2008年06月06日 06:06
大阪市電がつくった道路
大阪の道路は、秀吉の築城以来、東西を「通り」南北を「筋」と呼び、碁盤の目のようにつくられました。もともと水運が盛んだったこともあり、道路の整備がほとんど行われておらず、近代都市として発展していくには、道路の整備拡充が急務になっていました。
明治42年頃から大正5年頃にかけて、3期線(18路線)が開通します。大阪市内の主要道路が市電の敷設に合わせて、この時代につくられました。しかし立ち退きを強いられる沿道住民の反対運動は半端ではありませんでした。さらに不況になったこともあり工事は予定通り進みません。ところが、明治末期に北の大火(明治42年)と南の大火(明治45年)が起こります。もめていた新線の建設がこれによって容易に進むことになったのだそうです。現在の都市道路の原型がこの時代につくられたのですね。

地図は「實地踏測大阪市街全圖 (大正7年)」より 道路は「市電ー市民とともに65年」の図を参考にしています。3期線によってこれらの道路ができました。御堂筋はまだありません。御堂筋の母体となる梅田新道ができています。御堂筋は大正15年から工事にかかり、昭和12年に完成します。

「大阪市100年」より
大正初め頃の心斎橋筋です。明治30年頃までは、この心斎橋筋が一番広い道だったそうです。この写真はどの辺りでしょうね。

「ふるさとの思い出写真集」より
参考までにこれも心斎橋筋です。どこだかわかりますよね。大丸百貨店です。大正11年に第一期改築工事が終わった後の写真のようです。こちら側が正面でした。反対側にはまだ御堂筋がない時代です。

「大阪市100年」より
これは大正時代の堺筋です。市電が通ることによってこんなに広い道路が生まれました。御堂筋が出来るまでは、大阪を代表する幹線道路でした。高い建物は三越百貨店です。向こうが北ですね。

「大阪市100年」より
明治44年に完成した難波橋です。ここも堺筋ですね。市電の向こうに橋が見えますね。何橋でしょう?

「大阪市内詳細図」より
大正3年の地図ですが、橋が平行して2本架かっていました。小さい方が元祖難波橋だったんですね。大正7年の地図を見ると旧難波橋は無くなっていました。

「ふるさとの思い出写真集」より
大正末期の長堀橋です。縦が堺筋、横が長堀通りです。右角の煙突のある建物は木村家パン総本店だそうです。が、ご存知ですか?

「大阪市パノラマ地図」より
この場所です。あたりまえですが堀があったんですよね。今は地味な堺筋(ゴメンナサイ)ですが、当時はメインストリートだったといってもいいのではないでしょうか。
(関連記事)
『梅田を走る市電 開通篇』 2008.06.02
『大阪市電がつくった道路』 2008.06.06
『大阪大空襲と市電』 2008.06.08
『よみがえった市電』 2008.06.16
『いも虫と市電』 2008.06.19
『さよなら市電、こんにちは万博』 2008.06.26
『阪堺電気軌道(阪堺電車)に乗った♪』 2010.01.15
『阪堺電車・貸し切りました』 2011.06.21
ポチッと、応援よろしく♪
大阪の道路は、秀吉の築城以来、東西を「通り」南北を「筋」と呼び、碁盤の目のようにつくられました。もともと水運が盛んだったこともあり、道路の整備がほとんど行われておらず、近代都市として発展していくには、道路の整備拡充が急務になっていました。
明治42年頃から大正5年頃にかけて、3期線(18路線)が開通します。大阪市内の主要道路が市電の敷設に合わせて、この時代につくられました。しかし立ち退きを強いられる沿道住民の反対運動は半端ではありませんでした。さらに不況になったこともあり工事は予定通り進みません。ところが、明治末期に北の大火(明治42年)と南の大火(明治45年)が起こります。もめていた新線の建設がこれによって容易に進むことになったのだそうです。現在の都市道路の原型がこの時代につくられたのですね。

地図は「實地踏測大阪市街全圖 (大正7年)」より 道路は「市電ー市民とともに65年」の図を参考にしています。3期線によってこれらの道路ができました。御堂筋はまだありません。御堂筋の母体となる梅田新道ができています。御堂筋は大正15年から工事にかかり、昭和12年に完成します。

「大阪市100年」より
大正初め頃の心斎橋筋です。明治30年頃までは、この心斎橋筋が一番広い道だったそうです。この写真はどの辺りでしょうね。

「ふるさとの思い出写真集」より
参考までにこれも心斎橋筋です。どこだかわかりますよね。大丸百貨店です。大正11年に第一期改築工事が終わった後の写真のようです。こちら側が正面でした。反対側にはまだ御堂筋がない時代です。

「大阪市100年」より
これは大正時代の堺筋です。市電が通ることによってこんなに広い道路が生まれました。御堂筋が出来るまでは、大阪を代表する幹線道路でした。高い建物は三越百貨店です。向こうが北ですね。

「大阪市100年」より
明治44年に完成した難波橋です。ここも堺筋ですね。市電の向こうに橋が見えますね。何橋でしょう?

