2014年05月05日 10:30
由良要塞・加太砲台跡
友ヶ島フェリーに乗れなかったので
加太の砲台跡を見てきたが凄かった。

ゴールデンウィークというのは想像を越えることが起きるものです。5月3日に友ヶ島の砲台跡を見るためにフェリー乗り場に向かったのですが、そこには想像をはるかに越える大行列が。係の人に聞くと私たちが乗ろうとしていた午前11時の便は無理で、その後の午後1時の便も乗れないという状況。
甘かった…
何のためにここまで来たのか…
ラピュタを見たかった…
と途方に暮れていたところ、
SNSで「加太の砲台めぐりをしたら?」と教えていただきました。
「え?加太にもあるの?」

調べてみると地図に砲台跡の文字がある。
とりあえず、行ってみることにしました。
ちなみに「加太」は「かた」ではなく「かだ」と読むのですね。いままでずっと間違えていました。

ここは丘のてっぺんにある休暇村紀州加太の駐車場。
そこに弾薬庫跡の立て看板がありました。

いきなりいい感じのレンガ造りの構造物。

中はこのような空間。

休暇村の駐車場にはこのひとつしかなかったのですが、地図を見ると深山(みやま)第一砲台跡というのがあるのでそこまで歩いて行くことにしました。

休暇村から道路を下り自然道に入って行きます。
道にはレンガが敷かれていました。

まわりはゴツゴツした岩肌で独特の地層が確認できます。
これは和泉層群とよばれる堆積岩からできた地層で、海底に堆積した砂岩や泥岩、れき岩、凝灰岩などからできているそうです。

自然道を10分ほど歩くと開けた空間が現れました。

ここからどっちに歩いて行けばいいのだろうと柵に近づいていくと、

なんとその下にレンガ造りの構造物が現れました。

おおっ!

いきなりいい感じ。保存状態も素晴らしい。

中をのぞくとこのような空間。

奥で隣の空間と繋がっている。

美しい。

これらの空間は弾薬庫だったようです。

弾薬庫なので地下に造られているのでしょうが、この自然と融合したような空間が凄いです。

地上に出ると広い空間があり解説板がありました。

「砲台跡(ほうだいあと) この場所はかつての由良要塞(ゆらようさい)の一つ深山(みやま)第一砲台の跡です。ここには28cm榴弾砲(りゅうだんほう)の砲台が6門編成で置かれていました。砲台は2門ごとに仕切られ、トンネルの通路でつながっていました。現在、砲台はありませんが、トンネルの通路や地下の弾薬庫などが残っています。」

当時の砲台の写真(深山重砲兵聯隊 二十八糎榴弾砲々台)
「28cm榴弾砲。曲射弾道で、艦船の甲板を射撃する大砲。着弾すると榴弾がはじけ飛び、広い範囲にダメージを与える。砲弾の落下速度の増加も考慮し、高い山頂や丘陵に設営された。」

砲台からどのように砲弾が出ていたか
「平射砲と違い、放物線を描いて砲弾が飛んでいくため、前面には胸(きょう)しょうと呼ばれる低い防護壁がある。」

全体の配置図です。
最初に見た弾薬庫の入口が「A」の場所。ここが「B」。奥に「D」と「F」の砲台跡があり、それらの間にはトンネル「C」と「E」がある。トンネルの下にも弾薬庫(室)があります。

横を見るとトンネルが2つ見える。

トンネルの下は弾薬庫になっています。

中は真っ暗でさすがにフラッシュを使用しました。

このトンネルや弾薬庫の保存状態も素晴らしい。

「D」の砲台跡です。

左右に丸い砲台跡と正面の壁が防護壁。
表示板にあった当時の写真とは壁の素材が違う。向こうは石積みでこちらはレンガ。時代が違うのか、場所が違うのか。もしかするとあれは深山第二砲台の写真かもしれません。

