2008年12月01日 07:30
大阪市中央公会堂(中之島公会堂)
明治の末頃、大阪証券取引所の株仲買人、岩本栄之助氏は株で儲けた巨額のお金を公会堂建設のために寄付することを決めました。建設の相談を受けたのは、日本銀行大阪支店の設計者としても知られる辰野金吾氏。辰野氏は当時の一流建築家15名による懸賞競技設計を行います。提出期限は明治45年(大正元年)10月31日、結果第一席になったのは岡田信一郎氏の作品でした。大正2年、新しい時代の幕開けとともに工事が着工されることになります。
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一階は2000人が収容できる大集会室、その上階は500人が会食できる中集会室など日本最大の規模でした。意匠もネオ・ルネサンス様式でまとめられ、内部の豪華さも赤坂離宮にまさるともおとらなかったようです。公会堂が竣工したのは5年後の大正7年でした。しかし、寄贈者の岩本氏は相場に失敗し工事途中でピストル自殺をはかっています。
市民から愛された中央公会堂も昭和40年代に入り、老朽化が進んでいきます。そして昭和46年、大阪市が着実に暖めてきた「中之島東部地区再開発構想」が発表されました。それは市庁舎の建て替えに伴い、府立図書館を移転し、中央公会堂を取り壊してしまう計画だったのです。

「おおさか100年」より
左が府立図書館、右が市立公会堂です。第5回内国勧業博覧会向けのホールとして明治36年に完成しました。中央公会堂が建設されるにあたり、大正2年に天王寺公園内に移転しています。

「大阪市中央公会堂 保存・再生工事報告書」より
岩本栄之助氏です。この写真は三越で撮影された写真だそうです。撮影をしたこの日にピストル自殺をしています。どういう思いで撮影をしたのでしょうか。

「大阪市中央公会堂の建築・美術・舞台」チラシより
設計競技で第一席に選ばれた岡田信一郎氏の外観透視図

「大阪市中央公会堂 保存・再生工事報告書」より
めずらしい工事現場の写真です。大きな屋根が石材工作場です。奥に見える建物は大阪ホテルです。この建物もネオ・ルネサンス様式の建築物でした。右端に見える橋は旧難波橋です。

「大阪市中央公会堂 保存・再生工事報告書」より
これは石膏彫刻の作業場です。まるでヨーロッパの建築現場のようです。

「大阪市中央公会堂 保存・再生工事報告書」より
大正7年10月に撮影された竣工写真です。できたてホヤホヤ。

「大阪市中央公会堂 保存・再生工事報告書」より
竣工時の大集会場です。

「大阪市100年」より
ここは3階の貴賓室です。半円の大きな窓の所ですね。松岡壽(ひさし)氏の装飾画が壁と天井に描かれています。
TOSSYさんが以前行かれた内部の様子です。
↓ ↓ ↓
『中之島公園 中央公会堂 その2』(TOSSY)

「大阪市中央公会堂 保存・再生工事報告書」より
ここは竣工当時の地下の食堂です。最初は酒場だったようです。私が学生の頃によく行っていた時は、ちょっとレトロなレストランでした。行ったことのある方は多いのではないではないでしょうか。

「大阪市の100年」より
大正末期の中之島です。中央公会堂と府立図書館、市庁舎、日本銀行と並んでいます。手前にあった大阪ホテルは大正13年に焼失してしまいました。この頃は高い木がありません。すっきりしてますね。

「なにわ今昔」より
昭和50年代の中央公会堂です。薄汚れていていましたが風格がありました。今のようにライトアップで照らされることも無かったと思います。この時代、取り壊すか保存かで論争されていたいました。よーく見てください。何かがありませんね。わかりますか?
正解は屋上の像「ミネルヴァとメルクリウス」です。戦時中の昭和18年に金属回収に応じて撤去されたそうです。

現在は復元されています。ちなみに右が工芸・文学・学問の女神「ミネルヴァ」、左が科学・商業・富と幸運の守護神「メルクリウス」です。

「大阪市中央公会堂の建築・美術・舞台」チラシより
松岡壽(ひさし)氏による神像のスケッチ(部分)です。大正6年頃に描かれたものと思われます。最初は澪標(みおつくし)が描かれていましたが、実際には製作されませんでした。

