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上町台地の高低差を歩く・大阪城

2013年03月02日 17:00

大阪アースダイバー
上町台地の高低差を歩こう!
18. 大阪城周辺を歩く

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大阪城の高低差地図です。
ここは上町台地の北端、本丸の標高が一番高く、その北側が崖のように低くなっている。

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大阪城周辺には、難波宮や法円坂遺跡、大阪府庁舎など、重要な施設が集中していることがわかる。

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谷町4丁目から歩いていきます。あのビルはNHKです。

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途中にある大きな楠。石積み部分もゆるやかに傾斜している。

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何やら石碑がたくさん。

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ここは大阪府の史跡で舎密局(せいみきょく)跡。舎密とは、オランダ語で化学の意味で、舎密局とは政府が創設した物理化学の学校です。その後、名称、場所を変えて現在の京都大学教養学部に繋がっているのだそうです。

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この像は K.W.ハラタマ博士。

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明治二年(一八六九)五月大阪府によりオランダ人化学者クーンラート・ウォルテル・ハラタマを教頭とする舎密局(せいみきょく)がここから二百メートル北の大手前通一帯に開設された。舎密とは化学の意である。舎密局は明治時代のわが国で最初に開かれた理化学校でハラタマによりこの国の近代化に必須の自然科学の教育が行なわれた。日本の初期の化学研究の多くはこの舎密局に端を発している。舎密局はその後、理学校と改称され、明治五年に閉校されてその任を終えたが、その流れから京都舎密局、大阪司薬場、第三高等学校が生まれた。日蘭交流四百年を記念して、ここに日本の化学の父ハラタマ博士の像を遺し、その功を永世に伝えたい。

さて、
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NHKと大阪歴史博物館がある敷地に復元された高床式倉庫。敷地全体がまさに法円坂遺跡で、5世紀後半、ここに大型高床建物が16棟以上も建ち並ぶ巨大倉庫群であったそうです。

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この近くには、難波津があったと推測されますので、貿易の際の物資を貯蔵していた貯蔵庫という説もあるようです。

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その近くにある大阪府庁舎。この重厚な建物は大正15年(1926)に竣工しています。

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大阪府の庁舎としてあるべき場所にある建物かもしれませんね。

この地形図は国土地理院の数値地図5mメッシュ(標高)をカシミール3Dで制作している。
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ところで、上町台地の先端部は大阪城のイメージが強いですが、その前の時代はどういう場所だったのでしょう。

應永丁酉大阪地圖(難波津之図)」の部分です。上が東。
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この古地図は応永24年(1417)に描かれたものを寛政11年(1799)に書写したものです。こういう古地図は想像やイメージで描かれることもあるのですべて正しいと判断するのは危険なのですが、地形図として見ると興味深い部分が多数あります。

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2つの地図を重ねてみました。鵲森、玉作村、熊野一ノ辺王子を現在も存在する鵲森宮、玉造稲荷神社、坐摩神社行宮の場所と想定して位置合わせの目印にしてみました。石山御坊や生玉(王)社、小坂(おさか)村等の位置関係がとても興味深い。

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石山御坊のまわりに崖が描かれているのがとても興味深い。元の地形が想像できます。ちなみに地図下部に描かれている東西に流れる堀は架空の堀だと思われます。

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石山御坊、生玉社、小坂村などの位置関係が興味深い。

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修道館横にある石山本願寺地推定地の碑。
ただ、石山本願寺の正確な場所は確認されていません。

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石山本願寺は石山城とか石山本願寺城などと呼ばれるほど防備を固めていたようで、摂州第一の城だったといわれています。

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梅林の南側にある蓮如自筆とされる六字名号碑。

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蓮如は「大坂」という地名の名付け親であるともいわれています。

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名号碑の裏にこんな場所がある。

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蓮如上人袈裟懸の松。
古地図にも蓮如松が描かれていますが同じ物なのかな。

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現在は根っこの一部しか残っていません。

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ここは大手前芝生広場の隅にある生国魂神社お旅所跡。

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古地図にも生玉(王)社が描かれています。この土地自体が摂州東成郡生玉之庄という地名だったようですね。

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さて、大阪城内の地形に目を向けてみましょう。左は本丸、右が梅林のある坂道です。

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この坂道、上町台地の断面を見ているようですね。

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東側の低地には梅林があり、南側は崖になっています。築城前からある高低差を利用して斜面を削り石垣が作られたのかもしれません。

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ちなみにこの坂道は

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雁木坂というようです。

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昔は長い石段だったようですね。

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崖は直角に曲がり南北に続いていますが、こんな階段(B)がある。

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かなりの高低差。ここも自然の地形を削って作られた斜面かもしれない。

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音楽堂横にある階段(A)。

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ここもかなりの高低差です。

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再び雁木坂横の空堀です。この堀の形状も自然の地形を利用して出来ているような気がします。

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本丸の北東角です。豊臣時代の天守はこちら側にありました。

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徳川時代に石垣をかなり拡張していますが、石山本願寺が出来る前から上町台地の崖がこの辺りまであったのではないでしょうか。

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極楽橋の西側です。

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石垣を剥がし、盛り土を除けば元の上町台地がそこにあるはず。ここがおそらく上町台地の北の端です。

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上町台地の丘が緩やかに傾斜しているようにも見える。

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石垣の内側にある台地の姿をイメージするのが面白い。

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ここは南外壕。生駒山がきれいに見えました。

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北外壕です。

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この辺りは築城当時から低地だったと思われます。壕を掘る際に出る土を土塁にし石垣で覆ったのでしょう。

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外堀越しに見た本丸。標高の高さがよくわかります。
縄文時代のこの場所は、海に突き出た岬の先端で、縄文人の聖地だったのかもしれません。また、石山本願寺が出来る前の時代には古墳があったのかもしれない。大阪城をそんな地形の視点で見るととても面白い場所だと思います。



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コメント

  1. ミナミのJIRO | URL | -

    「古地図は飽きない」

    重ね合わせた地図は興味深く拝見いたしました。原本の地図も見ましたが、ほとんど今の場所とリンクが出来ました。

    生玉神社も坐間神社も、大阪城築城の際に現在の場所に移されたんで、この地図が描かれた室町時代はここにあったんでしょうね。

    貴殿が仰る「架空の堀」は長堀の延長ではないでしょうか?
    前掲されていた、真田山から玉造神社に向かう道中の玉造通りの低さ。下水道が整備されていなかった当時は、堀とまで言わなくても、溝のような物があったんだと思われます。


    追伸
    原本の手書き地図は拡大して右90度回転させて、端から端まで心行くまで見させていただきました。
    ご掲載、ありがとうございました。

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