2008年10月24日 07:30
大坂七墓巡り(蒲生・小橋・鳶田)
大坂七墓巡り(梅田・南浜・葭原)の続きです。私は明治18年に測量された地図を多用しますが、各墓地の場所を特定するのあたり、今回もたいへん重宝しました。
『蒲生(がもう)墓地』

「大阪市中地區甼名改正繪圖(日文研)」より
蒲生墓地の部分アップです。鯰江川沿いにありました。

明治18年の測量地図です。墓地の北側も水路があって、水辺に挟まれた場所だったようです。

現在の地図と重ね合わすと…

現在と同じ場所ですね。

この場所も歴史的に貴重な所です。ずっと残って欲しいですね。
『小橋(おばせ)墓地』

「大阪市中地區甼名改正繪圖(日文研)」より
小橋墓地の部分アップです。東側に大きな味原池があります。浪花百景にも描かれている梅で有名だった場所です。
『産湯味原池』
http://fukeiga.library.pref.osaka.jp/kakudai.php?ID=25&partsid=0

明治18年測量の地図です。墓の記号がありません。整理された後のようです。上の「大阪市中地區甼名改正繪圖」と照らし合わすと、場所がほぼ特定できます。無量寺、傳光寺、宗円寺との位置関係で見てもこの場所のようです。

現在の地図と重ね合わすと…

東高津公園という公園になっていました。位置は近鉄上本町駅の北側になります。

敷地は北側が丘陵地になっています。丘の上から味原池は見下ろす感じだったのではないでしょうか。

公園内に延命地蔵尊がありました。小橋墓地の時代からあった地蔵尊でしょうか。
『鳶田(飛田)墓地』

鳶田(とびた)墓と刑場(けいじょう)の文字が確認できます。

位置は左下辺りです。昔は相当広い墓地であったそうですが、明治6~7年頃に整備され、明治18年の地図を見る限りかなり狭くなっているようです。

現在の地図と重ね合わすと…

この辺り。動物園前駅の上ですね。

現在、この地には飛田墓地の供養のためにあったといわれる太子地蔵尊があります。

右の地蔵尊はお顔がなくなっていました。通りすがりのおっちゃんが「誰かがとりよったんや」と嘆いていました。
(追記)この地は現在更地になっているようです。
どちらに移転したのでしょうか?
大きな地図で見る
(追記)

kotaroさんのコメントで古い石の欄干が残っていると聞いていましたが、近くに行った時に見つけました。左の車が通っている道路が鯰江川跡です。そこに架かっていた橋の親柱です。「がまう…」ときざまれているのでしょうか。ただこの場所、道路拡張に引っかかっている場所のようです。近い内になくなっちゃうかも…
(追記)

大正14年の地図です。マルで囲んだ場所が蒲生橋。赤い点線は道路の拡張予定路線です。やはり「蒲生橋」跡でした。
(関連記事)
『大阪駅ができる前は墓地があった』 2008.03.01
『初代大阪駅の場所』 2008.03.03
『大坂七墓 南浜墓地』 2008.09.08
『大坂七墓 蒲生墓地』 2008.10.16
『大坂七墓巡り1』 2008.10.22
『大坂七墓巡り2』 2008.10.24
『大坂七墓巡り 千日墓地』 2008.10.27
『さよなら千日前・竹林寺』 2009.02.09
『大阪七墓・梅田墓地・飛田墓地の跡のあと』 2010.07.26
『大阪七墓・葭原墓地の沖向地蔵尊』 2010.07.28
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大坂七墓巡り(梅田・南浜・葭原)の続きです。私は明治18年に測量された地図を多用しますが、各墓地の場所を特定するのあたり、今回もたいへん重宝しました。
『蒲生(がもう)墓地』

「大阪市中地區甼名改正繪圖(日文研)」より
蒲生墓地の部分アップです。鯰江川沿いにありました。

明治18年の測量地図です。墓地の北側も水路があって、水辺に挟まれた場所だったようです。

現在の地図と重ね合わすと…

現在と同じ場所ですね。

この場所も歴史的に貴重な所です。ずっと残って欲しいですね。
『小橋(おばせ)墓地』

「大阪市中地區甼名改正繪圖(日文研)」より
小橋墓地の部分アップです。東側に大きな味原池があります。浪花百景にも描かれている梅で有名だった場所です。
『産湯味原池』
http://fukeiga.library.pref.osaka.jp/kakudai.php?ID=25&partsid=0

