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中之島ルネサンス4

2008年12月08日 07:30

大阪市庁舎と市民運動

昭和46年(1971)、大阪市は中之島東部地区再開発構想を打ち出しました。それは市庁舎、府立図書館、中央公会堂を撤去し、そこに高さ3メートルの人口地盤をつくり、その上に25階建ての市庁舎と5階建ての議事堂、6階建ての公会堂を新たに建てるというものでした。

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大阪市の再開発構想に対し、反対の声を最初に上げたのは「日本建築学会近畿支部」でした。その後「新建築家技術者集団」も反対運動を起こし、次第に市民にも広がっていきます。そして昭和47年10月、中央公会堂に約170名の市民と文化人、学者が集まり「中之島をまもる会」が設立されました。

「中之島をまもる会」は大阪市との話し合いを重ねていく内に、今度は日本銀行大阪支店が旧建物の取壊しを含む建て替えプランを発表(昭和48年)します。「中之島をまもる会」はすぐに東京の日本銀行本店に駆けつけ説得にあたりました。そんな中、府立図書館が国の重要文化財に指定(昭和49年)されることになったのです。これにより風向きが変わりだしました。その年の12月、今度は「中之島をまもる会」が日本銀行に提案していた改築プランが採用され、日本銀行大阪支店は全面建て替えを撤回、旧建物の外観保全が決まったのです。

しかし昭和51年、市側は市庁舎改築の4つの具体案を発表します。そしてその年末、市庁舎撤去と全面建て替えを決定しました。ただし中央公会堂に関しては結論が出ず、保存が決定したのは12年後の昭和63年(1988)になってからのことです。中央公会堂はその後歴史的な保存・再生工事を行い、平成14年(2002)12月、国の重要文化財に指定されることになります。最初の反対運動が起こってから30年の歳月が流れていました。

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「朝日新聞 昭和46年6月12日」より
昭和46年は万博の翌年です。古い物がなくなるのは仕方が無いというムードだったのではないでしょうか。写真のキャプションは「取りこわしになる中之島一帯の古い建物」とあります。

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「中之島 よみがえれ わが都市」より
人口地盤を上のせするのは、地盤の下は車で来庁する人にために、地盤の上は歩行者用にと考えられていたからです。これが出来ていたら今頃どんな町並みになっていたんでしょう。

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「大阪市庁舎建設記録」より
昭和51年に発表された新市庁舎構想案(3立地4構想案)です。これはA案で旧庁舎を残し、裏に新庁舎を建設する案です。旧庁舎の保存にも多額の費用が発生します。

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「大阪市庁舎建設記録」より
B案です。周囲の建物との調和を考え、重厚で風格あるものとするとあります。最終的にはこの案に決まります。

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「大阪市庁舎建設記録」より
C案は場所を法円坂の市立中央体育館の場所に建築する案です。これも多額の費用がかかります。

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「大阪市庁舎建設記録」より
D案は大阪駅前に建築する案です。第3ビル、第4ビルのかなりの部分を市庁舎とするものですが、管理面で支障のある案でした。



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「大阪市パノラマ地図」より
大正12年頃の市庁舎周辺です。まだ御堂筋が出来ていませんので、市電が淀屋橋を北浜方面へ曲がっています。

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「おおさか100年」より
大阪市パノラマ地図と同じくらいの時代でしょうか。旧市庁舎の設計は懸賞競技の方法がとられ、小川陽吉氏の案が選ばれました。コンペは明治45年(大正元年)に行われましたが、ちょうどこの年は中之島公会堂の設計コンペも行われていました。着工は大正7年で大正10年に竣工しました。

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「大阪市100年」より
ネオ・ルネサンス様式の総石造りで、屋上の塔は遠くからでも見え、ランドマーク的な存在でした。

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「昭和の大阪」より
昭和20年代後半から昭和30年代前半の写真です。市庁舎の塔が見えますね。橋は淀屋橋です。当時は水辺が近かったんですね。昼休み時の写真のようです。現在のニチメンビルの前辺りでしょうか。

