2008年06月26日 07:30
さよなら市電、こんにちは万博。
昭和35年、大阪港~弁天町間の地下鉄工事が始まりました。この工事で明治36年に初めて市電が走った築港線の一部から、市電撤去が始まることになります。昭和37年、第2次都市交通審議会大阪部会が行われ、その翌年に出された答申は「地下高速鉄道整備増強計画の進展に伴い、その路線と重複する路面電車は逐次廃止することが望ましい」というものでした。
昭和38年、国道1号線と四つ橋筋の混雑緩和の為、地下鉄3号線の西梅田延長工事が急遽進められ、明治41年に華やかに開通した南北線も撤去されます。昭和39年、野田阪神~玉川町4丁目、大阪駅前~阪急東口が廃止、それもあってか、予想以上に乗客数が激減していき、赤字が増大していきます。
そんな中、昭和40年9月14日、大阪万国博開催決定というビッグニュースが日本中を駆け巡りました。これにより、大阪の都市交通の拡充が進みます。昭和41年3月29日、大阪市議会は昭和44年3月までに路面電車の全廃を決定。それは大阪万国博覧会が開催されるちょうど1年前になります。

「大阪市100年」より
昭和30年代後半の梅田阪急百貨店前です。市電の前を自動車が、次から次と通り過ぎていきます。これでは市電は走れませんね。

「昭和の大阪」より
昭和41年頃の梅田新道を走る市電です。この路線は、同年7月に廃止されます。

「大阪市100年」より
昭和39年春頃の肥後橋です。地下鉄工事と阪神高速道路の工事が同時に行われました。四ツ橋筋を走る南北線は前年の昭和38年に廃止されています。

「大阪/写真/世紀」より
昭和39年11月の肥後橋です。阪神高速道路ができたてほやほやです。朝日新聞の社屋は4年後に建て替えられます。

昭和40年(1965)頃の地下鉄の開通状況
現在の御堂筋線、四つ橋線、中央線の骨格はもう出来ていました。

「大阪/写真/世紀」より
昭和41年4月の大阪駅前です。市電の線路がなくなっています。バスの停留所が出来ています。

昭和42年(1967)頃の地下鉄の開通状況
谷町線の一部と中央線の一部が開通します。

昭和43年(1968)頃の地下鉄の開通状況
谷町線が天王寺まで開通。中央線も深江橋まで延びます。

昭和44年(1969)頃の地下鉄の開通状況
この年は驚異的なスピードで開通していきます。千日前線の一部、堺筋線が開通。中央線は全線が開通します。

昭和40年以降の市電の廃止路線
地下鉄の開通の陰で、市電は少しずつ姿を消していきました。赤い線が最後の路線です。

「大阪市100年」より
昭和44年3月31日市電最後の日。65年の歴史に幕を閉じました。

昭和45年(1970)頃の地下鉄の開通状況
千日前線が全線開通し、御堂筋線が江坂まで延びてます。万博が開催される直前に地下鉄の全線が開通しました。

「大阪市100年」より
日本万国博覧会は昭和45年(1970)3月14日から9月13日まで開催されました。江坂駅の先は北大阪急行電鉄になりますが、万博開催中は会場まで繋がっていました。(万博期間終了後、会場線と万国博中央口駅は廃止されています)

「大阪市100年」より
私は幼稚園でしたが、万博に行ったことはよく覚えています。我が家のアルバムは万博を期にカラー写真になったと思います。
♪こんにちは こんにちは 西の国から こんにちは こんにちは 東の国から…♪
『万博』の写真や映像を見ると、いまだにこの歌が頭の中で流れてきます。
(追記)

現在の朝日新聞ビルと肥後橋です。

「昭和の大阪」より
昭和43年の阪急東口停留所です。6枚目の市電最後の日の写真はこの場所だったんですね。
この場所を撮影したサイトを見つけました。
http://www.geocities.jp/eye881/44b/cide-1.htm
(追記)

「昭和の大阪」より
HEPナビオの場所ですが、この建物の奥に梅田会館があったわけですね。この正面の建物は現在の阪急交通社?

「昭和の大阪」より
梅田会館の前がシネラマOS劇場ですね。現在のナムコシティです。市電最後の日の写真の場所です。手前の工事中の場所は旧富国生命ビルの建設前です。現在も工事中ですね。

「最新大阪市街区分図」より(年代不明、調べ中)
位置関係の確認用の地図です。
(追記)

「大阪は水の都」より
昭和37年の梅田会館前です。梅田会館の写真ってありそうでなかなか出てこないです。あれっ、梅田コマ劇場で放浪記をやってますね。もしかして森 光子さんの?

