このエントリーをはてなブックマークに追加

大坂七墓巡り1

2008年10月22日 07:30

大坂七墓巡り(梅田・南浜・葭原)

江戸時代から明治の始め頃まで、
諸霊供養のために鉦(かね)や太鼓をたたきながら、
夜を徹して念仏回向して廻る「七墓(ななはか)巡り」
というものがあったそうです。

七墓は時代によって場所が変わったようで、
大阪市史には梅田葭原(よしわら)、蒲生(がもう)、
小橋(おばせ)、飛田千日の七墓が書かれています。
明治に入りそのほとんどの墓地は移転、現在はどこにあったのかも不明確です。
古い地図を頼りにそれぞれの墓がどこにあったかを探してみたいと思います。

日文研より
1872_001.jpg
明治5年の地図です。
この地図は七墓の内、「濱(南濱)」を除く6つの墓が記されていました。
大坂三郷の回りに墓地が点在していることがよくわかります。

『梅田墓地』
1872_002.jpg
梅田辺りを拡大で見ると、梅田三昧の文字が確認できます。
貞享(じょうきょう)年間(1684~87)に大坂三郷の墓を集めてつくった
曽根崎村の墓地が移ってきたもので、火葬場も併存していたそうです。

umedabo_001.jpg
明治18年測量の地図をみると墓地が確認できます。
以前はもっと広かったのではないかと想像してますが、
それを検証する資料は見つけられませんでした。

umedabo_002.jpg
明治18年測量の地図と現在の地図を重ね合わせてみます。

umedabo_003.jpg
梅田墓地の位置はこの辺りになります。

P1060017.jpg
ここは工事の時に土の中から掘り出された墓石を集めた場所で
供養塔もあります。この辺りに梅田墓地があったのではと考えています。


『南浜墓地』
hamabo_001.jpg
明治18年測量の地図です。
現在も残る数少ない七墓のひとつ、南浜墓地が確認できます。
ここは「浜」や「南濱」など、いろいろな呼び名で出てきます。
以前はJR線の西側にある源光寺まで繋がるほど広い敷地だったそうです。

hamabo_002.jpg
明治18年測量の地図と現在の地図を重ねてみます。

hamabo_003.jpg
ほぼ現在の南浜墓地と同じ場所になります。
現在は墓地を囲むように家が建てられています。

P1020781.jpg
現在の南浜墓地です。歴史的のに貴重な場所なので、
ずっと保存していただきたいと願います。
大阪市さん、よろしくお願いします!!


『葭原墓地』
1872_003.jpg
葭原墓所です。他の資料では「吉原」とも書かれていて
「よしわら」や「よしはら」と呼ばれていたようです。

yoshibo_001.jpg
明治18年測量の地図にも墓地が確認できます。
おそらくここが葭原墓地だと思います。

yoshibo_002.jpg
現在の地図と重ねるとこのようになる。
明治時代の地図は誤差もありますのでイメージとして見て下さい。

tenroku.jpg
「ふるさとの想い出写真集 大阪」より
新京阪ビルは、大正15年(1926)7月に日本初のターミナルビルとして
完成しています。

kitashimin.jpg
「大阪市100年」より
新京阪ビルの向いにあった北市民会館も墓地の跡地にできました。
こちらは大正10年6月に完成、現在は建て替えられて
「大阪くらしの今昔館」が入っていますね。


つづく…



(追記)
kitashimin_02.jpg
昭和30年代のツタで覆われた北市民館 「大阪市の100年」より
このツタは、初代の志賀館長が淀川善燐館の館長S・F・モランから
贈られたツタだそうで、だれからともなく「愛のツタ」と呼ばれ、
市民館の事業を象徴するものとされていました。

(追記)
ten6_03.jpg
「大淀区史」より
大正15年の新京阪天神橋駅から見た景色です。
奥の煙突の向こうに新淀川が見えます。

(追記)
tenjin_sta.jpg
「75年のあゆみ(写真編)」より
上記の写真の詳細な写真がありました。
天神橋駅の屋上から撮影されています。撮影は大正14年10月。
左側に商店街の賑わいが見えます。
奥の川は新淀川で左の橋は旧長柄橋のようですね。


(関連記事)
大阪駅ができる前は墓地があった 2008.03.01
初代大阪駅の場所 2008.03.03
大坂七墓 南浜墓地 2008.09.08
大坂七墓 蒲生墓地 2008.10.16
大坂七墓巡り1 2008.10.22
大坂七墓巡り2 2008.10.24
大坂七墓巡り 千日墓地 2008.10.27
さよなら千日前・竹林寺 2009.02.09
大阪七墓・梅田墓地・飛田墓地の跡のあと 2010.07.26
大阪七墓・葭原墓地の沖向地蔵尊 2010.07.28


