2008年06月16日 07:00
よみがえった市電と大阪の街
戦後の混乱の中、「大阪市の復興は、まずは交通機関から」というスローガンの下、市電は再び瓦礫の中を走りだします。わずかに残った車両を修理し、復旧した市電には人々が殺到し、鈴なりで走行しました。
市電の復旧は物資の不足もあり容易ではありませんでした。しかし、昭和20年末には150両、昭和21年末には290両の整備が完了。その後、新たに大型車両も投入、さらには新線延長も行われ、飛躍的に復旧していきます。昭和25年、車両の色が深紅色一色から上部をクリーム色、下部を深紅色にしたツートンの装いに変更。昭和26年には、営業路線111キロ、一日平均98万人を運び、昭和32年には営業路線が114キロ、保有台数も555両と最盛期を謳歌、完全に蘇ったのでした。

「大阪市営交通創業100年」より
昭和20年、終戦直後の大阪駅前です。市電の復旧とともに乗客が殺到しました。すごい人の数です。

「大阪市100年」より
梅田の闇市です。戦後1ヵ月後には出現したそうです。復員軍人などにパンやむし芋を売ったのが最初だそうで、たちまち市内の主要駅周辺に広がりました。公定価格の数倍から数十倍で売られていたそうです。

「こどもたちの昭和史」より
昭和21年、野菜の無料配給の様子です。女の子が両手いっぱいに大根を持っています。みんな笑顔ですね。大阪の都会では、食料の確保がたいへんでした。

「こどもたちの昭和史」より
昭和20年頃です。空襲で家を失った人達はトタン屋根の簡単なバラックを建てていました。辺りは焼け野原です。子どもたちが凧揚げで遊んでいますね。向こうに見えるのは大阪城です。天守閣は空襲の被害を免れました。

「大阪市100年」より
昭和20年頃の大阪駅東口です。少年少女が靴みがきをしています。戦争孤児や貧しい家の子供が生活の足しに働いていました。美空ひばりの東京キッドが聞こえてきそうです。♪右のポッケにゃ 夢がある 左のポッケにゃ チュウインガム♪

「大阪市100年」より
終戦の5年後、昭和25年頃の大阪駅周辺です。市電の塗装がこの年にツートンの色になりました。塗装が違う新旧の市電が見えますね。

「目で見る大阪市の100年」より
昭和29年の阪神梅田駅です。昭和26年に阪神マートから阪神百貨店と名前を改称しています。夏の高校野球の真っ最中です。

「目で見る大阪市の100年」より
昭和30年頃です。富国生命のビルは昭和39年に竣功するするのだそうです。歩道橋は昭和38年にできます。

「目で見る大阪市の100年」より
昭和30年の大阪駅前です。人の多さが目立ちますね。それに市電とバスと。自動車がまだ少ない時代です。市電の全盛期がこの頃です。

「昭和の大阪」より
昭和29年頃の野田阪神の辺りだそうです。NHKのテレビ放送が昭和28年に始まりました。街角の電気屋さんに大勢の人が覗き込んでいます。テレビでよく見るシーンですね。やはり、力道山を見てるのでしょうか。
(追記)

「なつかしき大阪」より
大阪駅西口で客待ちの人力車(昭和21年)。向こうに写ってるのは、中央郵便局ですね。

「昭和の大阪」より
昭和20年代初期の大阪駅西口です。西口の前の黒い影は人力車かな?
(追記)

「大阪/写真/世紀」より
輪タクの写真がでてきました。昭和30年代前半の大阪駅前の輪タクです。終戦後の街を駆け回り、昭和30年代になくなっていったようです。後ろに阪神百貨店らしき建物が写っているので、東口の方ですね。

「大阪/写真/世紀」より
昭和31年です。隅っこに輪タク発見!!
(追記)

「最新大阪市街区分図」より(年代不明、調べ中)おそらく昭和30年頃の地図です。

「昭和の大阪」より
ビルの竣工は昭和39年(1964)なので、その前ですね。
(追記)

