2008年09月24日 08:00
天六から鶯塚へ
天満方面から長柄橋へ車で走っている時に、昔からず~っと気になっていた場所があります。長柄の「鶯塚」。今回はこの周辺を徒歩で歩いてみました。
ポチッと応援お願いします→■人気ブログランキングへ■

明治18年(1885)測量の地図です。まず最初に長柄墓地が目に入りますね。ここは大坂七墓とは違い、大阪府が明治6年7月に火葬禁止令を発するとともに、東成郡天王寺村、西成郡長柄村、西成郡岩崎町に埋葬地を新設したもののひとつです。火葬禁止令は明治8年に解除されています。

昭和4年(1929)の測量地図です。かなり住宅がふえました。関西大学の天六学舎は、昭和4年に完成、新京阪鉄道の天神橋駅が完成したのは大正14年(1925)です。

Googleマップより

天六阪急ビルです。下に昭和35年頃の写真を載せましたが、改築で外観はまったく変わってしまいました。屋上の避雷針?は当時のままかな?

昭和35年頃「昭和の大阪」より
昭和44年(1969)の地下鉄堺筋線の開業でターミナルビルの役目を終えます。エエ感じの建物だったんですね。

ビルの裏側はコンクリートむき出しなのだ。ちょっとそそられます(笑)。

駅のすぐ近くに関大の天六キャンパスがあります。「エクステンション・リードセンター」と「大学院総合情報学研究科」があるようです。

平成6年(1994)に二部の全学部が千里山に移されたので、全国で唯一の夜間専門キャンパスは姿を消しました。

昭和4年(1929)に完成した校舎。鉄筋コンクリート造地上4階、地下1階建て、L字型のモダンな建物でした。

北側の門です。現在は閉鎖されています。

もっと引いてみると……、そこはお墓でした。

「長柄墓地」こと大阪市設北霊園です。

かなり広いです。綺麗に整地された霊園ですが、木陰がないので夏のお墓参りは大変だと思います。ただ事務所に休憩室があって冷房がよくきいていました。

すこし駅の方に戻りますと、国分寺があります。天平13年(741)に建てられた国立の寺だそうです。

当時、国分寺は国府の近くに置くのが通例だったようで、大阪市内で国分寺を称するのは、天王寺区国分町天徳山国分寺とこの正国山金剛院、その他に柴島の法華寺が国分尼寺であるといわれています。

境内には古そうな仏さんが祀られています。

振り向くと、門の所に水かけ不動尊がありました。

国分寺から少し歩いたところに淀川天神社があります。国分寺村の氏神です。

とにかく目を引くのは立派なイチョウの木。

太い!樹齢何百年だろう?

境内に巨木がある神社は何かエエですね。深い理由はありませんが(笑)。

神社の向かい。こちらが鶴満寺です。こちらも有名なお寺のようです。

「長柄 鶴満寺 いご桜」 『摂津名所図会大成』より
昔は立派な桜の木があって桜の名所だったようです。

こちらのお寺も歴史があるのですが、落語の演目にもなっています。
「大阪の船場の旦さんでございます。ちょっとこの時候もよぉなりましたんで、ひとつ花見にでも出かけよか。ちゅうわけでございまして、大阪の長柄(ながら)にございます鶴満寺(かくまんじ)といぅね、鶴満寺さんといぅお寺さんへ出かけるわけでございます。
ここは以前は枝垂桜の名所やったそぉでございまして、馴染みの芸者、舞妓、太鼓持ち、茂八さんでございます、お馴染みでございます。その方がお供をいたしまして、ドンドンドンドン、ドンドンドンドン大阪を北へ北へ出てまいります。
『世紀末亭』より

長柄地域はいろいろ面白いものがあります。なかなか鶯塚にたどり着けません(笑)。スミマセン、2回に分けることにしました。
■人気ブログランキング■への応援お願いします。
↓ ↓ ↓

天満方面から長柄橋へ車で走っている時に、昔からず~っと気になっていた場所があります。長柄の「鶯塚」。今回はこの周辺を徒歩で歩いてみました。
ポチッと応援お願いします→■人気ブログランキングへ■

明治18年(1885)測量の地図です。まず最初に長柄墓地が目に入りますね。ここは大坂七墓とは違い、大阪府が明治6年7月に火葬禁止令を発するとともに、東成郡天王寺村、西成郡長柄村、西成郡岩崎町に埋葬地を新設したもののひとつです。火葬禁止令は明治8年に解除されています。

昭和4年(1929)の測量地図です。かなり住宅がふえました。関西大学の天六学舎は、昭和4年に完成、新京阪鉄道の天神橋駅が完成したのは大正14年(1925)です。

Googleマップより

天六阪急ビルです。下に昭和35年頃の写真を載せましたが、改築で外観はまったく変わってしまいました。屋上の避雷針?は当時のままかな?

