2010年03月07日 12:00
阪急電鉄開業100周年記念・小林一三の愛した池田特集 4
呉服の里・池田に2つの神社あり
池田の町には伊居太(いけだ)神社と、呉服(くれは)神社があります。
この2つの神社、「上の宮」・「下の宮」とされたり
穴織媛(あやはとりのひめ)と呉服媛(くれはとりのひめ)が祀られていたりと
いつの時代でも対の存在であったようです。
この2つの神社について、簡単にご紹介したいと思います。
わかりやすくする為に細かい所は省略して解説しますね。

まずは位置関係から。いつもの明治19年測量の地図です。
赤いラインが能勢街道。池田の町の北端と南端に神社があります。

現在の地図に重ね合わすと、

こんな感じ。
中心部で道標を見つけたのですが、なんか中途半端な場所。
また次回にご紹介します。

能勢街道沿いに伊居太神社へ上っていく階段があります。

伊居太神社の由緒は古く、仁徳77年(西暦289)まで遡ります。

訪れたのは日が暮れかけた時間帯。
何かの気配を感じながら歩いて行きました。

池田の神社を語る時、必ず呉服の里の話をする必要があります。
それは、こんなお話。
第15代応神天皇の命により、阿知使主(あちおみ)らは、中国の呉(ご)の国に機織りと裁縫いの工匠を求めにいきます。

呉の王から4人の女性の工匠を与えられ、うち3人が摂津国に着きました。彼女達の教えにより、機織り、裁縫い、染色の技術が我が国に伝わり、男女寒暑の服装の別が定まったと言われています。

逆に考えると、この時代まで、まともな衣服が日本にはなかったということなのですね。

そのうち、穴織(あやはとり)と呉服(くれはとり)が住んだとされる地域が呉服の里(くれはのさと)と言われています。

その後、穴織が亡くなり、次いで呉服が亡くなります。2人の遺体は姫室、梅室に納められたそうです。

伊居太神社は、その穴織大明神と
第15代応神天皇、第16代仁徳天皇が祀られています。

こちらは呉服(くれは)神社。

呉服大明神と仁徳天皇が祀られています。呉服(くれはとり)は仁徳天皇の時代に、139歳で亡くなったといわれています。仁徳天皇はその功績を称え、遺体を室に納めました。翌年御神祠が建てられたのが、呉服神社の始まりです。

その後ぐっと時が過ぎ、第96代後醍醐天皇の時代、呉服大明神と名付けて、仁徳天皇と共に祀られるようになったと由緒に書かれていますので、穴織大明神もこの時代に名付けられたのでしょう。

境内に呉服が納められた姫室があります。

中には入れませんでしたが、石碑には姫室と刻まれています。
伊居太神社境内にも同じ様な石碑があるようなのですが
行った日は夕方で暗かったので気づきませんでした…。
実はこれらの姫室、梅室、明治時代に移設されたものです。
元々これらの室は古墳として、田んぼの真ん中にあったそうで、
明治42年に箕面有馬電気軌道の開通により、その軌道敷にあったものを発掘し、
姫室は伊居太神社境内に、梅室は呉服神社境内に移設したそうです。
姫室は秘め室、梅室は埋め室という意味の名称ではないかと池田町史には書かれています。
注)呉服神社にあるのは姫室なのですが、池田町史には梅室と書かれています。
伊居太神社境内にある石碑にも姫室と刻まれているようです。
ついでに、

「池田町史」より
穴織姫神像が伊居太神社内に、呉服姫神像は寿命寺に所蔵されています。
個人的なひとりごと…
伊居太神社も呉服神社も古い神社ですので、由来も諸説あるようです。
今回2つの神社の由来(境内にあるパネル)を読んで訳が分からなくなりました。
伊居太神社では「綾織」と「呉織」、呉服神社では「穴織」と「呉服」というように字が違う。それ以外にも混乱したことが多々ありました。
正直、統一されたものがなく、互いに微妙に違う事を書いているという印象です。
一般の観光の気持ちで訪れた私には、ちょっと不親切な印象を受けました。
別に批判している訳でないです…
伊居太神社の由来も一般的なことを書きましたが、
池田町史を読む全然ちがう説が書かれていたりします。
個人的にはちょっと消化不良状態です…^^
改めて再訪問する必要がありそう…
(おまけ)