「おおさか100年」より
昭和29年におこったOS劇場の火事の様子です。劇場では「ラプソディー」を上映中で、約1000人がの観客が逃げまどい、劇場が全焼しました。
(関連記事)
『梅田を走る市電 開通篇』 2008.06.02
『大阪市電がつくった道路』 2008.06.06
『大阪大空襲と市電』 2008.06.08
『よみがえった市電』 2008.06.16
『いも虫と市電』 2008.06.19
『さよなら市電、こんにちは万博』 2008.06.26
『阪堺電気軌道(阪堺電車)に乗った♪』 2010.01.15
『阪堺電車・貸し切りました』 2011.06.21
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戦後の混乱の中、「大阪市の復興は、まずは交通機関から」というスローガンの下、市電は再び瓦礫の中を走りだします。わずかに残った車両を修理し、復旧した市電には人々が殺到し、鈴なりで走行しました。
市電の復旧は物資の不足もあり容易ではありませんでした。しかし、昭和20年末には150両、昭和21年末には290両の整備が完了。その後、新たに大型車両も投入、さらには新線延長も行われ、飛躍的に復旧していきます。昭和25年、車両の色が深紅色一色から上部をクリーム色、下部を深紅色にしたツートンの装いに変更。昭和26年には、営業路線111キロ、一日平均98万人を運び、昭和32年には営業路線が114キロ、保有台数も555両と最盛期を謳歌、完全に蘇ったのでした。

「大阪市営交通創業100年」より
昭和20年、終戦直後の大阪駅前です。市電の復旧とともに乗客が殺到しました。すごい人の数です。

「大阪市100年」より
梅田の闇市です。戦後1ヵ月後には出現したそうです。復員軍人などにパンやむし芋を売ったのが最初だそうで、たちまち市内の主要駅周辺に広がりました。公定価格の数倍から数十倍で売られていたそうです。

「こどもたちの昭和史」より
昭和21年、野菜の無料配給の様子です。女の子が両手いっぱいに大根を持っています。みんな笑顔ですね。大阪の都会では、食料の確保がたいへんでした。

「こどもたちの昭和史」より
昭和20年頃です。空襲で家を失った人達はトタン屋根の簡単なバラックを建てていました。辺りは焼け野原です。子どもたちが凧揚げで遊んでいますね。向こうに見えるのは大阪城です。天守閣は空襲の被害を免れました。

「大阪市100年」より
昭和20年頃の大阪駅東口です。少年少女が靴みがきをしています。戦争孤児や貧しい家の子供が生活の足しに働いていました。美空ひばりの東京キッドが聞こえてきそうです。♪右のポッケにゃ 夢がある 左のポッケにゃ チュウインガム♪

「大阪市100年」より
終戦の5年後、昭和25年頃の大阪駅周辺です。市電の塗装がこの年にツートンの色になりました。塗装が違う新旧の市電が見えますね。

「目で見る大阪市の100年」より
昭和29年の阪神梅田駅です。昭和26年に阪神マートから阪神百貨店と名前を改称しています。夏の高校野球の真っ最中です。

「目で見る大阪市の100年」より
昭和30年頃です。富国生命のビルは昭和39年に竣功するするのだそうです。歩道橋は昭和38年にできます。

「目で見る大阪市の100年」より
昭和30年の大阪駅前です。人の多さが目立ちますね。それに市電とバスと。自動車がまだ少ない時代です。市電の全盛期がこの頃です。

「昭和の大阪」より
昭和29年頃の野田阪神の辺りだそうです。NHKのテレビ放送が昭和28年に始まりました。街角の電気屋さんに大勢の人が覗き込んでいます。テレビでよく見るシーンですね。やはり、力道山を見てるのでしょうか。
(追記)

「なつかしき大阪」より
大阪駅西口で客待ちの人力車(昭和21年)。向こうに写ってるのは、中央郵便局ですね。

「昭和の大阪」より
昭和20年代初期の大阪駅西口です。西口の前の黒い影は人力車かな?
(追記)

「大阪/写真/世紀」より
輪タクの写真がでてきました。昭和30年代前半の大阪駅前の輪タクです。終戦後の街を駆け回り、昭和30年代になくなっていったようです。後ろに阪神百貨店らしき建物が写っているので、東口の方ですね。

「大阪/写真/世紀」より
昭和31年です。隅っこに輪タク発見!!
(追記)

「最新大阪市街区分図」より(年代不明、調べ中)おそらく昭和30年頃の地図です。

「昭和の大阪」より
ビルの竣工は昭和39年(1964)なので、その前ですね。
(追記)

