2012年04月03日 07:30
京街道を歩く(42)
京橋口~八軒家~高麗橋

明治18年測量の地図です。

現在の地図と重ねると

このようになる。

筋鉄門跡です。

筋状の鉄板で補強された門扉があったのだとか。
「大阪市100年」より

大阪砲兵工廠時代の写真です。これが筋鉄門だと思います。

この建物は便所だったと資料には記されていました。
便所だけではなかったかもしれませんが。
(関連記事)「大阪砲兵工廠って?」 2009.01.31

旧化学分析場の建物です。

前の堀の向こうに大阪城が見える。

ここが京橋口。

さて、京街道を歩いていきます。
ここは日本経済新聞の裏道です。

何やら石垣がある。

1620年の大阪城再築の頃のものらしい。

少し歩くとふたたび石垣が。

これは豊臣時代の石垣のようです。

三の丸の石垣なのだとか。地中にあったものを移築しています。

さて、

OMMビルを通りすぎて

天満橋交差点です。谷町筋が隆起していますね。上町台地の先端部です。

八軒家浜です。

昔の八軒家浜の船着場はここではなく少し南側にありました。

こちらのお店の前に石碑があります。

八軒家船着場の跡の碑。

元船着場があった場所は、こちらの少し斜め前あたりだと思われます。※3枚目の地図参照
「淀川両岸一覧」より

船着場の左奥に描かれている道が気になるな。

ここに「八軒家の今昔」という冊子がおいてある。

浪花百景などの版画も多く載っていてとても参考になりますよ。

横にある駐車場。後ろの石積みが高低差を表している。

その横にある石の階段。ここも上町大地の先端ですね。
この道が「淀川両岸一覧」に描かれていた道ではないでしょうか。

角にある木造の建物。

次の筋は熊野街道、この辺りが起点になります。

どこまで行けるかわからないが一度歩いてみたいな。

アスファルトが敷かれる前はどういう道だったのだろう。。

天神橋です。

地味だが天神橋橋暦碑というのがある。

地味に皇紀二千六百年記念の石碑もある。

どうでもいいことなのですが、石碑のてっぺんの穴から木がはえているのです。

天神橋からの眺め。

大林ビルと

旧大林組本社ビルのルポンドシエルビル。

意匠が素敵ですよね。

大林ビルの隣の敷地で発掘調査が行われていました。

何があった場所なんだろう。

さて、高麗橋です。

高麗橋 こうらいばし
東横堀川は大阪城築城のとき外堀として改修されたといわれる。高麗橋はそのころにかけられたらしく現在大阪城天守閣に保存されている慶長9年(1604)の銘のある鉄製擬宝珠(ぎぼし)はこの橋のものと伝えられている。
江戸時代の高麗橋は幕府管理の12公儀橋の中でも格式高く、西詰に幕府の御触書を掲示する制札場があったほか諸方への距離をはかる起点にもなっていた。
明治3年(1870)9月大阪最初の鉄橋にかけかえられ、さらに昭和4年(1929)6月に現在の鉄筋コンクリートアーチ橋にかわった。欄干の擬宝珠や西詰にあった櫓屋敷(やぐらやしき)を模した柱は昔の面影をしのぶよすがとなっている。
昭和51年春 大阪市

