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十三堤 摘草之図

2007年11月16日 07:00

十三堤 摘草之図

昭和の始め、大阪を研究対象にした郷土研究雑誌『上方』が発行され、反響を呼んでいました。昭和6年から昭和19年まで、延べ151号を発行し、昭和45年に復刻版も発行されました。その表紙の中に十三を題材に描かれた絵がありました。

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十三堤 摘草の図。作者は三世長谷川貞信、江戸時代から五代続く絵師で、現在も五世長谷川貞信さんは上方浮世絵の伝統を受け継ぎ活躍されています。

上方

描かれている絵をみていきますと、場所は十三堤とあります。成小路村の十三の辺り、中津川の堤防と思われます。手前に描かれている4人家族、今でいうピクニックですね。父と娘は向こうからやってくる誰かを呼んでいるようですね。手前の黄色い布にここで摘んだであろう山菜が描かれています。昔から十三堤は、春になると大阪の町中から摘み草をする人が集まり賑わったといわれています。向こうの方に高い塔が見えます。北野の茶屋町にあった凌雲閣です。右の方には大阪駅に向かう蒸気機関車が描かれ、手を振っている人がいます。平和でのどかな春の日常風景ですね。

北野5階
この写真が凌雲閣です(上方より)。明治21年3月に上棟式を行ったとあります。有楽園とも言われ、俗に南の五階、北の九階を称されていました。9層の第1層は約百坪あり広く、四季の花木を植えて人目を楽しませていました。高さは27間(約50メートル)、かなり遠くまで見渡せたのだろうと思います。



(11月18日追記)

5kai_3.jpg
凌雲閣のことは、私も詳しくないのですが、「上方」に南の眺望閣(五階)の表記もあったので、合わせて紹介します。
南地の眺望閣(五階)
難波停車場より今宮神社へ行く途中の東寄りの場所に、明治11年に五層楼が建設された。これが明治期初期の高層建築であろう高さ17間3尺(約31メートル)。頂上より眺望すると西北は淡路島、摂津、播磨の山々が、東南は紀伊及び河内和泉の山々が見渡せたとあります。日本橋の電気街にある五階百貨店の名前はここからきているようです。写真の屋上に人影が見えます。ここまで登れたのですね。下をみると行列が見えます。かなり賑わっていたことが想像できます。



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コメント

  1. ゆきひろ | URL | XoxlQHfE

    身近に感じます

    いつも貴重な資料を掲載していただき、楽しく拝見しております。
    私は明治から昭和30年代までの、そう遠くない歴史が大好きで、
    いつかは大阪の、そういった時代の歴史を調べてみたいと思って
    おりましたところ、新之介様がいつも教えて下さっております。
    本当に感謝いたします。

    今日の画像は大阪庶民の普段の生活を知ることができて楽しいですね。
    ひょっとしたら、このように行楽を楽しむのは決して庶民ではなく、
    ある程度の家柄なのかも知れません。
    そんなことを考えてみるのも楽しいですし、今でも淀川はたくさんの
    人が思い思いに過ごせる貴重な場ですね。

    私の父は子供の頃、茶屋町に住んでいたそうです。
    その頃は既に借家で貧乏生活だったそうですが、その以前はどこかで
    呉服屋をやっており、大正時代の写真を見ると丁稚さんがいて自転車も
    あって、相当な羽振の良さ。
    ですがいろいろあって(道楽が過ぎて、とも)店は潰れてしまいました。

    茶屋町はこれからもどんどん変わっていきますが、父や祖父、そして
    道楽者の曽祖父はどの辺りに住んでいたのかな、と思いながら
    会社の行き帰りに通り過ぎます。

  2. TOSSY | URL | mXJ0wlpU

    凌雲閣

    茶屋町に こんな建物があったのですね
    しりませんでした

    のどかな風景ですね

    私はいま 西宮に住んでいますが 近くに武庫川があります
    土地の古老に聞いたところでは やはり春になるとお弁当を持って出掛けたそうです
    川にいくのでも 「山行き」といったそうです

