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うめきた・梅北(梅田北ヤード)の歴史

2011年02月21日 08:00

うめきた・梅北(梅田北ヤード)
文教地区から貨物ヤードに、
そして、森へ。


大阪駅北地区(梅田北ヤード)の新名称が
「うめきた・梅北」に決まりましたね。
ところでこの地域に貨物ヤードが出来る前は
どういう場所だったかご存知でしょうか。

また、平松市長は「早く親しんでもらえるように
住居表示の変更も考えたい」と話されていますが、
この土地の地名についても簡単にまとめておこうと思います。


1. 大阪駅が出来る前
大阪駅が開業したのは明治7年です。
当時は、辺り一面が田んぼで水路がいたる所に通っていて、
畑がポツポツ点在する田舎の風景が広がっていました。
その一角には 梅田墓 (梅田三昧)と言われる古い墓地もありました。

umekita_bochi.jpg
現在もコンテナヤードの一角に
掘り起こされた墓石を集めた場所があります。


2. 地名のこと
(日文研より)
umekitamap_01.jpg
これは明治36年の地図です。
この地域の大部分は北野村の字地で、
芝田、牛丸、大フケ(大深)、
サトウ(佐藤)、松ケ本(松本)
と、
旧曽根崎村の 北條(北梅田)から構成されていました。
ちなみに現在の北ヤード地域のほとんどが大深(おおふか)町になっています。

僕の持論なのですが、地名というのはその土地が持つ記憶であり、
文化遺産だと思っています。地名をなくしてはいけない。

現在も残っている大深町という地名、
それも開発と共に無くしてしまうのでしょうか?
新たな街が「梅北」になるのはいいのですが、
既存の地名を無くしてしまうようなことだけは避けて欲しいと思っています。


3. 文教地区だった時代
(日文研より)
umekitamap_03.jpg
大正7年の地図です。
コンテナヤードが出来る前の地図ですが、
よく見ると学校がたくさんあるのが分かります。
余談ですが、梅田入堀の上に成恩寺という寺がありますが、
その辺りが、梅田墓があった場所です。


まず一番大きいのが 大阪市立大阪工業学校
umekita_01.jpg
これは当時の全景です。場所は北野牛丸町でした。

その北側にあるのが 大阪府立北野中学校
umekita_02.jpg
「北野百二十年」より
これは北野芝田町、校舎正門の写真です。

左下に赤文字で記されているのが 大阪府立梅田高等女学校
umekita_03.jpg
「大手前百年史-資料集」より
当時の校門と校舎です。

そして、それと隣接する 私立金蘭会高等女学校
umekita_04.jpg
「金蘭会学園八十年史」より
当時の梅田校舎です。

大阪駅北側の地域はコンテナヤードが出来る前、
通学に便利な文教地区だったのです。
その後、鉄道省は大阪駅拡張用地として各学校の用地を買収していきます。


4. 梅田北ヤードの時代
umekitamap_04.jpg
大正13年発行の大阪市パノラマ地図には
北野中学校以外の学校はすべてなくなっています。
区域を東西に横切る道がありますね。

umekitamap_06.jpg
昭和4年の地図です。
学校移転から数年でまったく違う風景になってしまった。
東西に地下道ができているのもわかりますね。

IMG_4255_3.jpg
この地下道は昭和3年に竣工しています。
北ヤードが出来るまでは地上に東西を結ぶ道があったのですが、
その名を梅北道路と言っていたようで、
プレートの最後には梅北道路復活期成同盟会となっています。

IMG_4252_3.jpg
地下道の名前は北梅田地下道のようです。

IMG_4176_3.jpg
現在のうめきたは、先行開発区域の開発が進行中。
大型クレーンや鉄骨が建ち上がり出しました。

IMG_4206_3.jpg
JR大阪駅の大阪ステーションシティーも5月4日に開業します。

IMG_4181_3.jpg
梅田北ヤードはディーゼル車が頻繁に貨物車を動かしているので
見ていて飽きない面白い場所でした。

IMG_4185_3.jpg
たまに、はるかもやってくるし。

IMG_4228_3.jpg
梅田北ヤードは
再び新たな姿に生まれ変わろうとしています。


森へ UMEDA GREEN!
2期開発区域は、大阪市も「緑地構想」を軸に検討に入りました。
広大な緑地の中に企業や大学の研究施設やホールなど
環境に配慮した文化創造拠点を設けるという提案も出ています。
区域内には森が生まれるかもしれない。