「おおさか100年」より
昭和29年におこったOS劇場の火事の様子です。劇場では「ラプソディー」を上映中で、約1000人がの観客が逃げまどい、劇場が全焼しました。
(関連記事)
『梅田を走る市電 開通篇』 2008.06.02
『大阪市電がつくった道路』 2008.06.06
『大阪大空襲と市電』 2008.06.08
『よみがえった市電』 2008.06.16
『いも虫と市電』 2008.06.19
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『阪堺電車・貸し切りました』 2011.06.21
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コメント
カオス | URL | -
大阪駅前
歩道橋のない大阪駅前は開放感があっていいですね。
駅前広場?もこれぐらいあればいいのに。
ZIPPOライターみたいなアクティ大阪よりもずっとかっこいい駅舎です。
それにしても市電がこれだけ渋滞してるのは初めて見ました。
影の角度からみても、昼前ぐらいの時間帯でしょうか。
ラッシュ時はもっとすごいんでしょうね。
( 2008年06月16日 19:10 )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
思い出すまま、思いつくままに(1)
いよいよ私の知っている時代の懐かしくも貴重な写真になりましたね。
1-5枚目は、
山紫水明の田舎の小学校で、あらゆる山遊びや川遊びでの生き物とのかかわりなど、それこそ一生分の自然を満喫していた時期で全く知りませんが、1950年・6年生の夏休みに転校してくると、クラスのワルガキの間では「悲しき口笛」や「東京キッド」など美空ひばりの映画を見てきた(たぶん十三でしょう)自慢話とかで、すごい人気でした。
有名な梅田の闇市(まあ名古屋の駅裏もそうですが)は、1950年代には繊維の現金問屋街になっていました。
おばさんやおじさんたちが、ここで仕入れた商品を背中に、汽車で地方の町や村の小さな雑貨・洋品店などに持ち帰り売っていたのでしょう。丼池まで行かなくて良いし、小口や一見さんも現金で取引OKだったので便利だったのでしょう。
間口一間半か二間ていどの店と店との仕切りは板1枚、異様に細い柱で狭い場所を目いっぱいに有効利用していました。我が家も、正規の問屋さんに売れないようなアウトレット的に1コマ借りて田舎向けデザインの、らくだ色や黒パッチなどを販売していましたが、高校の同窓生で国体のスピードスケート代表になった人が、どこかで聞いてこの黒パッチを買いに来たそうで、兄が笑っていました。
路上の靴磨き少年は、さすがにいませんでしたが、1960年代まで阪急コンコース東側切符売り場や梅田地下街に靴磨きコーナーはあり、大学生(高校生はほとんど布靴でした・・)以降はよく利用もしました。(いまのアウトドアみたいに靴もよく汚れましたが・・)
靴磨きとは違いますが、高校の頃阪急十三駅切符売り場前に名物の靴修理のおじさんがいつも露天に座っていました。
通勤客目当てだったと思いますが、ラグビーシューズ(当時の11人制ハンドボールも同じ靴)などは、靴底のポイント(スパイク?)が皮を何枚か重ねて釘で打ち付けた構造で、まして芝生と違うコンクリートのようなグラウンドなので、数日ごとに利用していました。
なので、おじさんは全日本クラスの選手になった先輩のラグビーの名選手などの名前もよく知っていました。
6枚目の写真
私が物心ついてはじめて大阪駅前を見たのと同じ時期ですね!!
前年の夏休みに来阪し(すでに父や上の方の兄・姉たちは大阪でしたので)、四ツ橋の電気科学館や大阪城へ行ったときに乗った市電は。まだツートーンカラーじゃなかったのですね。
オート三輪は、丸ハンドルと違うバーハンドルのがスクーターの横に、プリムスかなにか、アメリカ車の後方にはオープンの元祖オート三輪(フツーのオートバイの後輪の代わりに荷台?を付けたような)も見えますね。
7枚目
高1のとき、地下の食品売り場でトンカツだったかコロッケだったかを揚げているクラスメート(おなじクラブ)のお父さんをコソットと見に行った頃の阪神百貨店です。
甲子園夏の大会の大阪代表は、沢口靖子の母校・泉陽高校になっていますね。
阪急十三の駅のプラットホームで、巨人へ行った当時の浪商の怪童・坂崎選手をチョクチョク見かけた頃です。
甲子園で、一見育ちの良い東京のぼっちゃんみたいな早実の王投手を見たのは、もうすこし後のことだったでしょうか。
(8枚目以降は別の機会にしますのでよろしく)
( 2008年06月17日 12:30 [Edit] )
新之介 | URL | -
アクティ大阪
カオスさん
6枚目の写真、確かに市電が渋滞してますね(笑)
おそらく、行き先がそれぞれ違うんじゃないかなぁと思います。9枚目を見ると、行き先ごとに止まっているように見えます。同じ時間に出発していたのかもしれませんね。
アクティ大阪は確かにZIPPOみたいですね(笑)
でも、3年後にはこのZIPPOも懐かしく思うのかもしれませんね。
http://www.westjr.co.jp/connection/2011osaka/acty/index.html
