2011年09月01日 08:00
巨樹巡礼 その7
枯死から復活
靭公園・永代浜の楠

大阪市西区の靱公園の角にある大きな楠。

楠永大神、楠玉大神として祀られているご神木。

樹齢は約300年。
昔は天然記念物であったようだが戦災で焼けただれたらしい。

ほとんど枯死(こし)していた上、戦後、現在の靱公園を進駐軍が小型飛行場にする際、切り倒される運命だったという。

しかし、硬くて切り倒せず枝のみを取り払ったため、
のちに木が蘇生し、現在の姿に復活したのだそうだ。

白蛇(巳さん)のたたりを進駐軍が認めて伐採を中止したという話も残っている。

楠の裏(表?)には楠永神社がある。
元々この地には住吉神社が祀られていたようで、御霊神社の旧跡ともいわれている由緒ある場所。

御霊宮旧跡の碑。

こちらは靭延命地蔵尊。

永代濱(えいたいはま)跡の碑もある。

こちらにも。
「靱公園のこの付近一帯は江戸時代以来昆布、塩干魚、鰹節などの海産物の市場として靭の中心となしていた。これらの商人が荷揚げの便をよくするために寛永元年(1624)海部堀川を開削し、阿波堀川とこの川をつなぐ永代堀の屈折点を永代浜と称し、海産物の荷揚浜として賑わった。」

靭海産物市場跡。

江戸時代のはじめ、北浜にあった海産物の市場が移転し、元和8年(1622)干物などを扱う市場がこちらに移ってきたとある。
で、
いったい永代浜ってどんなとこだったんだろう?
って思いますよね。
私も気になったので調べてみました。
まずは位置確認。

明治18年測量の地図です。
永代浜の雁木(がんぎ)と上海部橋(上之橋)、永代橋も確認できる。赤い印は楠の推定位置です。

大阪市パノラマ地図です。大正12年頃の永代浜が描かれている。
上之橋の袂に大きな木が確認できますね。

現在の地図と重ねてみます。
大阪の都心部は戦後の道路拡張で旧地図と重ねるのがかなり困難。ほぼこんな感じでしょうか。

堀の位置はこんな感じ。
現場にはそれらしい遺構はまったくありません。

航空写真です。
次に絵図で確認。

摂津名所図会の永代濱です。
右手に鮮魚も確認できますが、荷揚げされている物はほとんど梱包されている。乾物なんでしょうね。
永代浜(浪花百景)の拡大

浪花百景の永代浜です。手前は上之橋、右にちらっと見えるのが永代橋、奥に描かれている大屋根は北御堂でしょうか。
(関連サイト)【 錦絵にみる大阪の風景 】
最後は写真で。
「わがまち今昔じまん」より

撮影時期は不明ですが明治時代っぽい。
舟こそ写っていませんが荷揚げされた様子がよくわかる貴重な写真だ。
「ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 大阪」より

これはさらに新しい写真かも。
手前のポールは電信柱のようです。奥にもそれが確認できる。
電気が普及していた時代のようですね。
「埋もれた西区の川と橋」より

上之橋が架け変わっています。
それにしても、昔の楠の方が大きいように思える。
おそらく現在の楠は地盤沈下で沈んだ分を盛土しているのかもしれない。
それも2メートルくらいは。

どうでしょう。
これだけ変化した土地も珍しいかもしれませんね。
その中で、約300年間ずっとこの地に根を下ろしている
この楠は凄いかも!と思いだしてきました。
調べる前は巨樹とは言いにくい樹だなぁと思っていたのですが
調べていくうちに愛着がわいてきてしまった。
もしかしたら大阪再生のシンボルにふさわしい樹かもしれないな。
より大きな地図で 大阪の巨樹 を表示
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枯死から復活
靭公園・永代浜の楠