ポチッと、応援よろしく♪
bahiru_wink3.gif
スポンサーサイト





コメント

  1. pinboke_planet | URL | nJ6t.gCE

    ♪ しーみんかんのようちえん・・・・・

     【2つの吉本家】の二人の吉本さんと小学校や中学校で同級生だったウチの長兄は豊崎小学校へ入学まえ(のちに偕行社附属小学校へ転校)、北市民館に併設されていた幼稚園へ通っていました。
     
     幼き頃、家族の誰かがタイトルの歌詞の歌をよく唄っていたかすかな記憶があるので、たぶん校歌ならぬ園歌があったようです。

     この時代の大阪市は、御堂筋は言うまでも無く、ボクの生まれた扇町の産院といい、市民の生活や文化面の近代化に意欲的な、活気あふれた素晴らしい都市だったように思います。



     

  2. 新之介 | URL | sDz630us

    扇町産院

    北市民館に幼稚園が併設されていたのですか。北区史では見つけらなかった。なぜだろう。

    扇町の産院とは「扇町産院」ですね。昭和8年に鉄筋5階建てで建てられています。戦災を免れてGHQ将校らが泊まる「ホテル・ナニワ」に転用され、昭和31年から関西国際学友会館として使用されていたようですね。立派な建物だったのでしょうね。

    大大阪と呼ばれていた時代の建物ですね。

  3. pinboke_planet | URL | nJ6t.gCE

    大阪北市民館保育組合のことらしい

    ご参考:キリスト教研究所研究員を終えて  福元 真由美(明治学院関係?)から

    >>従来、わが国の幼児教育の歴史は文部省の管轄する幼稚園、厚生省の管轄する保育所という2つの系譜によって理解されてきました。これに対し、大正期から昭和初期にかけて成立した協同組合型保育施設の系譜と郊外型幼稚園の系譜について研究を進めることによって、幼児教育の歴史的系譜を再検討し、その多様性、重層性を明らかにしたいと考えています。賀川は、この新たな2つの系譜に属する保育施設を設立したという意味で、私の研究のkey personの一人といえます。これまでも、賀川研究を端緒として、協同組合型保育施設の系譜として大阪北市民館保育組合(志賀志那人)、子供の村保育園(平田のぶ)など、郊外型幼稚園として家なき幼稚園(橋詰せみ郎)、玉川学園幼稚(小原国芳)など、について賀川との関係を捉えつつ研究を進めてきました。

  4. pinboke_planet | URL | nJ6t.gCE

    大阪市立北市民館と志賀志那人

    これも参考になるかもしれませんね。
     北市民館は大阪の社会事業の歴史上も重要な存在だったのでしょうか?
     ちなみに、ボクが覚えているのは外壁の殆どが蔦に覆われてからなので、この写真の市民館は初めて見る建物のようです。

    大阪市立北市民館と志賀志那人
    http://www.osakavol.org/getuvol/mvi2002/mvi3767.html

  5. 新之介 | URL | sDz630us

    北市民館

    pinboke_planetさん

    おそらく古い「北区誌」を見れば書いているのかもしれませんね。「北区史(昭和55年発行)」には昭和26年に付設保育所が完成したとは書いていますが、それ以前のことが書いていませんでした。

    市民館には昭和4年に天皇陛下もお越しになっており、加藤高明、浜口雄幸両首相も来訪されていたようです。

    「大阪市立北市民館と志賀志那人」は興味深く読みました。小笠原慶彰先生は、たまたま先日メールのやり取りをしていた方です。大阪ボランティア協会が発行している『Volo(ウォロ)』10月号の記事で私のブログを参照してくださいました。

    前回書き忘れていましたが、「関西国際学友会館」のくだりは『*ALWAYS memoir*』で書かれていますね。

    http://blog.livedoor.jp/enethan_fan/archives/50884169.html


    追伸
    ツタで覆われた写真を追記しました。

  6. ゴリモン | URL | CFnWuolQ

    北ヤード南西端の重ね合わせた地図が解りやすいです♪
    天六阪急ビルも墓地の跡だったとは驚きました。

  7. 新之介 | URL | sDz630us

    ゴリモンさん

    >北ヤード南西端の重ね合わせた地図が解りやすいです♪

    そう言ってくれてうれしい(笑)。

    >天六阪急ビルも墓地の跡だったとは驚きました。

    北市民館の工事の時に、墓石が出てきたという記録はありますが、天六阪急ビルの下が墓地だったという確かな資料はありません。ただ可能性高いんちゃうかなぁと思っています。