「E」のトンネルから「D」の砲台跡と「C」のトンネルを見たところ。

そして一番奥にある「F」の砲台跡。突き当たりの側面は崩れています。

正面の防護壁をみたところ。左の砲台跡の丸い部分を見ると土砂が崩れているのがわかります。

振り返ってトンネルを見たところ。

上から「F」の砲台跡を見たところです。
ここもラピュタだと心に言い聞かせてみました…

砲台跡の上はこのような展望台になっています。

友ヶ島もよく見える。

展望台に由良要塞の全体がよくわかる解説板がありました。
由良要塞の歴史
由良は古くから瀬戸内海に入る交通上の要地であり、中世からは軍事的な意味から大阪湾の守りの地でした。要塞は大きく淡路島の由良・和歌山県の友ヶ島・加太の3つに分かれ、大阪湾に侵入する軍艦を迎え撃つため、合計17箇所に砲台がおかれました。
ここ深山第一砲台は、明治25年に着工され、32年に正式に由良要塞に編入されてから、昭和20年の終戦時まで使用されていました。

※矢印は砲台の主な攻撃方向です。
※堡塁(ほるい)は、砲台を守るために造られた陸戦用の砦(とりで)です。
【由良地区】
1 生石山第1砲台
2 生石山第2砲台
3 生石山第3砲台
4 生石山第4砲台
5 生石山第5砲台
6 赤松山堡塁
7 伊張山堡塁
8 生石山堡塁
9 成山第1砲台 成山第2砲台
10 高崎砲台
【友ヶ島地区】
1 友ヶ島第1砲台
2 友ヶ島第2砲台
3 友ヶ島第3砲台
4 友ヶ島第4砲台
5 友ヶ島第5砲台
6 虎島堡塁
【加太地区】
1 深山第1砲台
2 深山第2砲台
3 男良谷砲台
4 加太砲台
5 田倉崎砲台
6 大川山堡塁
7 高森山堡塁
8 佐瀬川堡塁
9 西の庄堡塁

解説板で深山第1砲台の近くに男良谷砲台と深山第2砲台があることがわかり、展望台から道が続いていたので行ってみました。

遊歩道なのですが、道はこんな状態。天気が悪い日は無理しない方がいいかも。

途中、こんな見晴らしのいい場所があったりします。

遊歩道はどんどん谷を下り、海の近くまでやってきた時に海軍と刻まれた標石がありました。

するとこのような構造物があった。ここが男良谷(おらのたに)砲台のようです。地形的にも谷底です。

草やぶの向こうにこのような構造物が隠れていました。三方を崖に囲まれた一番奥です。

崩れていますが窯の跡っぽくも見えます。下の空洞が奥の煙突のような四角柱に続いている。

四角柱は横と上に穴があいています。もしかするとボイラーのような装置だったのかもしれません。

さらに草やぶの奥にトンネルらしい構造物を見つけました。

高さがあるので余裕で入れるのですが中は真っ暗。声がこだまして向こうに繋がっている感じがしない。先でゆるくカーブしておりコウモリが飛んだりして途中で引き返しました。
後でネットで調べると、どうやらここにはトロッコの線路が敷かれていたようで、奥はやはり崩落しているようです。さらに調べると、この奥には水雷の発射座があったそうです。

振り返るとこのように真っ暗。こわがりの私にはトンネルの入口あたりでおろおろしているのがちょうどいいかも。

海へ向かいましょう。

このような海岸に出ます。

階段の横には水路がありました。谷から流れてきた水がここから海に排出されています。

この海岸はいわゆる洗濯板のような地形になっている場所です。

水雷施設と思われる残骸が残っていました。
これは排水路跡なのでしょうか。

その左上にコンクリートの跡が見えます。
これは水雷の発射台に関わる設備の残骸かもしれません。
まわりにもコンクリートの残骸が散乱していました。

これは、由良水雷隊兵舎仮設位置図。なんと、男良谷砲台周辺の平面図がアジア歴史資料センターにありました。図面を見ると陸軍砲台の文字が確認出来ますが、敷地の多くが海軍の施設でもあったように思われます。目を引くのが海の中にある構造物。いったいどのように使われていたのでしょう。