「大阪は水の都」より この写真も昭和37年です。
(追記)

「梅田コマスタジアム 36年のあゆみ」より
クレージーキャッツの看板です。昭和42年の公演です。

「梅田コマスタジアム 36年のあゆみ」より
平成3年の写真です。なくなる前年ですね。この前をよく歩きました。コマゴコマシルバーだったかな、ゴッドファーザーPart I 、IIの二本立てを見たのをよく覚えています。
(関連記事)
『梅田を走る市電 開通篇』 2008.06.02
『大阪市電がつくった道路』 2008.06.06
『大阪大空襲と市電』 2008.06.08
『よみがえった市電』 2008.06.16
『いも虫と市電』 2008.06.19
『さよなら市電、こんにちは万博』 2008.06.26
『阪堺電気軌道(阪堺電車)に乗った♪』 2010.01.15
『阪堺電車・貸し切りました』 2011.06.21
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昭和35年、大阪港~弁天町間の地下鉄工事が始まりました。この工事で明治36年に初めて市電が走った築港線の一部から、市電撤去が始まることになります。昭和37年、第2次都市交通審議会大阪部会が行われ、その翌年に出された答申は「地下高速鉄道整備増強計画の進展に伴い、その路線と重複する路面電車は逐次廃止することが望ましい」というものでした。
昭和38年、国道1号線と四つ橋筋の混雑緩和の為、地下鉄3号線の西梅田延長工事が急遽進められ、明治41年に華やかに開通した南北線も撤去されます。昭和39年、野田阪神~玉川町4丁目、大阪駅前~阪急東口が廃止、それもあってか、予想以上に乗客数が激減していき、赤字が増大していきます。
そんな中、昭和40年9月14日、大阪万国博開催決定というビッグニュースが日本中を駆け巡りました。これにより、大阪の都市交通の拡充が進みます。昭和41年3月29日、大阪市議会は昭和44年3月までに路面電車の全廃を決定。それは大阪万国博覧会が開催されるちょうど1年前になります。

「大阪市100年」より
昭和30年代後半の梅田阪急百貨店前です。市電の前を自動車が、次から次と通り過ぎていきます。これでは市電は走れませんね。

「昭和の大阪」より
昭和41年頃の梅田新道を走る市電です。この路線は、同年7月に廃止されます。

「大阪市100年」より
昭和39年春頃の肥後橋です。地下鉄工事と阪神高速道路の工事が同時に行われました。四ツ橋筋を走る南北線は前年の昭和38年に廃止されています。

「大阪/写真/世紀」より
昭和39年11月の肥後橋です。阪神高速道路ができたてほやほやです。朝日新聞の社屋は4年後に建て替えられます。

昭和40年(1965)頃の地下鉄の開通状況
現在の御堂筋線、四つ橋線、中央線の骨格はもう出来ていました。

「大阪/写真/世紀」より
昭和41年4月の大阪駅前です。市電の線路がなくなっています。バスの停留所が出来ています。

昭和42年(1967)頃の地下鉄の開通状況
谷町線の一部と中央線の一部が開通します。

昭和43年(1968)頃の地下鉄の開通状況
谷町線が天王寺まで開通。中央線も深江橋まで延びます。

昭和44年(1969)頃の地下鉄の開通状況
この年は驚異的なスピードで開通していきます。千日前線の一部、堺筋線が開通。中央線は全線が開通します。

昭和40年以降の市電の廃止路線
地下鉄の開通の陰で、市電は少しずつ姿を消していきました。赤い線が最後の路線です。

「大阪市100年」より
昭和44年3月31日市電最後の日。65年の歴史に幕を閉じました。

昭和45年(1970)頃の地下鉄の開通状況
千日前線が全線開通し、御堂筋線が江坂まで延びてます。万博が開催される直前に地下鉄の全線が開通しました。

「大阪市100年」より
日本万国博覧会は昭和45年(1970)3月14日から9月13日まで開催されました。江坂駅の先は北大阪急行電鉄になりますが、万博開催中は会場まで繋がっていました。(万博期間終了後、会場線と万国博中央口駅は廃止されています)

「大阪市100年」より
私は幼稚園でしたが、万博に行ったことはよく覚えています。我が家のアルバムは万博を期にカラー写真になったと思います。
♪こんにちは こんにちは 西の国から こんにちは こんにちは 東の国から…♪
『万博』の写真や映像を見ると、いまだにこの歌が頭の中で流れてきます。
(追記)

現在の朝日新聞ビルと肥後橋です。

「昭和の大阪」より
昭和43年の阪急東口停留所です。6枚目の市電最後の日の写真はこの場所だったんですね。
この場所を撮影したサイトを見つけました。
http://www.geocities.jp/eye881/44b/cide-1.htm
(追記)

「昭和の大阪」より
HEPナビオの場所ですが、この建物の奥に梅田会館があったわけですね。この正面の建物は現在の阪急交通社?

「昭和の大阪」より
梅田会館の前がシネラマOS劇場ですね。現在のナムコシティです。市電最後の日の写真の場所です。手前の工事中の場所は旧富国生命ビルの建設前です。現在も工事中ですね。

「最新大阪市街区分図」より(年代不明、調べ中)
位置関係の確認用の地図です。
(追記)

「大阪は水の都」より
昭和37年の梅田会館前です。梅田会館の写真ってありそうでなかなか出てこないです。あれっ、梅田コマ劇場で放浪記をやってますね。もしかして森 光子さんの?

