2008年
06月13日
(金曜日)
大阪大空襲
大阪大空襲 十三が焼けた日
第二次世界大戦が終わって63年。私たちの住む十三・塚本地区も昭和20年の6月7日、15日に猛爆撃を受け、町の大半が焼き尽くされました。炎の中を逃げまどった悪夢のような体験を、「空襲体験記」として昭和60年に十三地域広報委員会が冊子にまとめています。その中から、体験記を少しだけ紹介したいと思います。
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「あたり一面火の海、人の叫び声」
MTさん(当時21歳・女性)
罹災地 十三西之町1丁目
罹災日 昭和20年6月7日、15日
当時、私の家は岡崎牧場の裏にあり、朝夕牛の鳴き声を聞き、生まれ育ちました。父は昭和17年に亡くなり、妹は縁故疎開して、家にいたのは母と私と弟2人の4人でした。昭和20年6月7日朝9時、各隣組長宅に配給のうどん玉券を配って事務所に帰った時、空襲警報発令と同時にB29の爆音、いつもとちがう様子に、家に待避のつもりでとんで帰れば、すでに便所、座敷などに焼夷弾があちこちと落ちて燃え出していました。慌てて母と弟2人と近所の方と外に出ると、あたり一面もう火の海、防空壕も燃え、次々と家が燃えてゆきます。警防団員が「堤防へ逃げろ」と言うが、道中が火の海でどうにも行けないので、十三公園の方へ、その公園も火の海、しかたなく引き返して成小路小学校(国民学校)前の橋の下へ避難、そこも家が倒れて来て火の海。途中母ともはぐれて、弟2人連れて、堤防の方へと急ぎました。当時の淀川は堤防下まで葦がはえていました。どこも火の海、人の叫び声、今思ってもよく逃げられたと思います。いまだに当時の夢を見ます。一生忘れられません。
堤防まで5分で行けるのに、その時は2時間かかり、堤防の上では艦載機の奇襲、次から次から人が倒れてゆきます。皆堤防下の葦の中へ中へと、水につかりながら川ぶちへ進む。黒い雨が降ってあたりは真っ暗です。3歳の弟が仮死状態のように眠り込むので、一緒にいたおばさんが金平糖を弟にたべさせて、眠らせないように元気づけて下さった。葦の水の中で3時間、やっと解除。皆の顔は真っ黒だが、やれやれと家の方を見ると一面丸焼け、近所の人も着のみ着のまま、ただ茫然と立ちつくしていました。弟が家に「帰ろ、帰ろ」と泣きだしたので、ふと我にかえり焼け跡に帰りましたが、私の生まれ育った21年の思い出なつかしい家も何もなく、ただ泣けるばかりでした。ただ戦争の恐ろしさを身をもって感じました。
隣のおばさんは背中に背負った赤ちゃんが死んでいるのも知らず焼け跡に帰ってはじめて気がつき、泣き叫びました。ほんとうにお気の毒でした。焼けだされた私たちは一週間北野中学におりました。水が出ないのでプールの水を使用、飲み水にきたないとも思いませんでした。(後略)

「蘇るわが街」より
赤い部分が戦災地域です。十三の町はほとんど焼けてしまいました。

「あの日あの時」より
十三東地域の詳しい戦災状況です。十三駅から堤防にかけての被害が大きかったようです。善久寺にはたくさんのご遺体が集められ、火葬されました。

「ふるさとの想い出写真集」より
6月7日の十三駅です。空襲のため阪急電車も全面ストップしましたが、夕方に神戸線のみ運転が再開されました。写真は、運転再開に押し寄せたたくさんの人達が写っています。ホームの下に防空壕が作られています。

「あの日あの時」より
6月7日の空襲の翌日の写真です。阪急電車が不通のため十三大橋をたくさんの人が徒歩で通勤しています。

「蘇るわが街」より
昭和17年の航空写真です。左端は塚本地域です。まだ空地が残っています。十三地域は民家が密集しています。

昭和23年の米空軍が撮影した航空写真です。一面焼け野原です。

「Googleマップ」より
参考までに現在の地図と場所を重ね合わせてみました。区画がかなり変わりました。

空襲体験記 あの日あの時
「コミュニティ十三」別冊
昭和60年7月10日
十三地域広報委員会編集
十三地区各種公共団体連合会発行
たいへん貴重な体験談が書かれています。ご興味のある方は、図書館でお探しください。

