2008年06月19日 07:30
いも虫と呼ばれた市電
昭和35年10月6日午前9時頃、今まで経験したことのない市電の事件が起ころうとしていました。始まりは中央卸売市場前での数台の車の停滞です。午前11時頃、市内に小雨が降り出しました。そして西区川口町の交差点付近で市電の脱線事故が起こります。
天満~川口、本田一~肥後橋が交通マヒを始めます。そして大阪駅前を中心に、御堂筋線、扇町線、南北線、野田阪神線などが次々と停滞し、道路が自動車でギッシリ詰まってしまいました。これが、北大阪を襲った10時間の交通マヒの現象なのです。自動車のクラクションは鳴りっぱなし、パトカーも身動きが出来ず、消防車も現場へなかなか到着できません。午後3時頃、ようやく小康状態になりましたが、夕方のラッシュでまたマヒが起こり、午後7時すぎまで交通マヒが続きました。この事件をきっかけに、市電の存廃が論議されることになったのだそうです。

「最新大阪市街地図(昭和30年)」より
赤線が市電の路線です。

「市電ー市民とともに65年」より
小雨の中、ぎっしりと詰まってます。大阪駅前から淀屋橋まで車で5分のところが約40分もかかったそうです。当然、抜け道までぎっしりです。

「おおさか100年」より
まさに「じゅずつなぎ」。こんな状態なので、南方面の車庫から出て、北へ向った市電はいつになっても戻ってきませんでした。

「市電ー市民とともに65年」より
当日の夜の写真です。まだ続いていますが、車間距離が少し開いてきています。

「大阪市営交通90年のあゆみ」より
これは翌年1月の読売新聞の記事です。市電の存廃が各新聞などで取り上げられるようになります。

「昭和の大阪」より
昭和37年の桜橋周辺です。年を追うごとに自動車が増えていきます。モータリゼーションの時代に突入していこうとしてます。

「市電ー市民とともに65年」より
淀屋橋を走る3001型の市電です。乗り心地、高加減速、防音いずれの点をとっても最高水準の路面電車でした。いつ頃の写真でしょう。奥の阪神高速道路が工事中のようですね。昭和40年頃の写真でしょうか。
(追記1)

「昭和の大阪」より
コメントでボートの話題がでましたので追記しました。昭和27年頃の土佐堀川です。向こうに見えるのはなにわ橋と大阪城です。いつ頃までボートで遊べたんでしょうね。

淀屋橋と「かき広」。なぜ「かき広」の名前を出したかというと…

こちらのボートが置いてある場所に「かき広遊船部」と書かれていたからです。私は、土佐堀にボートが浮かんでいるのを見たことがありません。どなたかご存知ですか?
(追記2)

「大阪/写真/世紀」より
昭和30年代前半の写真です。手前の橋は淀屋橋です。栴檀木橋との間にボート置き場が2つあります。

「大阪市100年」より
昭和36年9月16日、第2室戸台風が大阪を襲いました。右の建物は大阪市庁舎です。橋は大江橋、川は堂島川です。

「大阪市100年」より
昭和37年の堂島川左岸の防潮堤かさ上げ工事です。左の建物は日銀、奥は住友生命ビルで、現在の中之島セントラルタワーの場所です。
(追記3)

「なにわ今昔」より
昭和32年7月に撮影された中之島です。堂島川の北岸にカキ舟が2ヶ所確認できます。コメントでincrescentmoonさんが書かれていた遊覧船の乗り場ってどこでしょう。写っているのかな?手前の水晶橋の向こう側か鉾流橋の向こう側にも乗り場らしきものがありますね。大阪人が水辺を楽しんでいた時代ですね。
(追記4)

「おおさかタイムトンネル浪速写真館」より
中之島にあった大阪倶楽部ホテルです。これはホテルの裏側です。川は堂島川ですよ。ベネチアみたいですね。

「おおさかタイムトンネル浪速写真館」より
これは正面です。この建物が残っていたら国宝級ですね。

「おおさかタイムトンネル浪速写真館」より
中央公会堂の地階にあった食堂です。この写真は昭和60年頃です。ちょうど私が中之島の近くでバイトをしていた時期で、この時代によくオムライスを食べに行きました。いつも窓際に座ってたなぁ。入って左側でおばちゃんが食券を売っていました。
(追記5)

「大阪市100年」より
撮影時期が記されていませんが明治35年前後でしょうか。橋は難波橋です。豊國神社の鳥居がここにありました。手前の屋根は大阪倶楽部ホテルの施設の一部でしょうか。石碑は今もこの地にある「木邨長門守重成表忠碑」だと思います。《本の折り目はご勘弁を(笑)》

東洋陶磁美術館の横にある「木邨長門守重成表忠碑」

「改正新町名入大阪市新地圖」より
明治33年の地図です。まだ中之島に中央公会堂も市役所もない時代です。
(追記6)

「大阪は水の都」より
昭和37年に撮影された中之島の通称「太鼓橋」と呼ばれた木橋です。ここから桜之宮、毛馬閘門、道頓堀などへ行く「水都めぐり遊覧」モーターボートが出ていました。コメントにあった遊覧船の乗り場はここかもしれません。向こうに見える橋は天満堀川に架かる「太平橋」です。

「太鼓橋」と呼ばれていた橋です。この橋の名前は「ばら園橋」でいいのかな?