擬宝珠のレプリカです。

慶長九年 甲辰 八月吉日 と刻まれている。

現在の橋のデザインは西詰にあった櫓屋敷を模している。
「ふるさとの想い出写真集 大阪」より

写真に写っているのが櫓屋敷です。

柴島浄水場の水道記念館にあった高麗橋の模型。
当時、西詰に制札場(高札場)があったことがわかる。

明治時代、東詰に里程元標(りていげんぴょう)が置かれ、西日本主要道路の距離計算はここを起点として行われていました。京街道・中国街道・紀州街道などがそれです。
ここがこのシリーズの終着点でもあります。
さて、昨年の9月の守口から歩き始めた「京街道を歩く」シリーズは一旦ここで終了いたします。最後までお付き合いありがとうございました。京街道は新しい発見があってとても面白かったです。
さて、次はどこを歩きましょうか…
より大きな地図で 新之介の京街道 を表示
(守口~京橋~高麗橋)
42.京街道を歩く・高麗橋
41.京街道を歩く・京橋
40.京街道を歩く・関目・野江
39.京街道を歩く・土居・今市・森小路
38.京街道を歩く・守口~京橋の地図
(守口~京へ)
1.京街道を歩く・守口の文禄堤
2.京街道を歩く・難宗寺・盛泉寺
3.京街道を歩く・一里塚・専教寺・正迎寺
4.京街道を歩く・八坂瓊神社・大庭七番
5.京街道を歩く・大日村
6.京街道を歩く・大庭五番・大庭二番村
7.京街道を歩く・大庭一番・佐太天神宮
8.京街道を歩く・来迎寺と松
9.京街道を歩く・仁和寺村
10.京街道を歩く・点野・茨田樋遺跡
11.京街道を歩く・太間・茨田堤の碑
12.京街道を歩く・河内名所図絵
13.京街道を歩く・木屋・鞆呂岐神社
14.京街道を歩く・出口
15.京街道を歩く・出口・光善寺
16.京街道を歩く・枚方宿
17.京街道を歩く・枚方宿・鍵屋
18.京街道を歩く・枚方宿・万年寺跡
19.京街道を歩く・淀川両岸一覧・枚方駅
20.京街道を歩く・枚方宿・岡・岡新町
21.京街道を歩く・天ノ川・磯島
22.京街道を歩く・渚の院・御殿山神社
23.京街道を歩く・三栗・阪・片埜神社
24.京街道を歩く・下島・上島・樋之上
25.京街道を歩く・樟葉
26.京街道を歩く・樟葉宮旧跡・交野天神社
27.京街道を歩く・樟葉台場跡・久修園院
28.京街道を歩く・橋本
29.京街道を歩く・橋本~御幸橋
30.京街道を歩く・石清水八幡宮
31.京街道を歩く・美豆・淀
32.京街道を歩く・淀城跡・淀納所
33.京街道を歩く・富森・横大路
34.京街道を歩く・下鳥羽・月の桂
35.京街道を歩く・鳥羽伏見の戦いと下鳥羽
36.京街道を歩く・上鳥羽
37.京街道を歩く・東寺
ポチッと、応援よろしく♪
京橋口~八軒家~高麗橋

明治18年測量の地図です。

現在の地図と重ねると

このようになる。

筋鉄門跡です。

筋状の鉄板で補強された門扉があったのだとか。
「大阪市100年」より

大阪砲兵工廠時代の写真です。これが筋鉄門だと思います。

この建物は便所だったと資料には記されていました。
便所だけではなかったかもしれませんが。
(関連記事)「大阪砲兵工廠って?」 2009.01.31

旧化学分析場の建物です。

前の堀の向こうに大阪城が見える。

ここが京橋口。

さて、京街道を歩いていきます。
ここは日本経済新聞の裏道です。

何やら石垣がある。

1620年の大阪城再築の頃のものらしい。

少し歩くとふたたび石垣が。

これは豊臣時代の石垣のようです。

三の丸の石垣なのだとか。地中にあったものを移築しています。

さて、

OMMビルを通りすぎて

天満橋交差点です。谷町筋が隆起していますね。上町台地の先端部です。

八軒家浜です。

昔の八軒家浜の船着場はここではなく少し南側にありました。

こちらのお店の前に石碑があります。

八軒家船着場の跡の碑。

元船着場があった場所は、こちらの少し斜め前あたりだと思われます。※3枚目の地図参照
「淀川両岸一覧」より

船着場の左奥に描かれている道が気になるな。

ここに「八軒家の今昔」という冊子がおいてある。

浪花百景などの版画も多く載っていてとても参考になりますよ。

横にある駐車場。後ろの石積みが高低差を表している。

その横にある石の階段。ここも上町大地の先端ですね。
この道が「淀川両岸一覧」に描かれていた道ではないでしょうか。

角にある木造の建物。

次の筋は熊野街道、この辺りが起点になります。

どこまで行けるかわからないが一度歩いてみたいな。

アスファルトが敷かれる前はどういう道だったのだろう。。

天神橋です。

地味だが天神橋橋暦碑というのがある。

地味に皇紀二千六百年記念の石碑もある。

どうでもいいことなのですが、石碑のてっぺんの穴から木がはえているのです。

天神橋からの眺め。

大林ビルと

旧大林組本社ビルのルポンドシエルビル。

意匠が素敵ですよね。

大林ビルの隣の敷地で発掘調査が行われていました。

何があった場所なんだろう。

さて、高麗橋です。

高麗橋 こうらいばし
東横堀川は大阪城築城のとき外堀として改修されたといわれる。高麗橋はそのころにかけられたらしく現在大阪城天守閣に保存されている慶長9年(1604)の銘のある鉄製擬宝珠(ぎぼし)はこの橋のものと伝えられている。
江戸時代の高麗橋は幕府管理の12公儀橋の中でも格式高く、西詰に幕府の御触書を掲示する制札場があったほか諸方への距離をはかる起点にもなっていた。
明治3年(1870)9月大阪最初の鉄橋にかけかえられ、さらに昭和4年(1929)6月に現在の鉄筋コンクリートアーチ橋にかわった。欄干の擬宝珠や西詰にあった櫓屋敷(やぐらやしき)を模した柱は昔の面影をしのぶよすがとなっている。
昭和51年春 大阪市

