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梅田村事件

2008年07月15日 01:00

大阪駅前の歴史(4) 梅田村事件篇

昭和27年12月のクリスマスの朝、現在マルビルが建つ土地に、60件のバラックが一夜にして建てられていました。この土地は引揚援護局という公共の施設の跡で、その隣で商売をしていた男が不法占拠したのです。

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この土地の地主である吉本晴彦氏は弁護士と相談し、12月26日、建設会社に頼みわずか25分で潰してしまいました。しかし、これがラジオで「梅田に暴力団あらわる!」と大騒ぎになります。その騒ぎで晴彦氏は建造物損壊罪容疑で逮捕されたのです。

民事訴訟では勝訴しましたが、刑事裁判では一審で懲役4ヶ月執行猶予2年という有罪判決が出ます。不法占拠に対する法律の不備が露呈した判決でした。しかし高裁において無罪が言い渡され、この裁判をきっかけに、「人の土地に勝手に建物は建てたらダメ」という「不動産侵奪罪」が新たに施行されることになります。

(ちょっとエエ話)
吉本家には家訓があり、その2条目に『本家分家間でお互いに金品の貸し借りや、保証などは一切これ為すべからず』と書いてあります。本家と分家の関係は我々にはわかりませんが、この事件で晴彦氏が曽根崎署の留置場に入れられた時、晴彦氏の又いとこに当たる本家の吉本五郎右衛門氏が、寒いだろうと自分で毛布とタバコ、鰻丼を持って駆けつけてくれたそうです。晴彦氏は自分には強い味方がいるのだということを知り、胸が熱くなったと後年語っておられました。

yoshimoto_02.jpg
「なにわ今昔」より
昭和24年頃です。どれが不法占拠の建物かわかりませんが、人の土地に勝手にバラックを建てて賃料を取っていた手配師がいた時代です。当時の法律では占拠者を簡単に排除できませんでした。

yoshimoto_01.jpg
「なにわ今昔」より
ここが大阪マルビルの場所です。この敷地のどこかで、この梅田村事件がおきました。

ダイヤモンドマップ
「最新大阪市街区分図(日文研所蔵地図)」より
年代が不明なのですが、ダイヤモンド地区の住宅地図です。第一生命ビル(昭和28年竣工)がまだできていません。昭和25~27年頃でしょうか。商店の店名が書かれている貴重な地図です。曽根崎中2丁目の辺りに吉本事ム所の文字が確認できます。この地図に書かれていない建物は不法占拠だったかもしれません。

P1000452.jpg
闇市閉鎖後も不法占拠はなくならず、この土地には借地権、借家権、又貸し権など全部で120件ぐらいの権利が設定されていました。この裁判以外にも、個別に立退き交渉し数年がかりで更地にしたようです。整理が終わった時、これでご先祖様の土地を取り戻せたということで、感慨深いものがあったと吉本氏は語っていました。


(関連サイト)
知ってるつもり?!『ドケチ伝説「吉本晴彦」』
玄関口にふさわしい街に―大阪駅前<4> 『読売新聞』


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コメント

  1. 新之介 | URL | u6i4c2k.

    朝日会館

    pinboke_planetさん

    「ニュートーキョー」って今でも第一生命ビルにありますね。歴史があるんだ。一回いってみよ。

    手塚治虫の「ぼくのデビュー日記」に出てくる(私はまだ読めていませんが…)朝日会館ですが、朝日ビルの隣のビルだと思っていたのですが、昭和30年の地図を見ていて、阪神百貨店の裏手の梅田ビルの隣に朝日会館を見つけました。

    http://blog-imgs-21.fc2.com/a/t/a/atamatote/asahikaikan_02.jpg
    「大阪駅前市街地改造事業誌」より

