2015年01月15日 07:30
真田丸と空堀をさがせ
徹底的に破却された南惣構堀跡はどこなのか?
2016年1月から放送予定のNHK大河ドラマが、三谷幸喜脚本の「真田丸」に決まり、にわかに真田丸関連の情報が増えてきたように思います。ただ、真田丸の場所や形状には諸説あり正確な事はわかっていません。さらに、その背後にあった南惣構(みなみそうがまえ)堀についても壮大な規模であったことはわかっていますが、大坂冬の陣の後に徳川家康によって徹底的に破却されたため、正確な場所や形状がわかっていません。そんな中で、いくつか気になる資料があります。さらに、現在の地形の高低差を詳細に見る事ができるカシミール3Dというソフトもあり、それらを組み合わせて真田丸と南惣構堀の跡を探ってみようと考えました。以前にいちどチャレンジした事があるテーマですが、今回はさらにカシミール3Dの力を借りてバージョンアップした推察になっている……はずです。
「真田丸」は孤立無援の砦だった
先日、産經新聞で「真田丸は孤立無援の砦だった」という記事(産経west)が話題になりました。大坂城の堀の外側に築いた出城「真田丸」は従来、城内と簡単に行き来できる構造と考えられていましたが、最新の等高線調査により、城とは大きな谷を隔てた孤立無援の砦だった可能性が高まったという内容です。その記事で引用されたのが、大阪文化財研究所と大阪歴史博物館が刊行した報告書「大阪上町台地の総合的研究」に掲載された「古地理図」と広島藩主の浅野家に伝わる江戸時代初期の城跡図面集「諸国古城之図」(広島市立中央図書館所蔵)の「摂津 真田丸」です。
「真田丸」の場所は…
「浅野文庫諸国古城之図」(広島市立中央図書館所蔵)の「摂津 真田丸」より

これは、「浅野文庫諸国古城之図」の中の「摂津 真田丸」の図です。谷を挟んで南北に丘があり、南側に真田丸が描かれています。その南端に2つの堀と、北側に小さい曲輪と堀が描かれています。
(雑誌に掲載されていた2色刷りの印刷物を高解像度スキャンし上記のカラー画像と重ねた)

地図を大きくみたかったので、特殊な手法で拡大してみました。さらに、北を上にし記されている文字を書き出してみました。

カシミール3Dで真田丸エリアの地形図を等高線も入れて作成しました。さらに明治23年に測量された地図を重ねています。江戸時代の古地図より精度が高いので参考になる。

「摂津 真田丸」に書かれた詳細を地形図に記してみました。ピッタリとは重なりませんが等高線を参考に重ねています。北側の小さい曲輪は標高を少し高くしています。寺が縦に並んでいる北端は、現在心眼寺がある出丸城跡と言われている場所です。
「大阪上町台地の総合的研究(古地理図5_豊臣後期)」より部分拡大

ちなみに、産經新聞の記事で紹介された「大阪上町台地の総合的研究」の古地理図がこれ。当時の等高線は現在のと比べると谷の形がはっきりしています。
次に「南惣構堀」の場所を探ります。
「大阪の歴史46・豊臣氏大坂惣構の防御施設-発掘調査の現状と課題(積山洋)」より

資料的価値の高さが認められている『僊台武鑑(せんだいぶかん)』所収「大坂冬の陣配置図」です。この図から南惣構(みなみそうがまえ)堀の形を抜き出したいと考えています。真田丸は「摂津 真田丸」と違う形をしていますので、その辺りは折衷してみました。ちなみに「オ」の道は上町筋のようです。

ベースとなる明治23年測量の地図です。南惣構堀は、冬の陣の講和にあたって徹底的に破却壊平されたので堀跡の完全な確定は困難です。参考になるのが、元和2年(1612 )に旧城内や蔵屋敷敷地の畑地化で成立した高津屋吉右衛門肝煎地の字タンボ・字山ノ下・字谷筋堀跡・字堀・字札辻西裏から塩町口野畑、瓦屋藤右衛門請地(瓦土取場)に至るエリアです。南惣構堀はこのエリアにあったと考えるのが自然かもしれません。そのエリアに色を付けました。色分けは大阪市史第三巻の「惣構南側の堀切図」を参考にしています。ちなみに地図中央の南北筋は上町筋です。