擬宝珠のレプリカです。

慶長九年 甲辰 八月吉日 と刻まれている。

現在の橋のデザインは西詰にあった櫓屋敷を模している。
「ふるさとの想い出写真集 大阪」より

写真に写っているのが櫓屋敷です。

柴島浄水場の水道記念館にあった高麗橋の模型。
当時、西詰に制札場(高札場)があったことがわかる。

明治時代、東詰に里程元標(りていげんぴょう)が置かれ、西日本主要道路の距離計算はここを起点として行われていました。京街道・中国街道・紀州街道などがそれです。
ここがこのシリーズの終着点でもあります。
さて、昨年の9月の守口から歩き始めた「京街道を歩く」シリーズは一旦ここで終了いたします。最後までお付き合いありがとうございました。京街道は新しい発見があってとても面白かったです。
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(守口~京橋~高麗橋)
42.京街道を歩く・高麗橋
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(守口~京へ)
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2.京街道を歩く・難宗寺・盛泉寺
3.京街道を歩く・一里塚・専教寺・正迎寺
4.京街道を歩く・八坂瓊神社・大庭七番
5.京街道を歩く・大日村
6.京街道を歩く・大庭五番・大庭二番村
7.京街道を歩く・大庭一番・佐太天神宮
8.京街道を歩く・来迎寺と松
9.京街道を歩く・仁和寺村
10.京街道を歩く・点野・茨田樋遺跡
11.京街道を歩く・太間・茨田堤の碑
12.京街道を歩く・河内名所図絵
13.京街道を歩く・木屋・鞆呂岐神社
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コメント
kotaro | URL | 8nGiSIKA
大作お疲れ様でした
西国街道の続きから読み始めて、新しい発見もありました。
また見慣れた風景のすこしずつの変化を感じました。
京街道の主要宿=京阪電車の駅という重なりも、意外とこれまで気づきませんでした。
これまで新聞などでこのような企画記事を連載すると、たいてい地元の歴史研究家の方で、文化に詳しい高齢の人の見方というのが中心で、新之介さんの昭和後半世代的なアイはなかなか新鮮でした。
30年後、50年後にこの風景は、どう変化して、僕らの孫子の世代でこういう取り組みを希望する人がいるのか。
この「連載」がひとつのまとまったものとして残されて、散逸しないと良いなと改めて思いました。
( 2012年04月03日 07:49 [Edit] )
murasan | URL | ZErUy3uw
貴重な資料です
やっと高麗橋へ,大変興味深く読ませていただきました。
何か自分が全行程を歩いたかのようにも思えるほど詳細な記述。
地図と写真がすばらしく,ブログの上で楽しく京街道を歩くことができました。ありがとうございました。
( 2012年04月03日 10:57 [Edit] )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
お疲れ様 ありがとう
長い旅 お疲れさまでした 今回の場所は おなじみの場所 何度もうろうろしていますが いかに自分がたっだボ~とうろうろしていたかがわかります 高麗橋三越は無くなったけれど ちゃんと橋があるのですね 天神橋橋詰の石碑の木 どこから生えているかも気付かず いつも誰かに「信号が変わったから はよおいでよ」なんて言われながら写真写していました
柴島浄水場も行ったのに 高麗橋の模型 気がつきませんでした そもそもミニチュア模型 あったかしら・・
次は・・・期待しています
( 2012年04月03日 13:58 [Edit] )
そむにうむ@森山弘樹 | URL | obYDgEv2
ゴールインお疲れ様でした
京街道は慣れ親しんだ地元を通る街道で、
国道1号を始め利用する機会が多かったので
興味深く拝見させて頂きました。
毎回様々な発見があるだけでなく、
郷土史を考える上で貴重な資料が記録されているのではないかと思います。
このような貴重な資料を拝見できることを感謝しますと共に、今回の偉業を讃えさせて頂きたいと思います。
ありがとうございます。
(^^)
( 2012年04月04日 09:36 [Edit] )
天舞楽 | URL | gIeP/mjA
筋鉄門跡近くの廃屋
以前から拝見していますが、特に大阪城、砲兵工廠に関心がありますので、初めてコメントさせて頂きます。