昭和35年頃「昭和の大阪」より
昭和44年(1969)の地下鉄堺筋線の開業でターミナルビルの役目を終えます。エエ感じの建物だったんですね。

ビルの裏側はコンクリートむき出しなのだ。ちょっとそそられます(笑)。

駅のすぐ近くに関大の天六キャンパスがあります。「エクステンション・リードセンター」と「大学院総合情報学研究科」があるようです。

平成6年(1994)に二部の全学部が千里山に移されたので、全国で唯一の夜間専門キャンパスは姿を消しました。

昭和4年(1929)に完成した校舎。鉄筋コンクリート造地上4階、地下1階建て、L字型のモダンな建物でした。

北側の門です。現在は閉鎖されています。

もっと引いてみると……、そこはお墓でした。

「長柄墓地」こと大阪市設北霊園です。

かなり広いです。綺麗に整地された霊園ですが、木陰がないので夏のお墓参りは大変だと思います。ただ事務所に休憩室があって冷房がよくきいていました。

すこし駅の方に戻りますと、国分寺があります。天平13年(741)に建てられた国立の寺だそうです。

当時、国分寺は国府の近くに置くのが通例だったようで、大阪市内で国分寺を称するのは、天王寺区国分町天徳山国分寺とこの正国山金剛院、その他に柴島の法華寺が国分尼寺であるといわれています。

境内には古そうな仏さんが祀られています。

振り向くと、門の所に水かけ不動尊がありました。

国分寺から少し歩いたところに淀川天神社があります。国分寺村の氏神です。

とにかく目を引くのは立派なイチョウの木。

太い!樹齢何百年だろう?

境内に巨木がある神社は何かエエですね。深い理由はありませんが(笑)。

神社の向かい。こちらが鶴満寺です。こちらも有名なお寺のようです。

「長柄 鶴満寺 いご桜」 『摂津名所図会大成』より
昔は立派な桜の木があって桜の名所だったようです。

こちらのお寺も歴史があるのですが、落語の演目にもなっています。
「大阪の船場の旦さんでございます。ちょっとこの時候もよぉなりましたんで、ひとつ花見にでも出かけよか。ちゅうわけでございまして、大阪の長柄(ながら)にございます鶴満寺(かくまんじ)といぅね、鶴満寺さんといぅお寺さんへ出かけるわけでございます。
ここは以前は枝垂桜の名所やったそぉでございまして、馴染みの芸者、舞妓、太鼓持ち、茂八さんでございます、お馴染みでございます。その方がお供をいたしまして、ドンドンドンドン、ドンドンドンドン大阪を北へ北へ出てまいります。
『世紀末亭』より

長柄地域はいろいろ面白いものがあります。なかなか鶯塚にたどり着けません(笑)。スミマセン、2回に分けることにしました。
■人気ブログランキング■への応援お願いします。
↓ ↓ ↓