「大阪は水の都」より この写真も昭和37年です。
(追記)

「梅田コマスタジアム 36年のあゆみ」より
クレージーキャッツの看板です。昭和42年の公演です。

「梅田コマスタジアム 36年のあゆみ」より
平成3年の写真です。なくなる前年ですね。この前をよく歩きました。コマゴコマシルバーだったかな、ゴッドファーザーPart I 、IIの二本立てを見たのをよく覚えています。
(関連記事)
『梅田を走る市電 開通篇』 2008.06.02
『大阪市電がつくった道路』 2008.06.06
『大阪大空襲と市電』 2008.06.08
『よみがえった市電』 2008.06.16
『いも虫と市電』 2008.06.19
『さよなら市電、こんにちは万博』 2008.06.26
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『阪堺電車・貸し切りました』 2011.06.21
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コメント
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
阪神高速道路
開通したとき 最初は難波から出入り橋までで たしか ふつう乗用車 50円だったと思います
本当に短い区間だけでした
高速に乗って 初めて湊町駅の存在に気がつきました
写真の肥後橋のところのカーブが好きでした
万博 なつかしいです
友人の何人かは 休学して コンパニオンをしました
( 2008年06月26日 19:13 [Edit] )
カオス | URL | -
時代の象徴
おー、一枚目の写真は見事です。
この時代を象徴的に切り取ってます。
いつかこんな写真を撮るために修行あるのみです。
旧朝日新聞ビルも初めて見ました。ちょっと感動もんです。
万博は私も幼稚園のときに行ったんですが、全然覚えてないです。
( 2008年06月26日 21:04 )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
再び思い出すままに
1枚目の写真
阪急東口からの線路が御堂筋の線路と合流するや否や、殆ど電車一両分の距離で逆方向へカーブして大阪駅前へ向かったために、横揺れがひどかったのですが、この写真でその特異なレールのレイアウトがよくわかります。
クルマの絶対数は、まだ少なかったのでラッシュ時以外は、けっこうスムーズに走っていたみたいです。この写真は影が長いですね、夕方のラッシュ時でしょうか?
2枚目に写真
梅田大映が写っていますね、いまのお初天神の参道のあるビルあたりでしょうか?
最後尾のクルマは、デザインをピニン・ファリーナに依頼した2代目ブルーバードですね。
その前にクラウン(2代目RS40シリーズ)2台とならんでセドリックが、さらにその前はスカイラインのようです。これにトヨタのコロナを加えた5車種が当時の個人の購入対象車種の殆ど全てではなかったでしょうか。
ぼくが最初に購入した車がこのタイプのブルーバードの2ドアスタンダード、つまりブルーバードで一番安いタイプでしかも兄が2、3年乗った中古です。
たぶん完成して間もない大阪市内の環状高速を、目的も無く何周も走ったことを思い出します。
実は購入した正確な年は忘れていたのですが、最初の冬、しかも特別寒い強風の夜、なんばから高速に上がって数百メートルのところでエンジンが動かなくなり専用電話まで歩く間にコートも無く体が冷え切ってしまい凍死しそうでした。
到着したJAF隊員の手で、電気系統のちょっとした接触不良の修理が終わり、「この場で入会すれば出張費用が無料になります」という殺し文句で入会したので、JAFの会員証を見ると1968年(昭和43年)2月入会となっていました。つまり、ぼくは社会人になって苦節6年、昭和42年(1967年)に念願のオーナードライバーになったことになります。万博もこのブルーバードで会社が終わってから何度も行きました。
このブルーバードが新車の頃は、実家が建て替えのため、まだ非常に不便な千里ニュータウンの津雲台の公団住宅にしばらく住んでいましたが、持ち主のすぐ上の兄は、関西で最初の大規模ニュータウンの千里山団地から淀屋橋へ通勤していて、毎朝母とぼくを天六経由で肥後橋と淀屋橋の中間まで便乗させてくれました。
なぜ中間かというと、まさか住友ビルではなかったと思うのですが、土佐堀川に面した古い石造りのビルにちょうどクルマ1台が駐車できる装飾上のくぼみがあって、そこにたぶん1年くらい無断駐車していたからです。
それほど、個人所有のクルマは少なかったのですのですが、ブルーバードの新車価格は、たぶん1960年頃のルノーと同じ70万円くらいかなと思います。
1960年では、おそらく新入社員の年収の5年分くらいかなと思うのですが、この頃でも年収の2年分くらいの見当ではなかったでしょうか。
ぼくは、中古(中古市場も確立されていないので、知り合いから買うケースが多かったのでは?)なので30万円くらいで購入したと思います。一時期西明石駅前の自転車預かりの店に頼んで預けて西明石までは大阪から電車通勤をしましたが、駅前駐車場など無く料金は自転車と同じ月500円で良いと言ってもらいました。
いまは、新入社員の半年分の給料で新車が買えそうですね。
昭和44年3月31日市電最後の日の写真
ぼくが最も多く利用した阪急東口・シネラマ前の写真ですね。
生憎、この頃はすでに大阪を離れていたのでこの光景を見ることは出来ませんでした。