さらに、男良谷水雷発射図という図面も出てきました。この図は4枚の画像を重ねあわせたものです。この図を見る限り、崖の発射台から水雷(魚雷)を海までワイヤーロープで滑り落とすような構造のようです。発射機は一番から四番まで記されています。

拡大で見ると魚雷が確認できます。

魚雷はここで切り離され敵艦めがけて海中を進んでいくのでしょう。干潮と満潮の水面も記されていました。

右の上陸場先端ラインの少し先あたりが魚雷の切り離し場所です。海の下にはいまでも構造物の土台があるのかもしれません。
上記の資料は、明治37.8年海戦史のものです。実践で使われることはなかったと思われますが、かなりシンプルな発射装置なので40年後の昭和20年の終戦時まで使われていたかは不明。

この日は、友ヶ島の砲台跡に行けなかったにも関わらず、加太の深山砲台跡や男良谷砲台跡を散策でき、とても有意義な一日でした。結局、最初に見た休暇村の弾薬庫跡が深山第二砲台跡だったようです。次はぜひ友ヶ島に行ってみたい。
ポチッと、応援よろしく♪
友ヶ島フェリーに乗れなかったので
加太の砲台跡を見てきたが凄かった。

ゴールデンウィークというのは想像を越えることが起きるものです。5月3日に友ヶ島の砲台跡を見るためにフェリー乗り場に向かったのですが、そこには想像をはるかに越える大行列が。係の人に聞くと私たちが乗ろうとしていた午前11時の便は無理で、その後の午後1時の便も乗れないという状況。
甘かった…
何のためにここまで来たのか…
ラピュタを見たかった…
と途方に暮れていたところ、
SNSで「加太の砲台めぐりをしたら?」と教えていただきました。
「え?加太にもあるの?」

調べてみると地図に砲台跡の文字がある。
とりあえず、行ってみることにしました。
ちなみに「加太」は「かた」ではなく「かだ」と読むのですね。いままでずっと間違えていました。

ここは丘のてっぺんにある休暇村紀州加太の駐車場。
そこに弾薬庫跡の立て看板がありました。

いきなりいい感じのレンガ造りの構造物。

中はこのような空間。

休暇村の駐車場にはこのひとつしかなかったのですが、地図を見ると深山(みやま)第一砲台跡というのがあるのでそこまで歩いて行くことにしました。

休暇村から道路を下り自然道に入って行きます。
道にはレンガが敷かれていました。

まわりはゴツゴツした岩肌で独特の地層が確認できます。
これは和泉層群とよばれる堆積岩からできた地層で、海底に堆積した砂岩や泥岩、れき岩、凝灰岩などからできているそうです。

自然道を10分ほど歩くと開けた空間が現れました。

ここからどっちに歩いて行けばいいのだろうと柵に近づいていくと、

なんとその下にレンガ造りの構造物が現れました。

おおっ!

いきなりいい感じ。保存状態も素晴らしい。

中をのぞくとこのような空間。

奥で隣の空間と繋がっている。

美しい。

これらの空間は弾薬庫だったようです。

弾薬庫なので地下に造られているのでしょうが、この自然と融合したような空間が凄いです。

地上に出ると広い空間があり解説板がありました。

「砲台跡(ほうだいあと) この場所はかつての由良要塞(ゆらようさい)の一つ深山(みやま)第一砲台の跡です。ここには28cm榴弾砲(りゅうだんほう)の砲台が6門編成で置かれていました。砲台は2門ごとに仕切られ、トンネルの通路でつながっていました。現在、砲台はありませんが、トンネルの通路や地下の弾薬庫などが残っています。」

当時の砲台の写真(深山重砲兵聯隊 二十八糎榴弾砲々台)
「28cm榴弾砲。曲射弾道で、艦船の甲板を射撃する大砲。着弾すると榴弾がはじけ飛び、広い範囲にダメージを与える。砲弾の落下速度の増加も考慮し、高い山頂や丘陵に設営された。」