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第二次世界大戦が終わって63年。私たちの住む十三・塚本地区も昭和20年の6月7日、15日に猛爆撃を受け、町の大半が焼き尽くされました。炎の中を逃げまどった悪夢のような体験を、「空襲体験記」として昭和60年に十三地域広報委員会が冊子にまとめています。その中から、体験記を少しだけ紹介したいと思います。
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「あたり一面火の海、人の叫び声」
MTさん(当時21歳・女性)
罹災地 十三西之町1丁目
罹災日 昭和20年6月7日、15日
当時、私の家は岡崎牧場の裏にあり、朝夕牛の鳴き声を聞き、生まれ育ちました。父は昭和17年に亡くなり、妹は縁故疎開して、家にいたのは母と私と弟2人の4人でした。昭和20年6月7日朝9時、各隣組長宅に配給のうどん玉券を配って事務所に帰った時、空襲警報発令と同時にB29の爆音、いつもとちがう様子に、家に待避のつもりでとんで帰れば、すでに便所、座敷などに焼夷弾があちこちと落ちて燃え出していました。慌てて母と弟2人と近所の方と外に出ると、あたり一面もう火の海、防空壕も燃え、次々と家が燃えてゆきます。警防団員が「堤防へ逃げろ」と言うが、道中が火の海でどうにも行けないので、十三公園の方へ、その公園も火の海、しかたなく引き返して成小路小学校(国民学校)前の橋の下へ避難、そこも家が倒れて来て火の海。途中母ともはぐれて、弟2人連れて、堤防の方へと急ぎました。当時の淀川は堤防下まで葦がはえていました。どこも火の海、人の叫び声、今思ってもよく逃げられたと思います。いまだに当時の夢を見ます。一生忘れられません。
堤防まで5分で行けるのに、その時は2時間かかり、堤防の上では艦載機の奇襲、次から次から人が倒れてゆきます。皆堤防下の葦の中へ中へと、水につかりながら川ぶちへ進む。黒い雨が降ってあたりは真っ暗です。3歳の弟が仮死状態のように眠り込むので、一緒にいたおばさんが金平糖を弟にたべさせて、眠らせないように元気づけて下さった。葦の水の中で3時間、やっと解除。皆の顔は真っ黒だが、やれやれと家の方を見ると一面丸焼け、近所の人も着のみ着のまま、ただ茫然と立ちつくしていました。弟が家に「帰ろ、帰ろ」と泣きだしたので、ふと我にかえり焼け跡に帰りましたが、私の生まれ育った21年の思い出なつかしい家も何もなく、ただ泣けるばかりでした。ただ戦争の恐ろしさを身をもって感じました。
隣のおばさんは背中に背負った赤ちゃんが死んでいるのも知らず焼け跡に帰ってはじめて気がつき、泣き叫びました。ほんとうにお気の毒でした。焼けだされた私たちは一週間北野中学におりました。水が出ないのでプールの水を使用、飲み水にきたないとも思いませんでした。(後略)

「蘇るわが街」より
赤い部分が戦災地域です。十三の町はほとんど焼けてしまいました。

「あの日あの時」より
十三東地域の詳しい戦災状況です。十三駅から堤防にかけての被害が大きかったようです。善久寺にはたくさんのご遺体が集められ、火葬されました。

「ふるさとの想い出写真集」より
6月7日の十三駅です。空襲のため阪急電車も全面ストップしましたが、夕方に神戸線のみ運転が再開されました。写真は、運転再開に押し寄せたたくさんの人達が写っています。ホームの下に防空壕が作られています。

「あの日あの時」より
6月7日の空襲の翌日の写真です。阪急電車が不通のため十三大橋をたくさんの人が徒歩で通勤しています。

「蘇るわが街」より
昭和17年の航空写真です。左端は塚本地域です。まだ空地が残っています。十三地域は民家が密集しています。

昭和23年の米空軍が撮影した航空写真です。一面焼け野原です。

「Googleマップ」より
参考までに現在の地図と場所を重ね合わせてみました。区画がかなり変わりました。

空襲体験記 あの日あの時
「コミュニティ十三」別冊
昭和60年7月10日
十三地域広報委員会編集
十三地区各種公共団体連合会発行
たいへん貴重な体験談が書かれています。ご興味のある方は、図書館でお探しください。

