2012年06月22日 07:45
弾丸列車から新幹線へ(1)
弾丸列車計画と新大阪駅
昭和31年発行の東淀川区史にとても興味深いことが書かれています。
戦前に計画・着工されていた東京・下関間を高速列車で結ぶ「広軌新幹線」、通称「弾丸列車」のことです。

弾丸鉄道について
戦時中鉄道省において弾丸鉄道の計画があり、この実現をみていたら確かに本区の様相も一変していたことと思われる。いまこの計画のあらましを述べると昭和十三年鉄道省企画委員会において、輸送力の拡充ならびに内地・大陸間の交通幹線として、東京・下関間に「広軌新幹線」の敷設が具体化し、昭和十五年の第七十五議会で工費約五億六千万円、十五年度以降十五ヵ年計画として可決された。
本計画による大阪附近の状況を示すと、まず現京都駅より東海道線に沿って南下、大山崎附近より東海道線と淀川の間を淀川沿いに南西進、三島郡鳥飼村を経て当区井高野町に入り、江口町より大道町に至り西転、上新庄・國次町を経て現東淀川駅北側に新大阪駅を設置、さらに三國町・十八條町を横断豊中市庄内町を西へ抜け塚口町の南方を経て六甲山をトンネルで抜け、神戸市の西北平野方面に新神戸駅を設置以下西へ下関に至ることとなっていた。
これによって東京・大阪間の所要時間は四時間三十分、東京・下関間は九時間となる予定であった。しかし戦争の激化に伴い折角の計画も実現を見ぬまま今日に至っているが、最近また本計画が再検討されつつある。
(東淀川区史より)
いかがでしょう。なかなか面白いでしょ。
「最近また本計画が再検討されつつある。」というのは東海道新幹線のことです。
この文章の中で私が特に気になったのは新大阪駅の場所。
東淀川駅の北側ってどのあたりなんでしょう?
で、いろいろ調べていて
偶然見つけてしまいました!

国立公文書館の「大阪都市計画街路中追加変更ノ件」という書類の中の1ページ。昭和18年のものです。

都市計画図の中に新幹線鉄道と計画道路が書き足されている。
中心の四角い部分は新大阪駅前広場、右側の菱形に塗られた部分は新幹線貨物駅と思われます。

凡例です。原本はカラーなのでしょう。

新大阪駅前広場の下に東淀川駅が確認できます。
新幹線鉄道の左側にあるバツ印は、その下に記されていた大道庄内線の廃止を意味しています。

現在の地図に落とし込むとこの辺りでしょうか。

昭和14年の地図に落とし込んでみました。
周辺に住宅地がまだ少なかった事がわかる。

さらに、昭和17年の地図にも落とし込んでみました。
戦時中だからでしょうか、宮原操車場が記されていません。

計画路線の下にはまっすぐな道路が記されていました。
ただ、この道路は当時できていないはずの大道庄内線のようです。
その他にも実際にはできていない計画中の道路がいくつも確認できる。
ちょっと不思議な地図です。

東淀川駅のホームから北側を見てみました。

信号の奥が新大阪駅の計画地の辺りでしょうか。

その下には大きな道路ができています。

庄内新庄線です。この先は地下鉄東三国駅。

地下鉄東三国駅の西の先で行き止まりになっている道路です。
これが旧大道庄内線なのではと思ったのですが、どうも違うみたい。
大道庄内線は蒲田神社の北側を走るのですが、この道路は南側。
この道路が弾丸列車の計画予定地だと思ったのですが違うようです。

最後に、国土地理院の昭和23年(1948)の空中写真に落とし込んでみました。
これが一番リアリティがある。
(追記)
現新大阪の東側のルートは水路(中嶋大水道)に沿ったルートになりましたが、この空撮をみて思ったのですが、新大阪駅の東側は空襲の被害が大きかった地域でもあります。この写真にもその傷跡が残っている。その中に新幹線の線路が敷かれています。そのこともこのルートに決まった理由のひとつかもしれない。
より大きな地図で 弾丸列車計画の新大阪駅 を表示
(関連記事)
「1. 弾丸列車と新大阪駅」 2012.06.22
「2. 弾丸列車と満鉄あじあ号」 2012.06.27
「3. 新幹線計画と弾丸列車計画の公文書」 2012.07.01
「4. 弾丸列車の新大阪駅と東海道新幹線の新大阪駅」 2012.07.05
「瓦屋根の東淀川駅と中島惣社と崇禅寺」 2012.07.21
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弾丸列車計画と新大阪駅
昭和31年発行の東淀川区史にとても興味深いことが書かれています。
戦前に計画・着工されていた東京・下関間を高速列車で結ぶ「広軌新幹線」、通称「弾丸列車」のことです。