スポンサーサイト
コメント
pinboke_planet | URL | nJ6t.gCE
5枚目の写真は・・・
実家はGoogleマップの左端(西)からは、わずかに外れていますが、5枚目の写真なんか100%地元ですね。
映画「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズの2~3年後、写真右サイドの市電天神橋六丁目の停留所を通学に毎日利用していました。
真ん中にデンと写っている白い車はキャデラックですね。昭和35年の年末は、親戚の灘の酒造会社が多忙で手伝いに行っていましたが、帰りは御影の駅まで会長さんの帰宅のついでに横に座って送ってもらっていましたが、まだベンツでなくシボレーでした。ベンツは極めて稀少だったかも、というよりアメ車崇拝の時代だったかも。キャデラックはその象徴みたいな存在だったかもしれません。
トロリーバスのすぐ後が、当時の我が家の最初の自家用車、1000cc25馬力(たぶん)の初代ダットラで、その後ろがトヨタのオート三輪対抗トラックの大衆車版?トヨエースだと思います。
右端の黒っぽい小型乗用車は日産のライセンス生産の2代目オースチンのようですね。その後ろは?バーハンドルのミゼットか三菱の類似車かな?
リヤカーは、まだオートバイやスクーター・ミゼットやダットラ普及以前の、この界隈のメリヤ屋さんの主要な運搬手段で、これで船場や丼池まで製品を運んでいました。梅田繊維街の写真にあったような製品満載の自転車や、紙箱を2mくらいの高さに積んだリヤカーをよく見かけました。
新京阪(天六阪急ビルを、母などはこう呼んでいました)のビルの一階にはすでに阪急共栄物産(←たぶん)の80円均一売り場があったように思いますが、ひょっとすると現在の100円ショップの草分けだったかも知れませんね。
いつの頃からか、母の天六阪急ビルの呼び方が「しんけいはん」から「はちきん」に変わっていました。
しかし十丁目筋(地元の人は日本一長い商店街をこう呼びます)より東はあまり行く機会がなかったので、今回の写真は殆どが初めて見る光景です。
( 2008年09月24日 11:27 [Edit] )
ゆかり | URL | -
こんばんは。関学は、身内や、友達が出ているんですが、
1度も行った事もなく、見た事もなく・・・。
自分が行ってないから、行った事なくて当たり前なんですけどね(笑)
( 2008年09月24日 22:30 )
カオス | URL | -
記事がシンクロ
今日の記事を書き終えて、こちらに寄ってみるとなんと同じ長柄ですやん。
この辺の地名が長柄だったとは初めて知りました。
天神橋筋以外はなじみがなかったです。
淀川天神社の巨木はなかなかのもんですね。
僕も神社の巨木には惹かれるものがあります。
( 2008年09月24日 22:35 )
新之介 | URL | sDz630us
10倍!
pinboke_planetさん
5枚目の写真が10倍楽しめました(笑)。
古い写真をpinboke_planetさんのように解説した本が出ればメッチャ面白いんじゃないかな。
ビルの呼び方が「しんけいはん」だったというのはどこかでも読んだ記憶があります。だだ、その後に「はちきん」と呼んでいたというのが面白いですね。近所のおばちゃん達はみんな「はちきん」とよんでいたのかもしれない。新ネタです。
今は「阪急ファミリーストア」が入っていつもいっぱいです。自転車が道端にはみ出して大変!
ウィキペディアには2009年に取り壊し予定と書かれていますね。
( 2008年09月24日 22:47 [Edit] )
新之介 | URL | u6i4c2k.
十三で一杯
ゆかりさん
『二キ二キ日記』の十三特集、めっちゃうまそーやね。私のブログにはくいもんネタがないので宣伝しときますね。
「大衆酒場 十三屋」
http://yukarisann.blog59.fc2.com/blog-entry-839.html
「魚市場 万よし」
http://yukarisann.blog59.fc2.com/blog-entry-840.html
で、もう一軒いったの?
恐るべし!
( 2008年09月24日 23:05 [Edit] )
seemo | URL | -
天六阪急ビル うちの会社の本部があったところです(阪急オアシス) 阪急共栄物産 懐かしい名前ですね 事業の再構築によって 食品小売業に特化して 阪急ファミリーストアに変わったんです ですが 来月にはオアシスもファミリーも(ニッショーも)会社としては なくなります(屋号は残る) 皆合併して阪食という会社になります だから来月からは 天六もうちのお店です(笑)
( 2008年09月24日 23:12 )
新之介 | URL | sDz630us
記事がシンクロ
カオスさん
偶然とはいえ、記事がシンクロするのはうれしいですね。
『混沌写真』の「長柄橋」
http://chaos08.blog17.fc2.com/blog-entry-137.html
この辺は、親戚が天満市場の近くなので
車でよく通る場所なんです。
車で走りながら、気になるものがいくつかあって
いつか歩いてみようと思っていました。
巨木もいいモチーフですね。
大阪にはけっこうありますよ。
無名な木も含めて。
( 2008年09月24日 23:17 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
強力なグループ
seemoさん
「阪食」としてグループが一体になるんですね。
知りませんでしたが、かなり強力なグループですね。
http://www.hanshoku.co.jp/index.html