太平橋の親柱が残されています。

その横に昔のも残っています。

ちなみにこの写真は難波橋下にあった貸ボート屋です。昭和36年頃のようです。「大阪は水の都」より
(おまけ)

「大阪は水の都」より
昭和36年頃のどんどこ船の写真がありました。

今年の天神祭りは行けなかったのですが、たまたまどんどこ船を見つけたので…。
(追記7)

「大阪市地下鉄建設70年のあゆみ」より
コメントで話題になりましたが、大阪駅前の有料トイレの写真が出てきました。奥の鉄骨は阪急百貨店だそうです。便所でもトイレでもなくトイレットなんですね。
(関連記事)
『梅田を走る市電 開通篇』 2008.06.02
『大阪市電がつくった道路』 2008.06.06
『大阪大空襲と市電』 2008.06.08
『よみがえった市電』 2008.06.16
『いも虫と市電』 2008.06.19
『さよなら市電、こんにちは万博』 2008.06.26
『阪堺電気軌道(阪堺電車)に乗った♪』 2010.01.15
『阪堺電車・貸し切りました』 2011.06.21
ポチッと、応援よろしく♪
昭和35年10月6日午前9時頃、今まで経験したことのない市電の事件が起ころうとしていました。始まりは中央卸売市場前での数台の車の停滞です。午前11時頃、市内に小雨が降り出しました。そして西区川口町の交差点付近で市電の脱線事故が起こります。
天満~川口、本田一~肥後橋が交通マヒを始めます。そして大阪駅前を中心に、御堂筋線、扇町線、南北線、野田阪神線などが次々と停滞し、道路が自動車でギッシリ詰まってしまいました。これが、北大阪を襲った10時間の交通マヒの現象なのです。自動車のクラクションは鳴りっぱなし、パトカーも身動きが出来ず、消防車も現場へなかなか到着できません。午後3時頃、ようやく小康状態になりましたが、夕方のラッシュでまたマヒが起こり、午後7時すぎまで交通マヒが続きました。この事件をきっかけに、市電の存廃が論議されることになったのだそうです。

「最新大阪市街地図(昭和30年)」より
赤線が市電の路線です。

「市電ー市民とともに65年」より
小雨の中、ぎっしりと詰まってます。大阪駅前から淀屋橋まで車で5分のところが約40分もかかったそうです。当然、抜け道までぎっしりです。

「おおさか100年」より
まさに「じゅずつなぎ」。こんな状態なので、南方面の車庫から出て、北へ向った市電はいつになっても戻ってきませんでした。

「市電ー市民とともに65年」より
当日の夜の写真です。まだ続いていますが、車間距離が少し開いてきています。

「大阪市営交通90年のあゆみ」より
これは翌年1月の読売新聞の記事です。市電の存廃が各新聞などで取り上げられるようになります。

「昭和の大阪」より
昭和37年の桜橋周辺です。年を追うごとに自動車が増えていきます。モータリゼーションの時代に突入していこうとしてます。

「市電ー市民とともに65年」より
淀屋橋を走る3001型の市電です。乗り心地、高加減速、防音いずれの点をとっても最高水準の路面電車でした。いつ頃の写真でしょう。奥の阪神高速道路が工事中のようですね。昭和40年頃の写真でしょうか。
(追記1)

「昭和の大阪」より
コメントでボートの話題がでましたので追記しました。昭和27年頃の土佐堀川です。向こうに見えるのはなにわ橋と大阪城です。いつ頃までボートで遊べたんでしょうね。

淀屋橋と「かき広」。なぜ「かき広」の名前を出したかというと…

こちらのボートが置いてある場所に「かき広遊船部」と書かれていたからです。私は、土佐堀にボートが浮かんでいるのを見たことがありません。どなたかご存知ですか?
(追記2)

「大阪/写真/世紀」より
昭和30年代前半の写真です。手前の橋は淀屋橋です。栴檀木橋との間にボート置き場が2つあります。

「大阪市100年」より
昭和36年9月16日、第2室戸台風が大阪を襲いました。右の建物は大阪市庁舎です。橋は大江橋、川は堂島川です。

「大阪市100年」より
昭和37年の堂島川左岸の防潮堤かさ上げ工事です。左の建物は日銀、奥は住友生命ビルで、現在の中之島セントラルタワーの場所です。
(追記3)

「なにわ今昔」より
昭和32年7月に撮影された中之島です。堂島川の北岸にカキ舟が2ヶ所確認できます。コメントでincrescentmoonさんが書かれていた遊覧船の乗り場ってどこでしょう。写っているのかな?手前の水晶橋の向こう側か鉾流橋の向こう側にも乗り場らしきものがありますね。大阪人が水辺を楽しんでいた時代ですね。
(追記4)