ここは能勢街道沿いにある星の宮。

伊居太神社のお旅所でもあります。

多くの星が天から降りてきて、
夜遅くまで機織りをする姫達を真昼のように明るく照らしたとか…
なんともロマンチックなお話です。
(追記)
ちょっと面白い写真をご紹介。
そこには謎のものが写っています。

「75年のあゆみ(写真編)」より
この写真は明治42年頃の線路敷設工事の写真です。左に見える森は呉服神社。
これだけでも面白い写真なのですが、姫室と梅室が写っていないか探してみたんです。

すると奥の方に何やら塚っぽいものが…。
これは敷設工事で移設された室ではないのでしょうか?
あなたはどう思いますか? ^^
(追記)

伊居太神社境内にある姫室の石碑です。
ブッシュに囲まれていて探すのに苦労しました。
(関連記事)
阪急電鉄開業100周年記念・小林一三の愛した池田特集
『池田うろうろ』 2010.02.19
『五月山からの眺め』 2010.02.27
『池田の酒蔵、呉春と緑一』 2010.03.01
『伊居太神社と呉服神社』 2010.03.07
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穴織媛(あやはとりのひめ)と呉服媛(くれはとりのひめ)が祀られていたりと
いつの時代でも対の存在であったようです。
この2つの神社について、簡単にご紹介したいと思います。
わかりやすくする為に細かい所は省略して解説しますね。

まずは位置関係から。いつもの明治19年測量の地図です。
赤いラインが能勢街道。池田の町の北端と南端に神社があります。

現在の地図に重ね合わすと、

こんな感じ。
中心部で道標を見つけたのですが、なんか中途半端な場所。
また次回にご紹介します。

能勢街道沿いに伊居太神社へ上っていく階段があります。

伊居太神社の由緒は古く、仁徳77年(西暦289)まで遡ります。

訪れたのは日が暮れかけた時間帯。
何かの気配を感じながら歩いて行きました。

池田の神社を語る時、必ず呉服の里の話をする必要があります。
それは、こんなお話。
第15代応神天皇の命により、阿知使主(あちおみ)らは、中国の呉(ご)の国に機織りと裁縫いの工匠を求めにいきます。

呉の王から4人の女性の工匠を与えられ、うち3人が摂津国に着きました。彼女達の教えにより、機織り、裁縫い、染色の技術が我が国に伝わり、男女寒暑の服装の別が定まったと言われています。

逆に考えると、この時代まで、まともな衣服が日本にはなかったということなのですね。

そのうち、穴織(あやはとり)と呉服(くれはとり)が住んだとされる地域が呉服の里(くれはのさと)と言われています。

その後、穴織が亡くなり、次いで呉服が亡くなります。2人の遺体は姫室、梅室に納められたそうです。

伊居太神社は、その穴織大明神と
第15代応神天皇、第16代仁徳天皇が祀られています。

こちらは呉服(くれは)神社。

呉服大明神と仁徳天皇が祀られています。呉服(くれはとり)は仁徳天皇の時代に、139歳で亡くなったといわれています。仁徳天皇はその功績を称え、遺体を室に納めました。翌年御神祠が建てられたのが、呉服神社の始まりです。

その後ぐっと時が過ぎ、第96代後醍醐天皇の時代、呉服大明神と名付けて、仁徳天皇と共に祀られるようになったと由緒に書かれていますので、穴織大明神もこの時代に名付けられたのでしょう。

