2008年05月26日 08:00
第3代大阪駅改造事業 後編
3代目の駅舎は5階建で、1階、2階は駅施設、3階から5階はホテルとなり、建物の中央部には5階までの吹き抜けが出来る予定でした。昭和11年に工事が着工、しかし、完成した駅舎は当初の設計とは違う建物になっていました。
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昭和12年に基礎工事が完了し、その後躯体工事、鉄骨建方工事、コンクリート工事と進んでいきます。昭和15年5月には2階までが完成し、6月より第3代大阪駅駅舎として使用が始まりました。
その後も工事は進んでいきます。しかし時代は次第に戦争の様相を呈していき、昭和16年12月8日、真珠湾奇襲を契機に太平洋戦争が勃発します。工事は最盛期に入っていましたが、鉄道本省から供出命令が届きます。「工事は中止、4階以上の鉄骨は全部とりはずせ」と。再三にわたって交渉しましたが決着せず、昭和17年にホテル計画を断念、3階以上に組まれた鉄骨を切断、設計は変更され中央部の吹き抜けは軒高22mとして、外壁を取り付け、昭和18年11月に凸型の建物が完成したのです。

「大阪市営交通創業100年」より
仮駅舎(中央の木造)は昭和10年4月に完成、二代目の駅舎はただちに取り壊されます。写真は基礎工事に入ったあたりでしょうか。おそらく、昭和11年頃の写真ではないかと思われます。

「大阪市100年」より
昭和13年頃です。鉄骨が3階辺りまで組まれています。阪急百貨店には大きな軍艦旗が取り付けてあります。戦争の足音が迫ってきています。

「なつかしき大阪」より
昭和11年頃の阪神梅田駅の写真です。この頃から戦争ムードになっていたのでしょうか。「祝大観艦式」とあります。「かんかんしき」とは軍艦のパレードのようなものです。調べると昭和11年10月に神戸沖で行われています。

「大阪駅の歴史」より
第3代大阪駅本屋の完成予想図です。なかなか立派です。

「なつかしき大阪」より
昭和15年に未完成のまま開業した当時の写真です。人が出入りしています。この写真は個人的には大発見なのです。あまり見たことないでしょ。

「大阪駅の歴史」より
これは開業直前の写真かもしれません。まだ「大阪駅」の看板が出ていません。

「なにわ今昔」より
終戦後、昭和20年10月に撮影された写真です。周りの木造の建物は全て焼けています。駅舎を上から見ると切断された鉄骨の後が残っています。

「なにわ今昔」より
空襲の被害の様子がわかります。いくつかの建物が残っているのも分かります。

「なにわ今昔」より
「梅田ヤミ市も整理されたのが戦後まだ4年…」と書かれています。昭和20年代初期の写真でしょうか。

「なつかしき大阪」より
この写真も昭和20年代初期の写真だそうです。横断歩道もまだないようです。右手前の行列はバスを待つ人なのでしょうか。

「大阪市100年」より
昭和25年頃の写真だそうです。少し活気がでてきたのでしょうか。角が交差点だったようですね。阪神と阪急にそれぞれ横断歩道らしきものが見えます。

「大阪市営交通創業100年」より
昭和32年頃の写真です。阪急百貨店の第5期の増築工事が行われています。

「昭和の鉄道情景1」より
昭和38年の写真です。この頃もここが横断歩道だったのですね。地下鉄の入口は今もありますよね。横断歩道をはみ出してる人もいます。大阪らしくてエエ感じです。

「大阪駅の歴史」より
この吹き抜け、昭和50年代に建物が取り壊されているので私も知っているはずなのですが、記憶にありません。

4代目にあたるアクティ大阪は昭和54年着工し、昭和58年4月に開業しています。3代目の時代から残っている建物は大阪中央郵便局ぐらいかな。それもなくなっちゃうんですね。
関連ブログ
『大阪駅周辺いろいろ』 ゴリモンな日々

大阪駅前のビルにもドラマがありそうですね。
(追記)