私の家の近くは阪急ファミリーストアの塚本店があります。塚本駅周辺は食品スーパーの激戦区で、後から入ってきたファミリーストアは「どうなるんやろ」と見ていたのですが、住み分けができてるようです。いつもどの店もはやってます。個人的には阪急ファミリーストアの品揃えが好きです(笑)。
( 2008年09月24日 23:34 [Edit] )
ゆかり | URL | -
宣伝ありがとうございます。m(_"_)m
十三で、もう1軒行きました(笑)
( 2008年09月25日 06:04 )
pinboke_planet | URL | nJ6t.gCE
な~がい な~がい 長柄橋
こどもの頃、こんな手毬歌を姉が歌っていたような気がします。
カオス氏のサイトで長いだけで何の変哲も無かった長柄橋が、明るく美しい姿に変わったことを再確認しましたが、なにか長柄橋には暗い話や悲しい話のイメージがしますね。斎場のイメージがつよいのかな?
たとえば
http://www.rikuryo.or.jp/home/column/bridge/007.html
昭和36年に肥後橋の会社に勤めだし、給料日前の昼食時に、よく高校の運動部の同級生の友人の勤めていた市庁をたずね、市庁の食堂や淀屋橋界隈の店でご馳走になったのは、彼が天六の関大通学組で、社会人としては4年先輩の貫禄でいつも奢ってくれたからですが・・・
早慶戦ほどでもないですが、関西では関関戦と言う関大と関学の定期戦があって、このときは、もとチームメイトのその友人とは敵味方ということになります。
(彼は要職を務めた定年後、中央体育館館長に天下り?していたので、高校OB会で借り切ってゲームをしたことがありました)
( 2008年09月25日 11:22 [Edit] )
とんま | URL | ubmid.EQ
天六阪急ビル
はじめまして、いつも楽しく拝見しております。
天神橋駅(天六阪急ビル)の現役の頃の写真ってあまりなくて、
いったいどんな外観だったんだろうと横を通るたびに想像を巡らしていました。
なんて立派な装飾、ホント驚きました! 凄いですねぇ~
よく大正時代にあんな駅ビルを建てたものと感心します。
周辺の道路の走り具合を見ればわかりますが
昔は今の大阪駅前みたいなにぎわいだったんでしょうね。
建築偽装などあり得ない時代の生き証人、
来年いよいよ解体ですか・・・寂しいですね。
( 2008年09月25日 15:56 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
すごいな
ゆかりさん
3件目が富五郎ですか。
http://yukarisann.blog59.fc2.com/blog-entry-841.html
想定外でした。
恐るべし!
でも元気やな。
若い証拠だね(笑)
( 2008年09月25日 22:10 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
pinboke_planetさん
おっしゃるように長柄橋は暗い話や悲しい話が多いですね。長柄の人柱もそうですし、忘れてはいけないのは大阪大空襲の橋の下の悲劇。長柄橋の下に避難した約400人の方々が亡くなりました。斎場のイメージも確かにありますね。私の祖父と祖母はこちらでお世話になりました。
関関戦はよく知っています。私は卒業生ではないですが、同僚に元関学の応援団長がいます。彼にいろいろ聞きました(笑)。
( 2008年09月25日 22:36 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
天六阪急ビル
とんまさん
昔の天六阪急ビルはいいですよね。今でこそ阪急のビルですが、当時は京阪が作った駅でしたね。
昔の天六周辺はすごい賑わいだったと思います。市電が交差し、阪神北大阪線の発着駅でした。天六周辺の昔を調べると面白いでしょうね。いつか調べてみたいと思っています。いつになるだろう…(笑)
( 2008年09月25日 22:59 [Edit] )
ブログランキングから来ました | URL | -
天六阪急ビルの改装前の写真を拝見して、態々こんなつまらない外観にしたのね!と絶句したんですが、
当時は古臭い外観のビル!!という感覚だったんでしょうね。
堺筋の旧高島屋なんかも当時の意匠が残っていれば保存運動なんかもあったのかなーと思うと一寸可哀想な気もします。
先日久しぶりに中之島のダイビルを訪れると周囲の超高層ビルに囲まれて、以前より魅力的に見えました。
( 2008年09月26日 02:07 )
increscentmoon | URL | -
80円均一
昭和30年代、阪急の梅田本店でも名物だったと思います。
( 2008年09月26日 06:35 )
新之介 | URL | sDz630us
すっぴんがいい
「ブログランキングから来ました」さん
>当時は古臭い外観のビル!!という感覚だったんでしょうね。
そうかもしれませんね。こういうフラットなビルが改築当時の流行だったのかも。
旧高島屋はこれですね↓
「大阪歴史探索」
http://blog.livedoor.jp/michi2002/archives/51114318.html
確かにこの建物も現代風に改築されてなければ今も存在していたかも。
中之島のダイビルの場所は私もたまに通ります。高層ビル群に囲まれた状態ですが、存在感がありますね。蛸の松の写真を取った時の写真です。9月24日に撮影してます。
http://blog-imgs-41.fc2.com/a/t/a/atamatote/P1040071.jpg
( 2008年09月26日 18:54 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
80円均一
increscentmoonさん
80円均一って梅田にもあったんですか。
ネットで検索しても出てこないのですが
