2014年05月27日 07:30
竹内街道を歩く 3
竹内峠を越え竹内へ

今回歩いた近鉄上ノ太子駅から長尾神社までのルートをGoogle earthで見てみました。竹内街道の近くには王陵の谷と呼ばれる地域があり、聖徳太子御廟所(ごびょうしょ)や推古天皇陵などの陵墓が集まっています。

今回は、二上山の登山口辺りから竹内峠を越え、長尾神社へ向かいます。
※カシミール3Dで作成した地形図です。

普通に歩くと峠越えのハイキングコースなのですが、この道を厩戸王(聖徳太子)や推古天皇、小野妹子等が歩いた時代をイメージしながら歩けば、それはアースダイビングかもしれない。そんな気分で歩いてきました。

二上山の登山口まえです。この辺りは歩道がしっかりあるのですが、

途中でこんな感じになります。歩く時は気をつけてください。

坂道なのでディーゼル車が通ると排ガスがすごい。

いい感じで錆びてきた周辺地図。

ちょっと気になる脇道がありました。昔の旧道のなごりかな?

石仏がありますね。

立派な宝篋印塔(ほうきょういんとう)もある。

奥に行ってみましょう。

ここは「河内国山田郷 役行者(えんのぎょうじゃ)遺跡」だそうです。

祠が石で造られている。

祀られているのは役行者でしょうか。

先ほどの役行者遺跡は左の高い所です。右手の向こうに旧道が見えてきました。

新しい緑の一里塚。竹内峠は河内国と大和国の境目になります。

平成26年3月に設置されたようですね。

河内名所図絵の二子山(二上山)。

旧道はかなり高い所にあります。逆に下の国道が山をかなり削って造られた事がわかります。

ここが峠でしょうか。

中央は県境の石碑です。「従是東(これよりひがし)奈良縣(県)管轄」。右の石碑の文章は読めなかったのですが、左の石碑は読める。

鴬の関址
我おもふ こころもつきず 行く春を 越さでもとめよ 鴬の関
康資王母(やすすけおうのはは)作

ここ竹内峠ほど歴史の余韻が漂う峠は少ない。推古天皇二十一年(大一三)に、難波と京の間におかれた官道は、この峠を越える竹内街道であるといわれる。大陸から文物がこの道を通って大和の飛鳥にもたらされた。峠の東北にある万歳山城などの中世の城塁址はこのあたりを駆けめぐった大和武士たちの夢を偲ばせる。中。近世には伊勢、長谷参詣が隆盛し、茶屋、旅籠が峠を行く人々の旅情を慰めた。鴬の関ともよばれたこの峠の風景に多くの文人たちが筆をとり、貞享五年には松尾芭蕉が峠を河内に向かっている。幕末、嘉永六年吉田松陰は峠を経て大和の儒者を訪ね、文久三年天誅組の中山忠光等七名が志果たせぬままここに逃走している。明治十年から十五年にかけて峠道は拡幅改修され昭和五十年県道から国道一六六号線に昇格、昭和五十九年国道の改修工事が完成するに至る。