「大阪市中央公会堂 保存・再生工事報告書」より
改築前の地下です。個人的に一番懐かしい写真なんです。右のドアが食堂の入口です。

「おおさかタイムトンネル浪速写真館」より
食堂はこんな感じでした。窓から外光が入ってきて好きな場所でした。ドアの左手に食券を売っているおばちゃんがいました。ここは大阪ホテルの流れをひく洋食屋さんです。名物はオムライスでした。

夜の中央公会堂は本当に綺麗ですね。大阪を代表するシンボルのひとつです。
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↓ ↓ ↓

(関連情報)
現在、大阪歴史博物館で特集展示『90周年記念 大阪市中央公会堂の建築・美術・舞台』が開催されています。公会堂の設計競技の他の作品や松岡壽氏の下絵など、大変貴重な資料がみれます。12月23日(火・祝)まで開催されていますので関心のある方はいかがでしょう。
(追記)
こんなサイトがありました!
↓ ↓ ↓
『中之島公会堂旧地下食堂』
昔の地下食堂に行ったことがある方は必見です。
↑ ↑ ↑
このサイトを見て思い出しました。
オムライスとミックスフライ、財布に余裕がある時は上ランチを
よく頼んでいたっけ。ミックスフライにはポタージュスープが付いていました。
懐かしすぎる!!
テカテカのテーブルクロスも懐かしい!
(追記)

「大阪市の100年」より
大正9年の写真です。堂島川でボート競技が行われています。市立大阪高等商業学校(現大阪市立大学)がこの競技に参加しているようで、同校は大阪のボート競技の育ての親というべき存在だったそうです。

大川の辺りではボートをよく見かけます。今でも「大阪シティレガッタ」のイベントが行われていますね。
http://www.eonet.ne.jp/~rowing/20080405album.html
(追記)
より大きな地図で 中之島図書館の食堂 を表示
明治の末頃、大阪証券取引所の株仲買人、岩本栄之助氏は株で儲けた巨額のお金を公会堂建設のために寄付することを決めました。建設の相談を受けたのは、日本銀行大阪支店の設計者としても知られる辰野金吾氏。辰野氏は当時の一流建築家15名による懸賞競技設計を行います。提出期限は明治45年(大正元年)10月31日、結果第一席になったのは岡田信一郎氏の作品でした。大正2年、新しい時代の幕開けとともに工事が着工されることになります。
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一階は2000人が収容できる大集会室、その上階は500人が会食できる中集会室など日本最大の規模でした。意匠もネオ・ルネサンス様式でまとめられ、内部の豪華さも赤坂離宮にまさるともおとらなかったようです。公会堂が竣工したのは5年後の大正7年でした。しかし、寄贈者の岩本氏は相場に失敗し工事途中でピストル自殺をはかっています。
市民から愛された中央公会堂も昭和40年代に入り、老朽化が進んでいきます。そして昭和46年、大阪市が着実に暖めてきた「中之島東部地区再開発構想」が発表されました。それは市庁舎の建て替えに伴い、府立図書館を移転し、中央公会堂を取り壊してしまう計画だったのです。

「おおさか100年」より
左が府立図書館、右が市立公会堂です。第5回内国勧業博覧会向けのホールとして明治36年に完成しました。中央公会堂が建設されるにあたり、大正2年に天王寺公園内に移転しています。

「大阪市中央公会堂 保存・再生工事報告書」より
岩本栄之助氏です。この写真は三越で撮影された写真だそうです。撮影をしたこの日にピストル自殺をしています。どういう思いで撮影をしたのでしょうか。

「大阪市中央公会堂の建築・美術・舞台」チラシより
設計競技で第一席に選ばれた岡田信一郎氏の外観透視図

「大阪市中央公会堂 保存・再生工事報告書」より
めずらしい工事現場の写真です。大きな屋根が石材工作場です。奥に見える建物は大阪ホテルです。この建物もネオ・ルネサンス様式の建築物でした。右端に見える橋は旧難波橋です。