    手塚治虫さんが行かれていたのはどちらなんでしょう。

  2. TOSSY | URL | mXJ0wlpU

    地図

    興味深いですね
    30年代によく買いに行っていたお店 載っています
    父が坂本の赤マムシの生き血のワイン割り 飲んでいました
    すっぽんと同じようにするのですが 一度だけ買いに行くのについていって 次から絶対に行きませんでした

    大月楽器店 同期にいました 
    演歌歌手の大月みやこは この大月から苗字を ミナミの都楽器から名前をもらってつけて芸名だそうです

    このあたりは校区だから けっこう来ていましたね 
    店だけここで 家は別にある人が多かったですが

  3. pinboke_planet | URL | EBUSheBA

    朝日会館と梅田ビル・梅田丼池繊維街

    手塚さんが行かれた朝日会館は、「夏休み漫画大会」などの映画を見た、朝日ビルの隣の黒い朝日会館です。
    小学生のころ、映画を見に行った記憶がありますが、上田コレクションの、まだ朝日ビルや新朝日ビルの場所にあった郵便局が低層の頃、ひときわ目立つ真っ黒なビルの写真はとても印象に残っています。

    阪神百貨店裏の朝日会館の隣の梅田ビルの地下にガラス&メタリックのモダンな内装のかなり広いグリル(レストラン)があって、1960年代にはよく利用しました。定番はエビフライとビールで、東京オリンピックの開会式のテレビも終業後会社のOLさんたちと駆けつけてここで見ましたが、その日は臨時の椅子席も超満員、コーヒーのみでした。
    まだフツーの家にはカラーテレビが無かったころです。

    店の名前は思い出せませんが、追記の地図ではすぐ南側に、梅田丼池繊維街と書かれていますので、我が家の店はたぶんその中だったようですね。

    長兄の話では偕行社学院小学校5・6年生の頃、いつも(ヤンチャな・・・と言っていました)晴彦氏と一緒に学校から帰ってきたそうです。
    大阪駅前区画整理前の民家には他にも同級生が何人かいたそうで、旅館が多かったそうです。

    クラス会などは、いつもマルビルの「カラット」の奥の20人くら入れる特別室でするそうです。
    偕行社学院小学校の制服はとてもユニークなので、いま公開できる写真を探しています。

  4. 新之介 | URL | -

    地図

    TOSSYさん

    面白い地図ですよね。
    今でも営業されているお店の昔の場所がわかります。
    私が反応したのは、左下にある「大林カメラ」かな。
    今は駅前第一ビルですが、最近買ったデジイチはここで買いました。
    ヨドバシと対抗してるので結構お買い得でしたよ。

  5. 新之介 | URL | -

    偕行社学院小学校

    pinboke_planetさん

    ありがとうございます。やはり朝日ビル隣の方ですね。

    梅田ビルの地下のグリルも気になるなぁ。写真でてくるかな(笑)。

    偕行社学院小学校の制服はたぶんわかります。「どケチ人生の勧め」に晴彦氏の小学一年生(7歳)の時の写真があります。彦太郎氏と2人で写っている写真で、とてもかわいらしいんです。その時に着ている制服がもしかすると偕行社学院小学校の制服かもしれません。(プライベートな写真ぽいので公開は差し控えます。)

  6. 新之介 | URL | -

    ストッキング

    pinboke_planetさん

    晴彦さんが着ていた服は偕行社附属小学校の制服ではないかもしれません。そんなストッキングははいていませんでした。

    また、探したい写真ネタが増えました(笑)。

  7. pinboke_planet | URL | EBUSheBA

    大阪偕行社附属小学校物語

    本が届きました・・・執筆の動機と共に内容もかなり面白そうです。制服ストッキング着用(靴は校内履き?)の写真もありましたが、やはりモノクロではユニークな柄は分からないようです。

    吉本晴彦氏は、いまでは大阪の人も殆ど知らない、「坂の上の雲」は勿論「適塾」にも関係深い、まさに日本の学校史に例がない小学校のOB組織・山桜会の会長として刊行をバックアップしたようです。