弾丸鉄道について
戦時中鉄道省において弾丸鉄道の計画があり、この実現をみていたら確かに本区の様相も一変していたことと思われる。いまこの計画のあらましを述べると昭和十三年鉄道省企画委員会において、輸送力の拡充ならびに内地・大陸間の交通幹線として、東京・下関間に「広軌新幹線」の敷設が具体化し、昭和十五年の第七十五議会で工費約五億六千万円、十五年度以降十五ヵ年計画として可決された。
本計画による大阪附近の状況を示すと、まず現京都駅より東海道線に沿って南下、大山崎附近より東海道線と淀川の間を淀川沿いに南西進、三島郡鳥飼村を経て当区井高野町に入り、江口町より大道町に至り西転、上新庄・國次町を経て現東淀川駅北側に新大阪駅を設置、さらに三國町・十八條町を横断豊中市庄内町を西へ抜け塚口町の南方を経て六甲山をトンネルで抜け、神戸市の西北平野方面に新神戸駅を設置以下西へ下関に至ることとなっていた。
これによって東京・大阪間の所要時間は四時間三十分、東京・下関間は九時間となる予定であった。しかし戦争の激化に伴い折角の計画も実現を見ぬまま今日に至っているが、最近また本計画が再検討されつつある。
(東淀川区史より)
いかがでしょう。なかなか面白いでしょ。
「最近また本計画が再検討されつつある。」というのは東海道新幹線のことです。
この文章の中で私が特に気になったのは新大阪駅の場所。
東淀川駅の北側ってどのあたりなんでしょう?
で、いろいろ調べていて
偶然見つけてしまいました!

国立公文書館の「大阪都市計画街路中追加変更ノ件」という書類の中の1ページ。昭和18年のものです。

都市計画図の中に新幹線鉄道と計画道路が書き足されている。
中心の四角い部分は新大阪駅前広場、右側の菱形に塗られた部分は新幹線貨物駅と思われます。

凡例です。原本はカラーなのでしょう。

新大阪駅前広場の下に東淀川駅が確認できます。
新幹線鉄道の左側にあるバツ印は、その下に記されていた大道庄内線の廃止を意味しています。

現在の地図に落とし込むとこの辺りでしょうか。

昭和14年の地図に落とし込んでみました。
周辺に住宅地がまだ少なかった事がわかる。

さらに、昭和17年の地図にも落とし込んでみました。
戦時中だからでしょうか、宮原操車場が記されていません。

計画路線の下にはまっすぐな道路が記されていました。
ただ、この道路は当時できていないはずの大道庄内線のようです。
その他にも実際にはできていない計画中の道路がいくつも確認できる。
ちょっと不思議な地図です。

東淀川駅のホームから北側を見てみました。

信号の奥が新大阪駅の計画地の辺りでしょうか。

その下には大きな道路ができています。

庄内新庄線です。この先は地下鉄東三国駅。

地下鉄東三国駅の西の先で行き止まりになっている道路です。
これが旧大道庄内線なのではと思ったのですが、どうも違うみたい。
大道庄内線は蒲田神社の北側を走るのですが、この道路は南側。
この道路が弾丸列車の計画予定地だと思ったのですが違うようです。