カシミール3Dの地形図です。等高線も入れたので窪みがよくわかります。

先ほどの色分けエリアを重ねてみました。瓦土取場(赤色)はみごとに窪地になっています。この窪地が逆に堀跡の確定を困難にしています。

色の付いているエリアを意識しながら、「大坂冬の陣配置図」の南惣構堀の形をできるだけ崩さずに落とし込んでみました。つじつまが合わないのが、東横堀川と接するところですが、「大坂冬の陣配置図」に合わせて長堀の北で接するようにしています。

実はラインを引く時にもっとも苦労したのが、AとBの場所。ここに石積みが残されているのでそれが南惣構堀と関係があるのか確かめたかったのです。
では、それぞれの場所を写真で見てみましょう。

Aの場所で空堀商店街の路地を少し入った所。角で石積みが曲がっている所も織込み済みです。

奥の空堀商店街へはゆるやかな坂道になっています。

ここがBの場所です。

この石積みもいい感じですね。A・Bの両場所とも惣構堀跡とも想定できますが、瓦土取場とも重なっているのでなんとも微妙です。

Cの場所です。ゆるやかな下りになっていますが、この道は熊野街道でもあります。

少し東側の場所を窪地から見たところ。このエリアも瓦土取場と重なる場所です。

次にDのエリアです。向こうの階段は清水谷公園の階段です。

Dの北側にポッカリと台形の窪地がありますが、ここは窪地の北端です。「摂津 真田丸」で真田丸の谷を挟んで向かい側の丘がこの階段の上だと思われます。

左は明星中学校のグラウンド。真田丸があったと思われる場所です。

右の道が南惣構堀があったと思われる道です。

道なりにいってみましょう。

道路の南側は緩やかに隆起しています。

北側にも高低差がありました。

違う角度からみると中央の道が窪んでいます。堀跡がゆるやかな窪地になっているのがわかります。

Eの場所に向かいます。「摂津 真田丸」と私の想定が正しければ、この右側に小さい曲輪があったはずです。

今も昔も変わらないであろう坂道の右が真田丸、左が出丸城跡です。

心眼寺(しんがんじ)。元和8年(1622)に出丸城跡に建立されました。

山門前には真田幸村出丸城跡の石碑。

境内には、真田左衛門佐豊臣信繁(さなださえもんのすけとよとみののぶしげ)之墓がありました。

真田信繁とは、「真田幸村」のこと。生前には「幸村」と名乗った事はなかったと考えられているそうです。
これらの場所は、実際に歩いてフィールドワークすると新たな発見があるかもしれませんね。大阪高低差学会の春のフィールドワーク(4/19予定)では、このエリアを中心に歩く予定です。近くには見どころもたくさんあります。詳細が決まりましたら大阪高低差学会のホームページとFacebookページでお知らせいたします。
(追記)

上町筋沿いのビルの敷地内に、発掘調査のプレートがあります。ビル建築時の発掘調査で南惣構堀の一部が発見されました。

ビルの1階ロビーにその時に掘り出された瓦が展示されていました。

受付の方に声をかけて撮影させていただきました。

発掘調査が行われたのは黄色の辺り。発掘時は堀が深過ぎたため地表から8mまでしか掘れていないようですが、ボーリングデータにより、堀の底は11m下に認められ、堀の幅は20mを上回る大きさだったようです。
「大阪の歴史46/大阪市史編纂所」より