境内に呉服が納められた姫室があります。

中には入れませんでしたが、石碑には姫室と刻まれています。
伊居太神社境内にも同じ様な石碑があるようなのですが
行った日は夕方で暗かったので気づきませんでした…。
実はこれらの姫室、梅室、明治時代に移設されたものです。
元々これらの室は古墳として、田んぼの真ん中にあったそうで、
明治42年に箕面有馬電気軌道の開通により、その軌道敷にあったものを発掘し、
姫室は伊居太神社境内に、梅室は呉服神社境内に移設したそうです。
姫室は秘め室、梅室は埋め室という意味の名称ではないかと池田町史には書かれています。
注)呉服神社にあるのは姫室なのですが、池田町史には梅室と書かれています。
伊居太神社境内にある石碑にも姫室と刻まれているようです。
ついでに、

「池田町史」より
穴織姫神像が伊居太神社内に、呉服姫神像は寿命寺に所蔵されています。
個人的なひとりごと…
伊居太神社も呉服神社も古い神社ですので、由来も諸説あるようです。
今回2つの神社の由来(境内にあるパネル)を読んで訳が分からなくなりました。
伊居太神社では「綾織」と「呉織」、呉服神社では「穴織」と「呉服」というように字が違う。それ以外にも混乱したことが多々ありました。
正直、統一されたものがなく、互いに微妙に違う事を書いているという印象です。
一般の観光の気持ちで訪れた私には、ちょっと不親切な印象を受けました。
別に批判している訳でないです…
伊居太神社の由来も一般的なことを書きましたが、
池田町史を読む全然ちがう説が書かれていたりします。
個人的にはちょっと消化不良状態です…^^
改めて再訪問する必要がありそう…
(おまけ)

ここは能勢街道沿いにある星の宮。

伊居太神社のお旅所でもあります。

多くの星が天から降りてきて、
夜遅くまで機織りをする姫達を真昼のように明るく照らしたとか…
なんともロマンチックなお話です。
(追記)
ちょっと面白い写真をご紹介。
そこには謎のものが写っています。

「75年のあゆみ(写真編)」より
この写真は明治42年頃の線路敷設工事の写真です。左に見える森は呉服神社。
これだけでも面白い写真なのですが、姫室と梅室が写っていないか探してみたんです。

すると奥の方に何やら塚っぽいものが…。
これは敷設工事で移設された室ではないのでしょうか?
あなたはどう思いますか? ^^
(追記)