( 2008年06月17日 13:30 )
新之介 | URL | -
闇市
pinboke_planetさん
闇市の話は面白いです。闇市ってよく聞くのですが、実態がよくわからないのです。闇市ってなんだったのかを調べてみようと思っています。資料がでてくればいいんですけど…。
十三駅切符売り場前の靴修理のおじさんは、私の記憶の片隅にもいます。縁がなかったので素通りでしたが、いつもいたように思います。
当時の車やバイクは、写真の名脇役ですね。面白いカタチです。
泉陽高校までは見ませんでした(笑)。昭和29年の夏の大会でベスト8まで行っていますね。ちなみに、この写真に写ってる大会は、第36回大会で優勝は中京商業高校でした。
( 2008年06月17日 14:03 )
| URL | -
終戦は、私が国民小学校1年生の時でした。心斎橋に親戚があり(戦後、周囲は見事に壊され、ガラクタのなかにバラック小屋を建てていました)、何回か大阪に行きましたが、大阪駅前には、黒いほろをかぶった輪タクが沢山並んでいた景色が記憶にありますが、記憶違いでしょうか?
( 2008年06月17日 22:16 )
新之介 | URL | u6i4c2k.
輪タク
心斎橋の辺りも被害が大きかったですね。心斎橋周辺でも最初はバラック小屋からだったのですね。
輪タクがわからなくてネットで調べると、人力車と自転車が合体したような乗り物なんですね。
戦後の大阪駅周辺の写真をいくつか見てみたのですが、輪タクらしきものは写っていませんでした。昭和21年の大阪駅前の人力車の写真がありましたので、追記しました。戦後の大阪駅には幌をかぶった人力車はあったようです。ただ、昭和20年代初期の写真を見ると、人力車らしきものが写ってるような、写ってないような…。輪タクが写っている写真を見つけたら、また追記します。
( 2008年06月18日 03:05 [Edit] )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
輪タクの思い出
たぶん乗ったことは無いと思いますが、輪タクのこと思い出しました。
1950年代でも少しは残っていたのかも知れませんね。
参考:トヨタ博物館
http://www.toyota.co.jp/Museum/data/a03_14_3.html
幌の色は黒しか見ませんでした。
ほかにタクシーに代わるものが無かったので、おそらく、終戦直後の大阪駅あたりには多数見られたと思いますが・・・
( 2008年06月18日 09:27 [Edit] )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
人力車
私の子供のころ お医者さんは往診に行くのに人力車を使っていました
自家用人力車で お抱え車夫画いました
そこの子供とおなじクラスだったので 乗せてもらったことがあります
20年代の大阪駅は まったく知りません
どの写真も 珍しく 拝見しています
以前に 近所に住んでいた人に聞いた話ですが 姫路のあたりに疎開をしていて 大阪に戻ってきたとき 大阪駅前で 持ってきたおにぎりを食べていたら 後ろから真っ黒なちいさい手が出てきてぱっととっていかれたという経験をしたソウです
その話をした人は 当時5,6歳で 大人からは取りにくかったけれど 子供だったから とられたのだろうといっていました
そういう 浮浪児がいっぱいいて 阪神の地下道に住んでいたときいています
30年代になるまで ほとんど行くことはなく 行ったとしても阪急電車で阪急百貨店に行くぐらいだったと思います
この時代の大阪はまったく知りませんので 興味深いです
( 2008年06月18日 10:37 [Edit] )
新之介 | URL | u6i4c2k.
輪タクより
pinboke_planetさん
輪タクの写真をさらに見つけましたので、追記しました。
でも、写真は輪タクより広場に置かれている自動車に目がいっちゃいます。
この時代の自動車のデザインはいいですね。
( 2008年06月19日 00:30 [Edit] )
新之介 | URL | u6i4c2k.
終戦直後の大阪駅
TOSSYさんは人力車に乗ったことがあったんですね。
いいなぁ。
終戦直後の大阪駅周辺はいろいろなドラマがありそうですね。
闇市も含めて調べてみたいと思っています。
私も関心がある時代です。
( 2008年06月19日 00:40 [Edit] )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
思い出すまま、思いつくままに(2)
8枚目の写真
ちょうど天神橋筋6丁目から阪急東口まで、通学に市電を利用し始めた頃の写真ですね。
最初は阪急東口が終点だったと思うのですが、この写真ではすでに大阪駅前まで線路が繋がっていますね。
富国生命のすこし横、シュークリームが評判で姉がよく買ってきてくれた[エーワンベーカリー(箱にはA-1と書いてありました)]の前あたりに大阪駅前へ向かう市電が見えますね。
阪急東通りに見える大屋根はどこかな?