発掘調査時の写真です。点線は堀が下に続いている事を示しています。
(関連記事)
『等高線で空堀(南惣構堀)の場所を探せ』2015.09.09
『秀吉大阪城の南惣構堀の場所検証』2015.08.30
『真田丸と南惣構堀(空堀)跡の場所を地形(カシミール3D)から探る』2015.01.15
『空堀(南惣構堀)の跡を探せ』2015.05.12
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徹底的に破却された南惣構堀跡はどこなのか?
2016年1月から放送予定のNHK大河ドラマが、三谷幸喜脚本の「真田丸」に決まり、にわかに真田丸関連の情報が増えてきたように思います。ただ、真田丸の場所や形状には諸説あり正確な事はわかっていません。さらに、その背後にあった南惣構(みなみそうがまえ)堀についても壮大な規模であったことはわかっていますが、大坂冬の陣の後に徳川家康によって徹底的に破却されたため、正確な場所や形状がわかっていません。そんな中で、いくつか気になる資料があります。さらに、現在の地形の高低差を詳細に見る事ができるカシミール3Dというソフトもあり、それらを組み合わせて真田丸と南惣構堀の跡を探ってみようと考えました。以前にいちどチャレンジした事があるテーマですが、今回はさらにカシミール3Dの力を借りてバージョンアップした推察になっている……はずです。
「真田丸」は孤立無援の砦だった
先日、産經新聞で「真田丸は孤立無援の砦だった」という記事(産経west)が話題になりました。大坂城の堀の外側に築いた出城「真田丸」は従来、城内と簡単に行き来できる構造と考えられていましたが、最新の等高線調査により、城とは大きな谷を隔てた孤立無援の砦だった可能性が高まったという内容です。その記事で引用されたのが、大阪文化財研究所と大阪歴史博物館が刊行した報告書「大阪上町台地の総合的研究」に掲載された「古地理図」と広島藩主の浅野家に伝わる江戸時代初期の城跡図面集「諸国古城之図」(広島市立中央図書館所蔵)の「摂津 真田丸」です。
「真田丸」の場所は…
「浅野文庫諸国古城之図」(広島市立中央図書館所蔵)の「摂津 真田丸」より

これは、「浅野文庫諸国古城之図」の中の「摂津 真田丸」の図です。谷を挟んで南北に丘があり、南側に真田丸が描かれています。その南端に2つの堀と、北側に小さい曲輪と堀が描かれています。
(雑誌に掲載されていた2色刷りの印刷物を高解像度スキャンし上記のカラー画像と重ねた)

地図を大きくみたかったので、特殊な手法で拡大してみました。さらに、北を上にし記されている文字を書き出してみました。

カシミール3Dで真田丸エリアの地形図を等高線も入れて作成しました。さらに明治23年に測量された地図を重ねています。江戸時代の古地図より精度が高いので参考になる。

「摂津 真田丸」に書かれた詳細を地形図に記してみました。ピッタリとは重なりませんが等高線を参考に重ねています。北側の小さい曲輪は標高を少し高くしています。寺が縦に並んでいる北端は、現在心眼寺がある出丸城跡と言われている場所です。
「大阪上町台地の総合的研究(古地理図5_豊臣後期)」より部分拡大

ちなみに、産經新聞の記事で紹介された「大阪上町台地の総合的研究」の古地理図がこれ。当時の等高線は現在のと比べると谷の形がはっきりしています。
次に「南惣構堀」の場所を探ります。
「大阪の歴史46・豊臣氏大坂惣構の防御施設-発掘調査の現状と課題(積山洋)」より

資料的価値の高さが認められている『僊台武鑑(せんだいぶかん)』所収「大坂冬の陣配置図」です。この図から南惣構(みなみそうがまえ)堀の形を抜き出したいと考えています。真田丸は「摂津 真田丸」と違う形をしていますので、その辺りは折衷してみました。ちなみに「オ」の道は上町筋のようです。

ベースとなる明治23年測量の地図です。南惣構堀は、冬の陣の講和にあたって徹底的に破却壊平されたので堀跡の完全な確定は困難です。参考になるのが、元和2年(1612 )に旧城内や蔵屋敷敷地の畑地化で成立した高津屋吉右衛門肝煎地の字タンボ・字山ノ下・字谷筋堀跡・字堀・字札辻西裏から塩町口野畑、瓦屋藤右衛門請地(瓦土取場)に至るエリアです。南惣構堀はこのエリアにあったと考えるのが自然かもしれません。そのエリアに色を付けました。色分けは大阪市史第三巻の「惣構南側の堀切図」を参考にしています。ちなみに地図中央の南北筋は上町筋です。

