった記憶があります。
工場も数年前に閉鎖になり、安宅産業の歴史を引く長い会社だっただけに、大変残念に思いました。
今は行くことの無いこのあたり。駅の出来た周辺だけが、少しだけ都会ふうになりました。
( 2012年02月19日 18:48 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
勇一郎さん
北寅パン、凄いな。
みなさんかなりの思い出があるんですね。
昔の写真を見てみたい…
kotaroさん
御幣島、竹島は近いのによく考えると記事にしていないんですよね。
なぜなんでしょう。
御幣島もここ数年ですごく変わりました。
近いうちに記事にしておかないと。
( 2012年02月26日 22:22 [Edit] )
ととやん | URL | Qi8cNrCA
御幣島
はじめまして。いつもブログを興味深く拝見しております。今は離れていますが御幣島で生まれ育ったので、御幣島の成り立ちに興味を持っています。たぶん、昔は田畑ばかりだったのかあまりいい感じの家はないのですが、4丁目に日昔さんという旧家っぽいお家があったり御幣島公園になっている神社の跡地があったりと何か古さを感じさせる所があります。私がこどもの時から不思議に思ってたのは小字です。今は全くの陸続きですが、舟入と呼び慣わしているエリアがあったのです。他にも幾つかの字名があったりと思うのですが失念しました。香簑小学校の地域の運動会には今も呼び分けてると思うのですが、どこの渡しの事なんだろうかと気になってます。
( 2014年08月14日 23:17 [Edit] )
ととやん | URL | OP5h5ZEw
御幣島2
この所文庫本を読むように新之助さんのブログを読み漁っています(^^)今まで知らなかったご近所の歴史を一緒に再発見しているような気分がしてとても興味深いです。
ブログの中で紹介されていた今昔マップを早速見てみました。一番古い時代の御幣島公園のあたりの明治末期の地図には、周囲一帯が水田に囲まれた鳥居のマークが!まだ移転される前のようです。エディオンの裏にある墓地もちゃんと地図に記号としてあります。1889年に野里から移転してきた香蓑小学校も現在と同じ位置にありました。
子供の頃に通っていた通学路が、昔から集落があった4丁目のメインストリートぽかったり、昭和の空襲を免れたこの一角に残る古い家々が地主さんの家だったのかなぁと想像を掻き立てられます。きっと当初から集落があったあたりが、舟入、奥代と呼びならわされてきたんでしょうね。
現在の御幣島の大通りは空港線ですが、それでも子供の頃は変電所や光明寺の前の道路を本通りと呼んでいました。神社がなくなっても、人々の間に土地の記憶が残っていたからなのかなと思っています。御幣島には氏神様を祭る神社がなくなってしまいましたが、なぜか夏になると、旧西淀病院のあったマンションの脇道に夜店が軒を連ねます。これも神社のあった名残だったりして?と勝手に想像を膨らませて楽しんでいます。(今は6軒ほどの夜店ですが、30数年前は通りの端から端までびっしりとお店が並んでいました。なつかしいなぁ)
蛇足ですが、今日西淀にある勤め先で地蔵祭がありました。社史のアーカイブをちらみしていたんですが、ちょっと由来に気になる事が書いてありました。
元々この地蔵堂に祭られている3体のお地蔵様のうち2体は豊崎にあったもので、会社が移転するときに一緒に移ってきたもので、元の持ち主は、敷地にお地蔵様が埋まっているというお告げを聞いて、掘り出し豊崎の地にお堂をたて、おまつりしていたそうです。元の地は墓所の一部だったと言い伝えがあったそうなのですが、その元の地というのは南濱墓地の一部だったのかな、と少し気になっています。
実は今日の地蔵祭りも、この地蔵堂自体も一度も覗いてみた事がないのですが(-_-;)、その社史の部分を読んで、ちゃんと見なくっちゃなと思いました。
長々とすみません・・
( 2014年08月23日 02:28 [Edit] )
コメントの投稿