阪急百貨店に沿うというより、御堂筋の線路に向かって行き、大きな横揺れが印象的だった急カーブで大阪駅前に向かっていたのですね。しかし阪急東口から梅田新道へ行く路線は無かったと思います。
マイカーがまだ殆ど無かったので、乗用車はタクシーか社用の外車が殆どで、画面左端最後尾はキャディラックのようですね。
9枚目
1961年に、天六から肥後橋まで市電通勤を始めた頃もこんな感じでした。
ラッシュ時は阪急東口から大阪駅前まで、どれくらい時間がかかるか予測できないので、時間的にヤバイときは一旦阪急東口で降り、小走りで阪急コンコースを抜けて大阪駅前で数珠繋ぎになっている市電の先頭車両に飛び乗ったものです。
それが定常化した頃、地下鉄の四つ橋線が開通しました。しかし、阪急東口から西梅田までが遠く、通勤に要するエネルギーの大半は自分の靴が見えない超過密の地下道で費やされたように思います。
いまとなっては、階段もエスカレーターも要らない(東京は地下深く特に酷い)洒落たデザインのLRTがヨーロッパの多くの都市のように、それこそ「よみがえった市電」として中之島あたりを走る日をつい夢見てしまいます。
10枚目
梅田東宝会館に、なまえの上に何もつかない単に「テレビ喫茶」(大きなガラス越しに道路からもよく見える明るいパーラーのような至極健全なお店です)があった頃ですね。
1950年に阪急園田駅前の園和小学校へ転校したときの同じクラスに、テレビの試験放送に向けて、たぶん日夜奮励努力していたNHK大阪放送局長・島浦さんの娘さんが塚口から阪急で電車通学していました。
そのクラスには家が、園田公設市場の「ゲタ屋のヨーチャン」(正式なお店の名前はXX履物店ですが・・)という友達がいましたが、ゲタ履きの人が多いですね。
中三のときの友人・例の塚本のお屋敷の彼は白い鼻緒の朴歯(ほうば)の高下駄で通学していましたので、ぼくも真似して買い、一度だけ阪急百貨店へ履いてい行ったことがあります。
新品なので、フロアのタイルで高音の異音が生じて困りました。
そういえば、東芝の電球は看板に見える「マツダランプ」という名前でしたっけ?
追記された最後の写真は、当時の代表的なマイカーの日野ルノー(4CVだったかな)とダットサンが大きな顔で西口駐車場に駐車していますね。(知っている範囲では当時のルノーのオーナーは染色会社の専務とか上場企業の課長など・・)
最前列中央は珍しいタクシーと違うトヨペット・マスターのようですが、左側の外車群と比べ、ダットサン・ルノーととにもフロントガラスは曲面と違い平面ガラスですね。
( 2008年06月19日 11:37 [Edit] )
新之介 | URL | u6i4c2k.
いろいろ
pinboke_planetさん
8枚目の写真
大屋根は位置的にはOS劇場の屋根のようですが、追記した写真の屋根形状と少し違う気もします…。地図も結構面白かったので追記しました。ただ、時期が記されていないので今調べています。
9枚目
>通勤に要するエネルギーの大半は自分の靴が見えない超過密の地下道で費やされたように思います。
そうか。地上の写真を見ていると、地下街がどのように拡張されていったかわからないですが、梅田駅前の開発=地下街の開発でもありますから、地下街のことを調べるのも面白いかも。
ヨーロッパで見られるLRTが大阪の街を走るのは私も一票!。ぜひ見てみたいですね。このままガソリンが高騰してしまうと、未来の大阪では現実になるかもしれませんね。
以前も書かれていた「テレビ喫茶」の写真を見つけたんですが、見失ってしまいました。いざ探そうとしてもなかなか出てきません。またどっかで見つけたらアップします。
「マツダランプ」って東芝の電球だったんですね。検索したら画像がいっぱい出てきました。またひとついいことを覚えました(笑)
先日、交通科学博物館にいってきました。私の目的は「続・三丁目の夕日展」を見にですけど。町のジオラマは圧巻でした。で、それとは別にダットサンとかの自動車も展示してました。最初のダットサンだったと思います。
( 2008年06月19日 23:16 [Edit] )
increscentmoon | URL | -
アフラ・マツダ
>「マツダランプ」って東芝の電球だったんですね。検索したら画像がいっぱい出てきました。またひとついいことを覚えました(笑)
検索されているので既にご報知かと思いますが、私の中学生だったか高校生だったかの歴史の時間にペルシャのゾロアスター教の話が出てきました。
その時先生は「この教は拝火教とも言い、火や光を信ずる事おびただしい。主神は「アフラ・マツダ」といいマツダランプの名はここから来ている。」と教えてくださいました。その頃は世間でも結構由来が知られていたのでしょう。
その話を聞いたとき興味を惹かれた所為でしょうか、今でもいろんな会社の社名(この場合は商品名ですが)の由来など探すと楽しいです。
( 2008年06月21日 05:56 )
新之介 | URL | -
マツダランプ
increscentmoonさん
「マツダランプ」の由来が当時結構知られていたというのは面白いですね。それだけ、メジャーな商品だったんですね。
再度検索していたら、面白いレトロな看板のサイトを見つけました。マツダランプ以外にも懐かしい看板がたくさん見れますよ。
