2007年11月20日 23:38
消えた中津川 1 野里篇
今から約100年前に行われた淀川改修工事により、淀川の流路は劇的に変わりました。必要とされなくなった中津川は徐々に埋め立てられ、今では跡形もなく人々に忘れ去られようとしています。野里には中津川があったなごりがわずかに残されています。
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住吉神社の境内に中津川の堤防跡が残されています。境内の東面が少し高くなっています。その盛り上がった部分が堤防の跡のようです。元々、神社の東側は中津川に面しており、神社と中津川の間には大和田街道がはしっていました。大阪と尼崎や西宮を結ぶ近道として整備され、中津川を渡るのに野里の渡しが利用されていました。十三の渡しのひとつ下流の渡しになります。
「摂陽郡談」に「野里済(わたり)」はもう記されています。また「摂津名所図会大成」にも「中津川の下流 野里村にあり この街道は大坂より尼がさきにいたる近道なるがゆへに西国往返の旅人兵庫西の宮尼が崎等の諸商人ことごとくこの渡しを越ゆるにより常に行人間断なく 別けて尼がさきの魚商人飛脚をはじめ西宮兵庫の飛脚諸商人日毎に通行して頗る賑わしき道条なり」とあります。

現在の地図に中津川を重ねてみました。塚本地区が中津川と新淀川に挟まれて中州状態になっています。実際、改修工事の時はこういう状態になって不便だったようです。(現在のマップはGoogleマップより)

(鷺洲町史より)年代が記されていなかったのですが、本の発行が大正14年なのでその時の地図かもしれません。徐々に埋め立てられている様子がわかります。

野里付近のアップです。住吉神社が中津川の堤防沿いにあったことがわかります。

野里の住吉神社の正面です。南から北に向かっています。右の道が大和田街道になります。この向こうに野里の渡しがあります。この道の右側が川でした。

正面の鳥居の奥の木が生い茂っている辺り、土が盛られたように高くなっているのがわかりますでしょうか。

この写真は最初の写真の逆方向から見ているのですが、石垣の向こうがこんもり盛土になっているのがわかります。鳥居は東側にあるもので正面のものではありません。

東側の鳥居の奥。盛土がわかりますでしょうか。でも、どちらにしろ、ちょっと堤防を想像するのは難しいかもしれませんね。

タバコ屋さんの店の前に唐突に置かれた石碑。野里の渡しと槲の橋の跡。まわりにそれらしき面影はまったくありませんでした。散歩するワンちゃんのいい標的になっていました(笑)。

住吉神社の対岸になるところです。ここにも堤防の跡が残されていました。石垣がその跡のようで、左側が中津川になります。大きな木はくろがねもち(モチノキ科)で堤防に自生していたものらしく、平成15年に大阪市が「緑の遺産」として保存樹に指定しました。

この道沿いに中津川が流れていました。
(追記)
参考になるかわかりませんが、この辺りの古い写真をそえておきます。

(鷺洲町史より)
海老江新家の写真です。撮影時期はわかりませんが、鷺洲町史が大正14年発行なのでその時期だと思われます。海老江新家とは、今でいうと花川の辺りです。場所が特定できませんが、堤防から見下ろしている感じですね。手前の堤防らしき所は新淀川の堤防かもしれません。

(鷺洲町史より)
中津川旧堤防とあります。上にある「くろがねもち」の写真の石垣に似ています。ただ少し違う感じもします。でも電柱は同じ場所にありますね。みなさんのご想像にお任せします(笑)
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今から約100年前に行われた淀川改修工事により、淀川の流路は劇的に変わりました。必要とされなくなった中津川は徐々に埋め立てられ、今では跡形もなく人々に忘れ去られようとしています。野里には中津川があったなごりがわずかに残されています。
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住吉神社の境内に中津川の堤防跡が残されています。境内の東面が少し高くなっています。その盛り上がった部分が堤防の跡のようです。元々、神社の東側は中津川に面しており、神社と中津川の間には大和田街道がはしっていました。大阪と尼崎や西宮を結ぶ近道として整備され、中津川を渡るのに野里の渡しが利用されていました。十三の渡しのひとつ下流の渡しになります。
「摂陽郡談」に「野里済(わたり)」はもう記されています。また「摂津名所図会大成」にも「中津川の下流 野里村にあり この街道は大坂より尼がさきにいたる近道なるがゆへに西国往返の旅人兵庫西の宮尼が崎等の諸商人ことごとくこの渡しを越ゆるにより常に行人間断なく 別けて尼がさきの魚商人飛脚をはじめ西宮兵庫の飛脚諸商人日毎に通行して頗る賑わしき道条なり」とあります。

現在の地図に中津川を重ねてみました。塚本地区が中津川と新淀川に挟まれて中州状態になっています。実際、改修工事の時はこういう状態になって不便だったようです。(現在のマップはGoogleマップより)

(鷺洲町史より)年代が記されていなかったのですが、本の発行が大正14年なのでその時の地図かもしれません。徐々に埋め立てられている様子がわかります。

野里付近のアップです。住吉神社が中津川の堤防沿いにあったことがわかります。

野里の住吉神社の正面です。南から北に向かっています。右の道が大和田街道になります。この向こうに野里の渡しがあります。この道の右側が川でした。

正面の鳥居の奥の木が生い茂っている辺り、土が盛られたように高くなっているのがわかりますでしょうか。

この写真は最初の写真の逆方向から見ているのですが、石垣の向こうがこんもり盛土になっているのがわかります。鳥居は東側にあるもので正面のものではありません。

東側の鳥居の奥。盛土がわかりますでしょうか。でも、どちらにしろ、ちょっと堤防を想像するのは難しいかもしれませんね。

タバコ屋さんの店の前に唐突に置かれた石碑。野里の渡しと槲の橋の跡。まわりにそれらしき面影はまったくありませんでした。散歩するワンちゃんのいい標的になっていました(笑)。