「おおさかタイムトンネル浪速写真館」より
中之島にあった大阪倶楽部ホテルです。これはホテルの裏側です。川は堂島川ですよ。ベネチアみたいですね。

「おおさかタイムトンネル浪速写真館」より
これは正面です。この建物が残っていたら国宝級ですね。

「おおさかタイムトンネル浪速写真館」より
中央公会堂の地階にあった食堂です。この写真は昭和60年頃です。ちょうど私が中之島の近くでバイトをしていた時期で、この時代によくオムライスを食べに行きました。いつも窓際に座ってたなぁ。入って左側でおばちゃんが食券を売っていました。
(追記5)

「大阪市100年」より
撮影時期が記されていませんが明治35年前後でしょうか。橋は難波橋です。豊國神社の鳥居がここにありました。手前の屋根は大阪倶楽部ホテルの施設の一部でしょうか。石碑は今もこの地にある「木邨長門守重成表忠碑」だと思います。《本の折り目はご勘弁を(笑)》

東洋陶磁美術館の横にある「木邨長門守重成表忠碑」

「改正新町名入大阪市新地圖」より
明治33年の地図です。まだ中之島に中央公会堂も市役所もない時代です。
(追記6)

「大阪は水の都」より
昭和37年に撮影された中之島の通称「太鼓橋」と呼ばれた木橋です。ここから桜之宮、毛馬閘門、道頓堀などへ行く「水都めぐり遊覧」モーターボートが出ていました。コメントにあった遊覧船の乗り場はここかもしれません。向こうに見える橋は天満堀川に架かる「太平橋」です。

「太鼓橋」と呼ばれていた橋です。この橋の名前は「ばら園橋」でいいのかな?

太平橋の親柱が残されています。

その横に昔のも残っています。

ちなみにこの写真は難波橋下にあった貸ボート屋です。昭和36年頃のようです。「大阪は水の都」より
(おまけ)

「大阪は水の都」より
昭和36年頃のどんどこ船の写真がありました。

今年の天神祭りは行けなかったのですが、たまたまどんどこ船を見つけたので…。
(追記7)

「大阪市地下鉄建設70年のあゆみ」より
コメントで話題になりましたが、大阪駅前の有料トイレの写真が出てきました。奥の鉄骨は阪急百貨店だそうです。便所でもトイレでもなくトイレットなんですね。
(関連記事)
『梅田を走る市電 開通篇』 2008.06.02
『大阪市電がつくった道路』 2008.06.06
『大阪大空襲と市電』 2008.06.08
『よみがえった市電』 2008.06.16
『いも虫と市電』 2008.06.19
『さよなら市電、こんにちは万博』 2008.06.26
『阪堺電気軌道(阪堺電車)に乗った♪』 2010.01.15
『阪堺電車・貸し切りました』 2011.06.21
ポチッと、応援よろしく♪

