2007年
11月01日
(木曜日)
餅は餅屋、変圧器はダイヘン。
餅は餅屋、変圧器は変圧器会社。
この言葉、ダイヘンの創業時のカタログのキャッチフレーズです。
十三駅の西側に住んでいる人はみんな知っているダイヘン。あなたはご存知ですか?一般の生活者とはあまり関係のない製品を作っている会社ですが、電気のある生活をする上で、なくてはならない会社です。
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大阪変圧器株式会社(現在は株式会社ダイヘン)。今では日本を代表する電力機器メーカーです。創業は大正8年、まだ青年であった小林愛三氏は大資本の背景もなく、少人数でこの会社を創業しました。会社名に変圧器という商品の名前をつけたのも小林愛三氏です。当時、社名に製品名をつけるのは非常に珍しかったようですが、「変圧器の専門製作であることをはっきりと打ち出そう。小さくても、わが国唯一の変圧器専門メーカーであることを天下に表明することになる」。この小林愛三氏の方針がその後の会社の発展につながっていきます。
金融恐慌、関東大震災、満州事変、そして太平洋戦争など、数々の危機をチャンスに変え成長を続けてこられたのも、変圧器の専門製作という一貫した経営方針があったからです。
十三に工場を構えたのは昭和5年。その後、本社機能も十三に移し、敷地も拡大していきました。ダイヘンは地元人として、武田薬品とともに自慢できる企業なのです。

思い出の十三イラストマップの大阪変圧器周辺。右下に正岡医院があります。9月30日のブログのコメントの書き込みに、「昔は大抵のお医者さんは人力車で往診をされており、私も正岡先生が人力車で往診してもらった記憶があります。」とあります。のどかな時代だったのですね。

この写真はダイヘンが移転してくる前にあった大阪電気製造という会社です。小林愛三氏も京都帝国大学を卒業後、この会社に3年ほど勤めています。周りは田園風景が広がっています。手前に中島大水道があります。よく見ると船らしきものも見えますね。当時は船で荷物を運んでいたのでしょうか。初夏には蛍も飛んでいたらしいです。(写真は「50年のあゆみ」より)

昭和27年の空撮。中央の上から右下にかけて斜めに中島大水道が確認できます。右中央の川沿いにある中州のような黒い所は元今里墓地と思われます。木が茂っていたのでしょうか?(写真は「五十年史」より)

昭和33年に完成した本社新社屋です。まだ前に川が流れています。(写真は「50年のあゆみ」より)

昭和43年の空撮です。手前がダイヘン工場、前の川が埋め立てられています。(写真は「50年のあゆみ」より)

現在のダイヘン正門

ダイヘンの電柱看板。矢印で誘導しています。知らない方にお教えすると電柱の上に大きなバケツのような筒がありますよね。それが変圧器です。なので、電柱とは縁が深い会社なのです。

工場周辺の電柱は全てダイヘンです。
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この言葉、ダイヘンの創業時のカタログのキャッチフレーズです。
十三駅の西側に住んでいる人はみんな知っているダイヘン。あなたはご存知ですか?一般の生活者とはあまり関係のない製品を作っている会社ですが、電気のある生活をする上で、なくてはならない会社です。
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大阪変圧器株式会社(現在は株式会社ダイヘン)。今では日本を代表する電力機器メーカーです。創業は大正8年、まだ青年であった小林愛三氏は大資本の背景もなく、少人数でこの会社を創業しました。会社名に変圧器という商品の名前をつけたのも小林愛三氏です。当時、社名に製品名をつけるのは非常に珍しかったようですが、「変圧器の専門製作であることをはっきりと打ち出そう。小さくても、わが国唯一の変圧器専門メーカーであることを天下に表明することになる」。この小林愛三氏の方針がその後の会社の発展につながっていきます。
金融恐慌、関東大震災、満州事変、そして太平洋戦争など、数々の危機をチャンスに変え成長を続けてこられたのも、変圧器の専門製作という一貫した経営方針があったからです。
十三に工場を構えたのは昭和5年。その後、本社機能も十三に移し、敷地も拡大していきました。ダイヘンは地元人として、武田薬品とともに自慢できる企業なのです。

思い出の十三イラストマップの大阪変圧器周辺。右下に正岡医院があります。9月30日のブログのコメントの書き込みに、「昔は大抵のお医者さんは人力車で往診をされており、私も正岡先生が人力車で往診してもらった記憶があります。」とあります。のどかな時代だったのですね。

この写真はダイヘンが移転してくる前にあった大阪電気製造という会社です。小林愛三氏も京都帝国大学を卒業後、この会社に3年ほど勤めています。周りは田園風景が広がっています。手前に中島大水道があります。よく見ると船らしきものも見えますね。当時は船で荷物を運んでいたのでしょうか。初夏には蛍も飛んでいたらしいです。(写真は「50年のあゆみ」より)

昭和27年の空撮。中央の上から右下にかけて斜めに中島大水道が確認できます。右中央の川沿いにある中州のような黒い所は元今里墓地と思われます。木が茂っていたのでしょうか?(写真は「五十年史」より)

昭和33年に完成した本社新社屋です。まだ前に川が流れています。(写真は「50年のあゆみ」より)

