2011年10月20日 08:00
京街道を歩く(11)
太間と茨田堤の碑
今回は太間(たいま)を歩きます。
太間も難解な読み方ですね。太間地域にはとても重要な伝承が残っています。衫子絶間(ころものこ たえま)の話。日本書紀に書かれているのだから凄い。
日本書紀・仁徳天皇十一年冬十月の条です。
十一年夏四月戊寅朔甲午 詔群臣曰 今朕視是國者 郊澤曠遠 而田圃少乏 且河水横逝 以流末不□ 聊逢霖雨 海潮逆上 而巷里乘船 道路亦泥 故群臣共視之 決横源而通海 塞逆流以全田宅 冬十月 掘宮北之郊原 引南水以入西海 因以號其水曰堀江 又將防北河之澇 以築茨田堤 是時 有兩處之築而乃壞之難塞 時天皇夢 有神誨之曰 武藏人強頸 河内人茨田連衫子 【衫子 此云莒呂母能古】 二人 以祭於河伯 必獲塞 則覓二人而得之 因以 祷于河神 爰強頸泣悲之 沒水而死 乃其堤成焉 唯衫子取全匏兩箇 臨于難塞水 乃取兩箇匏 投於水中 請之曰 河神崇之 以吾爲幣 是以 令吾來也 必欲得我者 沈是匏而不令泛 則吾知眞神 親入水中 若不得沈匏者 自知僞神 何徒亡吾身 於是 飄風忽起 引匏 沒水 匏轉浪上而不沈 則瀚々汎以遠流 是以 衫子雖不死 而其堤且成也 是因衫子之幹 其身非亡耳 故時人號其兩處 曰強頸斷間 衫子斷間也 是歳 新羅人朝貢 則勞於是役 (古代史獺祭より)
知らん漢字ばっかりだ…
簡単に要約すると、日本で最初といわれる茨田堤(まんだのつつみ)は実に難工事で、築いても2ヶ所が決壊してしまう。ある日天皇の夢の中に神が現れて「武蔵国の強頸(こわくび)と、河内国の茨田連衫子(まんだのむらじころもこ)を人柱として河の神に捧げれば堤はできる」と告げる。強頸は泣く泣く人柱になる。一方の衫子は「2つのひさご(瓢箪)を持ってきた。お告げが真の神であるならば、このひさごを沈めてみよ。もしも浮いて流れるのなら偽りの神、私は人柱にならない」といい、ひさごを川へ投げたが沈むこともなく流れていった。衫子は人柱にならずに堤は完成した。その堤が強頸絶間(こわくびたえま)と衫子絶間(ころものこたえま)で、衫子絶間がこの地域だといわれています。絶間とは決壊場所のこと。その絶間(たえま)が太間(たいま)になったというのが地名の由来だそうです。
かなり長い説明になってしまった。

明治19年測量の地図です。

現在の地図と重ねると

こうなる。

で、絶間橋です。

その袂に赤丸ポストがあった。

あの森に向かいます。

太間天満宮。

森の中に社殿がひっそり鎮座している。

菅原道真公と茨田連衫子を祀っているようです。

なんか落ち着く場所。

古そうな狛犬。先代のものでしょう。

さて、うろうろ散策していきましょうか。

斜向かいには寺がある。

浄土真宗 西正寺。

この日は植木屋さんが境内の木の剪定をしていました。

ちょっとお邪魔します。

こちらが本堂ですね。

これは立派な蔵だ。屋根が段々になっている。

この坂を登ると京街道と繋がりますが、

まずは、東西に伸びるこのメインストリートを西へ行ってみます。

いい町並みが残っています。

蔵も多く残っている。

西の端から東方面を見たところ。

階段があったので上ってみます。

細い道に出てきた。左側は淀川の土手です。
この道が旧京街道っぽいですね。左の土手は新しく築かれたもので、京街道はその上に移りました。

祠がある。

お地蔵さんが祀られています。

ここにも立派な蔵がある。

さらに歩くとまた蔵があった。
この蔵は基礎の石が段々になっていますね。
段蔵と呼ばれるものです。

水害の時は上の蔵に物を移すのだそうです。

江戸時代は道幅がもう少し広かったでしょう。

街道沿いには松並木があったとも聞きます。

屋根の連なりがとてもいいですね。

少し歩くと大きな松の木がありました。
昔の松並木の名残でしょうか。

その向かいに「茨田堤(まんたのつつみ)」の石碑があります。
横に説明文があったようですが草ぼうぼうで気づきませんでした。

さて、次回は木屋村を歩きます。
(おまけ)