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「大阪市100年」より
塔に「みおつくしの鐘」がつるされたのは、昭和30年だそうです。大阪市婦人団体協議会が寄贈しましたがその時の写真のようです。成人式の時は必ずこの鐘を突くシーンがテレビで放送されていましたね。

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「なにわ今昔」より 
昭和50年の市庁舎です。当時は組織の膨張で手狭になっていました。でももったいないな。いい建物ですよね。

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「中之島・公会堂 よみがえる都市の鼓動」より
新庁舎は昭和54年に着工され、竣工したのは昭和61年でした。2期に分けて建築されました。

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現市庁舎は真ん中で合体してるんですよね。

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市役所前のクリスマスツリーの点灯式のイベントの様子です。前を通りかかった時にやってました。12月1日なので空が笑ってた日と同じ日ですね。

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一市民によって建てられ、多くの市民によって守られた大阪市中央公会堂。


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(追記)
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「中之島 よみがえれ わが都市」より
旧市役所の玄関ホールです。内部もかな優れた意匠だったようです。
「…一階部分は、石造ルスチカ仕上げで堂々たるベースをつくり、その上へ二階から四階をイオニア式角柱の大オーダーがつらぬいて立っている。…」

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「中之島 よみがえれ わが都市」より
昭和50年頃でしょうか。川沿いに駐車スペースがあったり、市役所の右側にも道路があったりと今の中之島とは微妙にちがいますね。この時代の方が車が多く感じます。


(追記)
「中之島をまもる会」の「中之島まつり」のホームページと映像です。
http://www.nakanoshima.net/



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コメント

  1. pinboke_planet | URL | nJ6t.gCE

    旧大阪市庁舎の思い出

     昭和36年(1961年)に肥後橋の近くの会社に勤めるようになると、よく正午15分前くらいに会社を抜け出し(昼食時間は近くの食堂などが混雑するので比較的自由でした=自主的フレックスタイム)、10枚目の写真の対岸を、土佐堀川の川面など眺めながらブラブラと淀屋橋へ向かい、旧市庁舎を訪れました。

     この写真のような親水性?護岸の記憶は無く、すでに現在のようなスタイルに改修されていたのかも知れません。OLのファッションも、すでに膝上または膝下何センチとか言って、一部ではミニスカートの時代になっていましたのですこし違いますね。

     市庁舎に着くと、アプローチの2~3段の階段を上がり、12枚目の写真正面の大きな3つのドアのいちばん右を入ったところの受付というのか、衛視詰め所みたいなところで「教育委員会のSさんをお願いします」と告げるのでした。

     年配のオッちゃんのときもありましたが、大抵は顔見知りになった、若くて素朴で健康そうな女性が、用件を告げる前に、前にある内線電話に手を伸ばして呼び出してくれました。
     ウチの肥後橋の親会社の本社など民間会社の受付嬢とはチョット違うな・・などと思いながら、(たぶん)3階まで吹き抜けになった、広いが決して明るくはないエントランスホールを、またブラブラしながら三方(ひょっとすると正面側も?)回廊を見上げながら、まるで映画の1シーンのように、どこからともなく、高校時代は少年剣士のような十三中学出身・オトコマエのSくんが現れるのを待っていました。

     市役所の食堂や喫茶は(たしか)、正面ホール左手の地下にあったと思いますが、数回しか利用しなかったと思います。
     と、いうのはSくんは天六に学舎のあった大学に通学しながら、すでに社会人としては4年の先輩でしたので、勝手知ったる淀屋橋近辺のビルの地下のグリルなどでランチをいつも気前よくご馳走してくれました。名前は忘れましたが、食後に行った「クリサンテーム」の名前だけ良く覚えているのは、クリサンテームの意味を知らなかったから、ナンだろう?といつも思っていたからでしょうか。「菊屋」の「菊」とはね~。
     外出時は、すでに近年話題になった、無償支給の紺のスーツを着ていてチョット羨ましく思ったものです。胸ポケットの内側に市章かなにかのタグが縫い付けてあって外へ垂らすと制服に、中にしまうと完全に私服になるという説明を聞いたり、(たしか)毎年1着分を服地で支給されるので、余って、まだ仕立てていないのがあるとも言っていましたね。(まだスーツはオーダーメイドの時代だったんですね)