「Ice Station Zebra」という映画も観ませんでしたが、ぼくの高校生の頃は、シネラマの(座席指定なので)チケットを意中の人に贈って初デートを成功させた純情可憐な乙女がまだいたようで、ブルーバードの兄夫婦もそのケースらしいという噂でした。
( 2008年06月26日 23:08 [Edit] )
むくのきやすお | URL | k8.8F176
市電
阪堺電車が好きで、堺東に仕事でいっていた帰りによく乗ったりしていました。
大阪市中心部となると、市電は地下鉄やバスに取って代わらざるをえない存在なのかもしれませんが、堂島川や東横堀川にふたをしている阪神高速は使っていながらも好きになれずにいます。
( 2008年06月26日 23:15 [Edit] )
新之介 | URL | -
阪神高速
TOSSYさん
通行料が50円ですか。
市電との価格の比較をしてみると、
当時の市電の料金が13円だったとして、3.8倍。
現在の市バスや地下鉄の一区間が200円として、
3.8倍にすると760円。
ほぼ、同じ感覚で物価上昇してますね。
ちゃんとした資料がでてきたら、
再計算してみます。
私も肥後橋のカーブは、子供の頃から好きでした。
ビルの間を走るのが、子供心をくすぐるのでしょうね。
万博は38年前なんですよね。
ビックリしてしまいます。
当時展示していた夢のような技術は
今では普通になっていたりするのも
たくさんあるでしょうね。
万博も調べてみよかな…
( 2008年06月27日 12:15 )
新之介 | URL | -
同世代?
カオスさんも幼稚園でしたか。
同い年かな?
詮索はやめときますね(笑)
一枚目の写真のご指摘は鋭いですね。
この写真はまさに市電衰退の象徴として
あちこちで使われている写真です。
間違いなく狙って撮ってますね。
新聞社の写真かな?
万博を強烈に覚えているのは
やはり、太陽の塔の中です。
あの、おどろおどろしい空間を見ていた数分間は
いまだによく覚えています。
太陽の塔の中の写真がここで見れます。
http://teratera.blog.ocn.ne.jp/hakosuka/2006/08/post_dca7.html
( 2008年06月27日 12:37 )
新之介 | URL | -
ふた
むくのきやすおさん
> 堂島川や東横堀川にふたをしている阪神高速
おっしゃるように、ふたですよね。同感です。
上の走ってると景色が良くていいんですけど、
下を歩いていると邪魔なんですよね。
特に、中之島方面を北から見た時は、邪魔に思います。
「これがなかったらなぁー」って。
でも、上を走ってるときは、中之島辺りの景色が一番いいですよね。
透明な高速道路って出来ないんですかね。
( 2008年06月27日 12:49 )
新之介 | URL | u6i4c2k.
2代目ブルーバード 2ドア スタンダード
pinboke_planetさん
1枚目の写真
確かに線路のカーブが急ですね。
2枚目の写真
梅田大映って今の梅田OSホテルになるのかな?
最初のマイカーが2代目ブルーバードですか。
カタログがありましたよ。白い方でしょうか。
http://car.jp.msn.com/carlife/special/jun2008/photo/ctl_008_020.htm
苦節6年でオーナードライバーになったのですか。
凍死しそうになったのは問題ですが、思い出深い車すね。
そうか、当時の自動車の価格は新入社員の年収の5年分くらいのイメージですか。
私が思っていた感覚よりはるかに高価だったんですね。
6枚目の市電最後の写真の場所は、阪急東口・シネラマ前なんですね。
どこだろうと思っていました。左の英文字は映画のタイトルだったんだ。
映画は私たち世代も初デートの定番でしたよ(笑)
私の初デートも梅田で映画を見ました。中学3年でした(笑汗)。
( 2008年06月28日 01:30 [Edit] )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
最後の写真
阪急東口 OSミュージック前ですね
ミュージックの踊り子の写真がウインドウに貼ってありましたが 今から思えばおとなしい写真です
このビルが東宝梅田会館です
ここの5階にいました
スカラ座も 梅田劇場も 北野劇場も 入っていました
あと 今でいうところの カルチャースクールが入っていたのです
カネボウチャーミングスクールもありました
シネラマ劇場は 市電の屋根の上に見えていますね
わたし 確か 最後の日の花電車見ています
お昼に梅田で友だちと待ち合わせて 阪急百貨店に行ったのですが 今のナビオの角のあたりがえらい人で・・
電車が最後やといっているのを聞きました
この後すぐに地下鉄で心斎橋に行ったので あの混雑の最終電車は見ていません
昭和43年冬に 天神橋商店街でアルバイトをしました
商店街のアルバイト賃金は たしか 朝10時から 夜8時までで 1200円でした
3億円事件がおこった年です
( 2008年06月28日 13:44 [Edit] )
新之介 | URL | -
女性と市電最後の日
TOSSYさん
そうですか。市電最後の日にこの場所を通ったのですか。最後の日の写真をみるとほとんどが男性ですね。若い女性からすると、市電の最後の日って冷静にみていたんじゃないかな。TOSSYさんがこの日、写真を撮ってたらビックリします(笑)。
アルバイトの時給は約120円ほどですか。
物価の感覚がよくわかります。
( 2008年06月29日 08:29 )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
阪急東口・阪急航空ビル・ブルーバード
新之介さん紹介サイトの写真を含め、懐かしい阪急東口の写真をたくさん見ることができました。
