2012年02月16日 08:00
京街道を歩く(35)
鳥羽伏見の戦いと下鳥羽
1年半に渡って繰り広げられた史上最大の内戦、戊辰(ぼしん)戦争は鳥羽伏見の戦いから始まりました。幕末にこの地で何が起こったのか、簡単にまとめてみます。
【背景】「大政奉還」「王政復古の大号令」の後、薩摩藩が加わる新政府は徳川慶喜(よしのぶ)に旧幕府領の明け渡し等を求める「辞官納地」を要求。これに応じるわけにはいかない慶喜は、二条城から大坂城に入城し引きこもってしまいます。そこで、薩摩藩の西郷隆盛は江戸で破壊工作を行わせ徳川家を刺激する陽動作戦を決行。結果、我慢しきれなくなった旧幕府方は薩摩藩邸を焼き討ちにします。大坂にもその情報が入り、城内は一気に沸き返り、慶喜も京都を牛耳る薩摩を討伐する決意を固め、数千の軍を京都へ出兵さすことになるのです。
「図解幕末戊辰西南戦争」より

【慶應4年(1867)1月3日】淀で宿営した旧幕軍は淀小橋を渡り鳥羽街道を北上する隊と伏見へ向かう隊のふた手に分かれます。鳥羽街道を北上した隊は小枝橋の南、赤池付近で薩摩兵と遭遇。押し問答の末、薩摩兵の大砲が火を噴く。これが戊辰戦争の始まりです。その砲弾は旧幕軍の大砲に命中、その爆発で旧幕軍は大混乱に陥ります。
伏見でもその砲声を合図に戦端が開かれます。この時、旧幕軍と合流した新撰組も加わっており、指揮は土方歳三がとっていました。死闘の結果、旧幕軍が拠点にしていた奉行所が焼かれ、大半が淀まで退くことになります。余談ですが坂本龍馬はこの1ヶ月半前の慶應3年11月15日に暗殺されています。
「図解幕末戊辰西南戦争」より

【1月4日】下鳥羽で旧幕軍は酒樽を積み上げ陣地を作り薩長軍に抵抗していましたが、伏見からの薩摩兵に側面を突かれ南へ撤退。伏見でも睨み合いが続いていましたが、旧幕軍の部隊間での連絡ミスが作戦ミスを招き旧幕軍は敗走することになります。
「図解幕末戊辰西南戦争」より

【1月5日】富森まで下がった旧幕軍は、狭い地形に構築した陣地を有効に使い、薩長軍を食い止めます。しかし小銃突撃に突破され淀城に入って体勢を整えようとしますが、淀藩から拒絶され八幡へ撤退。同じ頃、伏見方面でも千両松で激戦がありましたが薩長軍が制し淀を占領しました。
「図解幕末戊辰西南戦争」より

【1月6日】旧幕軍は男山の麓に陣地を設けます。しかし、前日までに仁和寺宮嘉彰(にんなじのみやよしあき)親王の征討(せいとう)総督就任と錦旗(きんき)出現があり、薩長軍は「官軍」となり、旧幕軍は「朝敵」とされました。これにより、山崎を守護する津藩藤堂家が寝返り、対岸の旧幕軍に砲弾を撃ち込みます。旧幕軍は混乱し、八幡から橋本へ落ち、さらに守口を経て大坂まで逃げ帰ったのです。
「歴史人・幕末維新の真実」より