  8. pinboke_planet | URL | nJ6t.gCE

    「愛のツタ」と淀川善隣館

     きれいな新京阪ビルの写真は、どこから撮影したのかなと思って、よく見ると北市民館のしかも(水平線の高さから)屋上から撮影したようですね。

      実家は、まあ、北市民館と淀川善隣館の中間あたりなので、姉はじめ長兄以外の多くの兄弟が淀川善隣館の幼稚園や日曜学校の常連なのですが、市民館の「愛のツタ」の話ははじめて知りました。(戦後では末の妹も善隣館でした)

     S・F・モラン先生のことは、よく母などから聞きました。比較的最近、兄の一人は、姉に連れられて甲子園転居後も善隣館の幼稚園へ通っていたことが分かりました。

     『お姉ちゃんと小学校』より
     こんどのことで、姉と電話していてふと気がついたのですが、姉はいったいどこの小学校へ行ったのだろう。
     特に、ぼくの小児喘息の転地療法のため、一家が甲子園へ転居したとき、上の兄達4人は特徴のある制服の大阪城の傍の同じ小学校へ通学したはずですが、姉が地元の小学校へ通ったという話は聞いたことがなかったのです。

     電話の向こうで、しばらく考えたあと思い出したらしく、甲子園へ転居したのは小学校2年生、それまで通り今のJR 甲子園口から乗って大阪駅へ、当時は省線と云った天満まで乗り継ぎ、翌年小学校の弟の手をひいて長い商店街を徒歩で本庄の善隣館幼稚園へ送り届けたあと、豊崎小学校へ登校したんだそうです。

    『お姉ちゃんと小学校』
    http://blog.livedoor.jp/enethan_fan/archives/50507828.html#more

  9. 新之介 | URL | sDz630us

    お姉ちゃんっ子

    pinboke_planetさん

    『お姉ちゃんと小学校』 を読みました。甲子園口から豊崎小学校へ通っていたというのは驚きです。それも小さい弟を幼稚園に届けていたなんて。当然、帰りも一緒に帰っていたんですね。弟は「お姉ちゃんっ子」だったのかも。
    お兄さんの事故の話は以前読みましたが、それらの話が重なってなんともいえない気持ちになります。

    >北市民館のしかも(水平線の高さから)屋上から撮影したようですね。

    そのようですね。この駅の向こう側が見たくなりますよね。大淀区史に小さい写真があったので追記しました。

    大淀区史に北市民館の幼稚園のことを「つたの葉幼稚園」と呼んでいたそうですよ。

    この地域は北市民館や淀川善隣館、中津学園など社会福祉施設が数多くありました。現在もそうですが、これからの福祉社会の見本となる地域なのかもしれませんね。

  10. まさお | URL | -

    私、國分寺のものです。北市民館が立て替えられたとき大量に人骨が出てきたと先代が言ってました。今でもあのあたりの立て替えがあれば供養の依頼があります。
    それにしても、新京阪のビルも間もなく取り壊されタワーマンションに生まれ変わるのが寂しいです。

  11. 新之介 | URL | sDz630us

    まさおさん

    やはり骨が出てきたという話は本当だったんですね。
    貴重なコメント、ありがとうございます。

    ファミリーストアも近々移転すると聞きました。
    やっと動き出すんですね。
    やはりマンションですか。
    ビルの解体はとても寂しいですが、
    それによって地域が活性化するのであれば
    やむを得ずというところなのでしょうか。

    でも寂しいです。

  12. よっさん | URL | O5mp8qzk

    新京阪の天満橋は、天神橋のまちがいではないでしょうか。

  13. 新之介 | URL | sDz630us

    よっさん

    ご指摘通り文字の打ち間違いです。
    修正しました。ありがとうございます。
    ついでにと行っては何ですが、詳細な写真がありましたので
    追記しました。旧天神橋駅屋上からの眺めです。

  14. | |

    管理人のみ閲覧できます

    このコメントは管理人のみ閲覧できます

コメントの投稿

(コメント編集・削除に必要)
(管理者にだけ表示を許可する)

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://atamatote.blog119.fc2.com/tb.php/173-b600fbf2
この記事へのトラックバック