昔の旭屋書店 「キタ 風土記大阪」より
現在のヒルトンプラザイーストの辺りに旭屋書店がありました。コメントで話題になりましたので追記します。

昭和45年頃 「大阪市100年」より
駅前第1ビルが完成した年です。新阪急ビルはもう出来ていたんですね。阪神百貨店と第一生命ビルが確認できます。駅前に歩道橋が出来ていますね。市電は前年の昭和44年に廃止されています。
※駅前の歩道橋は1963年(昭和38年)に出来たのだそうです。TOSSYさん、ありがとうございます。
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3代目の駅舎は5階建で、1階、2階は駅施設、3階から5階はホテルとなり、建物の中央部には5階までの吹き抜けが出来る予定でした。昭和11年に工事が着工、しかし、完成した駅舎は当初の設計とは違う建物になっていました。
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昭和12年に基礎工事が完了し、その後躯体工事、鉄骨建方工事、コンクリート工事と進んでいきます。昭和15年5月には2階までが完成し、6月より第3代大阪駅駅舎として使用が始まりました。
その後も工事は進んでいきます。しかし時代は次第に戦争の様相を呈していき、昭和16年12月8日、真珠湾奇襲を契機に太平洋戦争が勃発します。工事は最盛期に入っていましたが、鉄道本省から供出命令が届きます。「工事は中止、4階以上の鉄骨は全部とりはずせ」と。再三にわたって交渉しましたが決着せず、昭和17年にホテル計画を断念、3階以上に組まれた鉄骨を切断、設計は変更され中央部の吹き抜けは軒高22mとして、外壁を取り付け、昭和18年11月に凸型の建物が完成したのです。

「大阪市営交通創業100年」より
仮駅舎(中央の木造)は昭和10年4月に完成、二代目の駅舎はただちに取り壊されます。写真は基礎工事に入ったあたりでしょうか。おそらく、昭和11年頃の写真ではないかと思われます。

「大阪市100年」より
昭和13年頃です。鉄骨が3階辺りまで組まれています。阪急百貨店には大きな軍艦旗が取り付けてあります。戦争の足音が迫ってきています。

「なつかしき大阪」より
昭和11年頃の阪神梅田駅の写真です。この頃から戦争ムードになっていたのでしょうか。「祝大観艦式」とあります。「かんかんしき」とは軍艦のパレードのようなものです。調べると昭和11年10月に神戸沖で行われています。

「大阪駅の歴史」より
第3代大阪駅本屋の完成予想図です。なかなか立派です。

「なつかしき大阪」より
昭和15年に未完成のまま開業した当時の写真です。人が出入りしています。この写真は個人的には大発見なのです。あまり見たことないでしょ。

「大阪駅の歴史」より
これは開業直前の写真かもしれません。まだ「大阪駅」の看板が出ていません。

「なにわ今昔」より
終戦後、昭和20年10月に撮影された写真です。周りの木造の建物は全て焼けています。駅舎を上から見ると切断された鉄骨の後が残っています。

「なにわ今昔」より
空襲の被害の様子がわかります。いくつかの建物が残っているのも分かります。

「なにわ今昔」より
「梅田ヤミ市も整理されたのが戦後まだ4年…」と書かれています。昭和20年代初期の写真でしょうか。

「なつかしき大阪」より
この写真も昭和20年代初期の写真だそうです。横断歩道もまだないようです。右手前の行列はバスを待つ人なのでしょうか。

「大阪市100年」より
昭和25年頃の写真だそうです。少し活気がでてきたのでしょうか。角が交差点だったようですね。阪神と阪急にそれぞれ横断歩道らしきものが見えます。

「大阪市営交通創業100年」より
昭和32年頃の写真です。阪急百貨店の第5期の増築工事が行われています。

「昭和の鉄道情景1」より
昭和38年の写真です。この頃もここが横断歩道だったのですね。地下鉄の入口は今もありますよね。横断歩道をはみ出してる人もいます。大阪らしくてエエ感じです。

「大阪駅の歴史」より
この吹き抜け、昭和50年代に建物が取り壊されているので私も知っているはずなのですが、記憶にありません。

4代目にあたるアクティ大阪は昭和54年着工し、昭和58年4月に開業しています。3代目の時代から残っている建物は大阪中央郵便局ぐらいかな。それもなくなっちゃうんですね。
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(追記)