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コメント
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焦土
文字通り 焦土ですね
言葉が 出てきません
駅のホームの下が防空壕二なっていたのですね
空襲警報が鳴れば飛び降りて 入ったのでしょうね
空襲体験記 すごいものを見つけられましたね
あのプールが 役に立ったのですね
50mのプールでしたが 鉄が不足していた頃に作ったので 鉄筋の代わりに 竹を使っていたとか聞いています
両親から 塚口の家の2階から 大阪の空が真っ赤だったのを見たと聞いています
言葉が 出てきません
駅のホームの下が防空壕二なっていたのですね
空襲警報が鳴れば飛び降りて 入ったのでしょうね
空襲体験記 すごいものを見つけられましたね
あのプールが 役に立ったのですね
50mのプールでしたが 鉄が不足していた頃に作ったので 鉄筋の代わりに 竹を使っていたとか聞いています
両親から 塚口の家の2階から 大阪の空が真っ赤だったのを見たと聞いています
特集 私の戦争体験
最近届いた、高校の同窓会の卒業50周年記念文集に、実際に戦争を知る最後の世代として、記憶のあるうちに語り合おうという趣旨で、標記のようなコーナーがあって23編の体験談が載っていました。
殆どは終戦60周年の2005年にメーリングリストに書かれたもののようですが、記憶があると言っても所詮、終戦時は6歳の国民学校1年生、数人の外地からの引揚げ体験者の話のみ、生死を分ける体験をしただけにかなり具体的でした。
戦争体験を正確に語れる年代は、現在の80歳以上ではないでしょうか、もう10年もすれば殆どいなくなることでしょう。
そう思うと、野坂昭如の「火垂るの墓」は、アニメでもよいのでいまの子どもたちに是非見てほしいなと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E5%9E%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E5%A2%93
文集の「特集 私の戦争体験」では、2−3人が大阪大空襲を体験したようですが、同じ運動部だった一人が3月の空襲についてかなり詳しく書いていました。
住んでいた北久宝寺は焼夷弾のじゅうたん爆撃からは外れたものの、B29が一機墜落炎上したため一帯は全焼したそうです。
一晩中東横堀川(だったかな)に家族全員入って炎や熱を避け、夜明けに北を目指して市内を脱出、もちろん徒歩でようやくたどり着いたのが現在住んでいる吹田だそうです。
私自身は、比較的平和だった田舎に居て、大阪大空襲などで家を失った何組かの親戚の家族を受け入れ、2−3年は同じ小学校にも通ったりしましたが、空襲の体験は皆無です。
高空を飛行するキラキラ銀色に輝く小さなB29や、名古屋方面の空が赤く見えたことはよく覚えています。
殆どは終戦60周年の2005年にメーリングリストに書かれたもののようですが、記憶があると言っても所詮、終戦時は6歳の国民学校1年生、数人の外地からの引揚げ体験者の話のみ、生死を分ける体験をしただけにかなり具体的でした。
戦争体験を正確に語れる年代は、現在の80歳以上ではないでしょうか、もう10年もすれば殆どいなくなることでしょう。
そう思うと、野坂昭如の「火垂るの墓」は、アニメでもよいのでいまの子どもたちに是非見てほしいなと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E5%9E%82%E3%82%8B%E3%81%AE%E5%A2%93
文集の「特集 私の戦争体験」では、2−3人が大阪大空襲を体験したようですが、同じ運動部だった一人が3月の空襲についてかなり詳しく書いていました。
住んでいた北久宝寺は焼夷弾のじゅうたん爆撃からは外れたものの、B29が一機墜落炎上したため一帯は全焼したそうです。
一晩中東横堀川(だったかな)に家族全員入って炎や熱を避け、夜明けに北を目指して市内を脱出、もちろん徒歩でようやくたどり着いたのが現在住んでいる吹田だそうです。
私自身は、比較的平和だった田舎に居て、大阪大空襲などで家を失った何組かの親戚の家族を受け入れ、2−3年は同じ小学校にも通ったりしましたが、空襲の体験は皆無です。
高空を飛行するキラキラ銀色に輝く小さなB29や、名古屋方面の空が赤く見えたことはよく覚えています。
我が家の航空写真を見て
「蘇るわが街」より引用された昭和17年の航空写真、我が家が写っています。これと言うのではなく、ここらと言う事ですが。(笑い)十三公園の左上に人家の中に空き地が見えます。ここは農地で野菜の栽培がされていました。この農地に面した南側に我が家がありました。この農地の直ぐ西に銀座通りがあり、これもはっきり写っています。本当に懐かしい昔の事を思い出させて頂き新之介さんに大感謝です。この家も6月の空襲で消失しました。ただその時には父のみが住んでいて、私は京都で下宿していました。3月13,14日の空襲で淀川より南の大阪市内が空襲された時は、この家で空襲の恐ろしさを目の前にしていました。はるか昔の話になりました。
戦争の風化