スポンサーサイト
コメント
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
5枚目の写真
先日のこれも読売新聞の田口 晃也・大阪本社論説委員の記事がチョッピリ皮肉ですが、一部が大学のサイトにも紹介されていましたのでご参考までに・・・
手許の新聞の全文を読むと、阪堺線の堺市内区間をLRT化し、その後シャープの工場のできる堺浜に延ばすそうです。
世界では100都市以上がLRTを導入していて、欧米で発達し、地球環境の保全や高齢化への対応などの観点から普及した・・と、あります。
大阪産業大学サイト・メディア情報より
http://www.osaka-sandai.ac.jp/about/media.html
『風の座標~堺市のLRT 街の活性化策が成功を呼ぶ~』
新しい路面電車が3年後、堺市の中心部に誕生する。むかしながらのチンチン電車とは少し違う、「LRT(ライトレールトランジット)」と呼ばれる次世代型。脱クルマ社会の象徴のようなシステムだ。第1号が2006年富山市で開業下が、これはJRの衣替えなので、新線は堺市が初となる。・・・市民に理解を広げるための「さかいLRT研究交流センター」を運営する塚本直幸・大阪産業大学教授(都市交通計画)は、「街のにぎわいとは人が歩いていること。観光客の誘致など、LRTという歩行者のための交通機関を生かす対策をすべき」と話す。「LRTはいわば高級アクセサリーのようなもの」だと塚本教授はいう。「人を運ぶ実用性だけならバスで充分な街もあるが、LRTはそれを通すに相応しい都市を選び、旅客輸送だけではない付加価値をもたらす。生かす力が阪にはあるはず」・・・と紹介されました。
【読売新聞 6月8日 朝刊 9面 大阪産業大学 ⇒ 塚本直幸 教授(生活環境学科)】
( 2008年06月19日 13:01 [Edit] )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
6枚目の写真の頃
肥後橋のオフィスへ通勤する新入社員時代なので朝は市電でしたが、帰りはたいて同僚たちとぶらぶら梅田まで徒歩でこのあたりを通っていました。とても懐かしい写真ですね。
入社の前年くらいに、テストプラントで国内で初めて製造を開始した新製品を扱う会社なので、いくら年配でもその製品を扱った経験者がゼロというのは、唯一人の新卒者にとってはある意味ラッキーでした。
神奈川県に本格生産用工場建設中の本社部門・20人くらいのオフィスで、社長専属運転手のほかに、写真の初代クラウンのライトバン版の営業用社用車の運転手がもう一人いました。
7-8人の営業マンのうち運転免許は自動車販売会社から転籍の二人ほど、あとは順番に就業時間中に公認で免許取得に行っていました。
グループ全体では、自動車関連企業でもあるので、営業マンが自分の車を持ち業務に使うことを奨励していて、その場合1km走行あたり10何円かの手当てを支給していましたが、この年ですと肥後橋・土佐堀などグループ会社全体の何百人かの社員で該当者は課長クラスの数名だったと思います。その一人のクルマがクラウンの横に写っているブリキのオモチャみたいなルノーです。
クラウン出現以前?は、日野ルノーのタクシーも多くて、ハウス食品がタクシーあがりの中古ルノーをカレー色に塗装、審査を通れば広告入りを無償で100台でしたか提供するというキャンペーンが話題になりました。
ルノーのタクシー以前には、三輪乗用車のタクシー(続・三丁目にありましたね)も大阪の街で一時よく見られました。
この写真は南へ向かう市電の後部窓から写したのかなと一瞬思いましたが、線路の1本が真下に写っていないのでバスからでも撮ったのでしょうか?
( 2008年06月19日 20:54 [Edit] )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
市電の思い出
私は市バス(トロリーバス)には乗って通学していましたが 市電にはあまり乗ったことはありません
旧市内には あまり用事がなかったということです
最後の写真 懐かしいです
市電が懐かしいのではなく ボートが写っています
中之島に貸しボートがあったのは何時のころまでだったでしょうか
子供のころ 父に乗せてもらったように思います
ルノーのタクシー 覚えています
小型タクシー 確かワンメーター60円
ヒルマンも走っていましたね
床の真ん中に車軸が出っ張っていたように覚えています
でも 広島に行ったときに大阪市電が走っていて懐かしかったです
( 2008年06月19日 23:18 [Edit] )
新之介 | URL | u6i4c2k.
LRT(ライトレールトランジット)
pinboke_planetさん
三年後に堺市でLRTが走るのですね。すごい!
それも取り残されていた阪堺線が
最先端の路面電車に変わるというのが面白い。
できる前に阪堺電車に乗っておかないと…。
pinboke_planetさんが書かれていた「大阪市内(コメントでは中之島周辺)に再び路面電車(LRT)が走る」というのも、まんざら夢ではないのではないですか。将来の大阪の街のことを考えると必然のような気がします。
私の父は、24~5歳の時に自家用車を買ったと思います(車種は実家のアルバムを見るとわかるかも)。pinboke_planetさんとほぼ同世代ですよね。父の場合はサラリーマンをしていて、店を継ぐ話が出た時に、店を継ぐ条件の一つが自動車を買うことだったと聞いています。当時、自家用車を持つということが、どれほどうれしかったかが、この時代のことを知るうちにわかってきました。pinboke_planetさんのおかげで、車種も結構覚えましたよ(笑)。初代クラウンと日野ルノーはバッチリです。
( 2008年06月20日 00:01 [Edit] )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
訂正
黄色いルノーのキャンペーンは、ハウス食品じゃなくSBでした。
>> 1960年:ガーリックの無臭製造技術を確立し「ガーリックパウダー」発売。