昔の旭屋書店 「キタ 風土記大阪」より
現在のヒルトンプラザイーストの辺りに旭屋書店がありました。コメントで話題になりましたので追記します。

昭和45年頃 「大阪市100年」より
駅前第1ビルが完成した年です。新阪急ビルはもう出来ていたんですね。阪神百貨店と第一生命ビルが確認できます。駅前に歩道橋が出来ていますね。市電は前年の昭和44年に廃止されています。
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コメント
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
永久保存版
また長くなってごめんなさい。
・2枚目の写真
恥ずかしながらこの年、大阪駅から1km足らずの後に独立行政法人JASSOの関西国際学友会館となった産院(昭和十二年四月 大阪市立産院概要(大阪市保健部[表紙])にある産院か?)で生まれる。
(昭和31年9月14日 関西国際学友会館(北区北扇町)を開館し、留学生への宿舎提供事業を開始)
・5枚目
戦争の足音が迫り、当時すでに11人の大家族は商売をたたみ、この駅から岐阜長野県境の宿場町〔中央本線落合川駅〕へ民族大移動(甲子園の家をあとにする時のシーンと、落合川駅到着後、ぼくのみ迎えにきた荷馬車に便乗で新居へ向かったシーンはよく覚えているが、大阪駅など途中の記憶は全くなし)
・11枚目
この年大阪圏へ9年ぶりに戻ったので、記憶にある大阪駅周辺はこの写真以降ということになります(まだ市電の阪急東口から大阪駅までの線路がありませんね)
この年の直後には、天六近くでの莫大小製造のほかに・9枚目に写っている闇市あとに現金問屋〔超ミニ・アウトレット?〕も開業していたので、よく十三の中学の同級生と店番の姉を訪ね、すぐ近くの[大阪会館]というレストラン〔グリルかな?〕の食事券をもらってカレーなんかを食べたものです。
・12枚目
十三の高校へ通っていた頃、阪急百貨店のほか、右端にたぶん写っている旭屋書店本店〔入りくんだ木造2階建て?〕へもよく行きましたね。
・13枚目
まさにこのあたりを市電に乗って肥後橋の会社へ通勤しだした頃です。東口の広場のクルマはタクシーと違い一般の車の駐車場で、モータリゼーションの夜明け前?〔9年間行っていた田舎は小説[夜明け前]の舞台の隣村です〕
この頃の大阪駅周辺をGoogle SketchUpで再現したくて、簡単なモデルで準備だけはしているのですが・・・
GoogleSketchUp Memory of UMEDA 1960s
http://www.flickr.com/photos/pinboke/281333697/
>>地下鉄の入口は今もありますよね。横断歩道をはみ出してる人もいます
今回の記事は、まさに[私と大阪駅]というタイトルの永久保存版みたいですが(Googleノートブックに保存しました)、新之介さんの生まれた頃の大阪駅と地下の串かつ屋さんなどです・・・これは「ALWAYS三丁」シリーズのVFXと違い、オールロケの実写です:-)
「家族」より・1970年の梅田と太陽の塔
http://picasaweb.google.com/PINBOKE/1970
山田洋次が五年間温めつづけてきた構想を、日本列島縦断三千キロのロケと一年間という時間をかけて完成した、話題の超大作
スライドショーはこちら〔画像が大きくなりますが、動画が切り替わるときにすこし時間がかかります〕
http://picasaweb.google.com/PINBOKE/1970/photo#s5016820026746751666
( 2008年05月26日 14:37 [Edit] )
ゆきひろ | URL | XoxlQHfE
昭和38年の写真はかすかに私の記憶にあります。
昭和40年頃、大阪駅から少し南に下ったところに今で言うスイーツのカフェがあって(私はそれが不二家であったと今でも信じています)、そこで食べたケーキがこの世のものとは思えないぐらいおいしかった。
そして梅田に戻り、ラジオのサテライトスタジオ(ショーウインドゥのような中に人が座ってしゃべっていた)を眺めたことをはっきり覚えています。
もちろん当時の梅田見物のお約束として、阪急百貨店のおもちゃ売り場を覗いてから大食堂で福神漬けが添えられたカレーライスを食べたことは言うまでもありません。
それは年に一度あるか無いかの大イベントであり、精一杯よそいきの服を着た”ハレ”の一日でしたね。
頭の中にあるそれらの記憶はすべて白黒で色は付いていません。
現在では感じられることの少なくなった、ささやかでもあとともに、とても大きな”家族の幸せ”の記憶です。
私は今、自分の子供にそんな記憶を残してあげているのかな?
自分自身の楽しみばかり追い求めているような気もします。
( 2008年05月26日 23:03 [Edit] )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
焼け野原
本当に何もないですね
母が 大阪駅のところから 高島屋がみえたんよといっていました
私の知り合いは大阪駅のすぐそばにすんでいまして あの阪神のところの地下道に逃げ込んで助かったと行っていました