これは1月5日、千両松での激戦の絵です。手前左に旧幕軍、右は長州軍。上部には淀城と淀小橋が描かれている。
さて、

明治22年測量の地図。

現在の地図と重ねると

このようになる。

「月の桂」の続きです。

すぐに寺がありました。

常高寺。

今出川菊亭右大臣鳥羽殿跡の碑。

浅井長政の菩提寺だそうです。

本殿は外から見えなかった。

街道はゆるくカーブ。

なにやら茅葺きの山門が見えてきた。

戀塚寺(恋塚寺)。境内には恋塚と呼ばれる袈裟御前の墓と伝えられる石塔があるようです。

今回は中に入らず先を急ぎます。

街道から少し下がった所に地蔵尊が祀られている。

こちらではたくさんのお地蔵さんがお化粧をしてもらっていますね。

ここにも愛宕灯籠がありました。

先で街道がカーブしている。

このあたり、

古そうな家が

ぽつぽつ

残っています。

いい感じだ。

さて、ここは千本通赤池交差点。
鳥羽伏見の戦いで最初に火ぶたが切られた辺りです。

ここにも愛宕灯籠がありました。

まっすぐ進みます。

地蔵尊の横を通り、

広いグラウンドが現れた。

史跡鳥羽殿跡の石碑と解説版が。

鳥羽離宮南殿があった場所のようですね。
現在は鳥羽離宮跡公園になっています。

また何かありましたよ。

鳥羽・伏見方面戦闘図。
これを見ると下鳥羽、富森、納所、淀などかなりの広範囲で家々が消失したことがわかります。どうりで古い建物があまり残っていない訳です。

公園内にある鳥羽伏見戦跡碑。

さて、街道の突き当たりです。
ここに道標がある。「左り京」

なんかいっぱいあるな。

鳥羽伏見の戦い 勃発の地。

鳥羽伏見戦跡の碑。

近くにまたまた愛宕灯籠がありました。

鳥羽街道(京街道)はここを西へ曲がる。

昔はすぐに小枝橋があったのですが、現代の小枝橋は少し位置が変わっています。

この橋を渡り上鳥羽へ向かいます。
より大きな地図で 新之介の京街道 を表示
(守口~京橋~高麗橋)
42.京街道を歩く・高麗橋
41.京街道を歩く・京橋
40.京街道を歩く・関目・野江
39.京街道を歩く・土居・今市・森小路
38.京街道を歩く・守口~京橋の地図
(守口~京へ)
1.京街道を歩く・守口の文禄堤
2.京街道を歩く・難宗寺・盛泉寺
3.京街道を歩く・一里塚・専教寺・正迎寺
4.京街道を歩く・八坂瓊神社・大庭七番
5.京街道を歩く・大日村
6.京街道を歩く・大庭五番・大庭二番村
7.京街道を歩く・大庭一番・佐太天神宮
8.京街道を歩く・来迎寺と松
9.京街道を歩く・仁和寺村
10.京街道を歩く・点野・茨田樋遺跡
11.京街道を歩く・太間・茨田堤の碑
12.京街道を歩く・河内名所図絵
13.京街道を歩く・木屋・鞆呂岐神社
14.京街道を歩く・出口
15.京街道を歩く・出口・光善寺
16.京街道を歩く・枚方宿
17.京街道を歩く・枚方宿・鍵屋
18.京街道を歩く・枚方宿・万年寺跡
19.京街道を歩く・淀川両岸一覧・枚方駅
20.京街道を歩く・枚方宿・岡・岡新町
21.京街道を歩く・天ノ川・磯島
22.京街道を歩く・渚の院・御殿山神社
23.京街道を歩く・三栗・阪・片埜神社
24.京街道を歩く・下島・上島・樋之上
25.京街道を歩く・樟葉
26.京街道を歩く・樟葉宮旧跡・交野天神社
27.京街道を歩く・樟葉台場跡・久修園院
28.京街道を歩く・橋本
29.京街道を歩く・橋本~御幸橋
30.京街道を歩く・石清水八幡宮
31.京街道を歩く・美豆・淀
32.京街道を歩く・淀城跡・淀納所
33.京街道を歩く・富森・横大路
34.京街道を歩く・下鳥羽・月の桂
35.京街道を歩く・鳥羽伏見の戦いと下鳥羽
36.京街道を歩く・上鳥羽
37.京街道を歩く・東寺
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鳥羽伏見の戦いと下鳥羽
1年半に渡って繰り広げられた史上最大の内戦、戊辰(ぼしん)戦争は鳥羽伏見の戦いから始まりました。幕末にこの地で何が起こったのか、簡単にまとめてみます。
【背景】「大政奉還」「王政復古の大号令」の後、薩摩藩が加わる新政府は徳川慶喜(よしのぶ)に旧幕府領の明け渡し等を求める「辞官納地」を要求。これに応じるわけにはいかない慶喜は、二条城から大坂城に入城し引きこもってしまいます。そこで、薩摩藩の西郷隆盛は江戸で破壊工作を行わせ徳川家を刺激する陽動作戦を決行。結果、我慢しきれなくなった旧幕府方は薩摩藩邸を焼き討ちにします。大坂にもその情報が入り、城内は一気に沸き返り、慶喜も京都を牛耳る薩摩を討伐する決意を固め、数千の軍を京都へ出兵さすことになるのです。
「図解幕末戊辰西南戦争」より

