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小林一三の大勝負

2010年03月10日 08:00

阪急電鉄開業100周年記念
一世一代の大勝負 小林一三 34歳

19100310.jpg
「阪急電車駅めぐり」より 明治43年3月10日の梅田停留所です。
ちょうど今から100年前。電車も写っています。わかります?


本日3月10日は阪急電鉄の開業100周年です。
おめでとうございます!


この記念すべき日にどういう記事を書こうかと考えていた時、
もういちど小林一三さんの自叙伝を読みたくなりました。
改めて「逸翁自叙伝 青春そして阪急を語る」を読んで思った事、
あの時の大決断が無ければ今の阪急はなかったということです。


明治43年(1910)3月10日、阪急電鉄の前身、箕面有馬電気軌道が梅田-宝塚間、石橋-箕面間で営業を開始しました。その開業の3年前の明治40年1月、小林一三氏は東京の三井銀行を退職し、証券会社を起こすため家族とともに大阪に再び戻ってきます。

しかし、運命とでも言うべきなのか、到着のその日に株価の大暴落が始まり日本中がどん底に落ちていきます。日露戦争後のバブル崩壊です。これにより新会社の目論みも飛んでしまいました。

一三氏はその後、阪鶴鉄道監査役の職を得ることになります。阪鶴鉄道はすでに国有化が決まっていましたが、箕面有馬電気軌道株式会社の設立を計画していました。しかしこの株価の大暴落で会社設立の資本金が半分しか集まらず、設立か、解散かという問題に追い込まれていたのです。

この時代、近畿で複数の電鉄会社が発起されています。それらは京都大阪間、神戸市内、神戸明石間、大阪奈良間など大都市圏。それに較べ、有馬温泉や箕面公園行きの電車は到底見込みなしという世論が大勢でした。

しかし一三氏には目算がありました。沿線に住宅地を作り売れば儲かる。沿線の人達からは結局駄目だろうと思われているので土地が安く買える。副業を当初から考えておれば、電車が儲からなくても株主を安心させられると。一三氏は三井銀行時代の上司であり北浜銀行頭取の岩下清周氏に相談、そこで「一生の仕事として、責任をもってやるならば…」と支援を取り付けます。

その後、一三氏は発起人達と交渉することになります。発起人の人達と開業を進めていくのでは、自分の思い描いた通りに進んでいかない。そこで、大胆な契約書を発起人達とかわす事になります。


全部を私にお委せください。
金銭上の責任は全部私が負担いたします。
万一解散する場合には、株主に対しても、
発起人の方々に対しても、
一文も御損をかけません。


※ 以下は「逸翁自叙伝 青春そして阪急を語る」からの引用です。
 読みやすいようにカタカナをひらがなに変えました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    契約書

今般箕面有馬電気軌道株式会社株式引受並に創立事務に関し小林一三(以下甲とす)と同会社発起人及ひ創立委員(以下乙とす)と契約する条件左の如し
第一条
現在引受未定の株式総数5万4千104株を甲に於て引受け来る7月10日迄に証拠金1株に付金2円50銭宛を払込むへし但し本文株式は新に引受けたるもの故是迄の利子は支払はさるへし

第二条
甲を発起人及創立委員に加へ創立事務執行者となすへし

第三条
来る7月10日より会社設立に関する一切の事務は甲之を専行す乙は何事をも関渉をなさす又は異議を唱へさるものとす

第四条
前各項の権利を甲に附与するに付ては万一不幸にして本会社成立せさるか又は解散せさるを得さる場合には創業費其他発起人並に創立委員に於て負担すへき金銭上は勿論其外一切の責任は甲に於て之を負担し乙に何等の煩累を及ほささるものとす 以上
明治40年6月30日

箕面有馬電気鉄道軌道株式会社
発起人並に創立委員長   田  艇吉
発起人並に創立委員    速水 太郎

発起人          土居 通夫
             野田卯太郎
             弘  道輔
             池田貫右衛
             米沢吉治郎
株式受取人
大阪市南区天王寺烏ヶ辻町
5千7百51番地     小林 一三