http://www.geocities.jp/kazetaro2002/kaden.htm
( 2008年06月21日 23:17 )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
マツダランプ
アフラ・マズダ 私も高校のときに授業でならいました
マズダランプだとごろが悪いからマツダランプになったって・・
松本清張の火の路で 拝火教が出てきますね
飛鳥のあの巨石と結び付けていたと思います
エーワンベーカリー 懐かしいです
今のように あちらこちらに おいしいパン屋の無い頃 ここのパンはとってもおいしかったです
自家用車 種類は分かりませんが 近所のおじさん(ミシン会社の社長)が小さな自家用車を運転していました 機嫌のいいときは近所の子供をいっぱい乗せて走ってくれました
母はその車絵を セミみたいな車と言っていました
カブトムシよりも小さいように思うからルノー^だったのかもしれません
そのほかには子供のころには 黒塗りの社用者で送迎してもらっている友だちのお父さんが これも時々運転手さんに言って 子供を乗せて街を走ってくれました
小学生の頃の思い出です
自動車に乗るってほんとうに機会がありませんでした
市電は あんまり乗ったことはなく 高校受験(併願)のときに乗ったのですが 間違えないようにと 不安でした
そして乗車券を落として降りるときになかった思い出があります
( 2008年06月22日 00:53 [Edit] )
新之介 | URL | u6i4c2k.
日野ルノー
TOSSYさんも「マツダランプ」が授業で出てきたんですね。面白いなぁ。
エーワンベーカリーは梅田は有名なお店だったんですね。おいしいパンとシュークリームはエーワンベーカリーだったんだ。
日野ルノーは確かに顔が「セミ顔」ですね。
http://www.asahi-net.or.jp/~rf7k-inue/izen/no-6/runo/runo.html
シルエットはカブトムシ(ワーゲンビートル)と似てます。
http://www.nineauto.com/information/history.html
僕らが子供の頃も、同級生のお父さんがポルシェに乗っているということで、数人で見に行きました。見るだけで満足して帰ってきました(笑)。
( 2008年06月23日 00:00 [Edit] )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
日野ルノーの価格
新之介さん紹介のサイトは図版もキレイで価格も載っていますね。
>>当時の価格はルノーデラックス が880,000円スタンダード が730,000円 となっています
昭和36年(1961年)の文系大卒初任給は13,000円前後(マツダの東洋工業が破格の20,000円位)でしたので、およそ10倍してみますと、当時ちっちゃなルノーを買うということは、現在なら新入社員がベンツやレクサス、セルシオなどを買うのと同じような感覚だったのでしょうか。
( 2008年06月23日 11:23 [Edit] )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
ルノー
私は子供のときに乗せてもらっていたのは確か28、9年ごろです
ルノーはまだノックダウン車だったのですね
一体幾らしたのでしょうね
工業用ミシンのオーナー社長でした
背の低いとっても愉快なおじちゃんでした
( 2008年06月23日 15:06 [Edit] )
increscentmoon | URL | -
MAZDA
マツダの英文正式表記です。
社名の由来は勿論オーナーの名前(松田)から来ていて、英文表記は単純にヘボン式のローマ字表記にするのではなく、出きるだけ欧米(英米)の発音に近いものを採用するという会社(あるいは商品名)の例が多々見うけられますので、このMAZDAも恐らくその「でん」だと思っていましたが、実はこれも「アフラ・マツダ」に因んでいると今回初めて知りました。
( 2008年06月23日 19:00 )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
日野ルノーと初代クラウンのドア
クラウンがいわゆる観音開きでルノーはちょうど正反対ですね。
クラウンの後部ドアは和服の女性の乗り降りを考慮してと聞いたことがあります。
ルノーの前部ドアは写真で見ると、前ヒンジ(蝶番?)にするのは難しそうですね。スバル360も同じ理由で前開きにしたのでしょうか。
しかし、むかしはいわゆる半ドアで走っているクルマを良くみかけたので、前開きドアのクルマはどうも不安でした。
( 2008年06月24日 10:07 [Edit] )
新之介 | URL | -
MAZDA
increscentmoonさん
確かにウィキペディアをみると
アフラ・マズダー (Ahura Mazdā)
になってますね。
私も今回知りました。
( 2008年06月24日 13:24 )
新之介 | URL | -
日野ルノーの価格
TOSSYさん