【慶應4年(1867)1月3日】淀で宿営した旧幕軍は淀小橋を渡り鳥羽街道を北上する隊と伏見へ向かう隊のふた手に分かれます。鳥羽街道を北上した隊は小枝橋の南、赤池付近で薩摩兵と遭遇。押し問答の末、薩摩兵の大砲が火を噴く。これが戊辰戦争の始まりです。その砲弾は旧幕軍の大砲に命中、その爆発で旧幕軍は大混乱に陥ります。
伏見でもその砲声を合図に戦端が開かれます。この時、旧幕軍と合流した新撰組も加わっており、指揮は土方歳三がとっていました。死闘の結果、旧幕軍が拠点にしていた奉行所が焼かれ、大半が淀まで退くことになります。余談ですが坂本龍馬はこの1ヶ月半前の慶應3年11月15日に暗殺されています。
「図解幕末戊辰西南戦争」より

【1月4日】下鳥羽で旧幕軍は酒樽を積み上げ陣地を作り薩長軍に抵抗していましたが、伏見からの薩摩兵に側面を突かれ南へ撤退。伏見でも睨み合いが続いていましたが、旧幕軍の部隊間での連絡ミスが作戦ミスを招き旧幕軍は敗走することになります。
「図解幕末戊辰西南戦争」より

【1月5日】富森まで下がった旧幕軍は、狭い地形に構築した陣地を有効に使い、薩長軍を食い止めます。しかし小銃突撃に突破され淀城に入って体勢を整えようとしますが、淀藩から拒絶され八幡へ撤退。同じ頃、伏見方面でも千両松で激戦がありましたが薩長軍が制し淀を占領しました。
「図解幕末戊辰西南戦争」より

【1月6日】旧幕軍は男山の麓に陣地を設けます。しかし、前日までに仁和寺宮嘉彰(にんなじのみやよしあき)親王の征討(せいとう)総督就任と錦旗(きんき)出現があり、薩長軍は「官軍」となり、旧幕軍は「朝敵」とされました。これにより、山崎を守護する津藩藤堂家が寝返り、対岸の旧幕軍に砲弾を撃ち込みます。旧幕軍は混乱し、八幡から橋本へ落ち、さらに守口を経て大坂まで逃げ帰ったのです。
「歴史人・幕末維新の真実」より