阪急百貨店の年史を見れば
載っているかもしれませんね。
今度見ておきます。
( 2008年09月26日 19:08 [Edit] )
とんま | URL | ubmid.EQ
ほかにも・・・
天六阪急ビル、駅以外にもいろんな歴史があるんですね~。
あと、天神橋と長柄橋までの間は関西初の高架鉄道だったそうで、
今でも天八から長柄橋までの間は当時の面影を残しています。
意外と知られていないのが、柴島駅から長柄橋までの間、
地上から高架へ線路が上がっていく所で、ここも大正14年建造。
ほとんど当時のままの姿で今も列車の往来を支えています。
土台も昔のまま、架線柱も「大正14年建造」のものが多く、エエ感じ出してます。
機会があれば是非一度見てくださいね♪
( 2008年09月27日 22:09 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
関西初の高架鉄道
とんまさん
>天神橋と長柄橋までの間は関西初の高架鉄道だったそうで
高架から地下に入っていく場所はチェックしていたのですが、高架が当時からもとということにきずいていませんでした。橋までの間になにか面白いものが残っているかも…
http://blog-imgs-41.fc2.com/a/t/a/atamatote/P1030938.jpg
>柴島駅から長柄橋までの間、地上から高架へ線路が上がっていく所で、ここも大正14年建造。
柴島駅から橋まではノーチェックです。面白そうですね。近くまで行った時はチェックしてみます♪
( 2008年09月28日 20:57 [Edit] )
kotaro | URL | 8nGiSIKA
やっとコメント
天六の歴史は大阪の北ターミナルだった時代。現在に至るまでの変遷を多くのコメントが補足してくれました。
最後の地上駅だった時代、中津から来る阪神の路面電車があった頃が乗り換え賑わいの華やかさの頂点だったのでしょう。
元々は新京阪のターミナル、そうすると阪急共栄物産は阪急を名乗っているがここが本拠だったので新京阪系の流れだったのか、気になりました。
脱線しますが今年マッコーリーに買収された芦有ハイウェイは金井重要工業系、古泉閣への玄関道でした。
よく似た高雄パークウエイは西山ドライブウエイという会社、阪急系で阪急の各地の駅の駐輪場ビジネスも手がけています。
さてさて、最後は哀しい話。天六のガス爆発の慰霊碑がひっそりと少し下がった裏路地に立っています。
それから長柄駅がまだあった時代、当時の関西大学に通ってたオールドボーイに聞いた話ですが、空っ風吹くホームに立つと日によっては火葬の野辺の送りの臭いが流れてきて「かなわんやったわ」らしいです。
この項は本にすれば良いほど多くの人間ドラマを抱えていますね。
( 2008年10月02日 01:27 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
新京阪のターミナルの歴史
kotaroさん
>元々は新京阪のターミナル、そうすると阪急共栄物産は阪急を名乗っているがここが本拠だったので新京阪系の流れだったのか、気になりました。
元をたどっていくと新京阪系になるのかもしれませんが、さらにいうと京阪系ですね。新京阪電鉄は昭和5年に親会社の京阪電鉄と合併し、さらに戦時中の昭和18年に阪急電車と合併、京阪神急行電鉄になりました。戦後京阪電車のみが独立していますが、かなり複雑な歴史を歩んでいますね。
天六のガス爆発の慰霊碑は国分寺と淀川天神社の間の公園にありました。けっして忘れてはいけない事故だと思います。
( 2008年10月02日 22:30 [Edit] )
increscentmoon | URL | -
月賦百貨店
当時の天六阪急ビルのステータスと言うか存在感は天六の賑わいを反映して相当高かったものと想像しています。
小生の小さい頃(昭和20年代)の街の繁華度の子供なりの基準は、一にも二にも百貨店があるかないかでした。
阪急、阪神を抱える梅田が子供の目から一番の繁華街に見えたのは言うまでもありません(次は大丸、そごうの心斎橋でしょうか)。
時代が少し下る(昭和30年代)とスーパーマーケットが出てきてそれが駅前にあるのが中程度の繁華街と言う事だったと思いますが、スーパーマーケットができるまでは映画館のある所というのが結構目安になっていたような気がします。
と、ここまで書いて来てもう一つ思い出すのは当時はその中規模程度の繁華の駅近くには小型のコンクリート造の月賦百貨店というのが店を構えていたと思います。
阪急沿線で言えば、たとえば池田、私はおぼえていませんが同じく中規模繁華街の十三にもいくつかあったのではないでしょうか。
月賦百貨店というのは東京では丸井、緑屋、丸興など長く隆盛を誇りましたが、関西では土地柄に合わなかったのでしょうか、すぐに姿を消してしまったと言うのが私の印象です。
( 2008年10月05日 17:59 )
新之介 | URL | sDz630us
月賦百貨店
increscentmoonさん
月賦百貨店ですか。はじめて聞きました。
丸井やクレディセゾン、OMC カードが
それだったようですね。
十三にあったのなら調べてみたいですが
東淀川区史には載っていませんでした。
( 2008年10月05日 23:59 [Edit] )
kotaro | URL | 8nGiSIKA
井の屋/月賦デパート
京阪沿線大阪側となぜか北九州市にあった「クレジットの井の屋」がそれにあたりませんか。
駅前百貨店なら阪急豊中に昨年まであった原田デパートもどんな形態だったのでしょうか。
( 2008年10月06日 12:19 [Edit] )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
月賦百貨店
プチ ご無沙汰です
