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焼き場に立つ少年

2008年07月03日 00:00

焼き場に立つ少年


おそらく私の人生で一番印象に残った写真かもしれません。


September_1945_02.jpg
撮影:ジョー・オダネル( Joseph R O'Donnell ) 撮影場所:長崎(1945年) 


撮影者ジョー・オダネルのコメントを是非読んでください。


佐世保から長崎に入った私は、
小高い丘の上から下を眺めていました。
すると白いマスクをかけた男達が目に入りました。
男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。

10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は
当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。
しかも裸足です。

少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。

少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気付いたのです。
男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、
焼き場の熱い灰の上に横たえました。

まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。
それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年の
まだあどけない頬を赤く照らしました。
その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に
血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年があまりきつく噛み締めている為、
唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、
沈黙のまま焼き場を去っていきました。

(インタビュー・文 上田勢子)
「写真が語る20世紀 目撃者」(1999年・朝日新聞社)より抜粋



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(関連サイト)
BS-i 原爆の夏 遠い日の少年
~元米軍カメラマンが心奪われた一瞬の出会い~


「焼き場に立つ少年」の写真を長崎新聞社より寄贈

実写 映画『火垂るの墓 -ほたるのはか- 』公式ホームページ
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コメント

  1. 新之介 | URL | u6i4c2k.

    ちょっと真面目なお話 

    この写真は知っておられる方も多いと思います。私はいつだったかテレビでこの写真のことを知りました。あまりの衝撃にずっと心に引っかかっていました。しかし誰の写真かわからずそのまま時が経ち、ある日ふと「一枚の写真」と検索しました。すると、この写真が現れたのです。

    このブログをはじめるまで、私も過去の戦争には無関心でした。夏が近づくと新聞やテレビなどで戦争の記事が増えてきたように思います。以前よりもそれらの記事に関心を持つようになりました。

    戦争を語り継げる大人になろうと、最近思うようになりました。

  2. 西岡邦夫 | URL | -

    焼き場に立つ少年の写真を見て

    この写真は知っている方も多いと思うと書いておられますが、恥ずかしながら私は知りませんでした。広島、長崎に原爆が投下された頃、私は大学1年で京都にいました。当時原爆は特殊爆弾が投下されたと報道され、被災地の悲惨さの詳細も報道されませんでした。京都はB29の空爆も受けず、直接被災に直面しなかったこともあり、戦後の悪い食糧事情の頃の方が心には残っています。人間は実際にその事象に直面し実感した時と、間接的に聞いて知ったのとでは、大きな差があると思います。私も十三の実家は昭和20年6月の空爆で焼失しましたが、その時は京都で下宿していたためその場にはいませんでした。焼失後すぐに焼け跡を訪れ勉強に使っていた回転椅子の金具を拾い出したことを記憶していますが、その時の悲しい記憶は薄れています。やはり直面していなかったからだと思います。ただ子供から成人するまで、ずっと戦時下に会った事は本当に不幸なことで、やはり戦争は絶対にあってならないものです。この1枚の写真を見て、その裏側にひそんでいる戦争の悲惨さを改めて想起さされました。それとともに、当時の子供や若者は精神面では今よりしっかりしていたように思います。写真の子供のしっかりした横顔はこの事を示唆しているように思います。貴重な写真を見せていただき有難うございました。

  3. ゆきひろ | URL | XoxlQHfE

    私の父は海軍へ志願しましたが身体検査で兵役免除とされ、いい若い者が兵隊にも行かないで、とかなり冷たい視線で見られ続けたそうです。母は加島に住んでいて何度も空襲に遭い機銃掃射に追われました。

    福島区鷺洲の東海道線ガード下には20年6月の空襲の際、戦闘機がガード下に逃げ込んだ人たちに向けて放った機銃掃射の弾痕が今でも無数に残されていますね。保存という形ではなく日常の風景の中に溶け込んでいます。

  4. 新之介 | URL | u6i4c2k.

    私達世代の役割

    西岡さん

    西岡さんが育ってき年代は、満州事変から日中戦争、そして太平洋戦争と、まさに日本が戦争に突き進んでいた時代ですね。直接被災に直面しなかったことは本当によかったと思います。私の父親と兄姉祖母は淡路島に疎開しやはり直接被災にあっていません。だからこそ、私たちが今の時代に生きていられるのだと思います。

    >その時の悲しい記憶は薄れています。

    もしかすると、悲しい記憶は薄れていいのかもしれません。今までに十分すぎる戦争の記録が残されています。ただ、どこかに埋もれてした記録もたくさんあります。それらを探し出し、しっかり次代の人達に伝えていくのが私達世代の役割なのかもしれません。

  5. 新之介 | URL | u6i4c2k.