筋鉄門跡近くの廃屋は、お持ちの資料の「大阪陸軍造兵廠全図」には便所と記していますが、当局作成の全図ではないので恐らく錯誤ではないかと存じます。
全図中に「城東線(現、大阪環状線)」と記しているので早くても昭和36年以後の作成でしょうか。
ただし、これは大阪陸軍造兵廠の唯一の全図と存じますので貴重なものに違いありません。
便所と断定されていないように謎の廃屋ですが、崩壊の危険にあるのが残念でなりません。
( 2012年04月04日 14:49 [Edit] )
びんみん | URL | j549y3BY
新之介さん、こんばんは。
京街道の旅、お疲れさまでした。
ゴールで見慣れた景色に戻ってきて、という感じです。
ほとんどコメントできなかったのですが、京街道を歩くときには改めて読み返したいと思います。
ほんと次はどこなのでしょう。
( 2012年04月05日 01:24 [Edit] )
Empizzo | URL | X/aoCwEI
ウエブ講座
で新之介教授の講義を聴く聴講生のような気持ちになります。
素晴らしい継続と精緻な記述。
すばらしいですね。
大阪城の古い石垣は江戸時代とは違うワイルドさを感じます。
古き大坂を実際に歩きたい:そんなかなわぬ夢を
こちらでなによりもふさわしく心地よいひも解きでかなわせてくれる、
そんな場所ですね。
( 2012年04月05日 23:33 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
kotaroさん
ありがとうございます。
まち歩きは歩く人によって見方が変わりますよね。
私は下調べをせずに旧地図を頼りに歩く今のスタイルがやはり好きです。
たまに重要な物を見過ごすこともあるのですが発見も多い。
近いうちに、次にあるく予定の地域の旧地図を調べに行こうと思っています。
murasanさん
ありがとうございます。
また歩きますよ~!
TOSSYさん
いつもありがとうございます。
高麗橋の模型、隅っこの方にあったんですよ ^^
そむにうむ@森山弘樹さん
偉業ですか…^^;
でもうれしいです。
ありがとうございます!
天舞楽さん
便所の件、あの記事はかなり前に書いたので
私も本当に便所だったのだろうかと思っています。
明治中期の大阪砲兵工廠の表門の写真の後ろにも写っていますよね。
http://blog-imgs-41.fc2.com/a/t/a/atamatote/hou_003.jpg
当時は守衛詰所などではなかったのかと思います。
ただ、戦時中は老朽化などで守衛詰所としては使われず
物置場的な使われ方だったのではないでしょうか。
便所は昔からあったと思われるので
そう記されたのではないかと想像しています。
いまは崩壊寸前ですね。
私も気になっています。
びんみんさん
ありがとうございます。
次はどこにしましょyか ^^
Empizzoさん
教授ですか ^^;
私のブログは写真は多いのですが実はテキスト量が少ない ^^;
興味をもってもらうきっかけづくりになればな~と思っています。
歩いてから図書館で調べることも多いです。
ネットで調べてもわからないことが
図書館へ行けばいろいろわかる。
図書館ってやっぱりすごいな~と
いまさらながら感心しております。
( 2012年04月16日 23:24 [Edit] )
天舞楽 | URL | gIeP/mjA
「表門近くの収容所」
新之介さん、こんにちは
ご存知のように明治時代の写真の左には守衛詰所があるので、今の廃屋は詰所ではなかったと存じます。
「大阪陸軍造兵廠全図」が転載されている本を見ると、廠内には空襲に備える救護所・防空壕等があったことが分かります。また、その本には廃屋になる前の建物らしい記述が一箇所だけあります。
OBの方の手記で「無我夢中で重傷者を表門近くの収容所に運びました」と書かれています。私は現存する廃屋が戦時中には収容所であったと推察します。その収容所は救護所のことではないでしょうか。
なお、私も新築時から廃屋に便所室があったと存じますが、便所専用に模様替えされていないようなのに便所と記した同全図に疑問が残ります。
( 2012年04月22日 10:52 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
天舞楽さん
明治時代も左に守衛詰所があるのですか。
知りませんでした。
戦時中は収容所であったのではというのも興味深いです。
あの廃屋を調べていくのもなかなか面白いかもですね。
私も何か資料を見つけた時に調べてみたいと思います。
( 2012年04月30日 21:58 [Edit] )
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