伊居太神社境内にある姫室の石碑です。
ブッシュに囲まれていて探すのに苦労しました。
(関連記事)
阪急電鉄開業100周年記念・小林一三の愛した池田特集
『池田うろうろ』 2010.02.19
『五月山からの眺め』 2010.02.27
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『伊居太神社と呉服神社』 2010.03.07
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コメント
jack77betty | URL | -
鎮守の森
>能勢街道沿いに伊居太神社へ上っていく階段があります。(新之介さん)
伊居太神社に行ったのはもう何十年も昔。当時はお写真で階段の向かって左側に見えます民家はなく、鬱蒼とした森の真中を階段が上まで登っていたと思います。いわゆる鎮守の森がだんだん削られて行くのは、時代とは言えさびしい限りです。
( 2010年03月07日 14:54 )
kotaro | URL | 8nGiSIKA
そういえば
鎮守の森で思い出しましたが、阪急神戸線が武庫川を渡り、
西宮の車庫にかかる踏切へ降りて行く辺り、
神戸に向かい右手に、あの辺りでは珍しい原生林が残っています。
日野神社の社叢です。
あの森も震災以前は喜ばしいくらい古色たる杜でしたが
西宮市が近年著しく都市化して周囲も田畑が減少しすぐ
裏側まで新しい住宅地になりました。
それでもまだ中に入ると大昔の瓦木や瓦林といった頃の
面影がまだ残っているように思えます。
( 2010年03月07日 15:20 [Edit] )
jack77betty | URL | -
re:鎮守の杜
kotaroさん、こんばんは。コメントありがとうございました。
>鎮守の森で思い出しましたが、阪急神戸線が武庫川を渡り、
>西宮の車庫にかかる踏切へ降りて行く辺り、
>神戸に向かい右手に、あの辺りでは珍しい原生林が残っています。
>日野神社の社叢です。( kotaroさん)
偶然ですが、今年の正月ちょうど武庫川を挟んで(斜め)向かいの素盞嗚神社に御参りしてそのあと同神社の伝統行事のお蔭踊りとおなじく西宮神社に足を延ばしました。西宮神社はその日が宵戎、沢山の人出でした。
日野神社の情報を知っていれば、少し遠回りしてそちらも見学して行けたのに残念な事をしました。機会があればまた行ってみたいと思います。情報ありがとうございました。
( 2010年03月07日 18:04 )
新之介 | URL | sDz630us
jack77bettyさん
いまでも階段を上がっていくと別世界に迷い込んだみたいでしたよ。
薄暗かったから少し怖いぐらいでした。
そんな雰囲気の神社が好きです。
何かの気配がしました…^^;
kotaroさん
日野神社の森は以前にもTOSSYさんに聞いたことがあって
地図上で見ていました。とても気になっている神社です。
行ってみたいと思っています。
( 2010年03月11日 00:32 [Edit] )
今津っ子 | URL | 4nygY/.M
池田シリーズ、楽しく読ませていただいています。
私の地元の津門にも、同じ呉織伝説がありますが、不思議と西宮と池田の間に本家争いがなく、お互い無視することで共存共栄しているようです。
池田には私の大好きなうどん屋「吾妻」があるのですが、ちょうどその店が大阪府で一番短い街道に面していますので、昨年撮影した写真と解説をアップしました。
http://d.hatena.ne.jp/imazukko/20100311
ところで、西宮でもマイナーな日野神社が話題にのぼっていて驚きました。
私の亡母が子供頃、この神社でよく遊んだと聞かされていました。
現在、『西宮の道標』の著者、宮崎延光さんのご子息が、この日野神社と少し南にある熊野神社の両方の神主を兼ねておられます。
どちらの神社も、阪神淡路大震災で被災し、大きな被害を受ながら修復が進まず苦労されています。
日野神社は、よくやく本殿の再建活動が始まった状況です。
戦国時代にあった瓦林城の跡地と言われ、価値の高い史蹟なのですが、なにぶん財政難のようで、kataroさんが「原生林」と書かれているように、荒れるにまかせているのは残念な限りです。
( 2010年03月13日 10:12 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
今津っ子さん
呉織伝説について、
「日本書紀」にも池田に来たとは書かれていないようです。
池田にこの伝承が広まったのは平安時代だそうで、
「まんが池田の歴史」では土師太郎という人物が
広めたと書かれています。
呉織伝説の真実はこれからもわからないかもしれませんね。
( 2010年03月14日 01:50 [Edit] )
kotaro | URL | 8nGiSIKA
失礼しました
原生林は言葉が適当でありませんですね。
太古の林という意味で、人間の手の入ってない杜という
意味合いで言わせてもらいました。
きょうは岡町で降りて商店街を通らずに原田神社の
横を通って国道の方へ向かう途中、古い眼科の横あたり
神社の社殿の後ろにあるこんもりとした林に、日暮れ
いっせいに野鳥が帰ってきてとても賑やかでした。
太古からの人の気配のない森を、野生動物たちが
知っているのに気がつくと、とても嬉しいです。
それがこんな街中に、などという時はとりわけです。
( 2010年03月15日 21:20 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
kotaroさん
僕が神社に惹かれるのも同じような感覚だと思います。
昔は家も少なく田んぼが広がる所に
ぽつん、ぽつんと神社の森があって、
その回りに集落があった。
今でもその名残がいたるところに残っています。
どの土地に行っても、高台から町を見たとき、
そんな森にまず目がいきます。
で、無性にそこに行きたくなる。
これ、僕のクセです^^;
( 2010年03月17日 10:05 [Edit] )
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