「大阪市中央公会堂 保存・再生工事報告書」より
これは石膏彫刻の作業場です。まるでヨーロッパの建築現場のようです。

「大阪市中央公会堂 保存・再生工事報告書」より
大正7年10月に撮影された竣工写真です。できたてホヤホヤ。

「大阪市中央公会堂 保存・再生工事報告書」より
竣工時の大集会場です。

「大阪市100年」より
ここは3階の貴賓室です。半円の大きな窓の所ですね。松岡壽(ひさし)氏の装飾画が壁と天井に描かれています。
TOSSYさんが以前行かれた内部の様子です。
↓ ↓ ↓
『中之島公園 中央公会堂 その2』(TOSSY)

「大阪市中央公会堂 保存・再生工事報告書」より
ここは竣工当時の地下の食堂です。最初は酒場だったようです。私が学生の頃によく行っていた時は、ちょっとレトロなレストランでした。行ったことのある方は多いのではないではないでしょうか。

「大阪市の100年」より
大正末期の中之島です。中央公会堂と府立図書館、市庁舎、日本銀行と並んでいます。手前にあった大阪ホテルは大正13年に焼失してしまいました。この頃は高い木がありません。すっきりしてますね。

「なにわ今昔」より
昭和50年代の中央公会堂です。薄汚れていていましたが風格がありました。今のようにライトアップで照らされることも無かったと思います。この時代、取り壊すか保存かで論争されていたいました。よーく見てください。何かがありませんね。わかりますか?
正解は屋上の像「ミネルヴァとメルクリウス」です。戦時中の昭和18年に金属回収に応じて撤去されたそうです。

現在は復元されています。ちなみに右が工芸・文学・学問の女神「ミネルヴァ」、左が科学・商業・富と幸運の守護神「メルクリウス」です。

「大阪市中央公会堂の建築・美術・舞台」チラシより
松岡壽(ひさし)氏による神像のスケッチ(部分)です。大正6年頃に描かれたものと思われます。最初は澪標(みおつくし)が描かれていましたが、実際には製作されませんでした。

「大阪市中央公会堂 保存・再生工事報告書」より
改築前の地下です。個人的に一番懐かしい写真なんです。右のドアが食堂の入口です。

「おおさかタイムトンネル浪速写真館」より
食堂はこんな感じでした。窓から外光が入ってきて好きな場所でした。ドアの左手に食券を売っているおばちゃんがいました。ここは大阪ホテルの流れをひく洋食屋さんです。名物はオムライスでした。

夜の中央公会堂は本当に綺麗ですね。大阪を代表するシンボルのひとつです。
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(関連情報)
現在、大阪歴史博物館で特集展示『90周年記念 大阪市中央公会堂の建築・美術・舞台』が開催されています。公会堂の設計競技の他の作品や松岡壽氏の下絵など、大変貴重な資料がみれます。12月23日(火・祝)まで開催されていますので関心のある方はいかがでしょう。
(追記)
こんなサイトがありました!
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『中之島公会堂旧地下食堂』
昔の地下食堂に行ったことがある方は必見です。
↑ ↑ ↑
このサイトを見て思い出しました。
オムライスとミックスフライ、財布に余裕がある時は上ランチを
よく頼んでいたっけ。ミックスフライにはポタージュスープが付いていました。
懐かしすぎる!!
テカテカのテーブルクロスも懐かしい!
(追記)

「大阪市の100年」より
大正9年の写真です。堂島川でボート競技が行われています。市立大阪高等商業学校(現大阪市立大学)がこの競技に参加しているようで、同校は大阪のボート競技の育ての親というべき存在だったそうです。