同時に黄色のルノー300台を貸与する「ガーリックカーキャンペーン」を展開し、話題になる。
( 2008年06月20日 00:34 [Edit] )
新之介 | URL | u6i4c2k.
中之島のボート
TOSSYさん
十三方面はトローリーバスですよね。十三大橋を調べていた時に、市電が通ることを想定して設計されていたというのを読んだことがあります。阪急電車があったから、市電は来なかったのかもしれませんね。
中之島のボートの写真を追記しました。いつまでボートに乗れたんでしょうね。また調べておきます。たまたま先日ボートの写真を撮っていたので、追記しておきます。このボート、今は使われていない様子でした。
( 2008年06月20日 00:46 [Edit] )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
手塚治虫と中之島のボート
終戦直後の昭和21年(1946年)にも貸ボートはあったようで、演劇部の練習のためしばしば中央公会堂を訪れていた手塚治虫もきっとよく乗ったことでしょう。
6月11日の日記には[手塚治虫漫画全集 新宝島 巻末 ぼくのデビュー日記]
>>久しぶりに天気晴朗なれども暑くて暑くて、そのうえ、九時半に弁当を食ったため、腹がへって、何をしても力が入らず。斉藤や小久保は中之島へボートを乗りに行ったが、俺一人湯気を立てながら家でのびておった。
・・という記述があって、この日は乗りに行かなかったようですが。
7月には、梅田からある新聞社をたずねたが「なんという泥濘だ!」とか、
進駐軍の命により8月1日からいよいよ本格的に闇市の取締りが始まるので、これで日本中闇市の醜態が消えたら、どんなにサッパリした感じの良い町になるだろう・・とか、
8月1日には、「中央公会堂の講堂では、残酷極まる拳闘をやっている。闇市は本日午前零時を期して最後の息を引き取った。大掃除のあとのような廃墟」というような記述もあってなかなか面白いのですが、闇市はかなり嫌いだったようですね。
( 2008年06月20日 15:10 [Edit] )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
追記:中之島と手塚治虫
☆★☆2007年冬、青いイルミネーションで世界の夜を彩ったのは手塚治虫だった!?☆★☆
http://blog.livedoor.jp/enethan_fan/archives/50873960.html
( 2008年06月20日 15:38 [Edit] )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
>>LRT(ライトレールトランジット)
御堂筋とシャンゼリゼ、セーヌ川と中之島の水辺など、なにかと比較の対象にされるパリに70年ぶりに市電が復活したのは驚きですが、対比映像などを見ると大阪の街のどこかに「よみがえって」も決しておかしくないですね。
たとえば、御堂筋の15m歩道実現案は良いが、クルマの渋滞を懸念という見方などに対するパリ市の回答(狙い)もスゴイですが(愛知万博・総合プロデューサー湧井さんによれば世界の流れだそうですが・・)、美しいパリ市のLRTのデザインには日本人が深くかかわっているようで嬉しいですね。そんなことで、ちょっと長くなりますが・・・↓
(大阪産大のサイトのミスプリント、下=した はともかく 阪=堺 は紛らわしいですね)
【パリ】市電復活(T3開業)
>>パリにも路面電車が走り始め,それもチンチン電車ではなく,近代的で
スマートな一度に3百人も運べる電車が,通りの真ん中を堂々と走り,
しかも,交差点の信号も優先的に変えさせて走るということが,これまで
あまり関心のなかった人たちの興味を惹いてくれることを,期待したい
ものです.しかも,この電車を含めたデザイン全般は,RATPのデザイン
マネージャを現在務めている,Yo Kaminagai氏が監修しています.パリの
メトロ(地下鉄)に,系統図の上だけでなく,シンボルマークにもライン
カラーをつけたことでも知られる日本の人だそうです.
http://urbantransit.seesaa.net/article/29692322.html
>>今回開通したT3は,TMS(Tramway des Maréchaux Sud)とも呼ばれます.
マレショー大通り(Boulevards des Maréchaux)の南部を走るトラムという
意味です.マレショー大通りとは,かつてパリ市とその外側とを隔てた
城壁を取り壊して建設された,パリ市環状道路の総称です.
このマレショー大通りは,一般道路ながら片道3車線を有する幹線道路
でした.ここに路面電車を通すにあたり,工事中はもちろん,トラム開業
後の今でも,自動車が走れるのは片道1車線か2車線に減っています.
これでは渋滞を招くだけではないかと思われますが,裏を返せば,それが
狙いでもありました.渋滞により人びとが自動車での移動を止め,公共
交通へ移行することを期待してのことです.
自動車用の車線が大幅に減ったことは,前回12/15ご紹介の過去ログに,
対比映像を納めた投稿サイトDailymotionへのリンクがありますので,
是非ご参照ください.
http://urbantransit.seesaa.net/article/30654470.html
対比映像を納めた投稿サイトDailymotionへのリンク
Mutations urbaines---(都市の変化)
http://www.dailymotion.com/video/xsnqh_mutations-urbaines
Mutations urbaines
http://www.dailymotion.com/video/xsnqh_mutations-urbaines-2
( 2008年06月21日 10:11 [Edit] )
新之介 | URL | -
大阪のパラダイム変革
手塚治虫さんの「ぼくのデビュー日記」は面白そうですね。当時の大阪の街並みを知る資料としても興味があります。昭和初期の街並みを知るには北尾 鐐之助さんの『近代大阪』が面白かったんです。すべてを読んでいませんが、当時の大阪の街並みがリアルに伝わってきます。手塚治虫さんの日記も戦後の時代の街並みが見えてきそうですね。