なかなか素晴らしい張り紙を見つけた。
「地域の皆さん、児童・生徒の登下校時に、買い物、玄関の掃除、ジョギング、ご近所の井戸端会議などを兼ねて、チョット家の外に出て子ども達を地域の目と心で守っていただきますようご協力お願いします。」
イラストは不審者を撃退しているイメージですね ^^
より大きな地図で 新之介の京街道 を表示
(守口~京橋~高麗橋)
42.京街道を歩く・高麗橋
41.京街道を歩く・京橋
40.京街道を歩く・関目・野江
39.京街道を歩く・土居・今市・森小路
38.京街道を歩く・守口~京橋の地図
(守口~京へ)
1.京街道を歩く・守口の文禄堤
2.京街道を歩く・難宗寺・盛泉寺
3.京街道を歩く・一里塚・専教寺・正迎寺
4.京街道を歩く・八坂瓊神社・大庭七番
5.京街道を歩く・大日村
6.京街道を歩く・大庭五番・大庭二番村
7.京街道を歩く・大庭一番・佐太天神宮
8.京街道を歩く・来迎寺と松
9.京街道を歩く・仁和寺村
10.京街道を歩く・点野・茨田樋遺跡
11.京街道を歩く・太間・茨田堤の碑
12.京街道を歩く・河内名所図絵
13.京街道を歩く・木屋・鞆呂岐神社
14.京街道を歩く・出口
15.京街道を歩く・出口・光善寺
16.京街道を歩く・枚方宿
17.京街道を歩く・枚方宿・鍵屋
18.京街道を歩く・枚方宿・万年寺跡
19.京街道を歩く・淀川両岸一覧・枚方駅
20.京街道を歩く・枚方宿・岡・岡新町
21.京街道を歩く・天ノ川・磯島
22.京街道を歩く・渚の院・御殿山神社
23.京街道を歩く・三栗・阪・片埜神社
24.京街道を歩く・下島・上島・樋之上
25.京街道を歩く・樟葉
26.京街道を歩く・樟葉宮旧跡・交野天神社
27.京街道を歩く・樟葉台場跡・久修園院
28.京街道を歩く・橋本
29.京街道を歩く・橋本~御幸橋
30.京街道を歩く・石清水八幡宮
31.京街道を歩く・美豆・淀
32.京街道を歩く・淀城跡・淀納所
33.京街道を歩く・富森・横大路
34.京街道を歩く・下鳥羽・月の桂
35.京街道を歩く・鳥羽伏見の戦いと下鳥羽
36.京街道を歩く・上鳥羽
37.京街道を歩く・東寺
ポチッと、応援よろしく♪
太間と茨田堤の碑
今回は太間(たいま)を歩きます。
太間も難解な読み方ですね。太間地域にはとても重要な伝承が残っています。衫子絶間(ころものこ たえま)の話。日本書紀に書かれているのだから凄い。
日本書紀・仁徳天皇十一年冬十月の条です。
十一年夏四月戊寅朔甲午 詔群臣曰 今朕視是國者 郊澤曠遠 而田圃少乏 且河水横逝 以流末不□ 聊逢霖雨 海潮逆上 而巷里乘船 道路亦泥 故群臣共視之 決横源而通海 塞逆流以全田宅 冬十月 掘宮北之郊原 引南水以入西海 因以號其水曰堀江 又將防北河之澇 以築茨田堤 是時 有兩處之築而乃壞之難塞 時天皇夢 有神誨之曰 武藏人強頸 河内人茨田連衫子 【衫子 此云莒呂母能古】 二人 以祭於河伯 必獲塞 則覓二人而得之 因以 祷于河神 爰強頸泣悲之 沒水而死 乃其堤成焉 唯衫子取全匏兩箇 臨于難塞水 乃取兩箇匏 投於水中 請之曰 河神崇之 以吾爲幣 是以 令吾來也 必欲得我者 沈是匏而不令泛 則吾知眞神 親入水中 若不得沈匏者 自知僞神 何徒亡吾身 於是 飄風忽起 引匏 沒水 匏轉浪上而不沈 則瀚々汎以遠流 是以 衫子雖不死 而其堤且成也 是因衫子之幹 其身非亡耳 故時人號其兩處 曰強頸斷間 衫子斷間也 是歳 新羅人朝貢 則勞於是役 (古代史獺祭より)
知らん漢字ばっかりだ…
簡単に要約すると、日本で最初といわれる茨田堤(まんだのつつみ)は実に難工事で、築いても2ヶ所が決壊してしまう。ある日天皇の夢の中に神が現れて「武蔵国の強頸(こわくび)と、河内国の茨田連衫子(まんだのむらじころもこ)を人柱として河の神に捧げれば堤はできる」と告げる。強頸は泣く泣く人柱になる。一方の衫子は「2つのひさご(瓢箪)を持ってきた。お告げが真の神であるならば、このひさごを沈めてみよ。もしも浮いて流れるのなら偽りの神、私は人柱にならない」といい、ひさごを川へ投げたが沈むこともなく流れていった。衫子は人柱にならずに堤は完成した。その堤が強頸絶間(こわくびたえま)と衫子絶間(ころものこたえま)で、衫子絶間がこの地域だといわれています。絶間とは決壊場所のこと。その絶間(たえま)が太間(たいま)になったというのが地名の由来だそうです。
かなり長い説明になってしまった。