    >>あとがきの抜粋

    大阪偕行社附属小学校の伝統は、他に例を見ないものであることも判明した。

     事実、緒方知三郎教授(注:緒方洪庵の次男)、緒方富雄教授等の卒業生が、東京大学医学部で指導的立場をしめ、ある時期国公立大学に100名の卒業生教授がいたといわれるのである。

     これだけの卒業生の活躍は、日本の学校史に例がない。

     本書刊行のご支援をいただいた山桜会長吉本晴彦氏に御礼を申し上げたい。


    ご参考:もうすこし詳しい「あとがき」の一部はこちら
    http://www.flickr.com/photos/pinboke/2684977784/

  8. 新之介 | URL | -

    大阪偕行社附属小学校物語

    pinboke_planetさん

    すごい小学校が大阪にあったのですね。
    まったく知りませんでした。
    面白そうな本ですね。
    私も読んでみようと思います。

  9. pinboke_planet | URL | EBUSheBA

    偕行社附属小学校の制服

     偕行社附属小学校の制服は、大阪の町では「虎の靴下、毛皮の背嚢、そして偕行社言葉。」といってけっこう有名だったそうです。片道4km以下の電車通学は禁止だったそうですので、晴彦氏も徒歩通学だったのでしょう。
     兄たちのお下がりの内、我々7、8、9番目の兄弟が冬季おそろいで重宝した上質の黒いダブルのオーバーコートがすべて新品同様だった理由が分かりました。
     「少年が見つめる先」とあまり違わない時代に、大阪にはこんな世界もあったのですね。
    (以下は引用)

     >>まず、大阪偕行社附属小学校の教育法の特徴は、鍛錬主義である。

     「冬、手袋や外套は使わせない。外套は兎狩旅行の時だけ防寒用として着用させたが、その他は雨天の際だけ雨具として使用し、傘は使わせなかった。
      冬季凍傷用として各教室に軟膏を備え置き、毎朝第一時に両手の甲や指に擦りつけさせたのである。昭和七年新築の校舎にはスチームを各室に通して暖房設備を施したが、それ以前は全然その施設は無かったので、寒さのひどい日などは朝礼後、五、六分間運動場内を駆け足させた。」(『八十年志』追手門学院)

     実は、大阪偕行社附属小学校は、冬の寒さに対して、一定の方針を厳守していた。
     この観点から制服のポケットも、胸ポケットと、ズボンの右後臀部のハンカチ用ポケットだけに制限し、ズボンの両脇にはつけさせなかった。また、夏の暑さに対しても、同様であった。

     「夏でも教室内は上衣を着け、特別暑さの厳しい時だけ、上衣を脱いでシャツだけにした。夏の九州や関東方面見学旅行、夏季臨海訓練の際も上衣を着用させた。」

     ここに偕行社型鍛錬主義の伝統が確認できる。
     ところが、こうした取り組みは、ただ強制的にやっただけではなくて、一人ひとりの心に残るものでもあった。 (以下略)

    『大阪偕行社附属小学校物語』 第17章 片桐校長と大阪偕行社附属小学校 片桐校長時代の偕行社教育(一)--鍛錬主義-- より
    (片桐校長の同じ写真は、むかし、兄たちのアルバムで何度も見たのではっきり覚えていました)

    参照:少年が見つめる先 (「十三のいま昔を歩こう」 by 新之介)
    http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-102.html

  10. 新之介 | URL | -

    鍛錬主義

    pinboke_planetさん

    たいへん興味深く読ませていただきました。
    今の学校教育に、「鍛錬」というものは残っていないかも知れませんね。

    当時の学校はどこの厳しかったと思いますが
    特に厳しい教育法だったのですね。

    このような教育法で育った人達が、日本の発展を支えてきたのは間違いありません。
    これからの日本は今の教育法でいいのでしょうか。ちょっと考えさせられました。

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