TOSSYさん
「空襲体験記」を読んで、私がイメージしていた空襲の様子と実際体験された方の話とは、やはり全然違うものでした。当時、同じ体験をされた約90人の方々の体験記なので、十三の町がどういう状態だったか、読んでいくうちにそれぞれの方の話が繋がっていきました。貴重な資料です。
戦争が風化していくのは仕方がありませんが、戦争の記録を少しでも残していくことが、僕達にできることではないかぁと思っています。
「空襲体験記」を読んで、私がイメージしていた空襲の様子と実際体験された方の話とは、やはり全然違うものでした。当時、同じ体験をされた約90人の方々の体験記なので、十三の町がどういう状態だったか、読んでいくうちにそれぞれの方の話が繋がっていきました。貴重な資料です。
戦争が風化していくのは仕方がありませんが、戦争の記録を少しでも残していくことが、僕達にできることではないかぁと思っています。
火垂るの墓
pinboke_planetさん
私の父親もpinboke_planetさんとほぼ同世代ですが、戦争時代の話は聞いたことがありませんし、そういう話もしたこともありませんでした。私から積極的に聞かないと出てこない記憶なのかもしれません。
今の時代、おそらく新たな「戦争」の体験記はほとんど出てこないのだと思います。そういう意味でも、過去の体験記はますます貴重になっていきます。我々世代(40代)は過去の戦争に無関心です。受けてきた教育にも関係するかもしれません。
わかっていない世代が、次代の人達にちゃんと受け継げるはずもありません。おそらく、あと数十年で「戦争」はさらに風化していってしまうのだと思います。
そう思うと、「火垂るの墓」のようなアニメが「戦争」を伝えていくには一番いい方法なのかもしれませんね。映画にもなるようですね。7月5日にロードショーのようです。
私の父親もpinboke_planetさんとほぼ同世代ですが、戦争時代の話は聞いたことがありませんし、そういう話もしたこともありませんでした。私から積極的に聞かないと出てこない記憶なのかもしれません。
今の時代、おそらく新たな「戦争」の体験記はほとんど出てこないのだと思います。そういう意味でも、過去の体験記はますます貴重になっていきます。我々世代(40代)は過去の戦争に無関心です。受けてきた教育にも関係するかもしれません。
わかっていない世代が、次代の人達にちゃんと受け継げるはずもありません。おそらく、あと数十年で「戦争」はさらに風化していってしまうのだと思います。
そう思うと、「火垂るの墓」のようなアニメが「戦争」を伝えていくには一番いい方法なのかもしれませんね。映画にもなるようですね。7月5日にロードショーのようです。
西岡さんの家
西岡さん
今回ではっきりと西岡さんが住んでおられた場所がわかりました。当時は我が家も銀座通りの近くだったので、ご近所だったのかもしれません(店が昭和14年に焼けて、その後この辺りに住んでいたようです。まだ私の父親は3歳の時です)。畑らしき土地は他にもありますね。家やお店がたくさんあって、水路が流れていて、いい町だったでしょうね。この町が焼けてしまったのが本当に残念です。でも、西岡さんにこの写真を喜んでもらって嬉しいです。
今回ではっきりと西岡さんが住んでおられた場所がわかりました。当時は我が家も銀座通りの近くだったので、ご近所だったのかもしれません(店が昭和14年に焼けて、その後この辺りに住んでいたようです。まだ私の父親は3歳の時です)。畑らしき土地は他にもありますね。家やお店がたくさんあって、水路が流れていて、いい町だったでしょうね。この町が焼けてしまったのが本当に残念です。でも、西岡さんにこの写真を喜んでもらって嬉しいです。
ホタルの墓
何度見てもないてしまいます
六甲の山並みを見るだけで涙が出ます
アニメの節子が 私の小さいころにそっくりだと母や姉が言いました
わかめちゃんカットで あんな話し方をしていたそうです
実写版が出来たのですね
昨年も TVでか 実写版があったように思います
私はアニメのほうが イメージが膨らむので好きですね
昔と今と 子供の顔が違うのよね
ホタルの墓の舞台 ニテコ池 blogに書いています
良かったら 見てください
http://kannnon.blog11.fc2.com/blog-entry-146.html
六甲の山並みを見るだけで涙が出ます
アニメの節子が 私の小さいころにそっくりだと母や姉が言いました
わかめちゃんカットで あんな話し方をしていたそうです
実写版が出来たのですね
昨年も TVでか 実写版があったように思います
私はアニメのほうが イメージが膨らむので好きですね
昔と今と 子供の顔が違うのよね
ホタルの墓の舞台 ニテコ池 blogに書いています
良かったら 見てください
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この写真は 大阪十三の町が 20年6月7日の空襲で燃えているのを 麦畑から眺めている所を描いた絵です
13日に 月1回母校で開... デジカメ散歩日記【 2008/06/13 07:27 】
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