パリの市電復活はすばらしい!
映像もすばらしい記録ですね。映像版ゴリモンな日々みたい。
映像を見て、パリの街は次世代の都市に生まれ変わったのだと感じました。交差点の信号を路面電車優先に変えて走るというのもすばらしい。自動車がバンバン走っている都市が古く感じます。
パリの街は見事にパラダイム変革を実現させたと思います。ここにたどりついた経緯を知りたいと思いました。大阪のリーダー達はパリの市電復活をどういう思いで見ているんでしょう。
( 2008年06月22日 00:46 )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
ボートのこと
中之島でボートに乗れたのは何時ごろまでか 一寸詳しい人に聞きました
たんぽぽさんというひとです
このときに 中之島にあった海技教習所のことも問いあわせています
私の掲示板にかいてくださったそのままを書きますね
中之島に手漕ぎのボートがあったのは、岸壁が整備されるまでで、今のようにコンクリート堤防が完成してからは、引き潮時、川の流れが速くなりすぎて手漕ぎでは流されてしまうようになり無くなったと聞いていますが、いつごろかははっきりしません。
いずれにしてもかなり昔の話です。 ボート免許教室は、大阪海技免許教習所と、小山氏がやってたのと2箇所ありました。小山教習所は今も代変わりして別の人がやってるようですが、栴檀の木橋たもとにあった大阪海技は7~8年くらい前に営業を終わりました。
大阪では老舗の教室でしたが、ここも元は貸しボート屋だったと聞いています。
私はここで一時期実技を教えていました。
参考
http://azj.hp.infoseek.co.jp/page1.htm
当時は国家試験も、大川の桜ノ宮でやってました。
以上です
たんぽぽさんは 現在の大阪の町のことなら 隅々までお詳しいです
( 2008年06月26日 13:15 [Edit] )
新之介 | URL | u6i4c2k.
中之島のボート
TOSSYさん
聞いていただいてありがとうございます。
中之島の岸壁の整備は昭和36年の第2室戸台風の被害の後、昭和37年に行われているようです。
コメントで書いていただいた工事がこのことかはわかりませんが、手漕ぎボートがなくなったのはこの辺りの時代かもしれませんね。写真を追記しました。
でも、昔のように手漕ぎボートが浮かぶ中之島の風景をまた見てみたいですね。
( 2008年06月28日 00:21 [Edit] )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
土嚢つみ
第2室戸台風覚えています 2号線が水没しました
この頃一寸雨が降ると 中之島では 出水の心配をしていました
フェスティバルホールの下のグランドホテルでは ボーイさんが 入り口に土嚢を積んでいました
もちろん住友銀行などつんだと思います
古い写真の追加 ありがとうございます
昔は歩いていると河が見えたのです
今はもう コンクリートの護岸に阻まれて川面は橋からでないと見えないですね
さびしいことです
( 2008年06月28日 01:14 [Edit] )
increscentmoon | URL | -
大川の遊覧船
子供の頃よく親に連れられて土佐堀川のボート遊びを横目に見ながら、中之島をもっと東へ歩いて行き、そこから遊覧船に乗った事を思い出しました。
記憶があいまいなので、ネットでどのあたりから乗ったのだろう、あるいはどこを走っていたのだろうと調べてみようとしましたが、ヒットしませんでした。(みつからないのにかえってほっとしたのは一体どうしてでしょう。(笑))
運行していたのはやはり堂島川のほうだったのでしょうね。銀橋の方面へ往って帰ってきただけだったか、あるいは逆に築港のほうへもいったような記憶もあります。乗るところは階段で子供の目にも日によって水位が違っていたような気がした事を覚えています。
いまは水上バス、それ以外にもイベント開催時に遊覧船が出て水上交通が見直されていますが、最初にこの計画が発表された時の私の感想は、「昔もあったやん。」でした。結局元にもどっただけ?
LRTブームであるいは市電の復活の可能性も出てきているようですが、もしそうなったとしても、「昔に戻っただけやん。」と感じるだけだと思います。
本当は、「やっぱり昔はよかった、偉かった。」といいたいところですが、「年寄がまた始まった。」といわれそうですのでやめておきます(笑)。
ついでながら、ボート遊びは子供の頃、若いお兄ちゃんお姉ちゃん(その頃で言うアベック)の専売だと思っていました。
TOSSYさんによりますと中之島の貸しボートは昭和36、7年に終りを迎えたようですが、デートのきっかけとしての(貸し)ボート遊びは、私が子供から兄ちゃんと思われるようになった年頃になってもまだ隆盛だったと思います。もっとも私の場合は、そういう事とは全く無縁の暗い青春時代でしたが・・・(笑)
( 2008年06月28日 18:22 )
新之介 | URL | u6i4c2k.
第2室戸台風
TOSSYさん
第2室戸台風の中之島付近の写真は他にもあるのですが、すごい水位です。怖くなりますね。
こんなことがあると、護岸工事をするのもわからなくないです。残念ですが…。
( 2008年06月29日 01:00 [Edit] )
新之介 | URL | u6i4c2k.
大川の遊覧船
increscentmoonさん
手元に遊覧船の資料がなかったので、乗り場の場所はまったくわかりませんが、水晶橋の辺りはかなり怪しいのではと思っています(笑)。いつか、証拠を見つけますね。
「昔もあったやん。」は私も同感!
ぐるーっと一周回って、元に戻って来るんじゃないかと思います。自動車社会の概念を捨て去る時代が来ると思います。近い将来に…。
貸しボートがいつまであったかは、中之島の写真を時代を追って見ていくと、わかりそうですね。これも宿題。
( 2008年06月29日 01:15 [Edit] )