砲台からどのように砲弾が出ていたか
「平射砲と違い、放物線を描いて砲弾が飛んでいくため、前面には胸(きょう)しょうと呼ばれる低い防護壁がある。」

全体の配置図です。
最初に見た弾薬庫の入口が「A」の場所。ここが「B」。奥に「D」と「F」の砲台跡があり、それらの間にはトンネル「C」と「E」がある。トンネルの下にも弾薬庫(室)があります。

横を見るとトンネルが2つ見える。

トンネルの下は弾薬庫になっています。

中は真っ暗でさすがにフラッシュを使用しました。

このトンネルや弾薬庫の保存状態も素晴らしい。

「D」の砲台跡です。

左右に丸い砲台跡と正面の壁が防護壁。
表示板にあった当時の写真とは壁の素材が違う。向こうは石積みでこちらはレンガ。時代が違うのか、場所が違うのか。もしかするとあれは深山第二砲台の写真かもしれません。

「E」のトンネルから「D」の砲台跡と「C」のトンネルを見たところ。

そして一番奥にある「F」の砲台跡。突き当たりの側面は崩れています。

正面の防護壁をみたところ。左の砲台跡の丸い部分を見ると土砂が崩れているのがわかります。

振り返ってトンネルを見たところ。

上から「F」の砲台跡を見たところです。
ここもラピュタだと心に言い聞かせてみました…

砲台跡の上はこのような展望台になっています。

友ヶ島もよく見える。

展望台に由良要塞の全体がよくわかる解説板がありました。
由良要塞の歴史
由良は古くから瀬戸内海に入る交通上の要地であり、中世からは軍事的な意味から大阪湾の守りの地でした。要塞は大きく淡路島の由良・和歌山県の友ヶ島・加太の3つに分かれ、大阪湾に侵入する軍艦を迎え撃つため、合計17箇所に砲台がおかれました。
ここ深山第一砲台は、明治25年に着工され、32年に正式に由良要塞に編入されてから、昭和20年の終戦時まで使用されていました。

※矢印は砲台の主な攻撃方向です。
※堡塁(ほるい)は、砲台を守るために造られた陸戦用の砦(とりで)です。
【由良地区】
1 生石山第1砲台
2 生石山第2砲台
3 生石山第3砲台
4 生石山第4砲台
5 生石山第5砲台
6 赤松山堡塁
7 伊張山堡塁
8 生石山堡塁
9 成山第1砲台 成山第2砲台
10 高崎砲台
【友ヶ島地区】
1 友ヶ島第1砲台
2 友ヶ島第2砲台
3 友ヶ島第3砲台
4 友ヶ島第4砲台
5 友ヶ島第5砲台
6 虎島堡塁
【加太地区】
1 深山第1砲台
2 深山第2砲台
3 男良谷砲台
4 加太砲台
5 田倉崎砲台
6 大川山堡塁
7 高森山堡塁
8 佐瀬川堡塁
9 西の庄堡塁

解説板で深山第1砲台の近くに男良谷砲台と深山第2砲台があることがわかり、展望台から道が続いていたので行ってみました。

遊歩道なのですが、道はこんな状態。天気が悪い日は無理しない方がいいかも。

途中、こんな見晴らしのいい場所があったりします。

遊歩道はどんどん谷を下り、海の近くまでやってきた時に海軍と刻まれた標石がありました。

するとこのような構造物があった。ここが男良谷(おらのたに)砲台のようです。地形的にも谷底です。

草やぶの向こうにこのような構造物が隠れていました。三方を崖に囲まれた一番奥です。

崩れていますが窯の跡っぽくも見えます。下の空洞が奥の煙突のような四角柱に続いている。

四角柱は横と上に穴があいています。もしかするとボイラーのような装置だったのかもしれません。

さらに草やぶの奥にトンネルらしい構造物を見つけました。

高さがあるので余裕で入れるのですが中は真っ暗。声がこだまして向こうに繋がっている感じがしない。先でゆるくカーブしておりコウモリが飛んだりして途中で引き返しました。
後でネットで調べると、どうやらここにはトロッコの線路が敷かれていたようで、奥はやはり崩落しているようです。さらに調べると、この奥には水雷の発射座があったそうです。

