2008年
04月18日
(金曜日)
2代目大阪駅
2代目大阪駅は石の駅
明治7年に大阪〜神戸間が開通し、明治10年には京都〜神戸が開通しました。明治22年には東海道線が全通し、新橋〜神戸間が繋がります。当初はごく限られた人だけしか利用していなかった鉄道も徐々に運賃が安くなり、東海道線全通を機に利用者が爆発的に増えていくことになります。初代大阪駅はだんだん手狭になってきました。
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第2代大阪駅の建設工事は明治29年6月に着工し、明治34年7月1日に関連施設も含めて完成しました。初代の駅から約200メートル東に移動した場所で、ほぼ現在と同じ場所になります。初代がレンガ造りであったのに対して、2代目は石造りで豪壮な洋館でした。元あった出入橋付近は貨物専用区域となり、明治32年7月には初代駅舎は取り壊されてしまいます。明治7年に開業して以来「梅田のすてんしょ」と親しまれた駅舎は、25年の歴史に幕を閉じました。第2代大阪駅は、当時の日本銀行大阪支店、泉布観(せんぶかん)と並んで大阪の三名所といわれ、汽車見物がてら人がたくさん集まってきたようです。

「写された大阪ー近代100年のあゆみ」より
明治34年、完成直後の写真です。駅前がまだ整備されていません。洋風建築で表は石で造られ、内部はレンガと木材を主建材としてつくられました。木材もヒノキとケヤキの立派な木材を使用していたようです。

「写された大阪ー近代100年のあゆみ」より
2代目大阪駅の構内。左のホームが下り、右が上りです。右の建物は助役派出所だそうで、図面をみるとトイレがあったようです。

「ふるさとの想い出 写真集」より
手前の列車は貨物のようです。当時は貨物車と旅客車は同じ線路を走っていたようですね。右端を見ると民家が見えます。

「ふるさとの想い出 写真集」より
上の写真もそうなのですが、どこから撮影されているのでしょうね。

「ふるさとの想い出 写真集」より
右端に市電が見えます。歩いている人の服装に時代を感じます。電柱の上の方がクルッてなっています。

「ふるさとの想い出 写真集」より
手前の道は舗装がされていませんね。雨の後はぐちゃぐちゃになったんじゃないかな。手前の木は街路樹でしょうか。道の真ん中にあるような気もしますが、ええカタチをしてますね。

「大阪市の100年」より
人力車がいっぱい並んでいます。人力車は大阪で発明されたようです。秋葉大助商店によって製造されていたようで、「大助車」とも言っていたようです。

「ふるさとの想い出 写真集」より
まだ箕面有馬電気鉄道は開通していない時代の写真でしょうか。アサヒビールの看板が目立っていますね。

「大阪市100年」より
駅前にたくさんあった人力車が自動車に変わっています。おそらく昭和の初め頃ではないでしょうか。3代目大阪駅の歴史的な大工事が始まる直前の時代ですね。

「大阪駅の歴史」より
明治32年の上棟式の写真です。記念撮影のようですね。足場にたくさんの人が見えます。
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明治7年に大阪〜神戸間が開通し、明治10年には京都〜神戸が開通しました。明治22年には東海道線が全通し、新橋〜神戸間が繋がります。当初はごく限られた人だけしか利用していなかった鉄道も徐々に運賃が安くなり、東海道線全通を機に利用者が爆発的に増えていくことになります。初代大阪駅はだんだん手狭になってきました。
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第2代大阪駅の建設工事は明治29年6月に着工し、明治34年7月1日に関連施設も含めて完成しました。初代の駅から約200メートル東に移動した場所で、ほぼ現在と同じ場所になります。初代がレンガ造りであったのに対して、2代目は石造りで豪壮な洋館でした。元あった出入橋付近は貨物専用区域となり、明治32年7月には初代駅舎は取り壊されてしまいます。明治7年に開業して以来「梅田のすてんしょ」と親しまれた駅舎は、25年の歴史に幕を閉じました。第2代大阪駅は、当時の日本銀行大阪支店、泉布観(せんぶかん)と並んで大阪の三名所といわれ、汽車見物がてら人がたくさん集まってきたようです。