大阪市西区の靱公園の角にある大きな楠。

楠永大神、楠玉大神として祀られているご神木。

樹齢は約300年。
昔は天然記念物であったようだが戦災で焼けただれたらしい。

ほとんど枯死(こし)していた上、戦後、現在の靱公園を進駐軍が小型飛行場にする際、切り倒される運命だったという。

しかし、硬くて切り倒せず枝のみを取り払ったため、
のちに木が蘇生し、現在の姿に復活したのだそうだ。

白蛇(巳さん)のたたりを進駐軍が認めて伐採を中止したという話も残っている。

楠の裏(表?)には楠永神社がある。
元々この地には住吉神社が祀られていたようで、御霊神社の旧跡ともいわれている由緒ある場所。

御霊宮旧跡の碑。

こちらは靭延命地蔵尊。

永代濱(えいたいはま)跡の碑もある。

こちらにも。
「靱公園のこの付近一帯は江戸時代以来昆布、塩干魚、鰹節などの海産物の市場として靭の中心となしていた。これらの商人が荷揚げの便をよくするために寛永元年(1624)海部堀川を開削し、阿波堀川とこの川をつなぐ永代堀の屈折点を永代浜と称し、海産物の荷揚浜として賑わった。」

靭海産物市場跡。

江戸時代のはじめ、北浜にあった海産物の市場が移転し、元和8年(1622)干物などを扱う市場がこちらに移ってきたとある。
で、
いったい永代浜ってどんなとこだったんだろう?
って思いますよね。
私も気になったので調べてみました。
まずは位置確認。

明治18年測量の地図です。
永代浜の雁木(がんぎ)と上海部橋(上之橋)、永代橋も確認できる。赤い印は楠の推定位置です。

大阪市パノラマ地図です。大正12年頃の永代浜が描かれている。
上之橋の袂に大きな木が確認できますね。

現在の地図と重ねてみます。
大阪の都心部は戦後の道路拡張で旧地図と重ねるのがかなり困難。ほぼこんな感じでしょうか。

堀の位置はこんな感じ。
現場にはそれらしい遺構はまったくありません。

航空写真です。
次に絵図で確認。

摂津名所図会の永代濱です。
右手に鮮魚も確認できますが、荷揚げされている物はほとんど梱包されている。乾物なんでしょうね。
永代浜(浪花百景)の拡大

浪花百景の永代浜です。手前は上之橋、右にちらっと見えるのが永代橋、奥に描かれている大屋根は北御堂でしょうか。
(関連サイト)【 錦絵にみる大阪の風景 】
最後は写真で。
「わがまち今昔じまん」より

撮影時期は不明ですが明治時代っぽい。
舟こそ写っていませんが荷揚げされた様子がよくわかる貴重な写真だ。
「ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 大阪」より

これはさらに新しい写真かも。
手前のポールは電信柱のようです。奥にもそれが確認できる。
電気が普及していた時代のようですね。
「埋もれた西区の川と橋」より

上之橋が架け変わっています。
それにしても、昔の楠の方が大きいように思える。
おそらく現在の楠は地盤沈下で沈んだ分を盛土しているのかもしれない。
それも2メートルくらいは。

