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消えた中津川 2

2007年11月22日 00:44

消えた中津川 2 塚本篇

塚本地区は淀川改修工事によって、大阪方面へ行くのが非常に不便になった地域です。地続きだったものが、新淀川ができることによって、十三橋を渡るか西成大橋を渡らないと行き来できなくなりました。当時はまだ塚本駅がなかったので、かなりの遠回りです。

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鷺洲町史をみていると、塚本に渡しがあったと書かれています。新淀川の開削が進む中で塚本は新旧の川に挟まれ、一時中ノ島のようになってしまったため、明治35年地元の人たちが新淀川に渡しを設けました。大正7年まであったそうです。当時の塚本は、村の集落(現在の四丁目周辺)以外は、田んぼしかありませんでした。改修工事が完成する明治43年に八阪神社が中津の利島神社(後に富島神社に改称)に合祀されなくなってしまいます。地理的に不便な場所になり、その上村民のよりどころだったであろう八阪神社がなくなってしまいます。塚本の人たちはどういう思いだったのでしょうか。
現在の塚本地域には、中津川の痕跡は皆無です。ただ地図を眺めていると、川の流れていた地域は道がまっすぐで区画がきれいに整っています。たぶん誰かが机上で書いた線がそのまま道路になったのでしょうね。

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明治18年の地図。如来塚がある墓地が村外れの堤防沿いにありました。槲(かしわ)の橋は明治9年に野里村によって架けられましたが、工事に際し対岸の塚本村と協定が結ばれています。橋本体は野里村が施工するが、対岸は塚本村の領地に当たるので、橋台と取付道路は塚本村で行う。その代わり、月のうち1日、11日、21日の三日間は橋賃銭を塚本村が徴収するというものです。

1909.jpg
明治42年の地図。新淀川の堤防に近い辺りから埋め立てが始まっています。新淀川の水量がまだ少なかったのか、川幅が狭いです。

2007_20071121233223.jpg
(Googleマップより)
現在の塚本周辺です。中津川があった辺りの道路は平行線がきれいに引かれています。赤い点は如来塚です。

塚本村
昔の塚本村。(鷺洲町史より)
まわりは田んぼばっかりですね。のどかね風景だったのでしょうね。初夏には蛍が乱舞していたのかもしれません。今の塚本は、カエルもいません。淀川は汽水域なので塩っ辛いです。

如来像
昔の如来塚。(鷺洲町史より)
9/14のブログ(塚本の名前の由来)を参照ください。塚本を昔からずっと見守ってくださっている私たちの大切な宝物です。

P1030872.jpg
今日もきれいなお花が供えられていました。


(追記)
tsukamotomura.jpg
明治30年頃の塚本の旧家 「おおさか100年」より
非常に珍しい写真を見つけました。明治時代の塚本村の写真は貴重です。表門の前には川があり、米俵を積んだ舟が出入りしていたそうです。明治18年の地図を見ると水路が確認できますね。




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