月賦の百貨店 十三にあったと思います
名前までは覚えていませんが 駅前です
坂口のならびに あったように記憶しています
そうそう しょうきん百貨店
漢字わかりませんが 正金百貨店だったかな
買い物に入ったことはありません
通学時に前を通るのでウインドウは見えました 婦人服のマネキンが立っていたように覚えています
( 2008年10月06日 19:49 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
月賦百貨店って?
kotaroさん
すごく基本的な質問なのですが。
月賦百貨店とはどういう形態なのでしょうか。
店頭に商品があるのでしょうか?
貴金属とかバックとか少し高額な商品が
あるのでしょうか?
現金ではなく、月賦で買うわけですよね。
店舗がイメージできないんです…。
一般の人が気軽に入れる店ではないような気もしますが
どうなんでしょう?
おそらく同じように思っている方々が
多いのではないでしょうか。
( 2008年10月07日 10:50 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
正金百貨店
TOSSYさん
坂口とは、現在の坂口靴店のことですね。
並びということは、
パチンコ屋さんの辺りにあったのかな?
正金百貨店で検索したらこんなページがありました。
http://www.j-cave.com/retro/mbx08.html
『お小遣でできるお洒落のお店 五ヵ月払 正金百貨店』
なるほど。このキャッチフレーズでなんとなく店の形態が想像できそうです。
( 2008年10月07日 11:05 [Edit] )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
波平通り
入っていく左手だったと思います
現在はうどんや?
百貨店とはいえない規模の店でした
カードの時代になって消えたのだと思いますが CMソングも聴いたような・・
最後が しょうき~ん百貨店 だった
サンTVか TVオオサカあたりでしていたのでしょう
( 2008年10月07日 15:18 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
その後の正金百貨店
TOSSYさん
坂口靴店の隣か隣あたりだったんですね。
CMもあったんですか?
正金百貨店がその後どうなったかは
ネット上にはないようですね。
また調べてみます。
( 2008年10月08日 12:34 [Edit] )
increscentmoon | URL | -
駅のそばの丸井
みなさん、こんばんは。
>京阪沿線大阪側となぜか北九州市にあった「クレジットの井の屋」がそれにあたりませんか(kotaroさん)
そうですね、「井野屋」さん。うっかりしてました。関西にも残っていましたね。私は布施のお店を知っています。今は相当古びていますが、サティやビブレなどがない時代にはそれなりのステータスがあったと感じさせる建物です。
>そうそう しょうきん百貨店
>漢字わかりませんが 正金百貨店だったかな
>買い物に入ったことはありません
>通学時に前を通るのでウインドウは見えました 婦人服のマネキンが立っていたように覚えています(TOSSYさん)
こちらも思い出しました。正金百貨店。池田に在ったのもたしかこのお店かな。それ以外にも、大阪駅前地下の大丸の向いにお店がありました。こちらは池田と違いずっと時代が下っても存続していたような気がします。ひょっとして今でもありませんかね。百貨店というより洋品雑貨の店という感じで、ネクタイや靴下などを全面に出していたような覚えがあります。
>現金ではなく、月賦で買うわけですよね。
>店舗がイメージできないんです…。
>一般の人が気軽に入れる店ではないような気もしますが
どうなんでしょう?(新之介さん)
ナンバの丸井に行かれたことはないですか。丸井は月賦百貨店のなかでもとくにグレードが高いですが、一般百貨店とそれほど雰囲気は変わらないかと思います。
東京の人には「駅のそばの丸井」(キャッチコピーです。)はなじみが深く、私の同僚もよく月賦で背広を買ってました。
全く話は飛びますが、丸井ができたため立ち退いた南街劇場正面にも「喜八州」の小さいお店がありました。友人と映画を見ながら「酒まんじゅう」を食ったのを思い出します。たった一人だけの店員さんも昔からずっと同じ方だったような・・・
( 2008年10月08日 18:48 )
新之介 | URL | sDz630us
「井野屋」さん
increscentmoon さん
「井野屋」さんの業種が割賦百貨店になっていました。今でもあるんですね。勉強になりました。
http://www.inoya.co.jp/yurai.html
>大阪駅前地下の大丸の向いにお店がありました。
今はそれらしき店はないかもしれませんが、そういえばそんな店があったような気がします。
丸井の歴史は興味深いです。月賦百貨店はちゃんと調べてみる価値がありそうです。
南街劇場正面にも「喜八州」がありましたか。
涼しくなると酒まんが恋しくなってきます(笑)
( 2008年10月09日 00:28 [Edit] )
increscentmoon | URL | -
十銭ストア
>阪急共栄物産(←たぶん)の80円均一売り場があったように思いますが、ひょっとすると現在の100円ショップの草分けだったかも知れませんね。 (pinboke_planetさん)
100円ショップのルーツは、前史もあるようですが、全国的になったのは昭和初期、高島屋が「丸高十銭ストア」をはじめた事によるとされているようです。最盛期には106店舗もあったとか。
このサイトの「思い出の十三イラストマップ」にも、その「十銭ストア」が見つけ出せます。
