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十三が歓楽街になる前

2007年09月30日 22:39

大阪十三が歓楽街になる前

昭和12年の十三の地図です。ちょうど「思い出のイラストマップ」が描かれている時代。町中に水路が張り巡らされていて、十三から少し離れたところにはまだ田んぼや畑があったのだそうです。十三駅の京都線が十三停めになってますね。まだ新京阪電鉄だったのです。東西に赤い二本線があります。これが淀川通りで区画整理が始まる前ですね。十三バイパスはまだありません。十三公設市場の右側を約50年後通ることになります。赤い丸をみると岡崎牧場や十三名物あん焼なんかも確認できます。当時この辺りにはどんな風景が広がっていたのでしょうか。

昭和12年map
昭和12年の地図

イラストマップ広域
その頃のイラストマップ

淀川通り
淀川通り(右が十三公園、左が北野高校)

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コメント

  1. 西岡邦夫 | URL | -

    大阪変圧器近傍

    元今里北通三丁目には大阪変圧器の工場があり、すぐ南に市営住宅が数十戸ありました。わたしは昭和6年から14年5月までその中の一軒にすんでいました。東側には広場があり、野球など出来ました。さらに二三百メートル行くと、神津尋常高等小学校がありました。

  2. 新之介 | URL | -

    コメントありがとうございます。

    貴重なコメントありがとうございます。大阪変圧器の工場の前は川だったんですね。当時は泳いだりされたのでしょうか?今もあるお墓の近くですね。今後も当時の事を教えてください。

  3. 西岡邦夫 | URL | -

    大阪変圧器の南側

    大阪変圧器の直ぐ南側に市営住宅団地があり、その南側に川がありました。川幅は正確には記憶していませんが、市営住宅団地の東西の中央あたりにこの川を渡る橋がありました。この橋を渡り直ぐ右に二三十メーター行くとお墓がありました。今もこのお墓があるとの事非常に懐かしいです。橋を渡り真直ぐ行くと、散髪屋がありその隣が銭湯でした。この川には小さな魚がおり、小学生時代には魚釣りなどしましたが、泳げるような綺麗な川ではありませんでした。今もこの川はあるのでしょうか。

  4. 新之介 | URL | -

    川はなくなりました

    川は昭和40年代に埋め立てられ道路になっています。私はほとんど記憶がないのですが、親父はどぶ川といっていたので、かなり汚れてしまっていたのかもしれません。お墓は当時とあまり変わっていないのではないでしょうか。そこにあるお地蔵さんの話を10/13の「かさじぞうみつけた」で紹介しています。銭湯もまだあります。たぶん菊水湯だと思います。ここもいつか紹介したいと思っている場所です。散髪屋さんは残念ながらもうありません。西岡さんのコメントは励みになります。ありがとうございます。

  5. 西岡邦夫 | URL | -

    昭和10年頃を思い出して

    今も銭湯が残っているとは本当に懐かしい思いです。昔はお正月は元日の朝風呂で始まりました。どこの家も日の丸の旗を玄関の所にあげ、40cm位の門松を玄関の両側の柱に飾っていました。追羽根や凧揚げが盛んでした。十三の昭和10年頃の地図に正岡医院がありましたが、昔は大抵のお医者さんは人力車で往診をされており、私も正岡先生が人力車で往診してもらった記憶があります。
    私は神津尋常高等小学校を昭和14年に卒業したのですが、当時の十三公設市場へは母親に連れられよく行きました。市場の南側にも商店が並んでおり、中に新治漬物店があり、同級生の店でした。

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