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洲到止~庄本へ

2010年03月28日 07:00

洲到止~庄本へ
イントロ

リクエストにあった豊中の庄本地域をちょこっと歩いてきました。
空港線はたまに通るので、庄本の地名は知っていたし、
前からちょっと気になっていた地域。
ただ電車で行くにはかなり中途半端な場所で、
阪急神崎川駅から大島町を通り、庄本まで歩きました。
大島町は旧洲到止(すどうし)村といって立派な旧家が残っています。


より大きな地図で 洲到止~庄本 を表示

shonai_02.jpg
明治18年測量の地図です。
猪名川は旧流路です。神崎川もくねくねしてますね。

shonai_01.jpg
昭和4年頃です。
右上に庄内神社が確認できますね。
これは明治39年の神社合祀令によって周辺地域の7神社が
集められて出来た神社です。比較的歴史の新しい神社なのです。

余談だけど、この神社合祀令ってバカげてると個人的に思ってる。
一度取り上げたいと思っているんだけど…まだ勉強不足なもんで…^^;


で、旧洲到止村の地図です。
sudoshi_01.jpg
洲到止を「すどうし」と読める人はどれくらいいるでしょう。
当然僕も読めず調べてもなかなかたどり着けなかった…。

sudoshi_02.jpg
洲到止村を歩いてるといくつか気になったものを見つけました。
しかしこの時代の地図を見てると面白い。
洲到止村って水路が無数にある村だったんですね。
こうやって、地図を改めてみてると、見逃してる個所が気になってくる。
もう一度行く必要があるかも…


より大きな地図で 旧洲到止村 を表示

DSC06432_2.jpg
洲到止村って結構豊かな村だったのかもしれないな。
とても立派なお屋敷がいくつも残っています。
次回は写真でご紹介します。


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bahiru_wink3.gif
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コメント

  1. ゼク | URL | q1cvaNjE

    こうやって明治18年の地図と昭和4年の地図を比べても
    この辺りはほとんど変わってないのですね。
    それにしても僕も神社の合祀は残念でなりません。
    なぜ神社が出来たか?を考えれば分かりますが、何百年前もの
    私達のご先祖様がそこに生きた証しそのものが神社だと思います。

    そこには、ご先祖様の生活の中に染み込んだ文化があると思います。
    お祭りもあったでしょうし、いろんな祈願もあったでしょう。
    そんなその地域の文化を根こそぎ破壊してしまうような
    法律はあってはいけないと残念でなりません。

    古き良きものを大事にすることが日本人の美徳だと思います。

  2. kotaro | URL | 8nGiSIKA

    どこの荘園だったのか

    地名からすると庄内の由来は、元々こちらが本地なのでしょうね。
    高野山か春日大社の、どちらに属していたのでしょうね。

    ところで今日は,やっと池田神社(伊居太神社)を参ってきました。
    あの丘の上からの眺望が、すごく良かったのですが、
    よく考えたら古代の砦だったのかも知れません。
    呉羽の由来が機織りとしても、大陸か半島で滅ぼされた
    民族だったのかと、想像を巡らせました。
    敵の来襲への、防衛機能と。
    町の起こりがそうだとしたら、非常に古くて面白い
    文化のある町です。

  3. 新之介 | URL | sDz630us

    ゼクさん

    同感!同感!
    町を歩いていると神社跡の碑をたまに見かけます。
    それを見るたびに思う。
    「住民の人達はどんな思いだったんだろう?」って
    南方熊楠もかなり反対していたようですね。
    とても興味深いネタです。


    kotaroさん

    この辺りは椋橋荘で摂関家領の荘園になるそうです。

    古代の砦は私も思いました。
    五月山に登った時は特にそう思いました。
    この山一帯が砦だったんじゃないかなって…

  4. トシ | URL | jBAhGx3k

    S37~S57年まで すどうしに住んでました♪

    グーグッてて ここを見つけました。
    今は神奈川に住んでいますが、ちょうど大阪に行く用事が
    あって地元へ帰ってみて指摘にあったように商店街がさび
    れているのは残念です。
    私が子供の頃は、人がもっと一杯いてにぎやかで下町情緒
    一杯の活気のある街でした。
    文化住宅やアパートも多く、私の知る限りでは、住民の約7割が
    銭湯通いで、神洲温泉は、社交場化してました。
    十三の隣の駅ということで、ホステスさんもかなりいたようです。

    また、町中もっと いわゆるドブガワがあちこちに流れ昭和40年代に下水道が整備されてなくなってしまいました。

    私が子供のころは、既にいまの神埼川の堤防はありましたが、
    下水処理場は、まだなく、そこは野原のようなところで養豚場が
    ありました。うちのお袋に聞くと阪急百貨店の食堂の残飯が
    えさだったようです。
    その横の甲南大学のヨット部の倉庫があり、大学生が船を
    神崎川に繰り出して練習していたようです。

    洲至止神社のお祭りも子供の頃は楽しみで、だんじりの太鼓を叩くことが出来るようになることが子供の誇りのような感じでした。

    旧家は なぜか中井家ばかりで、もともと由縁はわかりませんが多かったです。

    大島町と二葉町の間には、たんぼもあり当時は稲作もしていた
    ようで、ドブガワから引いた水で作っておりました。
    そこで、トンボ取りやイナゴ取りもしたものです。

    長々とかいてみましたが、まだまだ 思い出は尽きないので、
    今日はこのへんで。。

  5. 新之介 | URL | sDz630us

    トシさん

    ありがとうございます。
    当時の様子がよくわかります。
    昭和40~50年代は淀川もそうでしたが
    神崎川も汚れていたように思います。
    それが今はきれいになりました。
    でもある意味当時はどの街も活気がありましたね。
    子供も多かった。
    あの時代が懐かしいです。

  6. トシ | URL | jBAhGx3k

    でも。。中学生の頃は、淀川には ハゼを釣りに 
    たまに行きましたよ。。神崎川よりは よっぽど綺麗
    だったと 思います。

    神崎川は メタンガスが ブクブクww
    甲南大のヨット部じゃなくて ボート部の間違いを
    今頃 気がつきました・・
    最近 知り合いが 園田にいて 地元を戸の内からかけて
    散歩しました。。

    松尾電機という会社があるところの踏み切りの大島町側に
    あった市場も 火事で 焼けてしまって、今はマンション!
    ここが なくなったのは メッチャ残念~

  7. 新之介 | URL | sDz630us

    トシさん

    メタンガスブクブクでしたか!
    そこまでは知りませんでした。
    あの当時は都市の川はどこもそうだったのかもしれませんね。
    ちょうどゴジラ対ヘドラが上映された時代。
    子供の僕は淀川をヘドラを重ねていました。

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