今はその場所には丸ビルが建っています
大阪駅前広場は 年末になると帰省客であふれ 大きなテントが立てられていました
新幹線開業前ですね
開業してしばらくはまだ東京大阪だけだから 大阪駅は込んでいて テントがあったかしれませんが・・
40年代初め 大阪駅前で銀色に輝くロールスロイスを見ました
あまりにも見たことのない車だったのでわざわざ近づいて あのボンネットのところについている飾りを確認してきましたよ
旭や書店の近くに電器やがありました 父親が買い物に行くのに良くついていっていました
そのあたりの裏手には餃子のみんみん
ゆきひろさんのコメントに出てくるサテスタ懐かしいです 阪神百貨店のところにありました 昭和40年代初めです 万博の前ですね
安達治彦さんが出ていました
売り出し前の末広まきこも 出ていました
家に帰るのは 東口(御堂筋出口)のガード下からバスに乗っていました
( 2008年05月27日 02:12 [Edit] )
新之介 | URL | -
この映画は必見
pinboke_planet様
長いコメントは大歓迎です。
またまたたくさんのことを知りました。
旭屋書店がこの場所にあったのですか。
ヒルトンプラザの場所ですね。
大阪駅前のビル群の地域の今昔は、
知ってるようで知らない地帯なんです。
いつか知りたいと思っています。
『「家族」より・1970年の梅田と太陽の塔』は
なつかしい。こんな映画があったのですね。
私が幼稚園の頃です。賠償さんの子供と同じくらいかな。
万博ははっきりと覚えてます。
この映画は必見ですね。
( 2008年05月27日 11:08 )
新之介 | URL | -
みんな同じ記憶
ゆきひろ様
今も新阪急ビルの地下に不二家のレストランがありますよ。ビルができる前に不二家があったのではないでしょうか。
この世のものとは思えないぐらいおいしかったモノって
今は感じれなくなりましたね。確かに子供の頃はそんな食べ物がいくつかあったような気がします。
阪急百貨店の屋上は私も記憶に残っています。
大食堂に入ったのも子供の頃だし、私もちゃんとした格好で行ってたと思います。みんな同じような記憶が残っている阪急百貨店ってやっぱりすごい!
と、ゆきひろさんのコメントを読んで思いました。
( 2008年05月27日 11:23 )
新之介 | URL | -
大阪駅前にテント?
TOSSY様
大阪駅の辺りから、高島屋が見えたのは確かでしょうね。戦争に無関心だったのに、このブログを通していろいろ知ったので、戦争についても知ろうかと思っています。
大阪駅前広場にテントですか。そこで寝るんですよね。でも、年末といえば寒いですよ。今では考えられない風景ですね。
TOSSYさんからも旭屋書店がでてきましたね。あの角は旭屋のイメージが強かったんですね。サテライトスタジオは覚えていないのですが、阪急百貨店と阪神百貨店の両方にあったみたいですね。
( 2008年05月27日 12:04 )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
テント
大阪駅のテントは 個人がテントを立ててというのではなく 大てんとを国鉄が用意して そこで切符を取るのに並んだのか時間まちをしたのか・・
とにかく年末になると出来ていまして NEWSの歳末風景として 報道されていました
阪急のサテスタ 知らないですが 昭和30年ごろ 民放が発足したとき 百貨店の8階に「新日本放送」が出来ました
そこで あの 有名な番組「漫才学校」の公開録音をお昼にしていました
並んでスタジオにはいって 見ていました
校長先生は 都 蝶々 こづかいさんが 男前の雄さん 東京進出する前の森光子さん ダイラケ 秋田Aちゃん Bちゃん 出ていました
新日本放送の社長秘書か何かをしていたのが司 葉子さんで スカウトされたと聞きました
森光子さんは其の頃 子供から見てお姉さんという年齢ではなかったので いつっまでもおきれいなのにびっくりします
不二家といえば 梅田にお店があったかどうかはしりません
十三の西改札を出てところ 坂口の靴やの隣だかにありました
販売だけですが イチゴのショートケーキ とっても美味しくて 大好きでした
でも しょっちゅうは買ってはもらえなかったです
( 2008年05月27日 13:48 [Edit] )
新之介 | URL | u6i4c2k.
漫才学校
TOSSY様
大阪駅のテントは歳末風景だったんですね。いつか写真に出会えそうです。
新日本放送とま毎日放送のことのようですね。
「漫才学校」、名前だけは聞いたことがあります。
伝説の番組ですね。
公開録音だったんですか。
出演者もそうそうたる人たちですね。
森光子さんが大阪出身だったのは知りませんでした。
十三の駅前の不二家はなくなちゃいました。
例のゴタゴタで。残念です。
( 2008年05月28日 00:01 [Edit] )
increscentmoon | URL | -
はじめまして
何時も楽しく読ませて頂いています。
十三や塚本のローカルな話題(これも楽しい)だとロムはできてもなかなかコメントにまでは参加できないという方もおられると思いますが、梅田と阪急の事なら沿線の方百人が百人、いろんな思い出は尽きないのではないでしょうか。