明治18年測量の地図です。墓の記号がありません。整理された後のようです。上の「大阪市中地區甼名改正繪圖」と照らし合わすと、場所がほぼ特定できます。無量寺、傳光寺、宗円寺との位置関係で見てもこの場所のようです。

現在の地図と重ね合わすと…

東高津公園という公園になっていました。位置は近鉄上本町駅の北側になります。

敷地は北側が丘陵地になっています。丘の上から味原池は見下ろす感じだったのではないでしょうか。

公園内に延命地蔵尊がありました。小橋墓地の時代からあった地蔵尊でしょうか。
『鳶田(飛田)墓地』

鳶田(とびた)墓と刑場(けいじょう)の文字が確認できます。

位置は左下辺りです。昔は相当広い墓地であったそうですが、明治6~7年頃に整備され、明治18年の地図を見る限りかなり狭くなっているようです。

現在の地図と重ね合わすと…

この辺り。動物園前駅の上ですね。

現在、この地には飛田墓地の供養のためにあったといわれる太子地蔵尊があります。

右の地蔵尊はお顔がなくなっていました。通りすがりのおっちゃんが「誰かがとりよったんや」と嘆いていました。
(追記)この地は現在更地になっているようです。
どちらに移転したのでしょうか?
大きな地図で見る
(追記)

kotaroさんのコメントで古い石の欄干が残っていると聞いていましたが、近くに行った時に見つけました。左の車が通っている道路が鯰江川跡です。そこに架かっていた橋の親柱です。「がまう…」ときざまれているのでしょうか。ただこの場所、道路拡張に引っかかっている場所のようです。近い内になくなっちゃうかも…
(追記)