increscentmoon | URL | -
昔もあったやん(2)
新之介さん、おはようございます。RES有難うございました。
>TOSSYさんによりますと中之島の貸しボートは昭和36、7年に終りを迎えたようですが、デートのきっかけとしての(貸し)ボート遊びは、私が子供から兄ちゃんと思われるようになった年頃になってもまだ隆盛だったと思います。(increscentmoon)
>貸しボートがいつまであったかは、中之島の写真を時代を追って見ていくと、わかりそうですね。これも宿題。 (新之介さん)
私のコメントがわかりにくい表現だったようで、(とくにTOSSYさんに)失礼があるといけませんので( )の部分を補足して下記の通り訂正しておきます。
「TOSSYさんによりますと中之島の貸しボートは昭和36、7年に終りを迎えたようですが、(それ以外の場所での、たとえば天王寺公園とか服部緑地とか、往時はちょっとでも水辺のあるところにはよく貸しボートさんを見つけました。)デートのきっかけとしての(貸し)ボート遊びは、私が子供から兄ちゃんと思われるようになった年頃(昭和36、7年以降)になってもまだ隆盛だったと思います。」
「昔もあったやん」
昭和20年代の国鉄大阪駅の写真を見て思い出しました。
これもわたしの子供の頃、駅正面向かって右手に「有料便所」がありました。
子供の私は便所に行くのにお金を払う人がいるのかと不思議でした。
最近、といってもだいぶ日がたつかもしれませんが、大阪駅に有料トイレ(化粧室?)が設置されて話題になりました。これも創設ではなく復活という事になると思います。
( 2008年06月29日 07:49 )
新之介 | URL | u6i4c2k.
有料便所
increscentmoonさん
返事が遅くなってゴメンナサイ。
「有料便所」の写真をどこかで見た記憶があって、いろいろ探していたのですが、結局出てきませんでした。きっと、どこかにうもれています。
ちなみに現在大阪駅にあるのはこれですね。
http://www.westjr.co.jp/grbiz/newbiz/angelbe/
( 2008年07月05日 22:01 [Edit] )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
有料トイレ
駅構内に 1972、3年ごろにはまだありました
トイレと言うよりは着替えなどにも使える空間でした
畳だったか小さな部屋が使えました
今のと目的は変わらないようですね
そこで 友だちに洋服の仮縫いをしてもらったことがあります
( 2008年07月05日 22:48 [Edit] )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
第2室戸台風と中之島のレガッタ倶楽部?
大阪駅の先代有料トイレ、何度か利用しましたよ。豪華とは違いますが、安くてキレイ、大歓迎でした・・たしか中央コンコースよりやや東側だったように思います。
第2室戸台風のとき、肥後橋交差点近くの船町ビル(現存)に勤務、2階のオフィスと地下室を借りていましたが、地下室が完全に水没しました。
なにわ筋の交差点西にグループ会社の大阪支店・土佐堀寮などもありましたが、翌日でも大阪支店から「交差点にうなぎが泳いでいた」と(冗談ですが)、後に国体大阪府水泳チームの監督になった同僚が、ズボンを捲り上げて裸足で帰ってきました。
船町ビルの地下室入り口は、車道から歩道・歩道からエントランス・エントランスからさらにもう一段、それぞれ20cm以上・計60~70cmは高いはずですが天井まで完全に水没、家主さんも手がつけられずかなりの期間放置されていましたが、伊丹の工場から自衛消防隊が来てやっとポンプで排水しました。
よくぞ、対岸の新朝日ビルの地下など、多くの店のあった場所に浸水しなかったことです。
船町ビル正面
http://image.blog.livedoor.jp/enethan_fan/imgs/2/c/2ccc4ba5.JPG
船町ビルの地下室のドア
http://image.blog.livedoor.jp/enethan_fan/imgs/9/d/9db87926.JPG
参考:船町ビル2006
http://picasaweb.google.com/PINBOKE/2006/photo#s5020848765907351330
“ALWAYS”『船町ビル』①
http://blog.livedoor.jp/enethan_fan/archives/50457688.html
中之島とボートと言えば、新之介さんに教えていただいた一枚の写真の立派な建物が何なのか大変気になっています。
明治35年の中之島の写真に、当時の「リバーサイドテラス」的、立派な堂々たる洋館の堂島川に面したテラスに白いズボンにブレザー姿など、レガッタクラブのメンバーみたいな紳士の面々と、艇庫に5隻くらいのレース用のボートが写っています。
上田コレクションNo.0130の写真のその建物は何でしょう?
( 2008年07月06日 15:31 [Edit] )
新之介 | URL | -
有料トイレ
TOSSYさん
>畳だったか小さな部屋が使えました
ますます興味が沸いてきました。
面白そう。また調べてみます。
( 2008年07月07日 11:15 )
新之介 | URL | u6i4c2k.
大阪倶楽部ホテル
pinboke_planetさん
船町ビルは知ってます。前は何十回と通ってます。中に入ったことはないですがいい感じの建物ですね。ずっと残ってほしい建物のひとつです。
中之島にあったリバーサイドテラス的な洋館は大阪倶楽部ホテルです。現在の東洋陶磁美術館の場所に、明治33年に開業しています。当時大阪では唯一の洋式設備を持つホテルだったようですが、翌年に焼失しています。ただちに、再建され大阪ホテルと改称しましたが、それも大正13年に焼失しています。その流れをひいていたのが、昭和13年に中央公会堂の地階に出店した食堂です。写真を追記します。
( 2008年07月08日 00:22 [Edit] )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