どういう街になるか楽しみだ。
世界に誇れる街になってほしいと思っています。


(関連記事)
『さよなら梅田北ヤード』 2013.11.20
『大阪七墓・梅田墓地について』 2013.09.13
『さよなら梅田貨物駅』 2013.07.24
『梅田貨物駅最後の日を微速度撮影』 2013.03.19
『うめきた・梅北(梅田北ヤード)の歴史』 2011.02.21
『梅田北ヤードができる前 6 移転先篇』 2008.03.17
『梅田北ヤードができる前 5 金蘭女学篇』 2008.03.14
『梅田北ヤードができる前 4 梅田高女篇』 2008.03.12
『梅田北ヤードができる前 3 北野中学篇』 2008.03.09
『梅田北ヤードができる前 2 工業学校篇』 2008.03.06
『梅田北ヤードができる前 1 文教地区篇』 2008.03.05
『大坂七墓巡り(梅田・南浜・葭原)』 2008.10.22
『初代大阪駅の場所』 2008.03.03
『大阪駅ができる前は墓地があった』 2008.03.01


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コメント

  1. でん爺 | URL | mQop/nM.

    イヤ 面白いですね

    それにしてもよく調べられましたね
    写真、よく集められましたね
    感心すると共に、面白く読ませてもらいました。

  2. genpi | URL | -

    地下道のプレート

    地下道のプレート、実は私の先祖の名前があったりします。載せてもらえてうれしいです。

  3. Mijanpona | URL | -

    梅北道路の地下道

    私は新之介さんの古写真と古地図を駆使した記事が大好きです。古地名を残してほしいというのはまったく同意見です。
    私が残してほしいのは地名としての「北野」です。いま旧北野にある「北野」は、「北野」バス停と北野病院と北野劇場だけ?になってしまいました。十三の北野高校は北野にないですし。
    「梅北道路」の名は、ひょっとして「梅田北野」の短縮ではないでしょうか。
    あのトンネルは、昔は裸電球が数個ぶら下がっているだけで薄暗くて、遠くに出口の明かりが見え、地下道というより正にトンネルでした。

  4. 雀のお宿 | URL | -

    いつもながら新之介さんのレポートを読むと、タイムマシンに乗せてもらっているように感じます。ありがたや。

  5. kisanji | URL | XKtckMjk

    よく遊びました

    貨物のひきこみ線路の横に、倉庫を借りていたので、
    よく入りこんで遊んでいました。けっこう穴場で、関係者しか入れないので、ランチをしたり、ちょっとしたピクニック気分ですごしました。
    無くなるのは淋しいなぁ)))

  6. Empizzo | URL | X/aoCwEI

    今だからこそのお示しですね

    私、幼いころから「梅田貨物駅」と呼んできました。
    貨物取扱量が汐留に比べてどれだけ少ないとか多いとか聞いていました。
    その汐留もすでにビル街。
    西の「汐留」もビルなどの新都市になろうとしているのですね。
    そして北ヤードという言葉で開発が進むわけですね。
    しかし貨物駅が昭和になってからということが
    今回のお示しでさらに深く知ることができました。
    従来まであった市街地を全部のけてまで貨物駅にしなければならないほどの鉄道輸送事情。
    相当な権力の執行であったことがうかがえます。
    大正7年の地図を見ますと驚いてしまいます。
    南側が今とあまり変わらないのに比べて北側は相当違った街路図形が感じられます。
    立ちのきは御堂筋の拡幅に匹敵するほどの規模だったのではないでしょうか。

    また別に気になるポイントの一つに「梅田堀入」が大阪の運輸事情を象徴していることと、
    大阪鉄道管理局が大正末から昭和4年までの建設だったことです。

  7. kotaro | URL | 8nGiSIKA

    新ネーミング

    新ネーミングの発表のとき、平松市長の横で江弘毅氏が
    「梅田の北やから『うめきた』。大阪人は天六とか上六とか
    昔からみんな縮めて言うのが当たり前」と発表を読み上げて
    いたのをテレビで見て、「いささか乱暴ちゃうやろか」、と
    私は危惧したのですが、梅北道路の名前が元からあったこと。
    Mijanponaさんの指摘のように「梅田ー北野」の略だとしたら
    すっかり相応しい新地名のように思えてきました。