>大食堂に入ったのも子供の頃だし、私もちゃんとした格好で行ってたと思います。みんな同じような記憶が残っている阪急百貨店ってやっぱりすごい! (新之介さん)
まったく同感です。親、子、孫同じ思い出が共有できるなんて本当に素晴らしい。建替え絶対反対です。今更いくら言っても無駄でしょうが・・・
( 2008年05月28日 07:06 )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
回想法の実践?
2年ほど前に東芝のサイトで「回想法」を知り↓
http://care.toshiba.co.jp/care/cmane/c_kenkyu/ke002_01.htm
むかしの写真を見ると、積極的に関連した情景などを思い浮かべるにしていますが、何十年も前のことを突然思い出したりして、自分でも驚くこともあり楽しいものです。
新之介さんのブログは、そんな意味でも毎回見るのが楽しみで、コメント欄でも、まったく忘れていた大阪駅の歳末の風物詩、白い帆布の大テントのある光景を思い出させてくれます。
( 2008年05月28日 11:12 [Edit] )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
森光子さん
京都出身です
たしか 鞍馬天狗の 嵐 寛寿郎のいとこだったかな
いとこでは年齢が変 ということで姪と言うことにして 戦前に映画デビューされたのです
戦後結核で闘病されて 直って少し宝塚新芸座におられました
それから 東京進出です
阪急百貨店の屋上で 小さな電車に乗っている写真が出てきました
密着の小さな小さなプリントです
送りましょうか?
( 2008年05月28日 12:07 [Edit] )
新之介 | URL | -
同じ思い出。
increscentmoon様
コメントありがとうございます。
多くの人の思い出がつまった建物がなくなるのは寂しいですね。
『旧阪急梅田駅コンコースを残したい・・』
http://blog.livedoor.jp/hankyu13/
ここには同じおもいの人達が集まっています。
阪急ファンを裏切らない、新しい阪急百貨店ができることを期待しています。
ブログを見ていただいている方が増えるとローカルな情報を書くのは気が引けるのですが、そんなローカル情報こそ価値があるんじゃないかなぁと思っています。十三や塚本だけでなく、その他の地域にも興味があるんです。福島とか海老江とか…。でもローカルネタはアクセスが減ってしまったりするんです…(笑)
( 2008年05月28日 13:36 )
新之介 | URL | -
回想法
pinboke_planet様
回想法はなかなか面白いですね。
私自身はブログを続けていくうちに、書き込まれるコメントに価値を見出しました。本を読むだけではわからないことを、皆さん教えてくださいます。私のブログでコメント覧を多く取っているのは、それを広く読んでいただきたいからです。
作っている私にも、見ていただいてる方にも価値があるブログが理想形かもしれません。それは、エリアを広げすぎてもだめなんだろうと思います。回想法もそうだと思いますが、ある程度のローカルさが大事なんだと思っています。
( 2008年05月28日 14:13 )
新之介 | URL | -
森光子さん
TOSSY様
嵐 寛寿郎さんのいとことはまたまたすごい情報を。
嵐 寛寿郎さんはかろうじて覚えています。子供の頃によくテレビで見ました。往年の大スターとして。私たちが見てた頃は、もうよぼよぼのおじいちゃんでしたが、頑固そうなイメージがあります。
阪急百貨店の屋上での写真、見てみたいです。
送っていただいていいですか?
紹介してもいいのでしょうか?
( 2008年05月28日 14:26 )
increscentmoon | URL | -
びっくり捕物帳
新之助さん、こんばんは。早速RES頂き有難うございました。
もりみっちゃんが京都生まれということ、申し上げようと思いましたが、tossyさんに先を越されてしまいました(笑)。少し前日経の看板記事「私の履歴書」にご自分で詳しく書いておられたので御存知の方も多いと思います。私もたいへん面白く読みました。
小さい頃、もりみっちゃんとダイラケの競演したテレビ創世期のOTV(大阪テレビ)の人気番組「びっくり捕物帳」収録のスタジオを見学に行ったことも覚えています。でもOTVの場所は記憶にありません。いまネットで少し調べてみますと堂島にあったようですが、朝日会館の近くだったのかな?
他のサイトで、「様付けはご勘弁」という方が多いので勝手ながら「さん付け」で統一しています。私も「さん付け」でお願いします。失礼お許しの程。
( 2008年05月28日 18:57 )
新之介 | URL | u6i4c2k.
さん付けに統一しようかな
increscentmoonさん
森光子さんの「私の履歴書」は読んでみたいです。すごい方ですね。
あの「びっくり捕物帳」の収録を見られたというのもすごい!朝日会館は私たちはもう知らないのですが
調べてみたい建物のひとつです。