日野ルノーの価格の答えが
pinboke_planetさんから入っていました。
コメントを承認する前に、TOSSYさんからの
コメントをいただいていた思います。
>現在なら新入社員がベンツやレクサス、セルシオなどを買うのと同じような感覚だったのでしょうか。
私もそんな感覚かなぁと思います。
新入社員の年収かそれ以上の感覚ではなかったでしょうか。
( 2008年06月24日 13:45 )
新之介 | URL | -
観音開きと蝶番?
pinboke_planet さん
三丁目の夕日で、初代クラウンのドアが観音開きだということは知っていましたが、日野ルノーはその逆なんですね。カタログをみて真ん中に蝶番?みたいなものがあるのを確認しました。車のデザインから考えると、この開き方の構造になってしまうんでしょうね。
なんとなく感ですが、当時の車づくりは、外観のデザインが優先で、ドアの構造や使い勝手は二の次だったのではないかと思いました。スバル360も同じではないでしょうか。(間違えてたらゴメンナサイ)
そういう意味で、同じ時代の初代クラウンを見ると、やはり、当時の最高の車だったのだと思いました。
feel,CROWNのヒストリーを改めて見てしまいました。
http://toyota.jp/crownroyal/
( 2008年06月24日 14:09 )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
OS劇場
>大屋根は位置的にはOS劇場の屋根のようですが、追記した写真の屋根形状と少し違う気もします
確信はありませんが、シネラマに建替え前のOS劇場でしょうか?
切符売り場が南欧風?の白っぽい瀟洒な2階建てで本体と別棟になっていたように思います。
確か火災もあった記憶がありますが、半焼か全焼かボヤだったのかは思い出せません。
( 2008年07月04日 13:03 [Edit] )
新之介 | URL | u6i4c2k.
OS劇場の火事
pinboke_planetさん
OS劇場が全焼した時の写真が出てきましたので追記しました。昭和29年9月15日になっています。すごいヤジ馬ですね。
( 2008年07月05日 21:28 [Edit] )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
>OS劇場の火事
これはスゴイですね!
暗くてよく分かりませんが、中央少し右よりがチケット売り場の建物のようですね。
たしか、高校運動部の先輩が(現OB会の会長じゃなかったかな?)2階から飛び降りたはずです。
兄夫婦のシネラマ・ロマンスも昭和29年(もしくは30年)なので、全焼のあと、すぐにシネラマを建てたみたいですね。
( 2008年07月05日 21:55 [Edit] )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
追記
シネラマ初上映は昭和30年のようですね
http://kappacha.hp.infoseek.co.jp/eigakan/os/index.htm
奥様の初期投資額は300円X2 もしくは、それ以下かな?
( 2008年07月05日 22:03 [Edit] )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
OS劇場の火事
覚えています 新聞に大きく写真が出ました
確か違う日ですが 少し前に姉が見に行った映画だったのです
ラブソディの看板が 燃えている写真だったとおもいます
S29年は まだ大阪には住んでいませんでした
S29年は 西暦だと 1954年?
確かこの火事の少し前にウオルトディズニーのダンボを見に連れて行ってもらったのでした
梅田の映画館は初めてでした
色彩の美しさと楽しさ びっくりしました
( 2008年07月05日 22:36 [Edit] )
トム キャット | URL | -
はじめまして おじゃまします。以前十三に住んでいました。戦後しばらく梅田、加島間をトロリーバスが走っていましたが、あれは2本のポールで電気をとっていたんですね。ぼくも古いですね。いま十三には映画館は何軒のこっているでしょうか、アカデミー劇場や弥生坐、若草、OK.十三東映。ほかにもあったかも。
( 2009年06月01日 20:45 )
新之介 | URL | sDz630us
トムキャットさん
トローリーバスをご存知の世代なんですね。
今から考えるととてもエコなバスですね。
ちょっと時代が早すぎたのでしょうか。
戦後の映画館でいうと、OK映画劇場、光洋劇場、十三劇場、十三大映朝日座、十三銀映劇場、十三アカデミー劇場、若草劇場、などがあったようです。私は商店街の中にあった十三東映しか覚えていないのですがすごい時代ですよね。
現在の十三に、映画館はひとつしかありません。
サンポードの6階にある第七藝術劇場のみです。
ミニシアターですががんばっていい映画を上映されていますよ。
http://www.nanagei.com/index.html
( 2009年06月01日 21:50 [Edit] )
KOPANDA | URL | -