どうでしょう。
これだけ変化した土地も珍しいかもしれませんね。
その中で、約300年間ずっとこの地に根を下ろしている
この楠は凄いかも!と思いだしてきました。
調べる前は巨樹とは言いにくい樹だなぁと思っていたのですが
調べていくうちに愛着がわいてきてしまった。
もしかしたら大阪再生のシンボルにふさわしい樹かもしれないな。
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コメント
ゴリモン | URL | Vlv9gDmU
近くに通勤していた事もあってとても馴染みのある風景です。
この楠、大阪市パノラマ地図にも描かれていたんですね。
幹に残っているのは、切り落とそうとした傷だとか。ほんまかなあ?
( 2011年09月01日 08:48 [Edit] )
Wa! | URL | aRQmiz5I
凄いですね!!
新之介さん、
いつもながら凄い調査力ですね。
ここの前はよく通っていますが、そんな歴史があることは初めて知りました。
父の実家が昔この辺りで商売をしていたらしいです。舟で運ぶ商品だった様なので「永代浜」のことを聞いて納得しました。
ちなみに父の実家は倒産しましたけど。
( 2011年09月01日 09:56 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
ゴリモンさん
幹に傷があるとは知らなかった。
こんど見ときます!
この近くに通勤していた時代の話も聞いてみたいな… ^^
Wa! さん
お父様の実家がこの辺りですか。
すごいですね。
資料を探していけばその会社のことが出てくるかも。
区画がかなり変わってしまった場所ですが
調べればとても奥が深い地域。
時間があればぜひ中央図書館へ ^^;
( 2011年09月01日 23:40 [Edit] )
Wa! | URL | aRQmiz5I
新之介さん、
どうもありがとうございます。
中央図書館で調べたことがありますが、よー見つけませんでした。
古い地図は建物に名前書いてませんよね?
( 2011年09月02日 16:56 [Edit] )
Empizzo | URL | X/aoCwEI
時代をさかのぼることができないけれど
以前からタイムマシンに乗って、明治の大阪をデジカメぶら下げて歩きまわりたいなどとバカげた妄想をしている私でした。
しかし、今回お示しされた大正・明治の地図や図会の表現力には
あらためて脱帽です。
それも新之介さんのデジカメによる活写と地図との照合・検証で
そのことがわかりました。
あえて言いますれば“old”ながら正しい描写と“21世紀“の理性の
コラボレーションでわかる大阪の「変容と過去の存在感」。
それらを新之介のご実践から勉強させていただくことができる、そんな風に思いました。
残念ながら「摂津名所図会」ではわずかに左の画面外にこの楠がそびえているのですね。
明治の「図会」で上之橋のすぐ西(楠の南側すぐ)も「濱」状の傾斜が見られますね。
それが大正のパノラマや写真では蔵みたいなものが堀の直近まで建てられて「濱」の形状は見てとれなくなっていますね。
それにしてもこの楠の下で待ち合わせしたであろう、
明治の男女の声が聞こえるような気がします。
もちろん、荷揚げの威勢のよい男たちの熱が橋から見下ろせたであろうなどとも・・。
そして、後世の埋め立てというのはいかばかりかの理由があったにせよ、
【罪】なものだと個人的には思います。
( 2011年09月04日 14:10 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
Wa!さん
中之島図書館には住宅地図があります。
昭和30年代以降であれば突き止められるかもしれません。
それ以前だと難しいかも…
私も子供の頃の地元の住宅地図をコピーして持っています。
個人名も書かれているので懐かしくて面白いです。
お時間のあるときにいかがですか ^ ^
Empizzoさん
嬉し恥ずかしでございます。
ありがとうございます。
私もタイムトラベルをしてみたいものです。
いろいろ調べて昔の土地の形がイメージ出来ると
結構それに近いことが出来るのではと思っています。
いまははっきりとこの場所の土地形状がイメージできているので
もしかしたらタイムトラベルできるかも! ^ ^
( 2011年09月07日 00:26 [Edit] )
| |
承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです
( 2022年06月06日 11:03 )
ゆみこ | URL | 76MSO/UM
貴重な資料の掲載をありがとうございます
新之介さん、初めまして、50代の主婦です。
永代浜跡で検索してこちらへ辿り着きました。
新旧地図の重ね合わせや楠周辺の写真などが掲載されていて感激しています。
私事ですが、先日母の遺品整理の際この辺りの昭和16年頃の地図が出てきました。地図には母の実家(塩干屋)もこの楠の木も載っており、今の靱公園からはどのあたりかと、また、今も枝葉を伸ばす楠に会いに行きたくなり、先日訪ねてきたばかりです。
母から家は戦争で疎開後空襲で焼けてしまったことを聞いていたので、なんとも悲しい気持ちになりましたが、戦前は母がこの楠を見ながら幼稚園や小学校に楽しく通っていたのだろうと想いを馳せることも出来ました。楠のおかげです。
さらに諸々のことを知りたくなり検索を続けてこちらへ辿り着いた次第です。これを機に折を見て中之島図書館へ資料を探しに行きたいと思います。また、母の戦前幼少期の写真などもきちんと整理しようと思いました。
貴重な資料を掲載下さり、ありがとうございました。
最近のblog記事もYoutubeも拝見しました。
「京阪神凸凹地図」や「大阪高低差地形散歩」も面白そうです!これからもっと歴史散歩を満喫したいと思います。
長文失礼いたしました。
ありがとうございました。
( 2022年06月06日 11:06 [Edit] )
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