住吉神社の対岸になるところです。ここにも堤防の跡が残されていました。石垣がその跡のようで、左側が中津川になります。大きな木はくろがねもち(モチノキ科)で堤防に自生していたものらしく、平成15年に大阪市が「緑の遺産」として保存樹に指定しました。

この道沿いに中津川が流れていました。
(追記)
参考になるかわかりませんが、この辺りの古い写真をそえておきます。

(鷺洲町史より)
海老江新家の写真です。撮影時期はわかりませんが、鷺洲町史が大正14年発行なのでその時期だと思われます。海老江新家とは、今でいうと花川の辺りです。場所が特定できませんが、堤防から見下ろしている感じですね。手前の堤防らしき所は新淀川の堤防かもしれません。

(鷺洲町史より)
中津川旧堤防とあります。上にある「くろがねもち」の写真の石垣に似ています。ただ少し違う感じもします。でも電柱は同じ場所にありますね。みなさんのご想像にお任せします(笑)

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コメント
ゆきひろ | URL | XoxlQHfE
昔は賑わったのでしょうね
この辺りは昨夏、中津川の右岸・左岸であったであろう地域を自転車で走り回りました。
くろがねもちの木がある付近は旧家がまだ残っているので、一所懸命、その姿を記憶に焼き付けたり、住吉神社の境内に失礼して木陰でお茶を飲みながら、昔の街道の賑わいを想像したり。
野里の渡しの石碑は、かつての槲の橋の欄干の礎石の上に立っている、と、あるサイトで見たことがあります。
( 2007年11月20日 20:47 [Edit] )
新之介 | URL | -
昔の賑わい
ゆきひろ様
この辺りはかなり賑わっていたようですね。淀川が出来てからは静かな町になってしまいました。この辺りは家から近いので徒歩で散歩をします。古い旧家が結構残っていますが、新しい家も増えてきました。どんどん町が変わっています。古い家がなくなっていくの仕方がないですが、どこか寂しい気もします。
( 2007年11月21日 00:03 )
ゆきひろ | URL | XoxlQHfE
鼻川神社?
海老江の古写真、興味深く拝見しております。
右奥の木が茂っている所、鳥居があるように見えますが、だとすると鼻川神社なのかな、という気がします。
それに石垣は確かに同じような、違うような...
少女の視線が気になりますね。
いろいろ想像ができて楽しいです。
( 2007年11月21日 20:28 [Edit] )
新之介 | URL | -
鳥居
ゆきひろ様
やはり鳥居に見えましたか。私も同じことを考えました。
ただ、ちょっと違うような感じもするのです…
それと、現在の鼻川神社だとすると、鳥居の角度が違うのです。
…っと、いろいろ想像するのが、楽しいですね。
先日、木川の辺りもうろうろしました。木川篇も考えていますので、またいろいろ教えてください。
( 2007年11月22日 13:43 )
ゆきひろ | URL | XoxlQHfE
今とは違いますね
やっぱり鳥居っぽく見えますよね。
戦前の耕地整理、戦後の戦災復興土地区画整理、道路拡幅など大阪市周辺部ではいろいろな事業が行われてきましたので、それによって鼻川神社も当初とは変わってしまったのかな、と昨日から一人考えて楽しんでおります。
と言うのも、私は鉄道会社で土地関係の仕事をしておりますので、明治時代からの土地の沿革、ということに特に興味を持っているからでしょう。
三津屋に生まれ育ち27年、木川に移り20年、私も地元のことをもっと知りたいですね。
( 2007年11月22日 21:52 [Edit] )
夢一番! | URL | -
野里ね~!
子供の頃はよく遊びに行ったところです。
改めて中津川の河川跡をみて、野里の今昔を知りました。
私は今、佃に住んでます。
佃にも、昔は佃川があり、佃島と蒲島に分かれていたそうです。
川跡、少しわかりにくいですが、
千船駅のすぐ横の高架下あたりは川だったようです。
( 2007年12月07日 23:18 )
新之介 | URL | -
佃
夢一番様
佃も歴史がある地域ですね。
田蓑神社はまだ行ったことがないのですが行きたいと思っています。
調べ物をしているときに、田蓑神社はよく目にします。
東京の佃島はここからきているとも聞いたことがあります。
いつかは調べてみたい地域です。
( 2007年12月08日 22:41 )
muk. | URL | MBk8KdtQ
30年以上知らなかった事実
子供の頃、柏里小学校のすぐ東側住んでいたんですが、自分の住んでいた家が中津川が存在した頃は堤防の中だった事を初めて知りました。
昔の地図と最近の地図の重ねた状態で見るとよくわかりました。ありがとうございます。
( 2010年06月17日 03:15 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
muk.さん
僕も昔は知りませんでした。
学校で習わなかったですもんね。
ただ、祖母からは昔は池があったとか、
湿地帯があったとか聞いていたので、
大人になってからそれらを理解しました。
自分の子供にもたまに話をしますが
まったく無関心のようです。
そんなもんです ^^
( 2010年06月20日 00:45 [Edit] )
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