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ichizo.jpg
「電鉄時代の幕開け」より 阪鶴鉄道監査役時代の小林一三氏


この契約書をかわす事により、阪鶴鉄道の監査役であった小林一三氏は
箕面有馬電気鉄道軌道株式会社の追加発起人となり、
さらに会社設立までの一切の事務を任されることになるわけです。

この時、小林一三、34歳。
もし、一三氏の決断がなければ、
箕面有馬電気軌道の開業はなかったかもしれません。


自叙伝の最後の結びにこんな言葉を書いておられます。

働けばよい、
それから先は運命だ。
先づ朗かに清く正しく働くことが
我が一党のモットーだ。
サァついて来い。
意気地ない若いヤツよ


63歳の時の言葉です。
カッコいい。


(追記)
DSC06835_2.jpg
池田市にある逸翁(いつおう)美術館です。
ここから少し離れた所に旧小林一三邸(雅俗山荘)があるのですが、
それが小林一三記念館としてもうすぐオープンします。

DSC06836_2.jpg
4月22日にオープンのようですね。
のりみさん、情報ありがとう♪


ポチッと、応援よろしく♪
bahiru_wink3.gif

(関連記事)
★ 阪急梅田駅の歴史 1
★ 阪急梅田駅の歴史 2
★ 阪急梅田駅の歴史 3
★ 知ってるつもり?!阪急電車と小林一三
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コメント

  1. | URL | -

    いつか大河ドラマになるくらいのすごい人だったんですね。契約書の中の住所、現在の自宅と同じ町内!びっくりです。

  2. ばんぼう | URL | t/Klp7tQ

    1枚目の写真は良く見る写真ですが、よく見ると大雪でも降った後の様ですが、どうなんでしょうか^^

  3. のりみ | URL | woEZS3As

    4月22日には、旧小林一三邸・雅俗山荘も「小林一三記念館」としてリニューアルオープンしますね!今からすごく楽しみです(^0^)

  4. kotaro | URL | 8nGiSIKA

    そうなんです、満100周年

    今朝長屋の向かいのおばあちゃんと話していたら、
    この裏の道の向こうの高層マンションが以前はゴルフ
    練習場だったということは、知っていましたが、
    その前はなんと阪急開業時の車庫だったのです。

    「昔はうるそうて、」
    50年以上住んでいる住人からこんな貴重な証言も
    聴かれるなんて、今気づいてびっくりです。
    明日と明後日は「おたな巡り」で池田の町おこし
    イベントがあります。
    酒造2社も見られるようです。

  5. 新之介 | URL | sDz630us

    小林一三さんは箕面有馬電気軌道の開業事務をしていた頃、
    城東線の桃谷駅から通勤していたようです。
    まだ環状線がない時代ですね。

    ばんぼうさん
    古い白黒写真なので、雪のように見えるかもしれませんが、
    地面が白く飛んでいるのでそのように見えるのかもしれません。
    これのジオラマが売られていますよ。
    http://ensenstyle.hankyu.co.jp/railfan/topics/100308umeda.html

    のりみさん
    「小林一三記念館」のオープンが4月22日なんですね。
    オープンしたらぜひ行ってみます。

    kotaroさん
    「昔はうるそうて、」
    昔の電車って音がうるさかったのでしょうか。
    面白いですね。
    それは走る音なのか、ブレーキの音なのか、
    わからないけど、当時のことが想像できる。
    淀川の鉄橋もうるさかったのかもしれないですね。

  6. 佐々木義明 | URL | mQop/nM.