「大阪市内詳細図」より
大正3年の地図ですが、橋が平行して2本架かっていました。小さい方が元祖難波橋だったんですね。大正7年の地図を見ると旧難波橋は無くなっていました。

「ふるさとの思い出写真集」より
大正末期の長堀橋です。縦が堺筋、横が長堀通りです。右角の煙突のある建物は木村家パン総本店だそうです。が、ご存知ですか?

「大阪市パノラマ地図」より
この場所です。あたりまえですが堀があったんですよね。今は地味な堺筋(ゴメンナサイ)ですが、当時はメインストリートだったといってもいいのではないでしょうか。
(関連記事)
『梅田を走る市電 開通篇』 2008.06.02
『大阪市電がつくった道路』 2008.06.06
『大阪大空襲と市電』 2008.06.08
『よみがえった市電』 2008.06.16
『いも虫と市電』 2008.06.19
『さよなら市電、こんにちは万博』 2008.06.26
『阪堺電気軌道(阪堺電車)に乗った♪』 2010.01.15
『阪堺電車・貸し切りました』 2011.06.21
ポチッと、応援よろしく♪

スポンサーサイト
コメント
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
堺筋
御堂筋よりも以前から広い道だったのですね
三越 ほとんどいったことはないですが いま あそこはとてつもない高いビルが建設中ですね
三越の手前の古い商家は今も健在ですね
広い道を悠々と市電画走り 人間も真ん中を歩いていますね
ほとんどの男の人が 帽子をかぶっていますね
私の父親の若い頃の写真も 帽子着用です
それも ボルサリーノだったそうです
心斎橋で買ったのでしょうね
木村屋というと アンパンの木村やですか
あのパン屋は東京のものだと思っていましたが 大阪にもあったのですか?
確か始めてアンパンを作って パンのへそがあって 桜の花弁の塩漬けが入っているというパンではなかったでしょうか
食べたことは ないと思います
( 2008年06月06日 12:59 [Edit] )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
市電と堺筋
>>御堂筋は大正15年から工事にかかり、昭和12年に完成します。
奇しくも(・・でもないか)その翌年生まれですが・・・1950年代、自宅が天六でしたので、市電に乗って堺筋はよく利用しました。鳴尾町あたりでで大きく二度カーブして堺筋に入っていくのがとても印象的でした。
利用したのは,母の依頼で当時は有名な道修町の薬の安売り店〔初期のダイエーも、こんな感じかな?〕へ行ったり、スキーなどスポーツ用品の問屋が沢山あった松屋町筋へ行く時などです。
高麗橋の三越は、よく利用した阪急うめだ店とは雰囲気がずいぶん違い、買い物客も少なくいつもガランとした印象で、母にたのまれた時以外自分の買い物をした記憶はありませんが、同じ停留所はよく利用しました。
中学生のころから洋服は高麗橋の三越の前を少し入った池田洋服店ですべて作ってもらっていましたが、財界の名士みたいな方しか出入りしないその店で、不釣り合いなぼく達がずっと服を作っていたのは、単にその老舗の社長が長兄の友人で勘定が「ツケ」だったからに他なりません。
池田洋服店または池田商店は、現在の「吉兆」の向かいあたり「アイケイビル」です。
ビルの屋上のマークは、洋服の箱のマークとまさしく同じ菱形の中にIKです。
高校入学のときの学生服から、結婚式で着たモーニングコートまでの間、ほとんど全てのスーツと、コートはここで作りました。モーニングコートは、子供達の結婚式。母の葬儀にも着用しました。
memo:“ALWAYS”1970年代・ぼくたちの『家族』・走れ「北野病院」へ①〔完結編をまだ書いていなかった・・・〕
http://blog.livedoor.jp/enethan_fan/archives/50884169.html
日本橋の松坂屋大阪店(1969年~高島屋大阪店の東別館)へも、地下鉄ではなく市電で行きました。
1950年代の結婚式場は「新大阪ホテル」(リーガロイヤルの前身)などは別格として(なぜか姉はここでしたが・・・)、一般的には自宅・天満の天神さんなど神社のほかは現在のような結婚式場は非常に少なかったように思います。兄二人や同級生の式に出席したのも松坂屋大阪店の結婚式場・長生殿(1947~1969)で、ほかの結婚式場の名前はまったく思い浮かびません。〔長兄次兄は田舎の自宅でした〕
いま思えば、挙式と衣服、家具、引き出物等々の販売など、ひょっとすると松坂屋は大阪でのブライダル産業のさきがけだったかも知れませんね。