    福島区鷺洲のガード下

    ゆきひろさん

    お2人とも生きて終戦をむかえれてよかったと思います。
    空襲も怖いですが、グラマン戦闘機による機銃掃射が一番恐ろしいです。
    空襲体験談を読んでそう感じました。

    福島区鷺洲のガード下はここですね。
    http://blog-imgs-21.fc2.com/a/t/a/atamatote/P1070608.jpg
    http://blog-imgs-21.fc2.com/a/t/a/atamatote/P1070605.jpg

    ちゃんと保存してほしい場所です。
    プレートの一枚ぐらい設置してもいいのではと思っています。

  6. kotaro | URL | 8nGiSIKA

    アーカイブ写真のブログとして、重いテーマも避けて
    通れません。
    夏は原爆と終戦、昔は鎮魂の季節でした。
    母が広島の人間です。

    昭和40年代は大阪、後に九州から列車に乗り
    暑い広島の街にいきました。
    法事があるからです。
    亡くなった逢ったことのない祖母のことだけでなく
    街全体が喪に服す、午後の夕凪の街。
    平和祈年祭典と高校野球の一瞬の中断と黙祷
    日本はそういう国だと思います。

    でも法事のあとは必ずデパートに連れて行ってもらったなあ。
    子供心に覚えてる夏の記憶。

  7. TOSSY | URL | mXJ0wlpU

    少年の写真とホタルの墓

    この写真を見て 文を読んで ホタルの墓ではないもう一つのホタルの墓を思い出しました
    野坂さんの小説なのですが 実際の野坂さんは あのニテコ池のところから 福井だったかに疎開しているのですね
    そこで やっぱりあの妹 本名は節子ではありませんが 節子は栄養失調で死んでいくのです
    野坂さんは 焼き場に節子を持っていくのですが たんすの引き出しかなにかの木箱に入れ 木材が手に入らないときだから 早く燃えるように 大豆を取った後の豆鞘の乾燥させたものを 箱にいっぱいつめたのだそうです
    栄養失調で おなかがプックリと膨れた幼児の周りにかさかさと硬い豆の鞘があたって そしてあっと言うまに燃え上がる
    切ない残酷な話です
    タイトルわすれました 本の形ではなく 小説本での書き下ろしでした
    この時代のことはいろいろと書いておられます 

    この写真は始めてみましたが 私の忘れられない写真は 長崎の原爆の焼け跡に立つおにぎりを持った少年
    あの少年の悲しそうな目 わすれられない写真です
    http://peace-museum.org/galleryJPM/gallery_yamahata/visual-14.htm

    20数年 もっと前でしょうか アメリカの公文書館で大量の原爆写真 (16mmだったかな)が見つかり それを買い戻そうと10フィート運動がおこりました
    当時入っていた 淀川市民生協でも みんなでカンパをして 協力しましたある程度まとめて買い戻したように覚えています
    そんな貴重な初出の写真をみんなに見てもらおうと 写真を借り出して 空き店舗を借りて (無償)各町で 何日間かの原爆写真展をしたことがあります
    十三や塚本もエリアだったのでしたかもしれないです
    写真の訴える力 どんな文章よりも 直接心に届きますね

    長くなりました 




  8. 新之介 | URL | u6i4c2k.

    黙祷

    kotaroさん

    >平和祈年祭典と高校野球の一瞬の中断と黙祷
    >日本はそういう国だと思います。

    そうですね。ずっと続けていかないといけないことだと思います。甲子園での8月15日正午の黙祷のシーンがずっと変わらないことを願っています。次代の人達への歴史教育も重要ですね。

  9. 新之介 | URL | u6i4c2k.

    ルーズベルト

    pinboke_planetさん

    長兄さんが復員されてよかったです。
    丸一日以上泳いで救助されたというのは、まさに奇跡の生還ですね。

    慰問文の内容にもビックリしました。
    小学校に入る前の子供も戦争に参加していたのですね。

    広島から帰還した軍用水筒にもいろいろ考えさせられます。
    戦争の真実をまたひとつ知りました。

  10. 新之介 | URL | u6i4c2k.

    ここだけの話

    TOSSYさん

    戦中戦後の子どもたちの写真を見ると、胸が熱くなります。

    実は「火垂るの墓」はアニメを途中まで見ましたが、最後まで見てません。おそらく、実写版も見れないと思います。子供が死んでいく話はつらすぎます。

    いつになったら見れるんでしょう。

  11. ばんぼー | URL | t/Klp7tQ

    はじめまして

    はじめてまして。いつも楽しく、そして興味深く拝見しております。

    梅田は現在の職場のある場所。十三は、新北や木川、塚本に友人が住んでいたり、北予備に通っていたこともあり、どこも親しみのある場所ばかりです。

    ここのブログを知ったのは、小学校の給食で飲んだ岡崎乳業の牛乳をネットで探したことに始まります。

    私の生まれたのは1965年の三国。東淀川区時代です。
    子供時代の写真に家の近所と思われる写真に、牛が居ます^^
    三国のネタがあれば、是非掲載お願いします。なかなかネットでは見つかりません。