「様付け」はそろそろ「さん付け」に統一しようと思っていて、きっかけを探していたのです。ご指摘がいいきっかけになりました。
( 2008年05月28日 21:31 [Edit] )
increscentmoon | URL | -
旭屋書店
新之介さん、こんばんは。重ねてRES有難うございました。
>旭屋書店がこの場所にあったのですか。(新之介さん)
新之介さんは、私よりずっとお若いのに、昔の事に非常にお詳しく(みなさんと同様に)いつも感心して読ませて頂いておりますが、旧の旭屋書店は御存知なかったようですね。
子供の頃が昭和40年代とのコメントをお見かけしましたが、その頃には別館の二階へ登ると床がぎしぎしなる木造のお店がまだ盛業だったと思います。十三からですと40年代半ばに出来た紀伊国屋に行く手を阻まれてしまったのでしょうか。
旭屋は大阪キタ一番の書店として大阪人としては子供心にも誇らしい気持ちでしたが、紀伊国屋の大阪出店でなにやら東京に負けたような気がして少しその気分が殺がれました。しかし紀伊国屋梅田店がその当時売り場面積日本一とのことを知ってからは、東京出自は大目に見て紀伊国屋が大阪の新しい誇りとなったような気がしました。
余談ですが、ネットで検索しますと、旭屋書店の創業は1946年。創業者はこれも大阪ゆかりのサンケイ新聞の初代社長だったそうです。戦後派なんですね。戦前からの老舗だとばかり思っていましたが、私の年齢とほとんど変わりません(笑)。
大阪のミナミには駿々堂をはじめとして歴史の古い店があったと思いますが、そうすると戦前のキタの書籍一番店はどこだったのでしょうかね。
追伸)前回お名前の漢字を誤記してしまいました。失礼お詫びします。
( 2008年05月30日 18:40 )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
旭屋書店の早島社長
義兄の親友でしたが、先日姉との電話で亡くなられたことを知りました。
たぶん偕行社学院小学校(現在の追手門学院の前身・名前の通り陸軍系で戦前は西の学習院といわれたとか・赤い線の縁取制服や、虎柄のストッキングと背嚢風、毛皮?のランドセル・1年生から編み上げ靴はユニーク)からの同級生だと思います。
サンケイ新聞との関係は知りませんが(サンケイ創業は前田氏と思っていました)、現在の本店の場所、もしくは至近距離に、ぼくの高校時代は同級生の田村書店という3-4階建ての店が1950年代にはありました。
(同一場所かどうかの確認はしていません)
我が家は兄弟が多いので、偕行社は5人行っていまして、兄の一人も早島氏と同級生(つまり義兄は同級生の妹と結婚したことになります)、長兄は大阪駅前一帯の大地主・両吉本氏と同級生、特にマルビル社長のケチ本氏は親友だそうですよ。
( 2008年05月30日 21:29 [Edit] )
新之介 | URL | u6i4c2k.
昔の旭屋書店
increscentmoonさん
そういえば、テレビのニュースで旭屋書店が大きく取り上げられていたことを思い出しました。ちょうど移転か新ビルが出来た時だったのかもしれません。大阪にとっては大ニュースだったんでしょうね。
昔の旭屋書店の写真を追記しました。画像はきれいではないですが、まだ市電らしきものが写っています。
( 2008年05月30日 23:54 [Edit] )
新之介 | URL | u6i4c2k.
私も繋がっている?
pinboke_planetさん
早島氏、吉本氏と間接的に繋がっているとはすごいですね。私も両方の方と間接的に繋がっていると思わせていただきます(笑)
1970年頃の駅前の写真を追記しました。
田村書店はもうなくなっているのでしょうか。
( 2008年05月31日 00:34 [Edit] )
increscentmoon | URL | -
Re:旭屋書店の早島社長
pinboke_planetさん、おはようございます。RES有難うございました。
>サンケイ新聞との関係は知りませんが(サンケイ創業は前田氏と思っていました)、現在の本店の場所、もしくは至近距離に、ぼくの高校時代は同級生の田村書店という3-4階建ての店が1950年代にはありました。(pinboke_planetさん)
あいまいな事を書いてたいへん失礼しました。
産経新聞はご指摘の通り前田さんの創業ですが、創業以来度々社名を変更していますね。その最たるものが昭和17年の戦時下における大統合でこの時現在の社名に通じる「産業経済新聞」と改名して、いわゆる全国紙として名乗りをあげたと理解しています。
早嶋喜一さんは、その統合「産業経済新聞」の社長を務められました(初代かどうかはネットで確認できませんでした)。偕行社に通っておられたのは、喜一さんの息子さんの健さん(旭屋二代目社長)ではないでしょうか。
「田村書店」の情報有難うございました。偕行社が西の学習院といわれていたとのお話も興味深く読ませていただきました。これからもいろいろご教示下さいますようよろしくお願い申し上げます。
( 2008年05月31日 06:50 )
increscentmoon | URL | -
旭屋の写真
新之介さん、おはようございます。RES有難うございました。
