2009年12月30日 08:00
吹田街道をゆく(1)
吹田の渡し~泉殿宮

明治18年測量の地図です。東西にのびる道は吹田街道、
南北は亀岡街道です。

上の地図のつづき、南北の道は能勢街道です。
この辺りは中小の村がたくさんありました。
今でも旧家が残っているのでしょうか。
今回はすべてを歩きましたので、何回かに分けてご紹介していきます。
スタートは 吹田の渡し跡から。

左の川は現在の安威川、昔は三国川とか神崎川とも呼ばれていました。

渡しは明治8年に高浜橋ができた事で廃止になっています。

この道が亀岡街道。

昔の面影が残る町並みですね。

歩き出してすぐに道標がありました。
まっすぐ行くと亀岡街道。

ここが吹田街道との分岐点のようです。

ここから吹田街道が始まります。
亀岡街道をそのまま歩くと、

大通りの所に再び道標がありました。正面には「右 大坂道」とあります。

解説を読むと「右 大坂道」は明治時代に補刻されたとか。
さて、

高浜神社の前にある建前地蔵尊の横の道を進んでいきます。

立派な旧家。

横道をのぞくとこんな町並みが。

民家に挟まれて鳥居を見つけましたよ。
鎮守社だそうです。

JRの高架を超えると道が二股に。

左に行くと正面に泉殿宮(いづどのぐう)が見えてきます。

由緒はかなり古いみたい。アサヒビールの創業にも関係があるようですよ。

詳しくはこちらを。

僕が気になったのがここ。

中に地車(だんじり)があるんですよ。

実はこれ、吹田戎神社だそうで、地車が社殿になっています。珍しいでしょ。

もうひとつ面白いものがありました。
この木の柱は大阪万博の起工式で使われた元柱(もとつはしら)です。

万博会期中、この泉殿宮で万博の無事成功を祈念していたとか。
だから大成功したのかな。

境内には立派なクスノキもありました。
より大きな地図で 吹田街道 を表示
さて、

次は旧垂水村へ向かいます。
歩道橋から振り返ると吹田街道が見下ろせました。
旧吹田村はまだまだ見所がたくさんありますが、
今回はこれぐらいにしておきます。
今回が今年最後の記事です。
今年もいろいろありがとうございました。
みなさんの応援が更新のエネルギーです。
来年も頑張ります!
どうぞよい年をお迎えください。
(関連記事)
『 1. 吹田街道をゆく 吹田の渡し 』 2009.12.30
『 2. 吹田街道をゆく 垂水町 』 2010.01.04
『 3. 吹田街道をゆく 江坂 』 2010.01.08
『 4. 榎坂郷と荘園と今西家 』 2010.01.20
『 5. 消えた地名、蔵人 』 2010.01.23
『 6. 吹田街道をゆく 小曽根 』 2010.01.26
『 7. 足の神様・服部天神宮 』 2010.02.01
『 8. 旧穂積村を歩く 』 2010.02.08
『 1. 旧吹田村を歩こう・吹田駅と高浜神社 』 2009.12.10
『 2. 旧吹田村を歩こう・重要文化財・旧西尾家住宅 』 2009.12.11
『 3. 旧吹田村を歩こう・古い町並みと大の木 』 2009.12.15
『 住吉神社と豊国神社 』 2009.01.18
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吹田の渡し~泉殿宮

明治18年測量の地図です。東西にのびる道は吹田街道、
南北は亀岡街道です。

上の地図のつづき、南北の道は能勢街道です。
この辺りは中小の村がたくさんありました。
今でも旧家が残っているのでしょうか。
今回はすべてを歩きましたので、何回かに分けてご紹介していきます。
スタートは 吹田の渡し跡から。