    ご存知かもしれませんが、電柱のお話をしたいと思います。
    電柱には識別の為に、金属の札に名前が書かれていますが、
    現在存在しない名前が書かれているものが多くあります。

    西三国は古くは”高須”といいます。語源は十三病院近くまであった小川の須だったからと推測するのですが、電注の札に名残があります。
    梅田芝田の電柱にも”牛丸”が書かれています。

    最近、つい電柱があれば名前を探してしまいます^^


    長崎の写真、心を打ちます。
    6年前長崎を旅行したとき、資料館に行きました。資料館で長い時間を過ごしすぎて、あとの予定を変更したくらいでしたが、この写真は覚えていませんでした。

  12. 新之介 | URL | -

    三国周辺

    ばんぼーさん

    三国周辺は以前もリクエストをいただいたことがありましたので、うろうろしようと考えています。もう少し時間をください。今暑いし(笑)。

    電柱の識別の札は確かに古い地名になっていますね。地域密着型のブログのネタとしては面白そう。

    最近、破格値で東淀川区史(復刻版)を手に入れましたので三国の地域も少しずつ勉強しておきます。

  13. pinboke_planet | URL | nJ6t.gCE

    オダネル氏息子さんが・・・

    いまNHKスペシャルの再放送を見終わりました。

    オダネル氏の息子さんがFlickrにこの写真を公開していました。

    The Phoenix Venture
    http://www.flickr.com/photos/thephoenixventure/

    プロフィール: About The Phoenix Venture / Tyge O'Donnell

    My father, Joe O'Donnell, was a U.S. Marine Corps photographer during World War II and was stationed in Japan for 7 months after the atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki. Through his camera's viewfinder, he saw first-hand the atomic bomb's devastation and it's victims. He also felt a great sense of shame, sorrow and remorse.
    Volumes have been written criticizing or justifying the dropping of the bombs. The purpose of the Phoenix Venture is not to debate the subject but to allow the photographs to show what it was like in Japan, 1945 and how it could be again, but only worse.

    The Phoenix Venture
    Las Vegas, United States

    Tyge O'Donnell - Las Vegas, United States

  14. pinboke_planet | URL | nJ6t.gCE

    見たNHKの番組は

    この番組です。
    原爆がこの少年の一家の運命を大きくかえたように、この写真は撮影したオダネル氏とその一家の運命も大きく変えたようです。
    その後大統領専属カメラマンにもなったオダネル氏は日本での写真を見るのもおぞましいと感じ、43年間軍用トランクに封印、ふとしたきっかけから公開を決意、本国では猛烈な反対で唯一励ましの投書は息子さんからのもので、奥さんも離れていったそうです。奇しくも昨年の8月9日に亡くなられたそうですね。

    「解かれた封印
    ~米軍カメラマンが見たNAGASAKI~」

    今、1枚の写真が注目を集めている。

    63年前、被爆した長崎で撮影されたもので、亡くなった幼い弟の亡きがらを背負い火葬場の前にたつ「焼き場に立つ少年」と題された写真だ。

    撮影したのはアメリカ人カメラマン、ジョー・オダネル。去年8月9日、亡くなった。占領軍として原爆投下後の長崎に入り、その破壊力を記録するため写真を撮影する一方で、軍に隠れ内密に自分のカメラでおよそ30枚の写真を記録した。帰国後、被爆者の記憶に悩まされ、悲劇を忘れ去ろうと全てのネガを自宅屋根裏部屋のトランクの中に閉じこめ、43年間封印してしまう。しかし晩年になって原爆の悲劇を訴え母国アメリカの告発に踏み切っていく。原爆投下を信じる周囲から非難の声を浴びながら、85歳の生涯を閉じた。

    なぜオダネルは、軍の規則に違反して写真を撮影したのか。
    なぜその写真を長年隠し、晩年になってトランクを開け母国を告発したのか。

    その足跡を追う息子が、遺品の中に残された録音テープを発見した。そこには写真に秘められた過去と、真実を伝えざるを得なかったオダネルの思いが告白されていた。
    http://www.nhk.or.jp/special/onair/080807.html

  15. 新之介 | URL | u6i4c2k.

    見逃してしまいました。

    pinboke_planetさん

    再放送があったんですね。
    また見逃してしまいました。

    オダネル氏が亡くなった日が
    8月9日というのも不思議な感じがします。
    運命なのでしょうか。

    遺品の録音テープは興味深い。
    オダネル氏の想いを聞いてみたいです。
    再々放送をチェックしておきます。

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