( 2008年10月18日 06:57 )
kotaro | URL | 8nGiSIKA
割賦(月賦)販売
このスレッドも相当長くなり、続けて書くのに気後れしますが、井野屋の謎が解けて長年の閊えがとれました。
カードが普及する前の小売りの一つの形態、そこに答えがあります。
サンヨーが傾いた時に子会社の一つ、サンヨークレジットを売却する時に「結構高い」値段がつきました。この会社の説明でかつて電器製品を月賦で売るために設立した由来が分かりました。
月賦販売のかつての王者はミシンです。リッカー、ジャノメあたりが代表例で古豪のブラザーに伍す地位を得ました。
ところでお金のない人の買い物方法として編み出された月賦ですが、生活様式というものがまだ存在した時代、絶対しないという家庭(主義)もありました。私の母が例です。
今の時代から想像が付きにくいのですが、プライドのような、「家さとの訓(おしえ)」みたいなものでなかったでしょうか。
『お金が無いなら我慢しなさい』これは母方が武家の血筋であったことも原因のように思えます。その影響か私もカードで買い物はしません。
うたかたの消費経済、飲み込まれる庶民の悲哀は今回のサブプライム発の金融恐慌でも見せつけられました。
丸井はカードで成功した。古い形態の井野屋は細々とビジネスを続ける。その両者の違いは消費者に負担リスクをどれだけ置くか、だけだと思います。が、人が死なないような世の中にしないといけませんね。話が随分脱線しました。御免なさい。
( 2008年10月18日 11:42 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
十三の十銭ストア
increscentmoonさん
「思い出の十三イラストマップ」にも十銭ストアがありましたね。
http://blog-imgs-41.fc2.com/a/t/a/atamatote/10sen.jpg
ここも「丸高十銭ストア」なのかな。
商店街の入口の一番いい場所ですね。
当時はよく売れたんじゃないでしょうか。
( 2008年10月18日 16:17 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
現金払い
kotaroさん
クレジットカードは私もほとんど使いません。
商売人の家に生まれたからでしょう。
欲しいものは現金を貯めて買います。
おそらく、実家にはクレジットカードは
ないと思います。
しかし、家内は上手に利用しています。
カードで買ったほうが現金より得だからだそうです。
使う人によって、いい面も悪い面もある。
これも「都会の悪所はすべてが隣り合わせ」なのですね。
( 2008年10月18日 16:43 [Edit] )
increscentmoon | URL | -
十銭(テンセン)寿司
前のMSGでは触れませんでしたが、十銭ストアは「テンセンストア」と読んでいたようです。アメリカの10セントショップの輸入だからとか。この「十銭ストア」の十銭(テンセン)はその時代の流行語になったようで、十銭寿司、十銭漫才、十銭芸者など安直な物の代名詞とされていました。
さて先に書きました丸井(昔の南街劇場)の戎橋筋を挟んだ向かいに「天扇寿司」というお寿司やさんがあります。以前から「天扇という熟語は聞いた事がないなあ、変わった名前だなあ。」と思っていました。ずっと後になって気がついたのですが、「どうやらこれはテンセン寿司の当て字で、昔はきっと十銭寿司と書いていたに違いない。」というのが私の推理ですが如何でしょうか。
( 2008年10月20日 17:38 )
新之介 | URL | sDz630us
十銭(テンセン)寿司
increscentmoonさん
「テンセンストア」ですか。いいことを聞きました。知っている世代の方以外は「ジュッセンストア」と読んでいたでしょうね。記録として残せてよかった(笑)。
>「どうやらこれはテンセン寿司の当て字で、昔はきっと十銭寿司と書いていたに違いない。」
私もその推理に一票!(笑)。
昔の写真を見ていて出てきたら「当り」ですね。
( 2008年10月20日 22:24 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
天扇寿司
>さて先に書きました丸井(昔の南街劇場)の戎橋筋を挟んだ向かいに「天扇寿司」というお寿司やさんがあります。
千日前によったついでに撮ってきました(笑)
http://blog-imgs-41.fc2.com/a/t/a/atamatote/P1050587.jpg
( 2008年10月22日 15:25 [Edit] )
increscentmoon | URL | -
天扇寿司の写真
新之介さん、こんばんは。わざわざお写真有難うございました。
「天扇寿司」、白地に黒抜きのロゴの看板が長かったような印象がありますが、丸井開店にあわせて模様替えしたのでしょうか。
戎橋筋は歴史が古いので、老舗といわれる店が未だ残っていますね。また食い物の話で恐縮ですが、すぐ頭に浮かぶのは「かまぼこの大寅」です。
かっては阪急沿線にすんでいましたので、私の父はかまぼこならキタの「和田八」のほうが贔屓でしたが、ミナミでは恐らく「大寅」贔屓の人が多いんでしょうね。
( 2008年10月22日 17:58 )
新之介 | URL | sDz630us
ミナミを歩く
increscentmoonさん
「大寅」は「天扇寿司」の並びにもあったような…
現在、千日墓地の歴史をしらべている最中ですが
「千日前の歴史」に広がっていきそうな予感が…
知ってるようで知らないことだらけ。
なかなか面白い地域ですね。
食べ物のネタも入れれたらいいんですが…。
( 2008年10月23日 10:18 [Edit] )