振り返るとこのように真っ暗。こわがりの私にはトンネルの入口あたりでおろおろしているのがちょうどいいかも。

海へ向かいましょう。

このような海岸に出ます。

階段の横には水路がありました。谷から流れてきた水がここから海に排出されています。

この海岸はいわゆる洗濯板のような地形になっている場所です。

水雷施設と思われる残骸が残っていました。
これは排水路跡なのでしょうか。

その左上にコンクリートの跡が見えます。
これは水雷の発射台に関わる設備の残骸かもしれません。
まわりにもコンクリートの残骸が散乱していました。

これは、由良水雷隊兵舎仮設位置図。なんと、男良谷砲台周辺の平面図がアジア歴史資料センターにありました。図面を見ると陸軍砲台の文字が確認出来ますが、敷地の多くが海軍の施設でもあったように思われます。目を引くのが海の中にある構造物。いったいどのように使われていたのでしょう。

さらに、男良谷水雷発射図という図面も出てきました。この図は4枚の画像を重ねあわせたものです。この図を見る限り、崖の発射台から水雷(魚雷)を海までワイヤーロープで滑り落とすような構造のようです。発射機は一番から四番まで記されています。

拡大で見ると魚雷が確認できます。

魚雷はここで切り離され敵艦めがけて海中を進んでいくのでしょう。干潮と満潮の水面も記されていました。

右の上陸場先端ラインの少し先あたりが魚雷の切り離し場所です。海の下にはいまでも構造物の土台があるのかもしれません。
上記の資料は、明治37.8年海戦史のものです。実践で使われることはなかったと思われますが、かなりシンプルな発射装置なので40年後の昭和20年の終戦時まで使われていたかは不明。

この日は、友ヶ島の砲台跡に行けなかったにも関わらず、加太の深山砲台跡や男良谷砲台跡を散策でき、とても有意義な一日でした。結局、最初に見た休暇村の弾薬庫跡が深山第二砲台跡だったようです。次はぜひ友ヶ島に行ってみたい。
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コメント
びんみん | URL | j549y3BY
新之介さん、こんばんは。
加太でも少年自然の家の方(加太砲台、田倉崎砲台)には歩いて行ったのですが、こちらの国民休暇村の方は立体的で素晴らしいですね。友が島ともまた違った趣きがあって。
車でないと行きにくいですが、こちらも行ってみたいです。
( 2014年05月05日 23:57 [Edit] )
Empizzo | URL | X/aoCwEI
驚き
新之介さんの探究心・そしてこうした戦争のための構築物にまで及ばれる広い視野・・。
資料との照合というあたりもとてもすばらしいプレゼンテーションと思います。
私は小6の時に家族のキャンプで友が島に行った時、レンガ造りの遺構を見て驚いた記憶があります。相当昔です。
加太にもここまで周到なものが残っていたのですね。
小6の時に友が島から六甲山方面を見て、なるほど、ここは大阪の「のど元」だなと子供なりに思った記憶があります。
迎え撃つ場所としてはいい場所なのでしょうけれど、そうした旧日本軍のレベルが当時のアメリカの総合力と比べてやはり旧時代的と思わざるを得ない気持ちもします。
戦後70年近く(も)たって、そのアメリカ(皮肉にも「占領軍」)にたよる国防のあり方を思う昨今です・・。
風食に耐え続けるレンガ造りの構築物が平和を願い実現する日本の人々のための
なにか強い存在としてこれからもいい感じで残されるといいなと思います。
( 2014年05月06日 08:37 [Edit] )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
すごいですね
すごいですね
昨年行った瀬戸内の国民休暇村大久野島にも 良く似た砲台跡がありました
同じ陸軍の砲台跡だから 当然でしょうけれど・・
でも 大久野島は中には入れない部分が殆どでした
( 2014年05月07日 00:21 [Edit] )
maruco | URL | pSJ6Fihk
えぇ
加太は中学生の時よく釣りに行ってました
こんな建造物があったとは、びっくりです!!
新之介さんの探究心にまたまたびっくりしました
( 2014年05月08日 22:26 [Edit] )
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