大川の辺りではボートをよく見かけます。今でも「大阪シティレガッタ」のイベントが行われていますね。
http://www.eonet.ne.jp/~rowing/20080405album.html
(追記)
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コメント
pinboke_planet | URL | nJ6t.gCE
中央公会堂やボートの思い出
50年前のたぶんいまごろ毎年初雪の便りを聞くころ、大阪ではサンケイホールか中之島の中央公会堂のどちらかで『スキー映画の夕べ』があって、美津濃はじめスキー用品店が宣伝をしていました。
9枚目の写真で思い出しましたが、初めて中央公会堂へ行ったのもそのときで、満員のため2階席からモノクロの短編映画を数本見たと思います。
猪谷千春氏が1956年コルチナダンペッツオ(イタリア)でアルペン回転で銀メダルを取り、トニー・ザイラーがアルペン三冠を取ったのが、ほぼ50年前、高校生のとき、 スキーは小学校の時からやっていたので、夜中にラジオの実況中継を聞いた覚えがある。テレビの中継は無論無いし、まだ家にテレビは無かった。数日後にニュース映画を見に行ったように思う。ゼッケン番号【7】が脳裏に焼き付いている。
その後ザイラーは『黒い稲妻』で映画スターに、日本でもスキー映画を撮り日本中をスキーブームに、日本中のゲレンデを東レの黒いスキーウエアが埋め尽くし週末の大阪駅発スキー列車は文字通り長蛇の列。(・・・my blogより引用、第一次スキーブーム?)
さらにその10年前、1946年(ロストワールド執筆中おころ)頃の手塚治虫さんの日記を見ると・・・大阪市内などの映画館の他に彼がもっとも頻繁に訪れたのが中之島の中央公会堂だったことがよく分かり(演劇部の会合のめ)、
・・・友人たちは中之島へボートを乗りに行ったが、自分は九時半に弁当を食ったのと暑くて、何をしても力が入らず俺一人家で湯気を立てながら家でのびておった・・・などというくだりもあって、ボートにもよく乗ったことと思われます。
演劇部の会合の課題の一例として・・・無言劇で、「十年振りで家に帰ってきたときの動作」。中にはずいぶん傑作あり笑う。帰り、ラッシュアワーで扇子落とす。・・・とか、当時は中央公会堂でボクシングの試合もやっていたらしく憤慨した記述もあり、彼の銅像は、むしろ中央公会堂前に建ててあげたいくらいです。
ボートといえば、1940年代の小学生のころ、当時住んでいた小さな村(現在の岐阜県中津川市落合)でも、桜並木や吊り橋の美しい木曽川流域「落合ダム」に2軒も貸しボート屋があり、貸しボートで全村あげての村民レガッタが開催されお弁当を持ってみんなで見に行きました。
村内レガッタのあった村は極めて珍しい思いますが、いま住んでいる加古川市も近年漕艇コースが出来、市民レガッタが開催されています(こちらは競技用のボート使用)。
FRP製と違うクリンカー張りの重い木造ボートが懐かしいですね。1950年代はじめには、阪急園田駅近くの藻川にも大型カッター2隻を狭い河川敷に揚陸固定した貸しボート屋が出来、驚きましたが、すぐに増水でカッターやボートが流されてしまいました。
( 2008年12月01日 12:17 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
スキーと手塚氏とレガッタ
『スキー映画の夕べ』は聞いたことがあります。今でも続いているのではないでしょうか。
トニー・ザイラーは名前はよく聞きましたが、スキーの選手だったとは知りませんでした。スキーブームは私たちが学生の頃もありました。第2次スキーブームになるのでしょうか。1980年代後半あたりだと思います。私はあまり行かなかった方ですが…。
中央公会堂に手塚治虫の銅像を置くというのはいいですね。中央公会堂がさらに身近に感じられます。
レガッタといえば中之島の昔の写真にもよく出てきます。中之島周辺はボート競技も盛んだったのではないでしょうか。大正時代の写真を追記しておきます。
( 2008年12月03日 00:40 [Edit] )
pinboke_planet | URL | nJ6t.gCE
追記の写真有難うございます。
以前紹介いただいた「上田コレクション」の美しい大阪ホテルのリバーサイドテラス?でくつろぐブレザー姿の紳士たちや、レース艇の艇庫の写真の印象も強烈でした。