カシミール3Dの地形図です。等高線も入れたので窪みがよくわかります。

先ほどの色分けエリアを重ねてみました。瓦土取場(赤色)はみごとに窪地になっています。この窪地が逆に堀跡の確定を困難にしています。

色の付いているエリアを意識しながら、「大坂冬の陣配置図」の南惣構堀の形をできるだけ崩さずに落とし込んでみました。つじつまが合わないのが、東横堀川と接するところですが、「大坂冬の陣配置図」に合わせて長堀の北で接するようにしています。

実はラインを引く時にもっとも苦労したのが、AとBの場所。ここに石積みが残されているのでそれが南惣構堀と関係があるのか確かめたかったのです。
では、それぞれの場所を写真で見てみましょう。

Aの場所で空堀商店街の路地を少し入った所。角で石積みが曲がっている所も織込み済みです。

奥の空堀商店街へはゆるやかな坂道になっています。

ここがBの場所です。

この石積みもいい感じですね。A・Bの両場所とも惣構堀跡とも想定できますが、瓦土取場とも重なっているのでなんとも微妙です。

Cの場所です。ゆるやかな下りになっていますが、この道は熊野街道でもあります。

少し東側の場所を窪地から見たところ。このエリアも瓦土取場と重なる場所です。

次にDのエリアです。向こうの階段は清水谷公園の階段です。

Dの北側にポッカリと台形の窪地がありますが、ここは窪地の北端です。「摂津 真田丸」で真田丸の谷を挟んで向かい側の丘がこの階段の上だと思われます。

左は明星中学校のグラウンド。真田丸があったと思われる場所です。

右の道が南惣構堀があったと思われる道です。

道なりにいってみましょう。

道路の南側は緩やかに隆起しています。

北側にも高低差がありました。

違う角度からみると中央の道が窪んでいます。堀跡がゆるやかな窪地になっているのがわかります。

Eの場所に向かいます。「摂津 真田丸」と私の想定が正しければ、この右側に小さい曲輪があったはずです。

今も昔も変わらないであろう坂道の右が真田丸、左が出丸城跡です。

心眼寺(しんがんじ)。元和8年(1622)に出丸城跡に建立されました。

山門前には真田幸村出丸城跡の石碑。

境内には、真田左衛門佐豊臣信繁(さなださえもんのすけとよとみののぶしげ)之墓がありました。

真田信繁とは、「真田幸村」のこと。生前には「幸村」と名乗った事はなかったと考えられているそうです。
これらの場所は、実際に歩いてフィールドワークすると新たな発見があるかもしれませんね。大阪高低差学会の春のフィールドワーク(4/19予定)では、このエリアを中心に歩く予定です。近くには見どころもたくさんあります。詳細が決まりましたら大阪高低差学会のホームページとFacebookページでお知らせいたします。
(追記)

上町筋沿いのビルの敷地内に、発掘調査のプレートがあります。ビル建築時の発掘調査で南惣構堀の一部が発見されました。

ビルの1階ロビーにその時に掘り出された瓦が展示されていました。

受付の方に声をかけて撮影させていただきました。

発掘調査が行われたのは黄色の辺り。発掘時は堀が深過ぎたため地表から8mまでしか掘れていないようですが、ボーリングデータにより、堀の底は11m下に認められ、堀の幅は20mを上回る大きさだったようです。
「大阪の歴史46/大阪市史編纂所」より

発掘調査時の写真です。点線は堀が下に続いている事を示しています。
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コメント
名無しの日本人 | URL | -
このサイトはすごく面白いです
このサイトはすごく面白いです。「真田丸と空堀をさがせ」のネタは、たまりません。
地形は、証拠ですものね。地面の高い低いは、本当にゾクゾクする事がいっぱいありますね。
これからも知的な面白い視点に期待しております。私もこのすばらしい世界に混ざりたいな〜。
( 2015年02月08日 22:34 )
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( 2020年07月20日 22:33 )
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