    京王電鉄も百年

    阪急宝塚本線が開業した明治四十三年に東京では京王電鉄が設立されました。当時は『京王電気軌道』と言う社名で、三年後には笹塚~調布が開業しました。当時東京では既に東武鉄道、西武鉄道、京急電鉄、東急電鉄の旧玉川線が既に開業し、京成電鉄も創立直後で有りました。梅田旧ビルが解体されますが、10年前に関連会社の阪急コミュニケーションズにて旧ビル、電気・信号設備、コレクションなどの紹介を含めた鉄道関連書籍が販売されました。

  7. TOSSY | URL | mXJ0wlpU

    阪急育ち

    私は阪急沿線育ちで 阪急住宅に住んでいました
    住所は 戸籍謄本などに書かれているのはと違う阪急住宅のつけた町の名前で郵便が届いていましたね

    尼崎市塚口住宅地○町何丁目何番地

    ○のところには 松竹梅桜菊緑と6つの町名が入りました
    静かな住宅地でしたが 児童公園が無く私たちは公園のブランコで遊んだことがありませんでした
    庭か道 小学校が遊び場でした
    池田の室町にはあったそうですが 塚口にはなくて これは小林一三の失策でしょうね
    神戸線 伊丹線が開通したのは 大正9年だったそうです
    住宅を売り出したのは昭和9年と聞いています

  8. 新之介 | URL | sDz630us

    佐々木義明さん

    京王電鉄の設立が明治43年ですか。大阪の京阪電鉄も明治43年に開業しています。この時代、全国的に鉄道ブームに湧いていたのでしょうか。設立と開業ラッシュですね。


    TOSSYさん

    塚口住宅地には公園がなかった!?
    たしかに、それはいけない。
    なぜ公園を作らなかったのだろう?

    小林一三氏は自叙伝でもいくつかの失敗談を書いておられます。
    室町住宅地での購買組合と倶楽部の設置や、西洋館の建築、箕面動物園の失敗など…

    その中に塚口住宅地での児童公園を設置しなかったことも入れてもらわないと…

  9. kotaro | URL | 8nGiSIKA

    私鉄建設ラッシュ

    今まで知識として、知っていただけでしたが、やはり105年前の日露戦争の「勝利」、これは今考えると、単純なものでなく、戦費調達が戦後どう、回ってきたのかとか、分析しないといけません。
    民衆は浮かれて、戦後の騒ぎもありましたが、したたかなる経世家たちは、冷静にカードを切る時期を待っていたかのようですね。

    あと、面白い情報なのですが、私の家の近所に「池田ビリヤード」という時代を超越したような木造のビリヤード場が残っています。これは、もしかしたら室町の紳士たちが始めた遊びの残影かと最近思い始めました。
    ビリヤード場ってそんなにないんです。進駐軍やGHQの時代に残して行ったか、米軍基地のある町。派生の理由が限られています。
    一三は数寄の文化信奉の一方、カンツリーやジェントリーといった英国文化に範を求めた部分があります。慶応義塾ってそうなのかな。
    この能勢街道を、梅田の大阪市内まで戻ると、茶屋町あたりに出ます。そこにある英国風バーで英国ビールを飲んでいるときに、閃いた発想なんです。面白いですね。

  10. 新之介 | URL | sDz630us

  11. 樋口佐知子 | URL | 52p1Zst.

    私の室町時代

    私は室町生まれでは有りませんが、戦前から室町に住み学校は池田付属へ行きました。たまたま室町時代の事を書きたいと思い、まずは小林一三氏のことを調べておりますとこのページにで会いました。

    #7の池田の室町には(公園が)あったそうですが...と書かれておりますが室町にも公園はありませんでした。
    #9ビリヤードのことですが、私は小さい頃はあまり家から外へ出ませんでしたが、なぜかビリヤードの事を知っていたような気が致しますから駅前あたりにあったのではないでしょうか?
    #10 は文字化けで読めません。

    つぎのパスワードのことは判りませんが...



  12. 新之介 | URL | sDz630us

    樋口さん

    はじめまして。
    戦前から室町にお住まいだとはビックリです。
    コメントありがとうございます。

    さて、#10の文字化けの件ですが、
    これはグーグルマップのストリートビューで場所を指定していました。
    下記の画像がそれです。建物に「BILLARD」の文字が見えます。
    http://blog-imgs-42.fc2.com/a/t/a/atamatote/billiard.jpg
    国道176号線沿いの源立寺の2軒どなりのあたりです。

    パスワードは入れても入れなくても大丈夫なのですが
    入れると後で文字の修正などができます。

    今後ともどうぞよろしくお願いします。

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