車道との境の安全柵(チェーン)の記憶は無いですね。まだ阪急東口が終点と違う頃、朝はだいたい天六か浮田町で満員の入り口になんとか乗車、阪急東口に着くと降りる人が多いので、必然的に一旦車外に降りて待つのですが、押し出された勢いでシネラマ側の車道まで踏み出すことがしばしばあったので、事故でもあったのでしょうか。
実行はしませんでしたが、阪急東口で降りる気なら、たぶん毎朝でも無賃乗車は可能だったと思います。そういえば、定期券を買いに(たしか)境川まで行くのがめんどくさかったですね。
白いカッコいいビルは阪急航空ビルですね。このビルと東宝梅田会館の間の数段の階段つき妙な通路が7年間の通学路でした。
二代目ブルーバードのカタログ写真ありがとう。
Wikipedia[日産・ブルーバード]にも記述がありますが、ピニン・ファリーナデザインは日本では不評だったようですが、ぼく的には好きでしたが・・・現在のピニン・ファリーナのデザイン部門のボスはたしか日本人だったと思います。
ホントは第1回日本グランプリを鈴鹿サーキットまで見に行った、HONDAスーパースポーツカブ・ゼロ半ライダーとしては(2台乗りました)、購読していた「CAR GRAPHIC」の読者欄にあったHONDA/S800オープンツーシーターのほうが欲しかったのですが(たしか十三近辺のオーナーに電話して見ることにしていた)・・・終業後の六甲山人口スキー場ナイター行きや週末の奥神鍋スキー場行きによく使ったので三段コラムシフト・使いやすい片手ハンドルOKのバンパージャッキは重宝しました。
三段コラムシフトですと(そんな使い方をする人は稀で、皆ルーフキャリア使用)二人分の長さ2mのスキー板がラクに車内センターラインに積めました。
たぶんここ30年くらいは、パンクなどの突発的タイヤ交換などした記憶は無いのですが、(道路事情好転とラジアルタイヤの普及?)2代目ブルーバードの時代までは、ホントにパンクが多く、チェーン装着時もあのジャッキなら5分でOKでした。
この時代、休日の表六甲ドライブウエーでは、必ず2-3台のクルマがボンネットを開けて路肩で白い水蒸気を上げていました。
「4人乗って六甲山平気やで」・・・が中古車オーナーなどの1つの指標だったようですよ。
また、ちょっとしたドライブの前日は、デーラーや「三丁目」の鈴木オートみたいな(も少し大きいかな)近くの整備屋でエンジン調整するのが常識みたいなものでした。(点火時期の接点の磨耗など?)
デラックスとスタンダードの外観上の特徴は、一般的にはデラックスはすべての窓の外周のクロームメッキ装飾と着色ガラスです。
西明石から通勤の頃、途中国道2号線で週1回水曜日に必ずすれ違うメタリック・グリーンのカッコいい、女性二人乗りISUZUべレット・デラックスはマイカー通勤が珍しい当時は特に目立ちましたが、着色ガラスの1つの効用を、ドライバーの方の女性と後に結婚してから気づいたのですが、あとの祭りでした。
結局、ブルーバードは3代目(初めてのブリティッシュグリーンの新車でデラックス仕様・2ドア・スキー板もOK)のボデー(外観と違い構造のほうです)設計者がシネラマ・デートの兄嫁の兄上(「CAR GRAPHIC」誌の数ページの記事を購入後発見)という縁もあって、次の4代目ブルーバードU・2ドアハードトップGL(このクルマからはじめてエアコンとカーステレオが付く)まで3台に乗りましたが、その後のHONDA車もすべて2ドア(または3ドアハッチバック)に乗ってきました。
2ドアオープン2シーターの方は、苦節数十年、以前、倅がユーノス・ロードスターを買うときに半額ほど出資、搭乗権を獲得、田舎の田園地帯をオープンで何回か走りましたが、町中はチョットね~。色はブリティッシュ・グリーンでした。
( 2008年06月29日 12:05 [Edit] )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
訂正:ピニンファリーナ
ピニンファリーナと続けるのが正しいようですね。
デザイン部門の日本人最高責任者は一応退社、独立したようです。(たしか、NHKスペシャルか何かの番組で厳しい仕事ぶりを見たことがあります)
( 2008年06月29日 17:58 [Edit] )
新之介 | URL | u6i4c2k.
ドライバーの方の女性
pinboke_planetさん
ビル名は阪急航空ビルですか。ありがとうございます。すっきりしました。ビル名がわかると調べやすくなります。
http://www.hankyu-hanshin.co.jp/kenkyusho/history/200605/index.html
さりげなく、奥様のことが書かれていますね。なかなかドラマチック?な出会いだったのでしょうか。これ以上詮索はやめておきます(笑)
第1回日本グランプリを見ておられるんですね。すごい!検索してたらこんなのがでてきました。
http://www.hinosamurai.org/Contents/motorsports/video_Japan_GP_1963/video_Japan_GP_1963.html
S800はいいですね。私もいつかはオープンに乗りたいと思っているのですが、まだ縁がありません。独身の頃にRV系にいってしまってからそっちばっかりです。そういえば、S氏もRV系に乗られています。2台見てますがすごいコダワリ派だと思います。
( 2008年06月30日 00:19 [Edit] )
| |
承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです
( 2008年06月30日 02:33 )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
第1回日本グランプリと梅田サーキット
第1回日本グランプリの動画紹介ありがとう。
ベンツのセダンと真っ赤なオープンのジャガーKタイプが一緒に走る、珍妙なレースなどS字カーブのところで見ましたが初めて聞いたレーシングサウンドがメチャクチャ懐かしいです。
日野は一応ファクトリーチームでコンテッサ改造のフォーミュラタイプも2-3台出していましたが、MGやジャガーの安田銀次郎氏なんかは、お金持ちの道楽程度の個人出場だったのでしょう、派手にスピンしていました。
アナウンスもコーナリングと言わずに「旋回性能」なんて言ってますね。
そういえば、1966-7年頃、東宝梅田会館の2階に「梅田サーキット」(たぶんこの名前、ひょっとすると別名かも)があって、前長15cm前後のF1カーなどを走らせる参加自由のレースが常時開催されていて、いつもバッグに2台ほど入れて会社帰りにGFとチョクチョク行ったことを思い出しました。
電流の流れる溝の切ったコースから集電ブラシで電気を取り手許の有線スロットルでコントロールする方式で、鈴鹿サーキットみたいなコースで5-6台が一緒にレース出来たと思います。
F1カーはフェラーリ、ロータス、空冷ポルシェなど・・まだ塗装が、イタリアは赤・イギリスはグリーン・ドイツはシルバー・フランスはブルーと決まっていた頃です。
(日本のHONDAは白いボデーに日の丸でしたね)
( 2008年06月30日 12:12 [Edit] )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
訂正
真っ赤なジャガーEタイプのドライバーは安田銀治氏でした。それと・・全長15cmです。
( 2008年06月30日 14:03 [Edit] )
新之介 | URL | -
スロットカー
pinboke_planeさん
> 電流の流れる溝の切ったコースから…
おそらく、スロットカーのことですね。
先日、知り合いの事務所に行ったときに、何を血迷ったのか事務所中をスロットカーのレース場にしていました。今ひそかなブームらしいですよ。私も初めて操作しましたが、結構むずかしい…(笑)。その方も昭和40年代のブームの時にはまっていたようです。その頃、十三にもスロットカーのレース場があったそうです。
( 2008年07月01日 10:47 )
BAMBOO | URL | yUhqZQVU
スロットカー
>その頃、十三にもスロットカーのレース場があったそうです。
十三ロータリーの「ビクトリア」の上にありました。親父に1~2回連れて行ってもらったことがありますが、どちらかと言うと大人のレジャーって感じで子供は邪魔者扱いでした。
( 2008年07月01日 14:35 [Edit] )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
スロットカー
これ・これ・YouTubeで見たら、まさしくソレでした。
ラジコンカーの進化で、てっきり過去の遺物となったと思っていたのに、昨年の東京モーターショーでも体験コーナーがあったのですね。
このコースを家に作るのはNゲージ以上に大変ですね。
最近は、MINI-Z RACERというやはり15cm前後の電動RCを何台か持っていますが、なかなかリアルです。
1m四角で4方連結自在の厚さ1cmくらいのグレーの発泡ポリエチレンシート10枚を探してきて、一応庭でも走らせるようにしています。
( 2008年07月01日 16:23 [Edit] )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
サーキット
pinnbokeさんのコメントに
< 1966-7年頃、東宝梅田会館の2階に「梅田サーキット」(たぶんこの名前、ひょっとすると別名かも)があって・・
とありますが 昭和42年43年(1967~8)と梅田会館5階にいましたが まったく記憶にもありません
2階の阪急百貨店に面したところはレストランだったと思います
十三のビクトリア
60年代かな ここの社長令嬢が巨人のスター選手(確か黒木 ハンサムな選手)と結婚をしたような記事を週刊誌で読んだ記憶があります
社長令嬢と書いてあったので どこやト思ったら 十三のパチンコ屋でした
ビクトリアの2階も レストランになりましたね
( 2008年07月01日 22:11 [Edit] )
kotaro | URL | 8nGiSIKA
はじめまして
teraさん(万博世代)のクルマ友達でいまは豊中に住んでいます。
加島の奥の竹島に長年いっている古い外車の修理工場が
あるので、加島と三津屋の項は楽しく読ませて頂きました。
歌島橋交差点から2号線~福島にかけてはかつては大阪の
自動車関係のお店のメッカでした。輸入車ディーラーの
変遷だけでも長年の研究課題です。
あと、昭和36年の交通マヒの記述、よく纏められていますね、感心しました。
あれを機会に路面電車がほんの4年くらいで全廃になったと思います。
堺筋や北浜あたりのレトロな建築の残る街に復活してくれないか、
21世紀はそんな夢も考えられますね。
( 2008年07月02日 08:50 [Edit] )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
>サーキット
すっかり忘れていた45年も昔の同じ場所の思い出、面白いですね。
だいたい、「東宝梅田会館」という名称を知ったのはこのブログですので、ひょっとすると別のビルかも・・・
しかし、あの三角地帯のどこかだと思っています。