この峠は鴬の関とも呼ばれていたようですね。

道の脇にこんなものがありました。

さっきと同じ歌です。

さて、ここで道が分かれます。私は国道を越えていきますが、右に行けば階段で下りられる近道になります。

国道を越えて林道を歩きます。

トンネルをくぐると、

階段はトンネルの横にありました。結構急ですよね。

このような道が続きます。

横に川が流れている。ゆるやかな下り坂で、歩いていて気持ちがいい。

林道を抜けて、

ため池を越えると、

葛城市竹内です。

民家ギリギリに国道が通っている。昔は風情があったのだろうな。

民家越しに大和高田の市街地が見える。時代によって様々な風景が見えたのでしょう。飛鳥の時代はこの坂道から大和三山や飛鳥京が見えたのかもしれません。

国道を離れ旧街道へ。

ちょうど山側に神社があったのでお参りをしておきましょうか。

結構急な石段です。ただ、拝殿は閉まっており境内には入れませんでした。

隙間からのぞいてみた。中央に見えるのが本殿でしょうか。

さて、竹内の集落に入っていきます。右の建物はいわゆる大和棟の民家ですね。

とても素敵な建物ですね。

緩やかな坂道にこのような町並みが続いています。

こちらは芭蕉ゆかりの綿弓塚(わたゆみづか)がある場所。

綿弓塚とは、松尾芭蕉がこの地に滞在した後、芭蕉の歿後115年を経た文化6年(1809)に建てられた句碑のことです。

ここに綿弓塚と刻まれている。

この場所は、一般に解放されており建物の中は休憩所になっています。

さて、さらに歩いていきます。

立派な地蔵尊がありました。

この石碑は道標のようですね。「左 たへま道」。當麻寺への道標ですね。

こちらにも道標がありました。大峯山はわかるのですがあとは解読できなかった。

しばらく歩くと長尾街道との分かれ道にたどり着きます。ここを左に行けば長尾街道、まっすぐ行けば長尾の集落です。

向こうに長尾神社の森が見えてきた。

いい風情が残っています。

昔はこのような家が連なっていたのでしょうね。

突き当たりに道標がありました。ここを左前方に歩きます。

ここは長尾神社の裏手になりますので向こう側に行ってみましょう。

こちらが長尾神社の鳥居。

この辺りは、竹内街道と初瀬街道(横大路)や長尾街道が交差する交通の要衝で、古来より交通安全や旅行安全の神様として暑く信仰されていました。長尾姓の発祥の地ともいわれているようです。

こちらが拝殿です。
竹内街道歩きは一旦ここで終了します。
近鉄上ノ太子駅からゆっくり歩いて約5時間ほどでした。二上山に寄り道するともっと時間がかかるかもしれません。次回は、竹内街道と並行して陵墓が並んでいる王陵の谷を紹介します。
(関連記事)
「竹内街道を歩く 1 日本最古の官道」 2014.05.17
「竹内街道を歩く 2 河内名所図絵の二上山」 2014.05.22
「竹内街道を歩く 3 竹内峠、鴬の関跡、綿弓塚」 2014.05.27
「竹内街道を歩く 4 王陵の谷」 2014.06.03
より大きな地図で 竹内街道 を表示
ポチッと、応援よろしく♪
竹内峠を越え竹内へ

今回歩いた近鉄上ノ太子駅から長尾神社までのルートをGoogle earthで見てみました。竹内街道の近くには王陵の谷と呼ばれる地域があり、聖徳太子御廟所(ごびょうしょ)や推古天皇陵などの陵墓が集まっています。

今回は、二上山の登山口辺りから竹内峠を越え、長尾神社へ向かいます。
※カシミール3Dで作成した地形図です。

普通に歩くと峠越えのハイキングコースなのですが、この道を厩戸王(聖徳太子)や推古天皇、小野妹子等が歩いた時代をイメージしながら歩けば、それはアースダイビングかもしれない。そんな気分で歩いてきました。

二上山の登山口まえです。この辺りは歩道がしっかりあるのですが、

途中でこんな感じになります。歩く時は気をつけてください。

坂道なのでディーゼル車が通ると排ガスがすごい。

いい感じで錆びてきた周辺地図。

ちょっと気になる脇道がありました。昔の旧道のなごりかな?

