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長柄の鶯塚

2008年09月26日 08:00

長柄の鶯塚

天満方面から車で長柄橋へ向う途中、近道の旧道に車が入ると道路の脇に鶯塚があります。大きな木を赤い鳥居と玉垣で囲われた場所。いったいここは何なんでしょう。

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DSC03615.jpg
この旧道はちょっとした近道なので、この道を利用する車は多いのです。

DSC03618.jpg
きっと私と同じように、ここは何だろうと思っている人は多いのではないでしょうか。

DSC03620.jpg
道路の反対側から見るとこんな感じ。

名所01
「摂津名所図会」より
摂津名所図会の長柄渡口の右下にも描かれています。

名所02
拡大で見てみると、「鶯塚 六ッ英の古梅あり」と書かれているのでしょうか。左の小さい木が梅かな。宝篋印塔(ほうきょういんとう)らしきものも描かれています。その足元に小さい石標らしきものも見えます。

PDSC03626.jpg
こちらは正面ですが、それらしきものはありません。

DSC03622.jpg
木の裏側に宝篋印塔がありました。

DSC03624.jpg
木の足元に「鶯塚」と掘られた石標も発見。ちっちゃ!

DSC03625.jpg
お地蔵さんがとてもやさしい表情だったのでパシャリ。

P1030967.jpg
由来が書かれたパネルがありました。いくつかの説があるようです。

『鶯塚の由来』

この鶯塚は今から千二百年ほど昔、長柄長者の美姫が鶯を飼って人間の様にに可愛がっていた。ところがこの姫が病の為に死ぬと鶯は深くその死を悲しみ歌を詠み後を追う如く死んでしまった。
長者たちは、このうるわし話しを後世までも伝えようと鶯を姫と一緒に埋葬して鶯塚と名付けたと言われている。

又長柄は千三百十年前人皇台三十六代孝徳天皇の遺跡で中大兄皇子(後、天智天皇)及び中臣の鎌足(藤原氏祖)と共に蘇我氏の専横を退けて、大化の改新を断行された由緒の地で、「摂津名所図絵」によると「孝徳天皇の御陵は南河内の山田村に古来より鶯凌と称へられているので、この鶯塚も天皇に関係の高貴の方の御墓であろう」とある。

又今から二百四十年前の正徳三年夏、河内狭山の藩士で笹本源之介が父の仇加州の浪人羽滝伝太郎を母と共に四年間さがしもとめて遂に長柄長者の配慮により、この鶯塚のほとりで見事仇討ちをとげ狭山藩に帰ってから長者の娘お梅を妻に迎えたと云う、この鶯塚を舞台にした芝居もある。昔は小丘の上五輪塔の墓があって、その前に「鶯塚」と刻んだ今の石標が立てられ小庵もあって四時薫香が絶えなかったと言う。

昭和三十一年秋
史深会調べ
鶯塚保存会

DSC03630.jpg
この大きな木になっていた実です。椋の木ですか?



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