ロンドンのテムズ川では、伝統のケンブリッジ・オックスフォードのレガッタどころか、最近では巨大なパイロンをいくつも浮かべて、空のF1レースともいうべき、「レッドブル・エアレース・ワールドシリーズ」を開催しているのをDVDで知って吃驚仰天しました。
日本の大都市のど真ん中でエアレースは到底実現不可能でしょうが(なぜ?・・・そのくせワースト1位とか多いみたい)、水都の名にふさわしい水のイベントが、もっとあるといいですね。
ちなみにゲートータワービルや、田蓑橋北詰にあったグリーンハウスなどのオーナーTonちゃんは、最近伝統のアメフトは負けて甲子園ボウル出場はならなかったのに、もう永遠に不可能と思っていたラグビーで半世紀ぶり?に関西を制した某大学のボート部でしたので、いつも大川で練習するボートをモーターボートで伴走していました。
偶然・昔から(加古川の)我が家が檀家のうちの村の(いまは町内かな?・・つい村と言っています)曹洞宗の寺の住職も、そのミッション系の同じ大学のボート部出身の巨漢でTonちゃんの後輩になります。学生時代は一定期間必修でしたので、チャペルで賛美歌を歌っていたはずです。
( 2008年12月03日 13:00 [Edit] )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
スキーの映画
文中のリンクありがとうございました
私はリニューアルしてからの公会堂しか入っていないのですよ
以前の公会堂は ほとんど記憶にないのです
姉などは スキーの映画を見に行ったくちでして 新しいのは なんだかきれい過ぎるといっていました
トニーザイラーは 知っています
確か映画も観ました
その頃発売された朝日系の薄い雑誌の付録にトニーザイラーの唄のソノシートが付録でついたので買った覚えがあります
「白銀は招くよ」という歌でした
あれはなんという雑誌だったかなぁ
歌は今でもメロディーは覚えています
ザイラーの作ったコース 富良野にもありました
片斜面の滑りにくいコースで大嫌いでした
滑落しました
80年代後半 毎年フラノに行っていました
「私をスキーに連れてって」の時代で ブームでした
老松町だったかな 「北口山スキー研究所」があり そこが映画会をしていたのではないですか 北口山スキー研究所も もう 確か閉めましたね
( 2008年12月03日 23:49 [Edit] )
pinboke_planet | URL | nJ6t.gCE
北口山スキー研究所
半世紀ぶりにその名前思い出しました!
脱線ついでに・・・
その他に、堂島の好日山荘、新興の旭屋書店(旧本店)裏あたりの白馬堂などに出入りしていましたね。
なにぶん情報が豊富じゃないので、スキー映画の夕べや、そういったお店の店員さん(白馬出身など、もとスキー選手などが多い)のなまの声が貴重な情報源でもありました。
阪急百貨店などのスキー用品売り場が充実していたので多くの人が利用していたと思いますが、ぼくは、実際に板などを購入するのは松屋町町筋にたくさんあった現金問屋を利用して、(こちらは売りっぱなしなので)締め具も、手にマメを作ってヒーヒーいいながら自分で取り付けたりしました。
TOSSYさんが聞いたのは、たぶん「朝日ソノラマ」ですね。透明プラスチックの取り外し式上蓋?のレコードプレーヤーで聞きましたね。
1959年なのでトニー・ザイラーの第2作かな?(「黒い稲妻」は1958年) ケスレー・ブランドのスキー板が日本でも大人気でしたね。
YouTube
白銀は招くよ(1959)
http://jp.youtube.com/watch?v=vGxf-GyYl9s&feature
歌はこちらが分かりやすいかな?ドイツ語が斬新だったりしましたね。
http://jp.youtube.com/watch?v=oT0bp5kNU_k
トニー・ザイラーの転身ぶりも見事でしたが、アメリカ人実業家スター氏が天才猪谷少年を引き取ってダートマス大学留学など競技環境を全面的にバックアップしてくれていなかったら、猪谷選手の銀メダルも無く、あれほどのスキーブームにもならなかったと思います。
( 2008年12月04日 12:02 [Edit] )
pinboke_planet | URL | nJ6t.gCE
脱線(追記)
1956年冬季オリンピックの時のカラー映像(英語)がありました・・・残念ながら猪谷選手は写っていませんでした。