1960年代になってからですが、同級生で現在十三の某クリニック院長先生の結婚式も松坂屋でした。ところが、当日何を勘違いしたのか、ぼくは高麗橋で降りて三越のエレベーターに乗ってから間違いに気づき開始時間に少し遅れてしまいました。
〔同級生同士の結婚式なので同窓会的ムードでしたが、スキーで骨折した同級生が振袖にギプスと松葉杖で出席していたのには驚きました!〕
( 2008年06月06日 22:49 [Edit] )
increscentmoon | URL | -
百貨店道路
>当時はメインストリートだったといってもいいのではないでしょうか(新之介さん)
大阪ローカルに関する書物には必ずといって良いほど出てますので新之助さんはとっくに御存知でしょうが、往時の堺筋には、北から白木屋、三越、高島屋、松坂屋と続いていて「百貨店道路」といわれていました。
戦後生まれの私が知っている(行った事がある)のは、三越と松坂屋だけです。
ご提供のパノラマ地図に長堀橋南詰より一筋南の東角に高島屋が見えますね。
この頃の高島屋は勿論知りませんが、高島屋のナンバ移転の後も丸善石油の本社ビルとして残っていました。この建物は覚えています。
当時は破竹の勢いだった丸善石油に現首相の福田さんが勤めており、この本社ビルに通勤しておられたそうです。
( 2008年06月07日 17:35 )
新之介 | URL | u6i4c2k.
ボルサリーノ
TOSSYさん
ボルサリーノっていう単語、むちゃくちゃ久しぶりに目にしました。忘れてた響きですね。私は帽子の名前ではなく映画の印象が強いです。アラン・ドロンとジャン=ポール・ベルモンド。映画小僧だったハイティーンの時に観ました。たぶん、大毎地下劇場か隣の毎日新聞ビルの7階?の名画館だと思います。入り浸ってましたから。
北浜の三越の映画館もたまに行ってました。3階だったかテラスっぽい外光が入る喫茶店があって学生の頃よく行きました。
木村家パン総本店は謎のままです。銀座の店の沿革を見ても関係なさそうです。書いてあったのは「ふるさと想い出写真集 大阪(上)」という本です。昭和60年に出版されたものなのでそれほど古くはないんですけどね…。
( 2008年06月07日 22:59 [Edit] )
新之介 | URL | u6i4c2k.
北野病院
pinboke_planetさん
『“ALWAYS”1970年代・ぼくたちの『家族』・走れ「北野病院」へ』を読ませていただきました。いいコメントが思いつきませんが、北野病院は私も少し縁があります。長女(小学4年生)が前の北野病院で生まれました。古くて病院らしい病院でした。長男(幼稚園)は新しい北野病院で生まれています。病院らしくない綺麗な病院です。でも、古い北野病院の方が回数も多く足を運んだのもありますし、自分のはじめての子供を薄暗い廊下で対面したこともあり、とても想い出深い病院なんです。
洋服屋さんはいいですね。以前、百貨店でスーツを仕立てたこと一度だけあります。自分の体に合わせて作ってもらった服はすごく良かったです。服を買うのはめんどくさい方なのですが、服を買うのが楽しみに変わります。そういう店を持っておられたのがうらやましいです。今は貸しビルになってますね。
日本橋の高島屋東別館が松坂屋だったことは、知りませんでした。まだまだ知らないことが多いです。
( 2008年06月07日 23:46 [Edit] )
新之介 | URL | u6i4c2k.
私の勉強法
increscentmoonさん
実は百貨店道路は知らなかったんです。最近知りました。私の場合、本を読んで知識を得るより、古写真から入っていくのです。面白い写真があると、その時代の地図を見て、その時代の他の写真を見つけて、その地域をビジュアル的にイメージするやり方なんです。写真に写っているモノから調べたくなるモノがいっぱい発生したりします。手間がかかります(笑)。絵を描いていたので自然にそうなってしまうんだと思います。文章を読んでもイメージできないんです。あまり本を読むのは好きではないですし…(笑)。
おそらく私のようなやり方で近代史を勉強する方は少ない(?)と思います。本で知識を得るやり方より何十倍も効率が悪いです。たぶん、古い写真が好きなんでしょうね。
( 2008年06月08日 00:15 [Edit] )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
北野病院 & 松坂屋
どちらも少しばかり縁があります
北野病院は 夏休みに実習に入りました
栄養士免許をもらうためには 病院 学校など 実習に行くのです