    こんな光景だったのかなぁと 思いました

  3. 新之介 | URL | -

    大阪庶民

    ゆきひろ様
    いつもコメントありがとうございます。
    たしかに、描かれているのは庶民というより少し裕福な若旦那という感じですね。摘み草だけを楽しむのが庶民なのかもしれませんね。
    茶屋町は変わりました。先日久しぶりに歩いて、あまりの変わり様にびっくりしました。古いものがなくなっていくのをさびしく思うのは私だけではないはずです。

  4. 新之介 | URL | -

    武庫川

    淀川より、武庫川の方が自然が多くて好きです。私は社会人になってすぐに甲子園のアパートに住んでいたので、武庫川へはよく散歩に行っていました。無意識に淀川と比較していましたが、淀川の河川敷(特に下流域)は殺風景になってしまいました。小中学校の頃(昭和40年代~50年代)は、まだ蛇やトカゲがいて自然が残されていたと思います。今は、バッタを見つけるのも手間取ります(笑)

  5. 西岡邦夫 | URL | -

    摘草之図への反応

    茶屋町にあった凌雲閣は何時ごろまであったのでしょう。私がぼんやりしていたのかとんと記憶にないのです。それにしても蒸気機関車が描かれている図の人物の衣装を見ますと、昭和に入る前だと思います。天秤棒をかついでの商売人、図では魚屋さんのように見えますが、私の子供の頃(昭和一桁時代)十三の市営住宅でもこのような行商人はよく見かけました。淀川の堤防へは家族でお弁当をもって行った記憶があります。満潮になると堤防の斜面にかなり近い所まで水面が上るので、大抵堤防の斜面にゴザを敷いていました。現在の河川敷は昔とは違います。
    ゆきひろさんは借家貧乏生活と書いておられますが、戦前は持ち家というのは非常に少なく、サラリーマンや一般のお商売の方も借家が多かったのです。空き家の張り紙をよく見かけました。時代が大きく変わっているのですが、新之介様が次々と昔の歴史を発掘されるご努力に敬服しています。

  6. きっちい | URL | 17ClnxRY

    凌雲閣

    勤め先が茶屋町にあったので凌雲閣があった場所の横の道を歩いてました。
    凌雲閣よりも高い場所にいたことも。
    それでも凌雲閣のほうがずっと見晴らしがよかったんでしょうね。

  7. 新之介 | URL | -

    いつごろまで

    西岡様
    いつもありがとうございます。
    凌雲閣がいつごろまであったかは、明治末までとか昭和初期まであったとかで正確なことはわかりませんでした。でも、西岡さんの推測の「蒸気機関車が描かれている図の人物の衣装を見ますと、昭和に入る前だと思います。」というのがすごいですね。そうであってほしいと思いました(笑)。

  8. 新之介 | URL | -

    きっちい様へ

    きっちい様
    コメントありがとうございます。
    私がブログを始める前からきっちい様のブログの隠れファンでした(笑)。今では取り壊されてしまった十三の貴重な建物がきっちい様のブログに記録されているのはうれしいです。これからもよろしくお願いします。
    以前はどちらにお勤めだったのでしょう…。でも、確かに昔は高い建物がなく、見晴らしがよかったのでしょうね。

  9. たんばの人 | URL | USldnCAg

    絵になるような風景は
    心を潤してくれる風景ですね。
    土地に愛着を持てれば
    人々の営みもよくなるはず
    今、見失っている
    ものを求めて頑張ります。

  10. 新之介 | URL | -

    癒しをありがとう

    たんばの人様
    コメントありがとうございます。
    丹波の風景は心を潤してくれます。
    私の心の癒しのブログです。
    ホッとしたいときに見させていただいてます。
    これからもよろしくお願いします。

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