「写された大阪ー近代100年のあゆみ」より
明治34年、完成直後の写真です。駅前がまだ整備されていません。洋風建築で表は石で造られ、内部はレンガと木材を主建材としてつくられました。木材もヒノキとケヤキの立派な木材を使用していたようです。

「写された大阪ー近代100年のあゆみ」より
2代目大阪駅の構内。左のホームが下り、右が上りです。右の建物は助役派出所だそうで、図面をみるとトイレがあったようです。

「ふるさとの想い出 写真集」より
手前の列車は貨物のようです。当時は貨物車と旅客車は同じ線路を走っていたようですね。右端を見ると民家が見えます。

「ふるさとの想い出 写真集」より
上の写真もそうなのですが、どこから撮影されているのでしょうね。

「ふるさとの想い出 写真集」より
右端に市電が見えます。歩いている人の服装に時代を感じます。電柱の上の方がクルッてなっています。

「ふるさとの想い出 写真集」より
手前の道は舗装がされていませんね。雨の後はぐちゃぐちゃになったんじゃないかな。手前の木は街路樹でしょうか。道の真ん中にあるような気もしますが、ええカタチをしてますね。

「大阪市の100年」より
人力車がいっぱい並んでいます。

「ふるさとの想い出 写真集」より
まだ箕面有馬電気鉄道は開通していない時代の写真でしょうか。アサヒビールの看板が目立っていますね。

「大阪市100年」より
駅前にたくさんあった人力車が自動車に変わっています。おそらく昭和の初め頃ではないでしょうか。3代目大阪駅の歴史的な大工事が始まる直前の時代ですね。