http://wm.video.olympic.org/wms/otab1_3608win100-500.wmv
なお、今年比較的最近
世界・わが心の旅 猪谷千春編(1998年、NHK)
の再放送を見ましたが、ザイラーは地元でホテルのオーナーになって、やはり格好のいいオジイサンになっていました。
( 2008年12月04日 15:53 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
大阪ホテル
pinboke_planetさん
「大阪ホテル」は「中之島ルネサンス」シリーズで取り上げてみたいと思っています。
>水都の名にふさわしい水のイベントが、もっとあるといいですね。
まさに同感です。今後、水辺でのイベントが増えていくことを期待します。シンプルに堂島川でボート競技の復活というのもいいのではないでしょうか。お金をかければいいというものでもないですしね。
某大学とはpinboke_planetの母校ですね。51年ぶりだそうですね。すごいな。
( 2008年12月05日 00:28 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
北口山スキー研究所
TOSSYさん
私はスキーをあまりしなかったのですが、なぜか「北口山スキー研究所」はよく知っています。というよりよく前を歩いていました。
というのも、近くの大江ビルの「番画廊」や今は無くなった「ギャラリー白」など、この辺りのギャラリーをうろうろしていた時期がありました。20年ほど前でしょうか。週に2回はギャラリー巡りをしていて、「北口山スキー研究所」の前をよく通っていたのです。お店にはほとんど入っていませんが(笑)。
「北口山スキー研究所」は今年の一月に閉店されたようですね。
http://ojyamamushi.blog.eonet.jp/kakuekiteisya/2008/01/post-2d3a.html
( 2008年12月05日 00:40 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
白銀は招くよ
pinboke_planetさん
「白銀は招くよ」の歌はなぜだかよく知っています。何度も聞いたことのある曲ですね。ただ、なぜ知っているのかはわかりません。どこかで聞いているんでしょうね。
冬季オリンピックのカラー映像も見ました。当時はスーパースターだったんでしょうね。
そうか、pinboke_planetや私の父親が青春の真っ只中の時代に、第一次スキーブームが起こっているのですね。そのきっかけがトニー・ザイラーさんだったんだ。私がまだ5歳くらいの時(昭和40年代中ごろ)に父親の友人仲間でスキーに行った写真が残っています。第一次スキーブームの若者世代が、家族を持つ年代になり、再び仲間とスキーに行ったのかもしれません。当時では珍しいトランシーバーを持って、数台の自動車で雪山に行った記憶が蘇ってきました。
( 2008年12月05日 01:03 [Edit] )
新之介 | URL | -
補足です。
補足です。
ギャラリー白はなくなったと書きましたが、正確には移転です。それと、その隣にあったコーヒーカンタータという喫茶店もよく行ってましたが、ここも移転しました。とても雰囲気のある喫茶店でしたよ。
移転と言っても同じ西天満界隈で現在も営業されています。
西天満界隈をうろうろされる時は、番画廊、ギャラリー白、コーヒーカンタータははずせませんよ。
( 2008年12月05日 10:45 )
ばんぼー | URL | t/Klp7tQ
なつかしいです
ご無沙汰してます。いつも楽しいお話有難うございます。
大学浪人時代、自転車で北予備経由で図書館へよく行きました。
昼飯は、普段は市役所で食べてました。(ティーソーダとカレーが人気ありました。)
公会堂ではハヤシライスを食べてました。お金あるときはミックスフライ。
木製レジがあって、古びた窓から光がさしていい雰囲気でした。紙ナプキンにはホテルの印刷がありました。
公会堂は、一時立て替えも言われてましたね。保存が決まった時も、卵状のドームを中に作るとかさまざま案があったことを覚えてます。
ところで、おかげさまで最近歴史好きです。
家で探し物をしていたら、ちくま書房の「大坂商人」という本がありました。買ったのに読んだのかも忘れてます^^なので再び読み始めています。
その本の文中に「一石=100枡」とあり、むむむと思いました。