昭和43年の空撮です。手前がダイヘン工場、前の川が埋め立てられています。(写真は「50年のあゆみ」より)

現在のダイヘン正門

ダイヘンの電柱看板。矢印で誘導しています。知らない方にお教えすると電柱の上に大きなバケツのような筒がありますよね。それが変圧器です。なので、電柱とは縁が深い会社なのです。

工場周辺の電柱は全てダイヘンです。
コメント
なつかしい白水園住宅
思い出の十三イラストマップの中に白水園住宅の文字を見つけ、市営住宅に住んでいた者から見ると、立派な住宅が並んでいたのを思い出しました。さらに菊水湯の南隣にさんぱつ屋があり、さらに懐かしい記憶が次々とよみがえってきます。それにしても菊水湯の前の道が川に突き当たる所に橋があったように思います。なにしろ当時は家庭風呂など全く無く、お風呂屋へ行くのが当たり前でした。市営住宅の私の家の前の道を南に行った処には、川に張り出した小屋があり、直ぐ東側に橋があり、これを渡って銭湯に行ったのです。市営住宅内の各家の配置は今も記憶しており、お地蔵さんがあった事も覚えているのに、橋のみ記憶違いとは思えないのですが。それにしても昔の姿を次々と教えて頂き本当に感謝しています。
白水園住宅?!
西岡様
いつもコメントありがとうございます。
白水園住宅って、どういうものなのか分からなかったのですが、「立派な住宅が…」のコメントでわかりました。現在もこの辺りは古い立派な造りの住宅が残っています。写真も撮影していて、いつか紹介したいと思っていたのです。
それと、菊水湯の前に架かっている橋ですが、2つ目の写真(昭和27年の空撮)をよく見ると写っていました。写真が見にくいのですが、右の真ん中辺りの黒い中州のような所(元今里墓地)のすぐ上に橋が見えます。ここがちょうど菊水湯の位置です。イラストマップに描かれていないだけで、西岡さんの記憶の方が正しいです。(笑)
いつもコメントありがとうございます。
白水園住宅って、どういうものなのか分からなかったのですが、「立派な住宅が…」のコメントでわかりました。現在もこの辺りは古い立派な造りの住宅が残っています。写真も撮影していて、いつか紹介したいと思っていたのです。
それと、菊水湯の前に架かっている橋ですが、2つ目の写真(昭和27年の空撮)をよく見ると写っていました。写真が見にくいのですが、右の真ん中辺りの黒い中州のような所(元今里墓地)のすぐ上に橋が見えます。ここがちょうど菊水湯の位置です。イラストマップに描かれていないだけで、西岡さんの記憶の方が正しいです。(笑)
白水園追記
白水園は立派な住宅が並んでいたことを前に書きましたが、天辻鋼球という鋼球を作っている工場(工場というような感じではなく、住宅の一部で製造している)がこの白水園の中にあったように思います。天辻鋼球のホームページを見ますと、大正9年十三において”自転車用鋼球の製造に着手”、昭和8年に株式会社に改組とありますので、私の記憶は間違いないと思いますが、もし間違っていてもこの付近に同社の起源があったことは間違いありません。
新之介さんより菊水湯の前の道は北側に橋があり、市営住宅側とつながっていたことを示す写真を教えて頂き有難うございました。ちなみにこの川の名前が大野川ということは今度初めて知りました。子供の頃には川の名前を全く呼んでいませんでした。(笑)
新之介さんより菊水湯の前の道は北側に橋があり、市営住宅側とつながっていたことを示す写真を教えて頂き有難うございました。ちなみにこの川の名前が大野川ということは今度初めて知りました。子供の頃には川の名前を全く呼んでいませんでした。(笑)
正岡医院
正岡医院 父のかかりつけのお医者様でした
父が亡くなったのは ずいぶん前ですが 其のときも正岡先生(大先生)で いけなくなってからは 自宅まで往診していただいて 点滴をしてもらっていました
もちろん 人力車の時代ではありません 70年代です 車でした
其のころ ご自宅は豊中のほうでした
入院の手配もしていただきました
父にとっては 正岡先生は神様のように信頼しているお医者様でした
保険診療を辞退されていましたが かかり続けていました
父が亡くなったのは ずいぶん前ですが 其のときも正岡先生(大先生)で いけなくなってからは 自宅まで往診していただいて 点滴をしてもらっていました
もちろん 人力車の時代ではありません 70年代です 車でした
其のころ ご自宅は豊中のほうでした
入院の手配もしていただきました
父にとっては 正岡先生は神様のように信頼しているお医者様でした
保険診療を辞退されていましたが かかり続けていました
正岡先生
正岡先生は立派な方だったのですね。
私にとっては、塚本の平岡医院の平岡先生が同じような存在です。大好きだった祖父が最後まで信頼していましたし、私も子供の頃は、扁桃腺でよくお世話になりました。社会人になって平岡先生のところにはいかなくなりましたが、まだ現役でやられているのではないかと思います。かなりのご高齢だと思います。
私にとっては、塚本の平岡医院の平岡先生が同じような存在です。大好きだった祖父が最後まで信頼していましたし、私も子供の頃は、扁桃腺でよくお世話になりました。社会人になって平岡先生のところにはいかなくなりましたが、まだ現役でやられているのではないかと思います。かなりのご高齢だと思います。
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