服装や同伴者のことなどから、正確に行った時期を思い出しましたが、1965年の秋、たぶん2~3ヶ月間の極めて短い間だったと思います。
かなり狭く、天井が低い鍵型の部屋で、おまけにフロアには階段2~3段の段差があり、窓は阪急百貨店側にあったと思います。
ちなみに待ち合わせ場所は、「魚のとこ」つまり地下街のはずれの階段付近にあった小さな熱帯魚の店で、水槽を見ていると、写った人影で振り向かなくても分かるので、そのまま歩き出せば偶然出会った風でGooでした。
なにせ、裕次郎の「しのび会うナントカ」の時代なので、それなりに苦労しました。
(富国生命ビル内に勤めだした姪に何度か見つかって妹に密告されましたがね)
翌1966年の夏、転勤することになり、昼休みに北の御堂さんで会っのが永遠(とわ)の別れとなりにけりでした。
(なので、年代的にはたぶん間違いないと思いますね)
サーキット(スロットコース)を訪れた人は、たぶん現在60~70歳くらいの極めて狭い年齢層の人かと思いますね。
( 2008年07月02日 10:05 [Edit] )
新之介 | URL | -
大人のレジャー
BAMBOOさん
「ビクトリア」の上ですか。もっと離れた場所かなと思っていたのですが、すっきりしました。ありがとうございます。
大人のレジャーっていうのはわかります。お金がかかるんですよね。今ひそかにブームなのは、その時、出来なかった世代の方が、昔を思い出してやられているのかなぁと思います。
( 2008年07月02日 12:58 )
新之介 | URL | -
路面電車復活
kotaroさん
堺筋や北浜あたりの路面電車復活はいいですね。路面電車が似合いそう。ついでに、中之島も通るとさらにいいです(笑)。今は財政難で夢物語ですが、10年後、20年後は現実になるかもしれないと真剣に思います。
>輸入車ディーラーの変遷だけでも長年の研究課題です。
↑ 興味深深です。面白そう。
( 2008年07月02日 13:25 )
新之介 | URL | u6i4c2k.
芸能通
TOSSYさん
ビクトリアのビルって、入ったことないなぁ。おそらく何百回も前を歩いてるのに…。巨人の黒木選手ですか。私は知らないのですが、TOSSYさんってよく覚えておられますね。関心してしまいました(笑)。
梅田会館が少しだけ写っている写真を追記しました。
( 2008年07月02日 21:21 [Edit] )
新之介 | URL | u6i4c2k.
夜霧よ今夜も有難う
pinboke_planetさん
いい時代ですね。pinboke_planetさんも裕次郎だったんですね。みんな裕次郎だった時代ですよね。You Tubeで久しぶりに裕次郎さんを見ました。この年になって、やっと裕次郎のかっこよさがわかってきました。北御堂の別れは映画のシーンみたいですね。完璧に裕次郎の世界です。
( 2008年07月02日 22:14 [Edit] )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
放浪記
1961年芸術座初演ですから 同じ年にコマでしているのですね
当時私はまだ学生ですから 梅田会館には 映画を見に行くだけでした
森光子は 知っていましたが 見に行く気などさらさらなしですね
38年 ザ・ピーナッツを見に行き 植木 等のスーダラを見ました
デビュー前の中尾ミエが 本名で 出ていました
30年代半ばまでは 北野劇場などが実演もしていたようです
姉などは江利チエミを見たとか行っていました
コマが出来てからは コマに実演は移ったのでしょう
この写真では 北野劇場では 「恋人よ 帰れ」を上映していますね
たぶん見ています
ロックハドソンとドリス・ディのロマンティックコメディだと思います
ありました
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B00140FB7M
pinnbokeさんの書かれている 魚のとこ 記憶の片隅にありそう・・
海水魚がはやった頃 40年代はじめ よく覗いていました
( 2008年07月03日 23:07 [Edit] )
新之介 | URL | u6i4c2k.
ザ・ピーナッツ!
TOSSYさん
ザ・ピーナッツ!見られたんですね。
僕ら世代は「モスラ」です。
植木等のスーダラの実演は面白そう。
北野劇場は映画だけじゃなかったんですね。
「恋人よ 帰れ」をこの写真の時に見ていたかもしれないんですね。それはすごい。
昭和40年代の「魚のとこ」の写真が出てきたら軌跡ですね(笑)。いつか出てくるかも…。
( 2008年07月04日 00:24 [Edit] )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
コマ劇場です
ザピーナッツを見に行ったのは コマです
北野劇場で実演をしていたのは32,3年ごろまででしょう
私は実演つき映画を見た経験はありません
コマ劇場は 1956年(昭和31年)に開場しています・・
阪急前でロカビリーの歌手らしき人を見かけ 誰かも分からずに持っていた教科書にサインをしてもらった記憶があります ミーハーでした
ついでながら モスラ リアルタイムで もちろん見ています
ザ・ピーナッツは ミニチュアの人形みたいでした
梅田界隈では 覚えているのは 東通の火事ですね
37.8年ごろだったと思います 喫茶 MOKOもあたりからの出火でした
( 2008年07月05日 00:31 [Edit] )
新之介 | URL | u6i4c2k.
梅田コマ・スタジアム 36年のあゆみ
TOSSYさん