100升・・・百姓の語源?
会社の先輩と話していて、「良く100万石とかあるだろう?あれは100万人を養える都市って意味だよ」とのこと。
ということは百枡(一石)は一人あたりの一年分の米ってことになる・・
一石=百升=1000合=茶碗2500杯→約7杯/日
・・大食いの私なら一日7杯okです^^
( 2008年12月06日 11:18 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
アーバンエッグ
ばんぼー さん
市役所で昼飯を食べていましたか。そんな手があったんですね。一度も利用したことがなかったです。
公会堂の地下食堂は光が入ってきて雰囲気がよかったですよね。紙ナプキンも懐かしい。オムライスの時はスプーンに巻かれていたような…
>卵状のドームを中に作るとかさまざま案
安藤忠雄氏の「アーバンエッグ」ですね。私もよく覚えています。賛否両論あったようですが、個人的には復元保存でよかったと思っています。
1石は1人の1年分の米の消費量だということは以前どこかで読みました。計算式でみるとなるほど~と思いますね。
( 2008年12月07日 21:28 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
北口山スキー研究所
北口山スキー研究所の近くを通ったので
写真を撮ってきました。
店舗は別の会社が入っていましたが
プレートは残っていました。
http://blog-imgs-41.fc2.com/a/t/a/atamatote/P1070637.jpg
ついでに、コーヒーカンタータの写真も。
http://blog-imgs-41.fc2.com/a/t/a/atamatote/P1070629.jpg
昔と比べて店内が狭くなっていましたが、
コーヒーは相変わらず美味しかったです。
( 2008年12月08日 22:07 [Edit] )
kotaro | URL | 8nGiSIKA
わたしも
20年以上前、外回りの仕事をしていた頃、このあたりを
歩くのが結構好きでした。
「北口 山スキー研究所」の名は覚えています。
まだ純粋スポーツ競技とレジャーの走りの羽境、登山ブームに付設していたスキーが一人立ちしたようなそんな原点の匂いを表札から感じました。
もうその頃は「私をスキーに連れてって」ですから、若者が自動車を持ち、ロシニョールだのK2だのってブランドを自慢していた頃でしょう。
私には縁のない世界でしたが何となく覚えています(笑)
あのあたりで小さな喫茶店のあるビルの5階くらいにあった場所で、知り合いの女性が床いっぱい壁いっぱい抽象的なオブジェ展をされたのを見にいったことがあるのですが、もうギャラリーの名前を思い出せないです。
( 2008年12月10日 12:31 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
刺激を求めに行ってた場所
kotaroさん
私がうろうろしてた時も約20年前、1990年前後です。当時と比べるとかなり変わった部分もありますが、基本的にあまり変わっていないようにも思います。時間のあるときにうろうろして記事にしてみようかな。
この辺りは現代アートのギャラリーが集まっているのも特徴ですよね。骨董品屋さんも多いですが、私は現代アート専門でした。実は私もやっていた時期があるのです。ここだけの話です(笑)。友人も画家を目指していた奴がいましたので、なつかしい場所です。
( 2008年12月10日 23:21 [Edit] )
きさんじ | URL | -
地下食堂と言えば・・・
耐震工事をする前の食堂には
よく行きましたっ
窓際のところに、いつも猫が昼ねをしていて・・・
やっぱりオムライスですかねぇ~
そういえば阪急百貨店の大食堂が閉鎖する1週間前に行って
喰い納めしたのもオムライスでした。
それとクリームソーダーですねっ♪
ところで、中之島図書館の地下食堂の事はご存知ないですか?
ちょっと資料を探しております。。。
特に大きさなど。
よろしくお願いしますっ!
( 2009年04月12日 22:40 )
新之介 | URL | sDz630us
きさんじさん
中央公会堂の地下食堂の猫ですか?
覚えてないな。
くやしい^^;
中之島図書館の食堂は地下ではなく
2階に上がって行ったような記憶があります。