これは1月5日、千両松での激戦の絵です。手前左に旧幕軍、右は長州軍。上部には淀城と淀小橋が描かれている。
さて、

明治22年測量の地図。

現在の地図と重ねると

このようになる。

「月の桂」の続きです。

すぐに寺がありました。

常高寺。

今出川菊亭右大臣鳥羽殿跡の碑。

浅井長政の菩提寺だそうです。

本殿は外から見えなかった。

街道はゆるくカーブ。

なにやら茅葺きの山門が見えてきた。

戀塚寺(恋塚寺)。境内には恋塚と呼ばれる袈裟御前の墓と伝えられる石塔があるようです。

今回は中に入らず先を急ぎます。

街道から少し下がった所に地蔵尊が祀られている。

こちらではたくさんのお地蔵さんがお化粧をしてもらっていますね。

ここにも愛宕灯籠がありました。

先で街道がカーブしている。

このあたり、

古そうな家が

ぽつぽつ

残っています。

いい感じだ。

さて、ここは千本通赤池交差点。
鳥羽伏見の戦いで最初に火ぶたが切られた辺りです。

ここにも愛宕灯籠がありました。

まっすぐ進みます。

地蔵尊の横を通り、

広いグラウンドが現れた。

史跡鳥羽殿跡の石碑と解説版が。

鳥羽離宮南殿があった場所のようですね。
現在は鳥羽離宮跡公園になっています。

また何かありましたよ。

鳥羽・伏見方面戦闘図。
これを見ると下鳥羽、富森、納所、淀などかなりの広範囲で家々が消失したことがわかります。どうりで古い建物があまり残っていない訳です。

公園内にある鳥羽伏見戦跡碑。

さて、街道の突き当たりです。
ここに道標がある。「左り京」

なんかいっぱいあるな。

鳥羽伏見の戦い 勃発の地。

鳥羽伏見戦跡の碑。

近くにまたまた愛宕灯籠がありました。

鳥羽街道(京街道)はここを西へ曲がる。

昔はすぐに小枝橋があったのですが、現代の小枝橋は少し位置が変わっています。

この橋を渡り上鳥羽へ向かいます。
より大きな地図で 新之介の京街道 を表示
(守口~京橋~高麗橋)
42.京街道を歩く・高麗橋
41.京街道を歩く・京橋
40.京街道を歩く・関目・野江
39.京街道を歩く・土居・今市・森小路
38.京街道を歩く・守口~京橋の地図
(守口~京へ)
1.京街道を歩く・守口の文禄堤
2.京街道を歩く・難宗寺・盛泉寺
3.京街道を歩く・一里塚・専教寺・正迎寺
4.京街道を歩く・八坂瓊神社・大庭七番
5.京街道を歩く・大日村
6.京街道を歩く・大庭五番・大庭二番村
7.京街道を歩く・大庭一番・佐太天神宮
8.京街道を歩く・来迎寺と松
9.京街道を歩く・仁和寺村
10.京街道を歩く・点野・茨田樋遺跡
11.京街道を歩く・太間・茨田堤の碑
12.京街道を歩く・河内名所図絵
13.京街道を歩く・木屋・鞆呂岐神社
14.京街道を歩く・出口
15.京街道を歩く・出口・光善寺
16.京街道を歩く・枚方宿
17.京街道を歩く・枚方宿・鍵屋
18.京街道を歩く・枚方宿・万年寺跡
19.京街道を歩く・淀川両岸一覧・枚方駅
20.京街道を歩く・枚方宿・岡・岡新町
21.京街道を歩く・天ノ川・磯島
22.京街道を歩く・渚の院・御殿山神社
23.京街道を歩く・三栗・阪・片埜神社
24.京街道を歩く・下島・上島・樋之上
25.京街道を歩く・樟葉
26.京街道を歩く・樟葉宮旧跡・交野天神社
27.京街道を歩く・樟葉台場跡・久修園院
28.京街道を歩く・橋本
29.京街道を歩く・橋本~御幸橋
30.京街道を歩く・石清水八幡宮
31.京街道を歩く・美豆・淀
32.京街道を歩く・淀城跡・淀納所
33.京街道を歩く・富森・横大路
34.京街道を歩く・下鳥羽・月の桂
35.京街道を歩く・鳥羽伏見の戦いと下鳥羽
36.京街道を歩く・上鳥羽
37.京街道を歩く・東寺
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コメント
| URL | X/aoCwEI
悲しい戦争ですね。
追い落とされる側というのは洋の東西を問わず、
戦いを挑みながらも敗退していくわけですね。
徳川慶喜の時代からはるか以前にどの将軍がこのような幕府の戦いを想像できたでしょうか。
日常的にあまり考えもしない1868年という年の近さと遠さを実感させるワークに敬意を表します。
( 2012年02月19日 11:27 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
この街道を歩いたのがきっかけで
戊辰戦争の本を初めて読みました。
戦争というと、日露戦争以前のことは
かなり遠い昔のことという印象を持っていましたが
おっしゃるように時代の近さを実感しています。
こんな内戦がこんな身近な場所であったとは…
いろいろ考えさせられた街道歩きになりました。
( 2012年02月26日 21:58 [Edit] )
Hiro 京都 | URL | HfMzn2gY
鳥羽伏見の戦いの場所
感動、そして興奮して拝見させていただきました
ありがとうございました
フェイスブックに
リンクさせていただきました。
( 2013年02月28日 06:14 [Edit] )
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