エーワンベーカリー
エーワンベーカリーといえば 昭和45年ほどまで
今の十三駅西口 元コトブキ現じゃんぼ総本店の場所に
エーワンがあったの 覚えてませんか?
それから不二家さんの2階にはハトキンも
ありましたよ。
( 2009年06月03日 23:48 )
新之介 | URL | -
KOPANDAさん
十三の駅前にエーワンベーカリーがあったんですね。
残念ながら覚えていないです。
ハトキンも覚えていないです。
ごめんなさい…T-T
余談ですが
じゃんぼ総本店は流行ってますね。
十三駅はたまに利用していますが
いつもお客さんが焼けるのを待っています。
ただ、まだ違和感があるんです…
たまに買うんですけどね^^
( 2009年06月04日 11:59 )
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( 2009年06月04日 12:25 )
increscentmoon | URL | -
>戦後しばらく梅田、加島間をトロリーバスが走っていましたが、あれは2本のポールで電気をとっていたんですね(トムキャットさん)
私も覚えてますよ。阪急と大阪駅を結ぶ横断歩道の上に架線が張ってありましたね。
トロリーバスといえば 日本最初のそれが阪急花屋敷駅前から出ていました。てっちゃん(トロリーバスは無軌道の鉄道と分類されるようです)には垂涎の的だったでしょうが、残念ながら私が生まれたときには既になくなっていました。
覚えているといえばもう一つ、日野ルノーの話が出ていましたが、私の覚えているのは日野コンテッサクーペ、リアエンジンが特徴的でした。私の友人は、スピードを出しすぎると女の子のようにケツ(失礼)を振るので怖いといってましたが・・・
( 2009年06月05日 17:57 )
新之介 | URL | sDz630us
increscentmoonさん
日野コンテッサクーペ。
検索するといろいろ出てきました。
目がギョロっとしていて
フロントグリルがなくツルっとして
日本車じゃないようなデザイン。
カッコいいですね。
この時代の日本車のデザインはいいなぁ。
( 2009年06月06日 17:55 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
increscentmoonさん
小林旭の自動車ショー歌に
コンテッサが入ってますね^^
http://www.youtube.com/watch?v=eeyjzIiuml0
あなたは私の ブルーバード ミンクス買うよの
約束を キャロルと忘れて ダットサン
こんど逢ったら コンテッサ
とっちめちゃおうと マツダけど
逢えばやっぱり オースチン
1分37秒あたり…
( 2009年06月06日 19:48 [Edit] )
increscentmoon | URL | -
>フロントグリルがなくツルっとして
フロントがつるっとしているのは 、先に書きましたようにリアエンジンだから。ケツ(笑)を見たら、その時でもユニークでしたから、今ならもっとびっくりかも。
>日本車じゃないようなデザイン。
デザインはたしかイタリア人だったと思います。検索には出てませんでしたか?(私は未検索)
( 2009年06月07日 21:02 )
新之介 | URL | sDz630us
ジョヴァンニ・ミケロッティ
increscentmoonさん
すごい!
ジョヴァンニ・ミケロッティなんだ。
http://www.top-gao.co.jp/michelotti/history.htm
( 2009年06月07日 22:58 [Edit] )
nora | URL | yNbrD7p6
たしか、大阪駅前に人力車が
ちょうど私が、学校に上がるもっと前の、物心ついた頃に、たしか大阪駅前にたくさんの人力車が並んでいたのを見たような記憶がある。そんなおぼろげな記憶は、ずっと今までその事実が確かめられるのを待っていました。
やはり、その記憶に間違いはなかったのです。べつに江戸時代に参勤交代を見たというほどおおげさなことでもないのですが、自分が歴史の一場面を垣間見たような気分になれるのです。
( 2012年04月27日 02:04 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
noraさん
大阪駅前の人力車の記憶がおありだとはすばらしいです。
小さい頃の記憶というのはいつまでも残っているものですね。
ものがなかった時代かもしれませんが
人の心が豊かだった時代なのかもと思ったりします。
日本はもう一度そんな心の豊かな時代に戻れるといいのですが…
( 2012年05月01日 10:48 [Edit] )
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( 2013年03月18日 19:16 )
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( 2014年04月04日 11:03 )
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