大正14年の地図です。マルで囲んだ場所が蒲生橋。赤い点線は道路の拡張予定路線です。やはり「蒲生橋」跡でした。
(関連記事)
『大阪駅ができる前は墓地があった』 2008.03.01
『初代大阪駅の場所』 2008.03.03
『大坂七墓 南浜墓地』 2008.09.08
『大坂七墓 蒲生墓地』 2008.10.16
『大坂七墓巡り1』 2008.10.22
『大坂七墓巡り2』 2008.10.24
『大坂七墓巡り 千日墓地』 2008.10.27
『さよなら千日前・竹林寺』 2009.02.09
『大阪七墓・梅田墓地・飛田墓地の跡のあと』 2010.07.26
『大阪七墓・葭原墓地の沖向地蔵尊』 2010.07.28
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( 2008年10月26日 12:37 )
kotaro | URL | 8nGiSIKA
鯰江川のあと
墓地から出て踏み切りの横に古い石の欄干がまだ残っていると思います。
私は新聞のような頭でっかちの人がまだ生き残ってる古いタイプの職場に生息する変わった生き物です。
でも千日前火災のことを書いてた人も居たなあ。そんな時だけ元気になる無責任社員です。
( 2008年10月31日 02:59 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
野崎参り
kotaroさん
落語でも有名な「野崎参り」。舟で行く場合は鯰江川をさかのぼって寝屋川へ出たようですね。「野崎参り」への街道は一度歩いてみたいと思っているひとつです。
私のいとこも新聞記者をしていますし、私自身も近い場所にいますが新聞社は決して「古いタイプの職場」とは思わないですよ。ある意味、時代の最前線をいまだに走り続けている職場だと思います。
…ちょっと言いすぎかな…(笑)
( 2008年10月31日 13:41 [Edit] )
安田八十八 | URL | mQop/nM.
死体取り捨て場としての月正島
飛田刑場の位置についてなんですが
「大阪市中地區甼名改正繪圖(日文研)」の絵図では太子1-8あたりに刑場の文字が書かれていますね、鳶田墓の文字の左に林の中に小屋らしき建物が描かれていますがこれは火屋(火葬場)を表しているものでしょう
「未刊甲子夜話」より「大塩ら処刑の図」(大塩平八郎の屍体を磔)から http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/kasiyawa1.jpg
では萩之茶屋1-8から阪堺線あたりになるのでしょうね、この19体の屍は晒された後に月正島まで運ばれ捨てられるんですが、人権博物館学芸員の村上紀夫氏によると「渡辺に近い十三間堀川の西にある月正島で行なうことが渡辺の仕来りになっていた」(木下光生氏も同説)http://blhrri.org/kenkyu/burakushi/burakushi_33_3.htm
これは町奉行所史料「御問合之内三ヶ条大下書御問合之内残り三ヶ条大下書」からの引用でして、本当に死体が捨てられていたのは刑場月正島(難波島)の脇に穴を掘り取り捨てられていたようです(明治40年百済橋架橋の際大量の人骨が出土)
( 2008年11月21日 12:46 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
歴史の影の部分
安田八十八さん
「大塩ら処刑の図」はショッキングな絵ですね。
江戸時代末期の処刑は千日よりも
鳶田でほとんど行われていたというのを
どこかで読みました。
大塩平八郎の乱の時もここで行われたのですね。
大阪の歴史を知る上で、影の部分はなかなか
情報が入ってこないのですが、
紹介いただいたのは貴重な資料ですね。
( 2008年11月22日 01:31 [Edit] )
安田八十八 | URL | mQop/nM.
『難波島古事記』 岡島修二著 大阪市立中央図書館蔵
「大阪にて死刑のむくろを葭島へ(今木のをさす、昔は千日前で刑を行ない首なし死体を今木の刑場に捨てにきたものらしい、今木は別名胴がら島と言う、徳川末期には今木刑場でも刑が行われた)積んで行って捨てるのを、、」 今木=難波島
大正区歯科医のコメント
http://www.taisho-dental.com/article/13186641.html
( 2008年11月22日 15:37 [Edit] )
安田八十八 | URL | mQop/nM.
大坂の刑場
殆どの斬首刑は与左衛門町(糸屋町2丁目中大江小学校)の牢屋の土壇場で行われていたようです、死体は渡辺村役人が役舟に乗せ東横堀川から難波島まで運び捨てられていました、鳶田の刑場は広くて(南北一町位約110m)あったので火刑(火あぶり)磔刑が主に行われていたようです、大塩の死体は腐らせないように塩詰めにされていました、新塩を鼻、耳、口、肛門に詰め、身体全体を新塩で包み保存していた(摂津役人村文書)
千日前、鳶田のほかに野江(現在民家ですので秘しておきます)木津川口(難波島)安治川口(唐網島)の五ヶ所に在りました(手鑑手鑑拾遺)安治川口刑場の唐網島の場所だけが特定できませんでした、各種古地図、絵図、大坂古地名辞典のどれにも記載していません、木津川口、安治川口は船手仕置きに使われており両刑場とも葭島(よしじま)と呼ばれていましたので安治川沿いの島にあったと考えてます。
( 2008年11月22日 15:38 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
土壇場
安田八十八さん
興味深い刑場のお話、ありがとうございます。
古地図は私も好きでよく見ますが、
唐網島や葭島という場所はわかりませんでした。
難波島には刑場が置かれていますね。
http://blog-imgs-41.fc2.com/a/t/a/atamatote/nanmashima_02.jpg
(天保新改攝州大阪全圖 1837)
http://blog-imgs-41.fc2.com/a/t/a/atamatote/nanmashima_03.jpg
(大阪市中地區甼名改正繪圖 1872 )
今まで気にしていながった地域なので
勉強になりました。
追伸
「土壇場」という言葉の由来はここから来ていたのですね。今回調べてはじめて知りました(笑)。
( 2008年11月23日 23:16 [Edit] )
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( 2009年03月05日 19:15 )
BJのぶ | URL | qDfdtOiE
参考になりました!
古い記事にコメント失礼します。
BS歴史館という番組の大塩平八郎の件を見ていて、「飛田に刑場?」と疑問に思って調べたらたどり着きました。
自分は遊廓や戦後の赤線を調べているのですが、今もある飛田新地は墓と刑場の跡に出来たという話が、まことしやかに、特にネットで流れています。
隣にある阿倍野墓地とぐちゃぐちゃになっているとは思うのですが、ここの古地図を見て飛田新地と刑場は、刑場の敷地が広かったようなので、ちょっとはかすってるかもしれませんが、関係はないかなと確認できました。
我がブログでいつかネタにさせていただきます。
あと、貴ブログの画像(地図の部分)を何枚か拝借させていただいてよろしいでしょうか?
よろしくお願いいたしますm(_ _)m
( 2012年07月30日 00:10 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
BJのぶさん
飛田新地と刑場は私も場所が離れているので違うと思いますがちゃんと調べていないのでわかりません。私のサイトはリンクフリーですのでご自由にリンクしてください。写真に関しては自由に使っていただいていいですが、地図は私の所有ではないので取り扱いはBJのぶさんのご判断にお任せいたします。
( 2012年08月13日 12:12 [Edit] )
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