increscentmoon | URL | -
悪所
>これも「都会の悪所はすべてが隣り合わせ」なのですね。(新之介さん)
最近の話題が十三からだんだん離れてゆくのは少しさびしい気がします。
全くの個人的わがまま(笑)ですが、「十三の悪所」等という話題など如何でしょうか。
( 2008年10月23日 17:04 )
新之介 | URL | sDz630us
十三ネタ
increscentmoonさん
>最近の話題が十三からだんだん離れてゆくのは少しさびしい気がします。
もうしばらくお待ちください(汗)
現在おいしそうな「ネタ」を探しております。
本当は十三が一番元気だった昭和40年代を
知りたいと思っています。
が、なかなか資料がありません…。
悩んだら原点に戻るのが一番かもしれませんね。
千日前を理解したら戻ります(笑)。
( 2008年10月23日 18:00 [Edit] )
increscentmoon | URL | -
失礼しました。
新之介さん、こんばんは。
ブログの維持管理のご苦労いつもたいへんだろうと感心もし、尊敬もしております。小生の意見など何卒お読み捨ての程を。
それに関連するかもしれませんが、(ネタ集めなど本当にたいへんだと思いますので)話題の出し方については、もう少し時間をお空けになっても良いのではありませんか。折角の「伝法」「姫島」などの話題が、さほど盛り上がることなく下に言ってしまうのもなんとも惜しい気がします。
とはいえ、これはコメントをつけようとする私だけのことで、ROM専の方は「早く新しい話題を書いてくれ。」と思っておられるのかもしれませんね・・・なかなか難しい。
( 2008年10月23日 18:36 )
新之介 | URL | sDz630us
地味ネタが最大の特徴かも
increscentmoonさん
尊敬はしなくていいですよ(笑)。
でもお気遣いありがとうございます。
おっしゃるように更新する頻度は気にしています。
1週間で1~2回くらいが負担が少ないですね。
なぜか地味なネタが多くなってしまいます。ただ、お一人でも「メッチャ面白い」と思ってくださる方がいるに違いない!と思いながらやっています(笑)。もっと地味なところにも行くかもしれません…。
それに、コメントが書きにくいブログだろうなぁと思うこともよくあります。それでもコメントを書いてくださる方には、感謝感謝です。やっぱりうれしいです。
( 2008年10月23日 23:48 [Edit] )
まさお | URL | -
はじめまして、今日たまたまたどり着きました。
國分寺のものです。
天神社の銀杏はおそらくうちの境内にある
銀杏と同じ頃のものだと思います。3本境内に現存していますのでまた見てください。
戦災で全焼しているのでほとんど古いものはありませんが
掲示されている山門は唯一焼けなかったもので大切にしています。
ちなみに鶴満寺は焼けていません。
数年前に戦災前の天六界隈の写真が出てきましたので
よろしければお見せ出来ますよ!
では。
( 2009年12月31日 21:10 )
新之介 | URL | sDz630us
まさおさん
國分寺は山門だけが焼け残ったのですか。
それは貴重です。
戦後の空撮を見ると焼けた跡のように見えます。
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=USA&courseno=M84-1&photono=68
戦前の写真はとても興味深いです。
( 2010年01月03日 00:18 [Edit] )
まさお | URL | -
数年前その空撮の詳細を手に入れましたが肝心の寺の部分に傷があり一部見えないところがあり残念でした。でも伽藍の焼け跡ははっきりわか戦前の写真と一致しました。
ところで現在の都島通り(昔の電車道)は寺の南をはしっていますが本来の都市計画は寺の北側を通すつもりだったのではないかと最近思うのです。通りが天六の交差点でいびつに曲がっているのが不思議で新京阪のビルの建て方も、そのせいで境内はちょん切られるし 笑 都島の地図を見てもそのほうがすんなりいくのですが・・・。
( 2010年01月04日 10:16 )
新之介 | URL | sDz630us
まさおさん
>通りが天六の交差点でいびつに曲がっているのが不思議で新京阪のビルの建て方も、そのせいで境内はちょん切られるし 笑 都島の地図を見てもそのほうがすんなりいくのですが・・・。
私は昔の地図を見る事が事が多いのですが、
同じようにいびつな曲がり方をしている道路があったりします。
たいがい、そこには重要な建物がある場合が多いです。
國分寺の北側に道路を通すと鶴満寺とぶつかります。
この道路は國分寺と鶴満寺をさけて斜めに通したのかもしれませんね。
ただ、手前の國分寺の敷地に道路がかかってしまった。
当時はかなり強引に道路を作りましたので
潰されてしまった建物も多かったと思います。
ちなみに梅田ー天六ー都島間の道路は大正15年に開通しています。
( 2010年01月04日 11:48 [Edit] )
まさお | URL | -
御無沙汰しております。
ようやくHPを立ち上げましたので一度ご覧になってください。
戦前の付近の写真も掲載しております。
よろしくお願いいたします。
( 2010年10月13日 16:41 )
新之介 | URL | sDz630us
まさおさん
すばらしいHPですね。
特に戦前の写真はとても貴重で
素晴らしいです。
当時の町並みが旧天神橋駅も写っていますね。
感激です。
( 2010年10月17日 22:30 [Edit] )
| |
承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです
( 2016年06月19日 02:32 )
コメントの投稿