     ぼくが転勤になった後も、最初に買ったブルーバード(・・なので、たぶん昭和40年代はじめ)で市庁舎を訪ねると、裏手堂島川サイドの工事中で未舗装の数台分の仮の駐車スペースにクルマを停めるようにいわれました。
     新庁舎の着工は昭和54年だそうですので、豊国神社の移転工事だったかも知れませんね。そのとき、神社はまだありました。

     その後も訪ねると、回廊に現れるまでの時間が随分かかるようになりました。裏手にプレハブ仮庁舎ができ、そちらへの引越しやなにかで大変や・・と言っていたのを思い出しました。
     それでも、昭和54年よりはかなり前だったように思います。

     その後、彼も他の部局へ移動して、そこそこエライサンになったり、定年後も馬場町の中央体育館長などをしていましたが、新しい市庁舎で会うことはありませんでした。

     近年多くの歴史ある建物の建て替え是非の論議をよく耳にしますが、大阪市庁舎の建て替えは、周囲の景観とよくマッチして、しかも旧庁舎の雰囲気を十分に感じさせる素晴らしい成功例ではないでしょうか。

     すくなくとも、このブログで初めて知った高層化など、他の醜悪な(設計者の方、素直な感想ですんません)プランにならなくて本当に良かったと思います。

     古いアルバムめくり・・・1950sより
    http://www.flickr.com/photos/pinboke/326896292/
    前列向かって左端がSくん

    *余談ですが、入社と同時に親会社の受付嬢がボクのことを以前から知っていると、同僚OLに聞かされて吃驚仰天! (東京の大学へ通学中で、下宿に一泊したこともある友人の幼馴染でGFと判明) 
     彼女はボクの教育係りともいうべき直属の上司のGFでもあったので、その上司が転勤するまで、口には出さねど・・・なんとなく気まずいムードがありましたな~。


  2. TOSSY | URL | mXJ0wlpU

    市役所旧庁舎

    ほとんど覚えていないのですが 学生時代に地下の食堂に行ったような記憶がぼんやりとあります

    新しい庁舎は 61年に完成ですか

    大阪にいたころ消費者運動(市民生協)をやっていて 市に何か要望を出すとかで 市役所に行き 担当の課の人たちと話し合いをしたことがあるのですが 古い庁舎だったとおもいます

    市長室には厚さ2センチのふかふか絨毯が引かれるとか聞いて驚いた覚えがあります

    いま みおつくしの鐘はどこにあるのでしょう

    先週の土曜日の六稜トークリレーでおけいはん社長の話を聞いたのですが 中之島 随分と変わるようですね
    玉江橋近くに 市の近代美術館ができるとか聞きました
    いま 光のルネサンスで 砂の彫刻をするところです
    剣先公園には 安藤さんの噴水の計画もあるようです

  3. ランキングから来ました | URL | -

    久しぶりの書き込みですが・・・
    保存運動とか良く知らなかったんですがよくぞ残してくれたな~と思います。

    あまり評価を聞くことないですが、新庁舎は結構好きですね。高層化しなかったのは英断!と思います。

  4. ☆大阪百科☆ニュース | URL | 4fOZkrbI

    この庁舎が残っていれば・・・・

    そういえば、大正10年の「大阪市廳舎新築記念帖」を持ってます。

  5. 新之介 | URL | sDz630us

    現市庁舎もいい建物かもしれない

    pinboke_planetさん

    綺麗な画像ではありませんが、エントランスホールの写真を追記しました。内部も重厚な感じでいいですね。

    >大阪市庁舎の建て替えは、周囲の景観とよくマッチして、しかも旧庁舎の雰囲気を十分に感じさせる素晴らしい成功例ではないでしょうか。

    確かにそうかもしれませんね。実はちょっと批判的な目で見ていたのですが、pinboke_planetさんの上記のコメントを読んで、考えを改めました。客観的に見るとおっしゃるようにいい建築だと思います。


    今回も余談まで面白くよませていただきました!