コマの資料を見ていると、ザ・ピーナッツとクレージーキャッツはよく出演されています。人気があったんですね。資料には、年と公演タイトル、出演者、そしてその写真が載っています。当時、コマに行かれた方にとっては懐かしい資料かもしれません。
( 2008年07月05日 22:48 [Edit] )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
伊東ゆかり 北野劇場
[伊東ゆかり 北野劇場]とGoogleで検索すると、ボクのメモが二つほどあると思います。
ご参考までに
(伊東ゆかり・黒岩美代子・ウエスタンカーニバル・劇場椅子のことなど)
( 2008年07月06日 12:10 [Edit] )
新之介 | URL | -
昭和49年の空撮
pinboke_planetさん
ゴリモンさんのこのページは見てなかったです。
http://gorimon.com/blog/log/eid576.html
コメントは結構面白い。
昭和49年の空撮もなつかしい。
http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/74/ckk-74-8/c13/ckk-74-8_c13_19.jpg
特に大阪駅前が興味深いです。
駅前第2ビルが建設中ですね。
( 2008年07月07日 10:51 )
increscentmoon | URL | -
イケメン黒木
私が子供の頃のプロ野球選手は「男は顔じゃない」というタイプの選手(失礼、笑)が多かったですから、イケメン黒木は逆に印象が強いです。彫りの深い精悍な感じのかっこいい選手でした。
それより20年ほど時代が下りますと「ソース顔」「しょうゆ顔」と言い出したと思いますが、その伝で言えば黒木はソース顔だったと思います。
なお黒木選手の所属球団は「大洋ホエールズ」です。
( 2008年07月09日 06:33 )
新之介 | URL | u6i4c2k.
すっきり!
increscentmoonさん
大洋ホエールズ!懐かしい。
TOSSYさんが書かれていたのは
黒木基康選手のようですね。
http://www.kernelsupport.co.jp/atonan/sensyu/60s/kuroki_motoyasu.htm
残念なら黒木選手は覚えていないのですが、すっきりしました(笑)。
( 2008年07月09日 22:12 [Edit] )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
黒木選手
私もすっきりしました
巨人ではなかったのですね 大洋ホエールズでしたか・・・
イケメン そう 一寸かっこつけているようないい男でした
私も調べたのですが 現在は分からないです
急死した事業家の義父の跡を継ぐために野球をやめたとありました
( 2008年07月10日 00:10 [Edit] )
新之介 | URL | u6i4c2k.
黒木基康選手
TOSSYさん
>急死した事業家の義父の跡を継ぐために野球をやめた
そうなんですね。
たまに思うんですが、スロットカーからこの話になったんですよね。「市電」の記事ともまったく関係のないですね(笑)。あらためてコメントを読むと結構面白いです。
( 2008年07月10日 23:34 [Edit] )
西天満 | URL | -
>「昭和の大阪」より
>HEPナビオの場所ですが、この建物の奥に梅田会館があったわけ
>ですね。この正面の建物は現在の阪急交通社?
この写真のアングルでは、ナビオは阪急に隠れています。
富国生命でしょうね。
その奥の丸い看板はシネラマ。
その下の写真は富国生命の工事中じゃないですかね。
( 2009年12月10日 00:53 )
新之介 | URL | sDz630us
西天満さん
下から6枚目の写真はおっしゃるように富国生命の工事現場ですね。
下から7枚目の正面の建物は、阪急航空ビルのようです。
ナビオ阪急が完成したのは昭和55年なので
35年近く前になるんですね。
改めて年月を数えるとびっくりです。
( 2009年12月10日 21:38 [Edit] )
わかん | URL | -
ロマン
ロマンですなぁ
( 2010年01月21日 20:49 )
新之介 | URL | sDz630us
わかんさん
激動の時代、大阪が一番元気だった時代かもしれませんね
( 2010年01月23日 21:38 [Edit] )
mychoco | URL | -
ちょっと気になって......
初めてブログを読ませていただいています。私は昭和40年生まれで、確か 小学校1年か2年まで天六から中津まで路面電車に乗って通学していました。私の記憶が正しければ 北大阪線と呼ばれてて、天六から野田のほうまで走ってたはず...。その後 谷町線が天六にも通るようになって路面電車がなくなったと思います。あれは市電ではなかったのかなぁ。系列が違ったのかな?わかりますか?
( 2012年02月27日 00:01 )
新之介 | URL | sDz630us
mychocoさん
阪神北大阪線ですね。
阪神電気鉄道(阪神電車)の路面電車です。
野田から中津を経由して天六まで走っていました。
昭和50年に廃止になっています。
今でも阪神のバスが同じルートを走っていますよ。
( 2012年02月27日 18:54 [Edit] )
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( 2018年06月04日 11:52 )
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