早速のお写真掲載有難うございました。大阪駅側からみますと阪神百貨店と第一生命ビルが焼け跡のボロ隠しになっていた当時の風景を思い出しました。
>田村書店はもうなくなっているのでしょうか。(新之介さん)
これもネットで検索してみました。
「大阪・田村書店は全国の書店のなかで特別上位の大手ではないが、その存在感はピカイチ」という同業界人のコメントが出てきました。場所は変わっているかと思いますがご健在のようですね。
( 2008年05月31日 07:08 )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
旭屋
盛り上がっていますね
大阪駅前一帯の地主は 吉本さんで 立ち退いてもらうのに長いこと法廷闘争をしていたように記憶しています
先の書き込みで 空襲のとき 地下道に逃げて助かった知り合いのことを書きましたが 吉本さんの一族に連なる子でした
おじいちゃんが駅前の地主だと聞いていました
丸ビルの吉本さんを新家(しんけ)といっていたように覚えています
大阪駅前に歩道橋が誕生したのは1963年だそうです
( 2008年06月01日 07:00 [Edit] )
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
兄に聞いた両吉本家のこと
以前、[ヴァーチャル大阪]などのSeaGate氏のブログの「ヒルトン大阪」(旧旭屋書店本店の場所あたり)の記事を見て
http://pub.ne.jp/seagate/?entry_id=670043
長兄に急ぎ確認したときのメモがnet上に残っていました。↓
(また、TOSSYさんのコメントのように、両吉本家の戦後の歴史は、居住者との長い裁判の歴史でもあったようで、晴彦氏の担当弁護士も同級生同士だとよく兄から聞きました)
>>吉本ビルは本家、マルビルの晴彦氏は分家の関係で
いまは直接関係は無いみたいです。よく間違えられるそうです。
兄は、旧制中学の山岳部でどちらも知っているそうです。
晴彦氏は小学校以来の友人だそうです。
本家の吉本五郎右衛門氏と弟の晴巳氏が旧制北野中学の54期生です。(兄五郎右衛門氏は2年ほど留年、どちらも山岳部です)
なお、同じ54期の故吉本泰典(たいすけ)氏が、兄の話ではお笑いの方の吉本家だそうです。
五郎右衛門家と吉本泰典家は関係は無いそうです。
分家の晴彦氏は偕行社学院小学校(現在の追手門学院)、豊中中学、同志社のようです。
五郎右衛門氏は北野中学の教師3人ほどに、タダ(または同然)で貸家を提供していたのに、留年させた、当時の北野中学はそんな校風だったそうです。
参考(2002年)
http://www.rikuryo.or.jp/famous/187.html
( 2008年06月01日 11:24 [Edit] )
新之介 | URL | u6i4c2k.
駅前ビル
increscentmoonさん
当時の大阪駅前周辺はみなさんの思い出がつまった場所なのだと感じました。大きなビルとその背後のごちゃごちゃした感じが良かったんでしょうね。今のビル群は外からはきれいになってしまいました。でも駅前ビルの地階にはごちゃごちゃ感が残っていますね。結構好きです。
( 2008年06月02日 01:33 [Edit] )
新之介 | URL | u6i4c2k.
テレビの知ってるつもり?!
TOSSYさん
吉本晴彦さんはもちろん知っていたのですが、知ってるつもりの人で、よくは知りませんでした。
で、当のご本人さんは、テレビの「知ってるつもり?!」でドケチ伝説「吉本晴彦」として取り上げられていたんですね。
http://www.ntv.co.jp/shitteru/next_oa/011209.html
ストーリーを読んでいるだけで、この方のすごさを感じ取れました。
( 2008年06月02日 02:05 [Edit] )
新之介 | URL | u6i4c2k.
両吉本家のこと
pinboke_planetさん
マルビルの吉本晴彦さんと吉本ビルは漠然と違うんだろうなぁと思っていたのですが、両家の関係がよくわかりました。
皆さんのコメントから、駅前のごちゃごちゃしていた土地が、ビル群に変わっていく背景が見えてきたような気がします。それに、北野高校とも関係してくるんですね。いろんなものが繋がっている面白さも感じました。
( 2008年06月02日 02:29 [Edit] )
Empizzo | URL | X/aoCwEI
建物のアイデンティティ
車では道を走っていて自車と同じ車種のそれが眼に入ると独特な違和感を感じるものです。
客観的に見ていても、同じ車が相前後していると「ありゃりゃ。」と思ったりします。
建物の場合はまず、そういうことはありません。
一部にツインタワーのようにはじめから「ふたご」ビルとしている場合は別ですが・・・。
で、大阪駅を含む、梅田のビルを歴史的に見ていますと、
写真ではもちろん、自分で実際に見ての印象をホールドしているものなのだ、とあらためて思います。
つまり、同じものはほぼない特徴が認識の根拠となります。
そのビル独特な形態や規模、窓の特質、ビルの配色などのデザイン。
