2007年11月10日 07:00
「誰もが知ってる」と「誰も知らない」地蔵尊
JR大阪駅の北側周辺は明治30年に大阪市に編入されるまで、西成郡北野村と称していました。十三があった神津村とは地続きの隣村です(明治43年の淀川改修工事の完成により、地理的に切り離されてしまいました)。その地域で、現在もっとも有名なお地蔵さんと、ほとんど誰も知らないお地蔵さんがあります。
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もっとも有名はお地蔵さんは、阪急三番街にある北向地蔵尊です。阪急「梅田」駅構内にあり、紀伊国屋書店の隣、人の往来も多く、「地蔵横丁」という飲食街の名前にもなっている地蔵尊です。一日中、お線香の香りが絶えることがありません。周辺に住まれている方だけでなく通勤時に拝んでいかれる方も多いお地蔵さんです。由来は、明治26年、この付近の畑から掘り出された自然石の地蔵尊です。当時の地主仲谷弥三兵衛氏が世話人となり御堂を北向きに建立されました。阪急三番街が建設される時に、今に場所に移されています。
さて、その北向き地蔵尊のすぐ近く、JRAの裏側にお地蔵さんがもうひとつあります。ビルとビルにはさまれた路地の向こう、四方をビルで挟まれた場所です。現在は横のビルが壊されたので明るい場所になりましたが、それまでは一日中、陽のあたらない場所でした。由来は不明です。目立たない所にありますが、管理の行き届いた立派な地蔵尊です。近くに行かれたときは探してみてください。簡単には見つけられませんよ(笑)。

阪急三番街の北向地蔵尊。紀伊国屋書店の西横にあります。

旧牛丸町の地蔵尊。隣のビルがなくなって駐車場になっています。奥が開発中の梅田北ヤード。どの辺りかわかりますか?

JRAウインズ梅田の裏側。この路地の向こうです。

反対側の入り口。駐車場の横の路地の向こうにあります。道路からは、地蔵尊は見えません。奥のほうに屋根の一部だけがわずかに見えます。

明治時代は緑豊かな田園風景が広がっていました。どんな場所にお地蔵さんはあったのでしょうか。
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JR大阪駅の北側周辺は明治30年に大阪市に編入されるまで、西成郡北野村と称していました。十三があった神津村とは地続きの隣村です(明治43年の淀川改修工事の完成により、地理的に切り離されてしまいました)。その地域で、現在もっとも有名なお地蔵さんと、ほとんど誰も知らないお地蔵さんがあります。
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もっとも有名はお地蔵さんは、阪急三番街にある北向地蔵尊です。阪急「梅田」駅構内にあり、紀伊国屋書店の隣、人の往来も多く、「地蔵横丁」という飲食街の名前にもなっている地蔵尊です。一日中、お線香の香りが絶えることがありません。周辺に住まれている方だけでなく通勤時に拝んでいかれる方も多いお地蔵さんです。由来は、明治26年、この付近の畑から掘り出された自然石の地蔵尊です。当時の地主仲谷弥三兵衛氏が世話人となり御堂を北向きに建立されました。阪急三番街が建設される時に、今に場所に移されています。
さて、その北向き地蔵尊のすぐ近く、JRAの裏側にお地蔵さんがもうひとつあります。ビルとビルにはさまれた路地の向こう、四方をビルで挟まれた場所です。現在は横のビルが壊されたので明るい場所になりましたが、それまでは一日中、陽のあたらない場所でした。由来は不明です。目立たない所にありますが、管理の行き届いた立派な地蔵尊です。近くに行かれたときは探してみてください。簡単には見つけられませんよ(笑)。

阪急三番街の北向地蔵尊。紀伊国屋書店の西横にあります。

旧牛丸町の地蔵尊。隣のビルがなくなって駐車場になっています。奥が開発中の梅田北ヤード。どの辺りかわかりますか?

JRAウインズ梅田の裏側。この路地の向こうです。

反対側の入り口。駐車場の横の路地の向こうにあります。道路からは、地蔵尊は見えません。奥のほうに屋根の一部だけがわずかに見えます。

明治時代は緑豊かな田園風景が広がっていました。どんな場所にお地蔵さんはあったのでしょうか。

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