石仏がありますね。

立派な宝篋印塔(ほうきょういんとう)もある。

奥に行ってみましょう。

ここは「河内国山田郷 役行者(えんのぎょうじゃ)遺跡」だそうです。

祠が石で造られている。

祀られているのは役行者でしょうか。

先ほどの役行者遺跡は左の高い所です。右手の向こうに旧道が見えてきました。

新しい緑の一里塚。竹内峠は河内国と大和国の境目になります。

平成26年3月に設置されたようですね。

河内名所図絵の二子山(二上山)。

旧道はかなり高い所にあります。逆に下の国道が山をかなり削って造られた事がわかります。

ここが峠でしょうか。

中央は県境の石碑です。「従是東(これよりひがし)奈良縣(県)管轄」。右の石碑の文章は読めなかったのですが、左の石碑は読める。

鴬の関址
我おもふ こころもつきず 行く春を 越さでもとめよ 鴬の関
康資王母(やすすけおうのはは)作

ここ竹内峠ほど歴史の余韻が漂う峠は少ない。推古天皇二十一年(大一三)に、難波と京の間におかれた官道は、この峠を越える竹内街道であるといわれる。大陸から文物がこの道を通って大和の飛鳥にもたらされた。峠の東北にある万歳山城などの中世の城塁址はこのあたりを駆けめぐった大和武士たちの夢を偲ばせる。中。近世には伊勢、長谷参詣が隆盛し、茶屋、旅籠が峠を行く人々の旅情を慰めた。鴬の関ともよばれたこの峠の風景に多くの文人たちが筆をとり、貞享五年には松尾芭蕉が峠を河内に向かっている。幕末、嘉永六年吉田松陰は峠を経て大和の儒者を訪ね、文久三年天誅組の中山忠光等七名が志果たせぬままここに逃走している。明治十年から十五年にかけて峠道は拡幅改修され昭和五十年県道から国道一六六号線に昇格、昭和五十九年国道の改修工事が完成するに至る。

この峠は鴬の関とも呼ばれていたようですね。

道の脇にこんなものがありました。

さっきと同じ歌です。

さて、ここで道が分かれます。私は国道を越えていきますが、右に行けば階段で下りられる近道になります。

国道を越えて林道を歩きます。

トンネルをくぐると、

階段はトンネルの横にありました。結構急ですよね。

このような道が続きます。

横に川が流れている。ゆるやかな下り坂で、歩いていて気持ちがいい。

林道を抜けて、

ため池を越えると、

葛城市竹内です。

民家ギリギリに国道が通っている。昔は風情があったのだろうな。

民家越しに大和高田の市街地が見える。時代によって様々な風景が見えたのでしょう。飛鳥の時代はこの坂道から大和三山や飛鳥京が見えたのかもしれません。

国道を離れ旧街道へ。

ちょうど山側に神社があったのでお参りをしておきましょうか。

結構急な石段です。ただ、拝殿は閉まっており境内には入れませんでした。

隙間からのぞいてみた。中央に見えるのが本殿でしょうか。

さて、竹内の集落に入っていきます。右の建物はいわゆる大和棟の民家ですね。

とても素敵な建物ですね。

緩やかな坂道にこのような町並みが続いています。

こちらは芭蕉ゆかりの綿弓塚(わたゆみづか)がある場所。

綿弓塚とは、松尾芭蕉がこの地に滞在した後、芭蕉の歿後115年を経た文化6年(1809)に建てられた句碑のことです。

ここに綿弓塚と刻まれている。

この場所は、一般に解放されており建物の中は休憩所になっています。

さて、さらに歩いていきます。

立派な地蔵尊がありました。

この石碑は道標のようですね。「左 たへま道」。當麻寺への道標ですね。

こちらにも道標がありました。大峯山はわかるのですがあとは解読できなかった。

しばらく歩くと長尾街道との分かれ道にたどり着きます。ここを左に行けば長尾街道、まっすぐ行けば長尾の集落です。

向こうに長尾神社の森が見えてきた。

いい風情が残っています。

昔はこのような家が連なっていたのでしょうね。

突き当たりに道標がありました。ここを左前方に歩きます。

ここは長尾神社の裏手になりますので向こう側に行ってみましょう。

こちらが長尾神社の鳥居。

この辺りは、竹内街道と初瀬街道(横大路)や長尾街道が交差する交通の要衝で、古来より交通安全や旅行安全の神様として暑く信仰されていました。長尾姓の発祥の地ともいわれているようです。

こちらが拝殿です。
竹内街道歩きは一旦ここで終了します。
近鉄上ノ太子駅からゆっくり歩いて約5時間ほどでした。二上山に寄り道するともっと時間がかかるかもしれません。次回は、竹内街道と並行して陵墓が並んでいる王陵の谷を紹介します。
(関連記事)
「竹内街道を歩く 1 日本最古の官道」 2014.05.17
「竹内街道を歩く 2 河内名所図絵の二上山」 2014.05.22
「竹内街道を歩く 3 竹内峠、鴬の関跡、綿弓塚」 2014.05.27
「竹内街道を歩く 4 王陵の谷」 2014.06.03
より大きな地図で 竹内街道 を表示
ポチッと、応援よろしく♪

スポンサーサイト
コメント
コメントの投稿