それらが数多くの人々に「アイデンティティ」として認識され、
都市景観の重要なイメージパーツとなっているように思います。
三代目大阪駅は私にとっても「オリンピックの表彰台」の形としてイメージされています。
新阪急ビルは阪神デパートとセットになって
御堂筋の「へ」の字ラインに合わせた壁面ライン、
そして階層ラインを強調した、時代的にはたいへんモダンなデザインとしてイメージされています。
そういう意味で見ていきますと、中央郵便局は最長のイメージホールドを
今なお人々に与えているのですから、建て替えはある意味人のイメージの破壊(訣別)にもなるのかな、と思います。
( 2010年08月16日 22:15 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
Empizzoさん
なるほど、確かに。
大阪中央郵便局の建替え、どのようなビルになるのでしょう。
オリエンタルランドが入るはずがなくなり、
建ててもテナントが集まるかどうか…
いまだに着工のめどがたっていないようですね。
でも、このまま突き進むのでしょう。
後戻りしてあのまま使い続けてもいいのに。
( 2010年08月27日 12:13 [Edit] )
たけした | URL | zQHIT1rU
大阪駅前ラジオ店
今日は たけしたです。 楽しく読ませてもらっています。
旭屋書店そばの電気屋さんは 大阪駅前ラジオ店ですわ。
電子部品も売ってました~~ 当時は 阪神百貨店にも
電気部品とか ヒノデのゲルマラジオのキットなど売っていました。
大阪駅前ラジオ店は桜橋に移転していまでもありますよ。
これからも楽しくよせてもらいますので~~
昭和29年生まれ 此花区
( 2012年06月14日 11:53 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
たけしたさん
へ~、ラジオ店ですか。
まだお店があるというのがすごい。
探してみようかな…
( 2012年06月24日 19:00 [Edit] )
たけした | URL | zQHIT1rU
数年前にはまだありました~~それから行っていませんのでなんとも~~
桜橋から少し南下した西側だったと思います。是非に~
( 2012年07月02日 16:33 [Edit] )
kotaro | URL | 8nGiSIKA
大阪駅前ラジオ店
まだ残っていると思います。場所は四ツ橋筋の桜橋交差点南、歩道の西側で、ドーチカの地下街から旧三和銀行のATMを通り過ぎ最初に地上に出る階段を上がったところ。第一生命の横から移転して来たのはいつ頃だろう。
あとこのスレッド初めて読みました。
旭屋書店に産経学園のパンフが置いてあった理由も初めて判りました。
公職追放で追われたあとに書店を開業されたようなので、現社史の中で殆ど語られていないのは残念です。
マルビルにあった大阪コンピュートサインも産経関連の会社のひとつでした。
ラジオ大阪、サンケイホール、サンケイパーラー、桜橋に一つに固まっていた頃には、朝日、毎日に負けないようなカンパニーパワーと新聞社村をひとつ形成していて、勢いがあった頃が懐かしいです。
( 2012年07月04日 11:03 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
たけしたさん
桜橋交差点のちかくにそれらしい店がありました!
駅ビルの下でも同じような店がありました。
関係があるのかな?
kotaroさん
なるほど、あの辺りはサンケイ村だったんだ。
そういわれるとたしかに。
面白い。
( 2012年07月17日 15:36 [Edit] )
たけした | URL | zQHIT1rU
駅ビル下にもあるのですかぁ?? それは知りませんでした~~
桜橋のお店は移転してきた~ ってきいたような記憶があります~~
( 2012年07月18日 17:41 [Edit] )
新之介 | URL | sDz630us
たけしたさん
第4ビルの地下の駅前ラジオフォーラムって
ぜんぜん関係がないのかな??
( 2012年07月18日 22:46 [Edit] )
たけした | URL | zQHIT1rU
おはようございます、
桜橋のお店はたしか 昔と同じ大阪駅前ラジオ店だったと思います。
( 2012年07月19日 09:44 [Edit] )
まさお | URL | -
疑問なのですが、市電の大阪駅には地下からの出入り口が写っていますが現在は埋められてしまっているのでしょうか?
( 2012年10月25日 16:52 )
新之介 | URL | sDz630us
まさをさん
確かに地下の出入口が写っていますね。
現在も残る地下鉄の出入口とは場所が異なっていそうなので
なくなってしまったのでしょうね。
地下の天井をめくれば遺構が残っているかも ^^
( 2012年11月10日 14:19 [Edit] )
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( 2020年10月07日 20:55 )
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