もしかしたら今の男子トイレの手前の階段を
上がって行った所だったかな…
うろ覚えでごめんなさい。
広さはそんなに広くなかったと思います。
あまり美味しくもなかったかも…^^;
( 2009年04月13日 21:45 [Edit] )
ばんぼー | URL | t/Klp7tQ
中之島図書館の食堂、私がよく行った84~85年は地下ではなく、継ぎ足したような上の階でした。
美味しくはなかったです。率直過ぎてすみません。
メニューはピラフとかホットドッグとかで種類も少なくて、ミルクプリンがなぜか必ず売ってました。
図書館へ行くときは大抵は市役所で食べてました。
カレーはすぐに売り切れるので、定食を食べてましたが、安くてお得感がありました。
関西では珍しくないですが、ティーソーダが今もあるはず・・
( 2009年04月14日 00:06 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
ばんぼーさん、ありがとうございます。
私の記憶とほぼ同じですね。
よかった^^
( 2009年04月14日 01:26 [Edit] )
きさんじ | URL | -
なるほど・・・
新之介さま、ばんぼーさま
ありがとうございます。
私は、中央公会堂の地下食堂しか知らなくて、
中之島図書館に食堂があるのは知らなかったんですが・・・
最近、とあるイベントで、中之島図書館の食堂が会場となる!ってことを聞き及び。
えっ?それってどこにあるの???ってことになったのです。
ちなみに以下のサイトでは「半地下1階」となっているのですが・・・
「データ・シート 明治の洋風建築」
http://www6.ocn.ne.jp/~akarenga/oosakasiritunakanosimatoshokan.htm
半地下1階のホールにも1階と同じように中央に1階への階段があり、左右に南北両翼部へ通じる出入口がある。南側の翼屋にはホールから伸びる廊下の西側に小使室、東側に荷解室、製本室があり、突き当たりに食堂・喫茶室がある。
ふ~む???これは見に行かねばいけませんねっ♪
( 2009年04月14日 22:33 )
新之介 | URL | sDz630us
きさんじさん
図面が小さくてわかりづらいのですが、この図面を見る限りは両サイドの建物が増設される前の図面のようですね。
私やばんぼーさんが知っている食堂はここではありません。
おそらくですが、半地下と記されているのが私達が思っている今の一階部分です(正確には正面の階段を上がった所が図面でいう一階にあたります。今はそこから入れません)。
自信はないのですが、私達が当時行っていた食堂は現在の建物の裏にある建物だったのかもしれません。
Googleマップで見ると十字の建物(これが当初の建物)の裏に見えています。
図面にある食堂だった場所は現在ロッカーになっているか、ロッカーの奥の部屋のように思います。
( 2009年04月14日 23:11 [Edit] )
きさんじ | URL | -
ほほぉ~
あのロッカーの部屋がそうなんですねぇ
ふむふむっ
いろいろとありがとうございますっ!
( 2009年04月14日 23:52 )
新之介 | URL | -
きさんじさん
図書館の旧食堂の場所を追記しました。
先日、昼休みにのぞいてきましたが
図面にある食堂の部屋は一般には
入れなくなっていますね。
イベントではそこに入れるのかな?
私たちが行っていた食堂は
現在の入り口から入って階段の所を左へ。
右手に男子トイレへいく通路があり、
その途中に階段がありました。
それを上がればたぶん昔の食堂です。
ということは男子トイレの上になるのです^^
( 2009年04月16日 16:20 )
Empizzo | URL | X/aoCwEI
ラッキー
空襲でやられなかったのはほんとうに幸いだったと思います。
辰野金吾氏は東京駅駅舎の設計者でもありますから
大正3年竣工の東京駅と中之島公会堂はほぼ同時代の思潮を組んでいるものと思います。
東京駅と中之島公会堂の実寸比較やディテール検証などもしてみたいです。
この建物、高校時代に油絵で描いたことがありますが、
横で描いていた友達の描いた旧大阪市役所の方が上手でした。
( 2010年08月14日 06:46 [Edit] )
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