    大深町、小深町の地名は、元々この辺りが、梅田(うめだ)
    以上に水づいた低地の古い地名のことである「フケ」の名残で
    あったことを示す好例で、消え往く地名に言霊の消滅の一抹の寂しさも
    感じる一方、ひらがなの「うめきた」に現代の絵の具の無機質さを
    覚えました。
    古来「深田」(ふけだ)は泥田の意味で、深田恭子は本来、沼ガール
    を表す名字なんですね、はい。

  8. 新之介 | URL | sDz630us

    でん爺さん
    ありがとうございます。
    いろいろ調べたきっかけは一枚の地図です。
    そこから芋づる式に資料を図書館で借りて調べました。
    とても思い入れのある記事です。

    genpiさん
    おお!そうですか。
    すばらしいですね。
    あのプレートを見ると当時の住民の喜びが伝わってきます。
    いいものですよね。

    Mijanponaさん
    >昔は裸電球が数個ぶら下がっているだけで薄暗くて、遠くに出口の明かりが見え、地下道というより正にトンネルでした。
    おお!、そーなんだ。
    当時の写真を見てみたいです。
    北野は地名からは無くなりましたね。
    曽根崎は残ってるのに。
    僕も北野の地名を復活してほしいと願っているひとりです。

    雀のお宿さん
    タイムマシンは皆さんの脳内にあるのかも。

    kisanjiさん
    ランチですか!
    うらやましい^^
    ここでピクニック気分なんて最高です!

    Empizzoさん
    「梅田堀入」は前からかなり気になっています。
    いつかちゃんと調べてみたい。
    時間がある時に当時の写真をいろいろ探してみようと思っています。

    kotaroさん
    明治18年の地図を見るとこの辺りが沼田だったことがよくわかります。
    おそらく幕末までは農家の人以外が立ち入らない場所だったのでしょう。
    「大深町」はそういう意味であまりイメージがよくない。
    だからこれを機に新しい地名になるのではという危機感を持っています。
    どうなっていくのでしょうか。

  9. つまみ食い | URL | jbqo2yn2

    大深町の鉄道局

    今のヨドバシカメラですよね。
    以前、仕事の関係でしょっちゅう地下通路を使う機会があり、懐かしいです。
    電気機関車やディーゼルの汽笛も懐かしいです。
    昭和のある時期までは、高速道路はおろか舗装道路も今ほど整備されておらず、今のような幅の広い道も少なかったわけですし、大型航空輸送の時代などもっと後の話ですので、沢山の物資を運ぶ手段は船舶または鉄道という時代でしたよね。
    船舶に比べれば、グンと輸送速度はあるわけですから、今でいう「高速道路整備+トラックターミナル整備」の位置づけで、各主要都市の周辺に大規模な鉄道施設がつくられていったわけですよね。
    そのひとつが梅田北ヤードというわけで。

  10. つまみ食い | URL | jbqo2yn2

    地図

    停留所の名前に「下三番」があったり、大正7年のものには赤の点線で「箕有」とあったりして、なかなかいいですね。
    「箕有」は箕面有馬鉄道のことです。
    大正13年の地図では、阪急電車の旧・北野廻りの路線がはっきりとわかりますね。
    新線ができてからも、しばらくチンチン電車が走り続けていたそうです。
    面白いのは、上の方のコメントにもあった梅田の入掘。
    もとは旧大阪駅横で水運と陸運の接点になっていたものと思いますが、昭和4年の地図を見るとさらに北に開削されて、梅田北ヤードとの連絡がスムーズにできるようになっています。

  11. 安田八十八 | URL | -

    七墓廻り

    人権博物館のゴールデンウィーク期間中のイベントに四ヶ所と七墓廻りがあるようです。

  12. 新之介 | URL | sDz630us

    つまみ食いさん
    梅田入堀って資料(写真)が結構少ないです。
    時間ができたらいろいろ探して調べてみようと思っています。

    安田八十八さん
    七墓廻りのイベントですか。
    それは素晴らしい。
    これも大阪の重要な歴史の1ページだと思います。

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