明治19年測量の地図です。

現在の地図と重ねると

こうなる。

で、絶間橋です。

その袂に赤丸ポストがあった。

あの森に向かいます。

太間天満宮。

森の中に社殿がひっそり鎮座している。

菅原道真公と茨田連衫子を祀っているようです。

なんか落ち着く場所。

古そうな狛犬。先代のものでしょう。

さて、うろうろ散策していきましょうか。

斜向かいには寺がある。

浄土真宗 西正寺。

この日は植木屋さんが境内の木の剪定をしていました。

ちょっとお邪魔します。

こちらが本堂ですね。

これは立派な蔵だ。屋根が段々になっている。

この坂を登ると京街道と繋がりますが、

まずは、東西に伸びるこのメインストリートを西へ行ってみます。

いい町並みが残っています。

蔵も多く残っている。

西の端から東方面を見たところ。

階段があったので上ってみます。

細い道に出てきた。左側は淀川の土手です。
この道が旧京街道っぽいですね。左の土手は新しく築かれたもので、京街道はその上に移りました。

祠がある。

お地蔵さんが祀られています。

ここにも立派な蔵がある。

さらに歩くとまた蔵があった。
この蔵は基礎の石が段々になっていますね。
段蔵と呼ばれるものです。

水害の時は上の蔵に物を移すのだそうです。

江戸時代は道幅がもう少し広かったでしょう。

街道沿いには松並木があったとも聞きます。

屋根の連なりがとてもいいですね。

少し歩くと大きな松の木がありました。
昔の松並木の名残でしょうか。

その向かいに「茨田堤(まんたのつつみ)」の石碑があります。
横に説明文があったようですが草ぼうぼうで気づきませんでした。

さて、次回は木屋村を歩きます。
(おまけ)

なかなか素晴らしい張り紙を見つけた。
「地域の皆さん、児童・生徒の登下校時に、買い物、玄関の掃除、ジョギング、ご近所の井戸端会議などを兼ねて、チョット家の外に出て子ども達を地域の目と心で守っていただきますようご協力お願いします。」
イラストは不審者を撃退しているイメージですね ^^
より大きな地図で 新之介の京街道 を表示
(守口~京橋~高麗橋)
42.京街道を歩く・高麗橋
41.京街道を歩く・京橋
40.京街道を歩く・関目・野江
39.京街道を歩く・土居・今市・森小路
38.京街道を歩く・守口~京橋の地図
(守口~京へ)
1.京街道を歩く・守口の文禄堤
2.京街道を歩く・難宗寺・盛泉寺
3.京街道を歩く・一里塚・専教寺・正迎寺
4.京街道を歩く・八坂瓊神社・大庭七番
5.京街道を歩く・大日村
6.京街道を歩く・大庭五番・大庭二番村
7.京街道を歩く・大庭一番・佐太天神宮
8.京街道を歩く・来迎寺と松
9.京街道を歩く・仁和寺村
10.京街道を歩く・点野・茨田樋遺跡
11.京街道を歩く・太間・茨田堤の碑
12.京街道を歩く・河内名所図絵
13.京街道を歩く・木屋・鞆呂岐神社
14.京街道を歩く・出口
15.京街道を歩く・出口・光善寺
16.京街道を歩く・枚方宿
17.京街道を歩く・枚方宿・鍵屋
18.京街道を歩く・枚方宿・万年寺跡
19.京街道を歩く・淀川両岸一覧・枚方駅
20.京街道を歩く・枚方宿・岡・岡新町
21.京街道を歩く・天ノ川・磯島
22.京街道を歩く・渚の院・御殿山神社
23.京街道を歩く・三栗・阪・片埜神社
24.京街道を歩く・下島・上島・樋之上
25.京街道を歩く・樟葉
26.京街道を歩く・樟葉宮旧跡・交野天神社
27.京街道を歩く・樟葉台場跡・久修園院
28.京街道を歩く・橋本
29.京街道を歩く・橋本~御幸橋
30.京街道を歩く・石清水八幡宮
31.京街道を歩く・美豆・淀
32.京街道を歩く・淀城跡・淀納所
33.京街道を歩く・富森・横大路
34.京街道を歩く・下鳥羽・月の桂
35.京街道を歩く・鳥羽伏見の戦いと下鳥羽
36.京街道を歩く・上鳥羽
37.京街道を歩く・東寺
ポチッと、応援よろしく♪

スポンサーサイト
コメント
コメントの投稿