左の川は現在の安威川、昔は三国川とか神崎川とも呼ばれていました。

渡しは明治8年に高浜橋ができた事で廃止になっています。

この道が亀岡街道。

昔の面影が残る町並みですね。

歩き出してすぐに道標がありました。
まっすぐ行くと亀岡街道。

ここが吹田街道との分岐点のようです。

ここから吹田街道が始まります。
亀岡街道をそのまま歩くと、

大通りの所に再び道標がありました。正面には「右 大坂道」とあります。

解説を読むと「右 大坂道」は明治時代に補刻されたとか。
さて、

高浜神社の前にある建前地蔵尊の横の道を進んでいきます。

立派な旧家。

横道をのぞくとこんな町並みが。

民家に挟まれて鳥居を見つけましたよ。
鎮守社だそうです。

JRの高架を超えると道が二股に。

左に行くと正面に泉殿宮(いづどのぐう)が見えてきます。

由緒はかなり古いみたい。アサヒビールの創業にも関係があるようですよ。

詳しくはこちらを。

僕が気になったのがここ。

中に地車(だんじり)があるんですよ。

実はこれ、吹田戎神社だそうで、地車が社殿になっています。珍しいでしょ。

もうひとつ面白いものがありました。
この木の柱は大阪万博の起工式で使われた元柱(もとつはしら)です。

万博会期中、この泉殿宮で万博の無事成功を祈念していたとか。
だから大成功したのかな。

境内には立派なクスノキもありました。
より大きな地図で 吹田街道 を表示
さて、

次は旧垂水村へ向かいます。
歩道橋から振り返ると吹田街道が見下ろせました。
旧吹田村はまだまだ見所がたくさんありますが、
今回はこれぐらいにしておきます。
今回が今年最後の記事です。
今年もいろいろありがとうございました。
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どうぞよい年をお迎えください。
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『 1. 吹田街道をゆく 吹田の渡し 』 2009.12.30
『 2. 吹田街道をゆく 垂水町 』 2010.01.04
『 3. 吹田街道をゆく 江坂 』 2010.01.08
『 4. 榎坂郷と荘園と今西家 』 2010.01.20
『 5. 消えた地名、蔵人 』 2010.01.23
『 6. 吹田街道をゆく 小曽根 』 2010.01.26
『 7. 足の神様・服部天神宮 』 2010.02.01
『 8. 旧穂積村を歩く 』 2010.02.08
『 1. 旧吹田村を歩こう・吹田駅と高浜神社 』 2009.12.10
『 2. 旧吹田村を歩こう・重要文化財・旧西尾家住宅 』 2009.12.11
『 3. 旧吹田村を歩こう・古い町並みと大の木 』 2009.12.15
『 住吉神社と豊国神社 』 2009.01.18
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コメント
ゼク | URL | q1cvaNjE
平成の現在に埋もれてしまった江戸時代の旧道を見つけ出して
歩くことは本当に楽しいですね。
これらの旧道があって村が繁栄し今の街があることを知れば
旧道を歩くことに万感の思いがこみ上げてくるのは私だけでしょうか・・・・。
( 2009年12月30日 12:43 [Edit] )
ぷり | URL | mQop/nM.
こんにちは。
久しぶりの実家(一部)が写っているのでちょっとニヤニヤしてしまいました。
吹田の渡しの看板付近の植木は母が勝手に手入れしてるそうです。笑
街道沿いの景色は私が子供の頃とはずいぶん変わった部分もありますが、最近は歴史文化の伝承や保存に力を入れ始めているようで、浜屋敷など旧家の公開も始まり、嬉しい気持ちです。
泉殿宮の付近も昔よく遊びに行きましたが、この辺は全然変わりませんね。今はもう滅多に行かないので懐かしいです。
当たり前に目に焼きつきすぎて何も考えなかった光景に一つ一つの歴史がある事を改めて思い知った気がしました。
西尾邸の日記リンクしていただいてありがとうございます(*^_^*)
( 2009年12月30日 21:37 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
ゼクさん
旧道を歩くのはとても楽しい。
旧村を歩くのはもっと楽しい。
僕は、有名な場所より、庶民の暮らしの名残を
探し歩きたいと思っています。
来年もよろしくです! ^^
ぷりさん
実家が写っていましたか…^^;
吹田の渡し跡の場所はきれいにされていますね。
お地蔵さんのまわりもきれいになっていました。
http://blog-imgs-37.fc2.com/a/t/a/atamatote/IMG_1336_2.jpg
地域の方々の気持ちが伝わってくるとても気持ちがいい場所でしたよ。
来年もよろしくです!
( 2009年12月31日 16:14 [Edit] )
びんみん | URL | X/3kRDtY
新之介さん、こんばんは。
だんじりの社殿に、万博の元柱と面白いものを見つけられましたね。
街道の写真も誘いこまれるような写真です。
今年は面白い記事を多数読ませていただき、またやりとりもさせていただき、ありがとうございました。
よい年をお迎えください。
( 2009年12月31日 23:41 [Edit] )
今津っ子 | URL | 4nygY/.M
本年もよろしくお願いします。
吹田街道はちょうど私も調査中ですので、気付いた点を書かせていただきます。
