このエントリーをはてなブックマークに追加

忘れられた塚本の八阪神社

2007年12月02日 12:00

忘れられた塚本の八阪神社

塚本には古来八阪神社という由緒ある神社があり、住民の尊崇を集めていました。しかし明治42年、中津町の利島(とじま)神社(明治43年に富島神社に改称)に合祀されなくなってしまいます。

続きを読む前に <人気ブログランキング> をクリックお願いします。

八阪神社が無くなった後、塚本には富島神社の御旅所が設けられました。夏祭りには、ご神霊を移す渡御(とぎょ)が営まれていました。渡御は神輿を担いだ行列が淀川を橋で渡り、成小路と塚本にある御旅所へ行き、また富島神社の戻っていくというものです。当時は青年団20~30人で神輿を担いでいたようですが、あまりの重さに十三大橋の途中で神輿をおいて帰ったというエピソードもあったとか。行列の先頭は神宮が猿田彦の面をかぶり馬に乗っていたといいます。盛大なお渡りで大いに賑わいました。神輿には大きなものと子供の神輿があり、行列の衣装もみなそろえていたそうです。そんなお祭りも、戦争によって中断されなくなってしまいました。
現在の塚本神社は昭和38年に、富島神社から独立したものです(9/18のブログを参照ください)。現在の塚本神社には八坂神社の遺構はなにもありません。記念碑があるだけです。ただし、富島神社の西側の鳥居に八坂神社の鳥居が残されているということです。

お渡りイラスト
「思い出の十三 イラストマップ」
お渡りの様子が描かれています。お神輿を担いだ一行がこれから十三大橋を渡っていきます。

お渡りイラスト2
「思い出の十三 イラストマップ」
十三側のイラスト。成小路の御旅所の前を馬に乗った神宮さんが歩いています。こちらは、富島神社にもどるのでしょうか。本来は馬に乗った神宮さんと神輿を担いだ一行が行列を成して富島神社と成小路、塚本の御旅所を往復していたのだと思われます。

八坂2007
現在の地図(Googleマップより)
八阪神社のあった場所です。墓地とお寺は昔から位置が変わっていませんので、古地図との位置合わせの参考です。

八坂1929
昭和4年の地図。八阪神社の敷地の大きさがよく分かります。ただし、神社の地図記号がありません。

八坂1909
明治43年の地図。浄圓寺は大正8年にこの地に移転してきますのでまだありません。赤の矢印は下の写真の撮影場所の参考です。

八坂の森
(中津町史より)大阪府立修徳館の写真。右側に見える森が八阪神社の森です。残されている写真で唯一、八阪神社の一部が写った貴重な写真です。資料をいろいろ探しましたが、八阪神社の写真は皆無です。

塚本村絵図
塚本墓地にある塚本村の絵図。明治38年頃の塚本村が忠実に描かれています。村から神社がなくなるということは村民にとって辛いことだったのだと思います。

塚本村
昔の塚本村のまわりは、一面田んぼでした。

八坂神社イラスト
塚本村の絵図のアップ。八阪神社の様子がわかる唯一の資料です。鳥居と獅子・狛犬、灯篭が描かれています。

鳥居
富島神社の残されている八阪神社の鳥居。歴史を感じさす風格があります。

左
左側にある吽形(うんぎょう)と灯篭。これも八阪神社のだと思います。

右
右側の「阿形(あぎょう)」と灯篭。奥にある石棺のようなものが謎です。何なんでしょうか。八阪神社にあったものなのか、そうでないのかわかりません。

P1060326.jpg
塚本神社。普段は静かですが、7月19日と20日は夏祭りで賑やかになります。大晦日も地元の人たちが列をなして参拝にこられます。子供らが七五三でお世話になりました。私自身も七五三は塚本神社でした。




ブログランキング・にほんブログ村へ  ←ここにも参加しています。クリックお願いします。



スポンサーサイト


コメント

  1. | URL | mXJ0wlpU

    塚本神社

    塚本神社の前の道 よく通ります(現在)
    土曜日も通りました
    月一回のイベントに参加のために高校へ行くのに いろいろな道を通っていくのです
    塚本は 古いものも残っているおもしろい町ですね
    土曜日は いつも道の門で店を出している包丁とぎのおじさんとお話をしました