最後に、国土地理院の昭和23年(1948)の空中写真に落とし込んでみました。
これが一番リアリティがある。
(追記)
現新大阪の東側のルートは水路(中嶋大水道)に沿ったルートになりましたが、この空撮をみて思ったのですが、新大阪駅の東側は空襲の被害が大きかった地域でもあります。この写真にもその傷跡が残っている。その中に新幹線の線路が敷かれています。そのこともこのルートに決まった理由のひとつかもしれない。
より大きな地図で 弾丸列車計画の新大阪駅 を表示
(関連記事)
「1. 弾丸列車と新大阪駅」 2012.06.22
「2. 弾丸列車と満鉄あじあ号」 2012.06.27
「3. 新幹線計画と弾丸列車計画の公文書」 2012.07.01
「4. 弾丸列車の新大阪駅と東海道新幹線の新大阪駅」 2012.07.05
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コメント
古澤 | URL | -
都市計画要鑑
興味深い話題が多く、楽しく拝見しています。ありがとうございます。
『都市計画要鑑』という書籍があるのですが、もうご存知でしょうか。
大正11年と昭和2年における内務省による全国の都市計画がまとめられています。大阪に関する詳細な都市計画案が記述されており、計画図もあります。
ご参考になれば幸いです。
( 2012年06月22日 08:43 )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
弾丸列車
この言葉知っています 父が話していました
戦中戦後と塚口にいましたので 塚口の南側を通るというルートのことを父は聞いていたのかもしれませんね
ずいぶんと早い段階で東海道新幹線 山陽新幹線とほぼ同じものを計画していたのですね
当時はSLの時代だと思うのですが・・すごいですね
( 2012年06月22日 13:52 [Edit] )
こじやん | URL | -
以前、TV番組であの道路は新幹線(弾丸列車?)の予定地だったと
いうのを見た記憶があります。
道路の東端は阪急下新庄駅の南側で新幹線と分岐しているように
なっています。
( 2012年06月22日 17:16 )
とぅなんて | URL | -
大阪時分を思い出しつつ、楽しく拝見しています。
今住んでいる東京もですが、戦前の都市計画は今よりも理想が強く出ていて、眺めているだけで楽しくなります。今後色々出てきそうで、すごく楽しみです。
ちなみに大道庄内線ですが、地図で見た道路形状からすると、淡路中学校西側の交差点と東三国駅の北側にある、東西で道路がずれている交差点を結ぶ意図があるように見えます。特に、東三国駅北側の交差点は、隠れた都計線が訴えかけてくるようです。
( 2012年06月23日 02:35 )
kazu | URL | -
弾丸列車
弾丸列車が出来てたら淡路小 淡路中はなくなってたね。あんな所を通る計画があったんやね すごい発見やな
( 2012年06月23日 12:32 )
そむにうむ@森山弘樹 | URL | obYDgEv2
そういえば欧米では新幹線のことを"Bullet Train"(弾丸列車)と呼んでいますね。
日本では遠の昔に無くなった言葉ですが、外国では生き残っているという不思議な現象です。(^^)
( 2012年06月26日 09:24 [Edit] )
| URL | -
1948年頃の…
新大阪駅周辺の風景を撮った写真って無いんでしょうか?
地図を見る限り、長閑な田園地帯であったとは推測できますが…
( 2012年06月26日 23:10 )
新之介 | URL | sDz630us
古澤さん
「都市計画要鑑」はgoogle booksでちらっと見れました。計画図はとても興味があります。いろいろ探してみます。ありがとうございます。
TOSSYさん
当時、新聞でも大きく取り上げていたようなので
お父様もそれを見られたのかもしれませんね。
こんどはその新聞記事等も探してみたいです。
こじやんさん
実は私もちらっとだけ見てあの道がひっかかっておりました。
もっとちゃんと見ておけばよかった。
ただ、当時どこまで土地を買収していたかという記録は
なかなか出てきませんでした。
それが見つかればもっと正確なことがわかるのですが…
とぅなんてさん
大道庄内線は私も興味深く見ております。
この延長線上はいまの山手幹線線とつながっていると思います。
ただ、以前記事に書きましたが庄本でいまでも道路が途切れている。
庄本地区の方々の土地は売らないという心意気。
それも個人的にはとてもいいなあと思っております。
矛盾しているかもしれませんが…
kazuさん
おもしろいですよね。
これがもし出来ていたらいまの新幹線がどうなっていたのでしょう。
普通に蒸気機関車から電車に進化していたのかもしれないですけど
きっともっと新幹線の登場は遅れたでしょうね。
そむにうむ@森山弘樹さん
そうなんですか。
それは面白い!
1948年頃の航空写真はあります。
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=USA&courseno=M18-4&photono=21
田園風家が広がってますね。
( 2012年07月09日 12:38 [Edit] )
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