榎阪から能勢街道に至るルートは、明治時代に大きく変更されています。
江戸時代から明治初期にかけては、榎阪の道標から一旦北上してから西に向い、西願寺橋で高川を渡って西北に斜行し、長興寺で能勢街道に合流すのがメインルートで、豊島郡内では「京道」と呼ばれていました。
そのことは、明治末期に書かれた「豊島郡誌」や明治10年代に作成されたこの地域各村の村誌によって確認できます。
もちろん、榎阪と小曽根を結ぶ道も、古くから利用されていました。
小曽根に「京道」を示す道標が現存すること、垂水村誌には小曽根への道が記載されていること(小曽根村誌には記載無し)、等で確かめられます。
ただし、あくまでも服部や小曽根附近から榎阪で吹田街道に合流するための里道扱いです。
やがて明治24年、「垂水街道」の名で中豊島村から吹田村に至る道が大阪府補助里道に指定されましたが、長興寺も服部も同じ中豊島村に所属していましたので、榎阪以西のルートは、この時点では不明です。
そして、遅くとも明治30年頃には、榎阪から小曽根村を経由し、服部で能勢街道に合流するのがメインルートになったようです。
明治33年の「大阪府管内道路河川畧図」では、能勢街道との接続点は「中豊島村服部」と明記されています。なお、この時に改名され、初めて「吹田街道」と言う名前が登場します。
ただし、小曽根村集落南端から西に直行して字市場で能勢街道に至る道は、明治中頃までの里道時代のルートで、吹田街道指定時は、天竺川手前で北上し、ジグザグに西北に進んで服部天神北側に至っていますが、この新ルートは明治18年測量図には記載されていませんので、明治42年測量図を使用されるのがいいかと思います。
参考までに、地図を3枚貼っておきます。
「豊島郡誌」
http://imazukko.fau.jp/kaidou/teshimagunshi.jpg
「大阪府管内道路河川畧図」
http://imazukko.fau.jp/kaidou/kasenryakuzu.jpg
「京道地図」
http://imazukko.fau.jp/kaidou/kyomichi.jpg
長文の書込み、失礼しました。
( 2010年01月01日 23:02 [Edit] )
今津っ子 | URL | 4nygY/.M
連続投稿で申し訳ありません。
私のサイトで公開している「津戸ノ中道」のルート選定が間違っていたことが判明し、現在、正しいルートに書き換え中ですが、吹田市内のページのみ先行アップしました。
津戸ノ中道は、新之介さんが紹介されている泉殿宮近くで吹田街道と交差します。
なお、交差部附近にかつて津戸ノ中道の一里塚があり、それにちなんだ榎茶屋という水茶屋があり、のちにその地はタイガー食堂となりました。
「津戸ノ中道を歩く7」
http://imazukko.fau.jp/kaidou/01kyokaido/01tsuto/tsuto07.html
「津戸ノ中道を歩く8」
http://imazukko.fau.jp/kaidou/01kyokaido/01tsuto/tsuto08.html
食堂は近年まで営業してようですが現存しません。
どなたか、情報がありましたらよろしくお願いします。
( 2010年01月02日 02:20 [Edit] )
今津っ子 | URL | 4nygY/.M
またまたの投稿で申し訳ありません。
最初の投稿に関して一つ補足があります。
榎阪から能勢街道へは、榎阪の道標から北上するのが古いルートで、榎阪から小曽根に行く道は里道と書きましたが、江戸時代資料のうち元禄および天保国絵図では小曽根経由のルートが描かれています。
ただし、明治中期に大阪府補助里道に指定された吹田街道と異なり、小曽根集落を南下することなく、「京道地図」にあるように、集落北端で池田道(旧道)と合流して西北に斜行し、西願寺橋で再び京道に合流して結局、長興寺で能勢街道に至ります。
( 2010年01月02日 04:20 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
びんみんさん
ありがとうございます。
こちらこそびんみんさんの記事、楽しんでます。
なかでもちょっとマニアックなネタが好き ^^
今年もよろしく~!
( 2010年01月03日 00:27 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
今津っ子さん
毎回の詳しい解説、とても参考になります。
>小曽根に「京道」を示す道標が現存すること…
そういえば、西福寺の参道で埋もれた道標らしいものを見つけました。
>ただし、小曽根村集落南端から西に直行して字市場で能勢街道に至る道は、明治中頃までの里道時代のルートで、吹田街道指定時は、天竺川手前で北上し、ジグザグに西北に進んで服部天神北側に至っています
なるほど、濱村から天竺川に掛かる橋を渡って北に行って住吉神社~服部天神に向かうのか字市場に行くかを悩んでいました。
「津戸ノ中道を歩く7」 http://imazukko.fau.jp/kaidou/01kyokaido/01tsuto/tsuto07.html
の中の写真2、3がとても参考になります。
こんな風景だったんですね。
この辺りの吹田街道が少し高台になっていたので、
南側に田園風景が広がっていたんだろうなあと思いながら歩いていました。
いつも詳しい解説ありがとうございます。
今年もよろしくお願いします。
( 2010年01月03日 01:00 [Edit] )
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