>>大阪倶楽部ホテル
ありがとうございます。
なるほど、大阪で最初の外国人向けのホテルですか・・道理でお洒落で素晴らしい建物ですね。
名前のみは多くの日本の近代建築の関わった須賀工業のHPの施工例の最初に載っていました。
よく見ると、隣接の大きな旅館風の木造建築とは微妙に繋がっているようにも見えます。(追記の写真は艇庫?のボートが写っていませんね)
コレクションにフロントの写真もありましたね。人力車車庫?の裸足の車夫?が印象的でした。神社の鳥居が見えますね。どこでしょう?
図面が残っていれば、SeaGateさんに頼んで、3Dモデルで復元できる可能性もありますが、たぶん残っていないでしょうね。(あるとすれば須賀工業?)
( 2008年07月12日 11:37 [Edit] )
新之介 | URL | u6i4c2k.
鳥居
pinboke_planetさん
>(追記の写真は艇庫?のボートが写っていませんね)
よく見ておられますね。確かに、上田貞治郎コレクションの写真と「おおさかタイムトンネル浪速写真館」に掲載された写真を較べると、右下のボートが消えています。理由はわかりませんが、単純に修正でボートを消したのかも…。
鳥居は豐國神社の鳥居です。上田貞治郎コレクションの写真ですが、鳥居が写った写真を追記します。
( 2008年07月12日 22:28 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
increscentmoonさん 、TOSSYさん
有料トイレの写真が出てきましたので
追記しました^^
( 2009年03月16日 21:22 [Edit] )
increscentmoon | URL | -
大阪駅有料トイレ
新之介さん、お写真提供有難うございます。
拝見しますと独立した建物ですね。
私の記憶では昭和30年前後、TOSSYさんも書かれていますが、有料トイレは駅舎内(正面右手入り口付近)に組み込まれていたと思いますので、お写真のものとは違うようです。
私の記憶の中のトイレは二代目という事でしょうか。
( 2009年03月25日 06:04 )
新之介 | URL | sDz630us
increscentmoonさん
おっと!
この写真ではなかったですか。
なるほど、やはり駅構内ですか。
でもまたひとつ知識が増えました。
ありがとうございます。
いつかは探し出します^^
( 2009年03月25日 20:11 [Edit] )
紫苑 | URL | /2CD/BNk
こんにちは、初めまして。3日ほど前に新之介さんのブログを見つけました^^ 出身は兵庫ですが、現在は淀川区に住んでおり、昔の写真も今現在の写真も楽しく拝見しました。
この中之島のボートのところで、すっかり忘れていた子供の頃のことを思い出しました。小学生の頃、親に連れられて中之島公会堂でディズニー映画を観た帰りに、ボートに乗った記憶があるのです。当時は家にカメラもなく写真もないので、何年生だったのか、いくつだったのかがはっきりしません。
そこで旭区から市電に乗って、北浜の集英小学校に通っていた主人なら覚えているかもと思い尋ねてみると、やはり知っていました!
主人が言うには小学校へ入学したのが昭和40年で、その当時もボート屋さんがあったそうです。おそらく42、3年までは営業していたんじゃないかとのことでした。通学途中はもちろんのこと、集英小学校は校庭が狭いので中之島で運動会をやったり、日常的に中之島には行ってたそうなのでかなり確かなことだと思います。
もう両親とも亡くなっていますが、すっかり埋もれて忘れていた子供の頃の記憶を思い出させてくれた新之介さんのブログに感謝です。これからも通わせていただきますね。がんばってくださいm(_ _)m
( 2011年07月20日 08:18 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
紫苑さん
そーですか。
昭和42、3年頃まで…。
ボートの営業は水質の悪化等が原因で廃止になったようですが、
いまは当時と比べると川も綺麗になったと思います。
行政も水都大阪を全面に打ち出してイメージアップを図っていますが、
個人的にはボートの復活もあってもいいのではと思っています。
都心の真ん中でボート遊びってなかなかいいですよね。
( 2011年07月25日 00:09 [Edit] )
kotaro | URL | 8nGiSIKA
わや
昭和35年の市内の昼夜を超えた大渋滞、さすがに私も生まれた頃なので、
記憶には有りませんし、後に文献で知った次第です。
新聞記事の見出しを見ていると、「こりゃもうあきまへんな」という
リードが見えて来て、直接原因か間接かわからないけれど、路面電車の
退場論が、そこでお膳立てできてしまった。昭和45年の万博までに
「あんなみっともないものは廃止してしまおう」というコンセンサスが
形成されたのだと、思いました。
コメントしようと思ったのは、今年の原発事故です。
あれははっきりと汚染災害を生みましたが、それなら元々何のために作ったか。
そういう議論も成されずに何か起きると、感情的な解釈、判断に流れがちです。
20世紀と21世紀、たかだか200年くらいの間に人類は、あっちへいったり
こっちに戻ったり、歴史を繰り返すのだなと、感じました。
大阪で言う「わやでんな」。新聞記者も学者先生も、庶民感情には
澪つくしの杭になれまへんのやろうか。
( 2011年08月03日 07:45 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
kotaroさん
なるほど、
とても面白い視点。
話がずれるかもしれませんが
芋を洗う猿の話を思い出してしまいました。
いわゆる百匹目の猿現象。
市電の大渋滞の現象は
市電は必要ないのではと思う人間が
ある一定数以上を超えた段階で起こった現象ではなかったのだろうかと…
僕は結構そういう力を信じてしまうタイプなのです…
( 2011年08月07日 23:01 [Edit] )
コメントの投稿