そのころ 北野病院は脳外科が有名で ベンケーシーみたいな先生はいないかと 台車を押しながら廊下でキョロキョロしていました
近くに関大がありました あそこは2部だったのでしょうか
私の長姉も松坂屋でお式を上げました
私は新しく作ってもらった振袖を着ておとなしく座っていました
そのとき 当時宇宙を飛んだカメラとして人気だった ミノルタのハイマチック7を 父に買って貰いました
松坂屋が日本橋にあったのは覚えています
高島屋が 長堀 これは知りませんでした
私の義兄は 船場 鍛冶屋町の生まれ どうにん小学校でした(漢字知りません)
生きていれば色々なことを聞けたと思いますが 3年前になくなりました
駿河やの羊羹に こんな絵地図を包装に使ったのがあって とっても懐かしがって見ていました
このパノラマ地図を見て思い出しました
( 2008年06月08日 01:08 [Edit] )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
ベンケーシーみたいな先生
>>北野病院は脳外科が有名で ベンケーシーみたいな先生・・・
たぶん現在もいらっしゃると思います。
昨年12月に妻が未破裂脳動脈瘤(破裂するとくも膜下出血)のクリッピング手術というのをしました。
(予防のための手術ですが、頭蓋骨の一部を外し、眼の奥あたりにある脳動脈瘤を長さ7mmのクリップで挟みます)
さいわい、近所の、その道では評価も良く執刀例の多い地元出身の医師が7年前に明石市に開業した脳神経外科病院(自宅から30分)で受けましたが、そのときに大阪で、というより全国でも執刀例が抜きん出ている先生が 北野病院 脳神経外科 におられることを知りました。石川正恒先生ではないでしょうか。
明石の病院では手術の様子を、医師と同じモニタ画面で家族にはリアルタイムで公開したので驚きましたが、数時間の手術の殆どは、最終的には執刀医の1mm単位で動く手先のハサミやメスなど・・・ペーパーテストや偏差値なんか全く関係の無い世界のようにも見えました。
母のときの主治医は、(命の恩人に申し訳ないですが)白衣の下はチノパンの割と若い女医で、言葉使いは完璧なオヤジ言葉・・・ちょうど「友近」のオヤジ芸のときにそっくりでした。
なお末弟が十三在住ですが、1月から北野病院で抗がん剤治療を受けていますが、医師団?を心から信頼しているようです。
つい市電の話から脱線してしまい、すみませんでした。
( 2008年06月08日 13:45 [Edit] )
新之介 | URL | -
ハイマチック7
TOSSYさん
北野病院で実習をされたのですか。
お姉さんが松坂屋で式を挙げたのも何か不思議な感じです。皆さん、いろんなところで繋がっているんですね。
ミノルタのハイマチック7って有名なカメラですよね。
TOSSYさんのカメラ歴の最初がハイマチック7ですか?
なんかかっこいいです(笑)。
( 2008年06月09日 01:26 )
新之介 | URL | -
ベンケーシーみたいな先生
pinboke_planetさん
ベンケーシーみたいな先生がたくさんいてくれたらうれしいですね。
最近は、緊急病院の医師不足とか、小児科や産婦人科の医師不足が問題になってますが、ちょっと不安になってしまいます。医師の世界では、学閥の問題も根強くあると聞きます。なぜそんな問題ばかりおきるんでしょう。不思議です。医師になる目的が変わってしまったのでしょうか。
( 2008年06月09日 01:54 )
カオス | URL | -
大阪市パノラマ地図
新之介さん はじめまして。
いつも拝見していて、新之介さんの調査力はすごいですね。
実は大阪市パノラマ地図の現物を見てきました。
何時間見てても飽きないですね。
そういえば、どこかで見たことあると思って探してたら新之介さんのブログに載ってました。
当時の写真と地図をリンクさせているところはいといろ想像できて楽しいです。
( 2008年06月14日 22:36 )
新之介 | URL | u6i4c2k.
大阪市パノラマ地図
カオスさん
見てこられたんですね。
『「東洋のマンチェスター」から「大大阪」へ』展は私も気になっていて、行きたいと思っています。カオスさんのブログで紹介されていますね。面白そう。
「大阪市パノラマ地図」は天神橋筋6丁目の住まいのミュージアム・大阪くらしの今昔館でも見れます。こちらはデカイんです。フロアの床の全面にあるので、歩きながら見れて面白いですよ。機会があればのぞいてみてください。
( 2008年06月15日 13:45 [Edit] )
コメントの投稿