  6. 新之介 | URL | sDz630us

    光のルネサンスの本番

    TOSSYさん

    みおつくしの鐘は現在も屋上の正面にあります。下からは見えないですね。

    市民生協の運動をされていたのですか。私の叔母も深く関わっていましたので、もしかしたらすれ違っていたかもしれません。

    中之島はどんどん変わっていきますね。楽しみです。今日から光のルネサンスの本番ですね。TOSSYも行かれているのかな?


  7. 新之介 | URL | sDz630us

    保存運動

    「ランキングから来ました」さん

    中之島の保存運動は市民運動のすばらしい成功例です。ネット上にあまりでていないので、意識的に書きました。若い人達のも知っておいて欲しいことのひとつです。

    確かに現市庁舎の評判ってあまり聞かないですね。みなさんどう思っているんでしょう。

  8. 新之介 | URL | sDz630us

    大阪市廳舎新築記念帖

    ☆大阪百科☆ニュースさん

    「大阪市廳舎新築記念帖」の存在を知らなかったのですが、中央図書館にあるようですね。さっそく見てみたいと思います。

    でも、こんな貴重な本をお持ちの☆大阪百科☆ニュースさんってどんな方なのでしょう(笑)。凄過ぎます!

  9. pinboke_planet | URL | nJ6t.gCE

    懐かしすぎる(追記)の写真

    (追記)の写真有難うございます!!
     見た瞬間、半世紀前の中之島へタイムスリップした感じです。
     旧市庁舎のエントランスホールは4階まで吹き抜けだったのですね、また、この写真の撮影場所を推測すると、正面側にも回廊若しくは人の歩ける場所があったみたいですね。
     
     当時の教育委員会が2階だったのか、3階だったのか忘れましたが、彼は回廊に姿を見せ、おもむろにろ廊下と二つの階段を柱で見え隠れしながら、ゆっくりと降りてくるシーンを思い出しましたので3階のような気がしています。

     (追記)の2枚目の写真は、豊国神社移転後で、まさしく(たぶん建て替え用の)プレハブ庁舎が写っていますね。昭和40年代はじめに、ボクが駐車した場所は結局駐車場の工事だったみたいですね。
     車は、まだ少なく、その日はたまたま正面の車寄せには駐車できなかったのかと思います。それにしても2枚とも、とても懐かしい写真です。

     移動は異動の誤りでした。なお、「の~む」の記事のところのvertigoは、ブルーインパルス墜落の原因視された航空用語のほうで、ヒッチコック映画のほうと違いました。(ぼくの体験は雪山でしたが・・・)
     知人で、天安門事件の2日前に北京空港へ降り、邦人脱出機の機長だった、もとANA機長さんのブログ

    「斜陽」
    http://good-old-days.cocolog-nifty.com/blog/

    の記事を引用しようとしましたが、検索で出て来なかったので舌足らずになってごめんなさい。



     

  10. 新之介 | URL | sDz630us

    vertigo

    pinboke_planetさん

    >見た瞬間、半世紀前の中之島へタイムスリップした感じです。

    最高にうれしいコメントです。

    「vertigo」は雪山の体験でしたか。
    先日の濃霧も河川敷では視界5メートルくらい
    だったでしょうか、すこし怖いくらいでした。
    知らない場所だとさらに恐怖心がと強まるでしょうね。

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