    絵地図の永井メリヤス 気になります
    昭和30年代 三津屋にあったと思います
    年末になると母は 家族みんなの下着を買いに行きました
    普段は小売をしないのが年末には 売出しをしたのでしょう
    その後 その場所は確か大澤商会になったのだと思いますが 間違っているかもしれません
    子供だったので 名前しか覚えていません

  2. 新之介 | URL | -

    永井メリヤス

    T様
    書かれているとおり、三津屋にあった永井メリヤスと同じ会社です。東淀川区史をみると、十三にあった頃は全国でも有数のメリヤス工場で、国からも表彰されるほどだったようです。戦争で工場が消失し、三津屋に移ったと書かれています。
    包丁とぎのおじさんは私もよく見かけます。塚本駅の近くのお風呂屋さんのところではないですか。塚本駅周辺はスーパーが数件あり、値段も安いらしく、遠くから(自転車で来れる距離)も買い物に来られる主婦の方が多いと聞きます。おじさんは主婦の集まる場所をよくご存知ですね(笑)。

  3. TOSSY | URL | mXJ0wlpU

    永井メリヤス

    戦災で焼けて三津屋に来たのですか
    両親は 戦前は 十三南之町2丁目100 と言うところにすんでいたようです その後 花川町に移っています
    2丁目100ってどこでしょう?

    そのころから永井メリヤスのことは知っていたのでしょうね

    包丁とぎのおじさんは 風呂屋のそばの角で毎週土曜日だそうです

    絵地図を見て せつめいをよんでいると 次から次へとわすれていたことが 思い出されてきます
    頭の中で眠っていた記憶が日の目を見ることができました

    ありがとうございます

  4. 新之介 | URL | -

    十三南之町2丁目

    TOSSY様
    「頭の中で眠っていた記憶が日の目を見ることができました」
    これほどのお褒めの言葉はありません。
    励みになります。ありがとうございます。
    さて、ご両親がお住まいだった十三南之町2丁目100ですが、番地の詳細まで書かれた地図が残っていません(以前から探しているのです…)。戦後区画整理がされたので、当時と現在では道路がかなり変わってしまっています。大雑把にいいますと、現在の新北野中学から新北野コーポまでの縦長の区画が十三南之町2丁目になります。円稱寺が2丁目52、黙照禅寺が2丁目41でした。100は新北野コーポの辺りだったのかもしれません。地図が見つかったらお知らせいたします。これからもよろしくお願いいたします。

  5. TOSSY | URL | mXJ0wlpU

    ありがとうございます

    父も母もすでに死んでいて そのころのことは誰も知りません
    北中は あったようです レンガの校舎の横を のぼりを立てて出征していく父の写真が残っています
    13年に花川町に移っています
    小学校の近くだと聞いています
    そこは20年の空襲でやけたそうです

    なぜこんなに詳しく知っているかと言うと 昨年ちょっと 古い戸籍が必要になりまして 取り寄せたのですが 旧戸籍は 今は 簡単に取れるものではないので コピーしておいたのです

    それで番地までわかっています

  6. 新之介 | URL | -

    出征

    TOSSY様
    お父様の出征の写真のコメントを読んで、どういうコメントを書けばいいかわからず返事が遅れてしまいました。ごめんなさい。
    書籍や映像で出征のシーンを何度か見たことがありますが、
    ご本人や家族、近所の人などの思いが複雑で、なんともいえない思いになります。
    戦争を知らない私たちは幸せな時代を生きているのだと思います。

  7. TOSSY | URL | mXJ0wlpU

    いえいえ

    父は戦争でなくなったわけではなく 家も空襲になる前 19年に大阪を離れ 住んでいる家を戦火で焼かれることもなく 当時としては 恵まれたほうだったらしいですよ

  8. 新之介 | URL | -

    失礼いたしました。

    TOSSY様
    失礼いたしました。
    つい、「出征」という言葉に過敏に反応しすぎました。m(_ _)m
    でも「出征」という言葉は重たい言葉ですね。

コメントの投稿

(コメント編集・削除に必要)
(管理者にだけ表示を許可する)

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://atamatote.blog119.fc2.com/tb.php/64-323db18a
この記事へのトラックバック