「大阪駅の歴史」より
明治32年の上棟式の写真です。記念撮影のようですね。足場にたくさんの人が見えます。
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コメント
どこから撮影されたのか
鉄道写真撮影の一般的手法から見て、2枚とも信号機の上から撮影されたものと思われます。
一般道路に設置されている信号機と違い、鉄道用信号には保守点検用のはしごが固定されており、簡単に登ることができました。
また、信号機によっては、てっぺんに転落防止用の手すりの付いた、作業用のケージまで設けられていることがあります。
上から2枚目の写真に背の高い信号機が2機写っています。
作業用ケージは無いようですが、登って写真撮影することぐらいは出来たと思います。
なお、場所が場所ですので、撮影者は鉄道関係者あるいは特に許可を得た方であると推測されます。
一般道路に設置されている信号機と違い、鉄道用信号には保守点検用のはしごが固定されており、簡単に登ることができました。
また、信号機によっては、てっぺんに転落防止用の手すりの付いた、作業用のケージまで設けられていることがあります。
上から2枚目の写真に背の高い信号機が2機写っています。
作業用ケージは無いようですが、登って写真撮影することぐらいは出来たと思います。
なお、場所が場所ですので、撮影者は鉄道関係者あるいは特に許可を得た方であると推測されます。
立派ですね
2代目大阪駅 立派ですね
今のよりずっといいです 残っていたらなぁとおも射ます
泉布館は残っているのにね
今のよりずっといいです 残っていたらなぁとおも射ます
泉布館は残っているのにね
まったくの偶然ですが、人力車発明の10年後?、横浜からカナダへ送られた女性の乗った人力車とさくらの絵葉書(モノクロ彩色?)をFlickrで見ましたので、ご参考までに
http://www.flickr.com/photos/sherlock77/131084709/
http://www.flickr.com/photos/sherlock77/131084709/
人力車の発明
人力車の発明も奥深いものがあると面白く拝見しました。私も子供時代母が長浜の実家に帰るときに、駅前に待っている人力車で行った事が懐かしく思い出されました。最近は浅草の人力車のパーキングの話題も見ましたが、京都では観光スポットのあちこちで人力車が盛んに走っています。ただ昔私が乗っていた人力車は前に幌があり、風をさえぎり冬など防寒もなされていました。大阪駅の前に客待ちの人力車が並んでいたのは私の生まれるもっと前でしょうが、当時「円タク」といわれたタクシーが並んでいたのはかすかに記憶にあります。因みに大阪駅より十三の自宅まで1円だったようです。市内どこへ行っても1円の円タクだから当たり前ですね(笑)
人力車の発明
pinboke_planet 様
人力車の発明のサイトを拝見しました。
参考にした本には大阪で明治4年3月に発明されたと書いてありました。ホームページをみると東京では明治3年3月に出願と書いてあります。一年差ですね。ご指摘ありがとうございました。昔の大阪駅の写真には人力車がよく写っています。きっと末澤産業の人力車だと思いながらいつも見ています。Flickrの人力車の写真、きれいですね。
人力車の発明のサイトを拝見しました。
参考にした本には大阪で明治4年3月に発明されたと書いてありました。ホームページをみると東京では明治3年3月に出願と書いてあります。一年差ですね。ご指摘ありがとうございました。昔の大阪駅の写真には人力車がよく写っています。きっと末澤産業の人力車だと思いながらいつも見ています。Flickrの人力車の写真、きれいですね。
撮影場所
今津っ子様
コメントありがとうございます。なるほど信号機ですか。すっきりしました。それにしてもお詳しいですね。
今津っ子様のサイトも見させていただきました。街道も道標も私もすごく関心があるので面白くなっていきそうですね。特に街道を歩くは大変興味があります。
これからもよろしくお願いします。
コメントありがとうございます。なるほど信号機ですか。すっきりしました。それにしてもお詳しいですね。
今津っ子様のサイトも見させていただきました。街道も道標も私もすごく関心があるので面白くなっていきそうですね。特に街道を歩くは大変興味があります。
これからもよろしくお願いします。
昔の建築
TOSSY様
初代も2代目も寿命は短かったです。ほんとうにもったいないですよね。東京駅を見るたびに大阪駅も残ってたらなぁと思うことがあります。建築としても両方ともいいデザインだと思います。
日本っていつから箱みたいなビルばかり建つようになったんでしょうね。昔の建物はみんな個性的で魅力的に感じます。
初代も2代目も寿命は短かったです。ほんとうにもったいないですよね。東京駅を見るたびに大阪駅も残ってたらなぁと思うことがあります。建築としても両方ともいいデザインだと思います。
日本っていつから箱みたいなビルばかり建つようになったんでしょうね。昔の建物はみんな個性的で魅力的に感じます。
円タク
西岡様
何かで読んだ記憶があるんですが、円タクが出てくるまでは、人力車とタクシーは共存できていたようです。タクシーに乗る人は、ごく限られたお金持ちの人しか乗らなかったのだそうです。しかし、円タクが出てきたことにより、人力車に乗る人が一気に減ってしまいました。いつの時代も、値段が下がった時が新旧の入れ替わるタイミングですね。
西岡様は人力車があった時代に乗っておられるのですね。すごいなぁ。
何かで読んだ記憶があるんですが、円タクが出てくるまでは、人力車とタクシーは共存できていたようです。タクシーに乗る人は、ごく限られたお金持ちの人しか乗らなかったのだそうです。しかし、円タクが出てきたことにより、人力車に乗る人が一気に減ってしまいました。いつの時代も、値段が下がった時が新旧の入れ替わるタイミングですね。
西岡様は人力車があった時代に乗っておられるのですね。すごいなぁ。
街道歩き
サイトをご覧くださりありがとうございます。
十三を通る山田街道も、準備中です。
中国街道と分岐する三差路(「浪花百景」に描かれたの「十三中道」)は、阪急十三駅構内となって消滅していますが、神津神社から十三小学校付近にかけては、ほぼ旧道をたどることができますし、一部には、昔のままの狭いくねくねした道が残っていて、明治の昔をしのびながら歩くことができました。
ところで、こちらのブログで時々引用されている「大阪圖 、明治5年」は、なかなか貴重な地図で、よく発掘されたなと感心しております。
私も資料として参照したいと思っております。
発行者などの情報をご教示いただけませんでしょうか。
また、閲覧できる図書館等がありましたら、併せてお教えいただければ助かります。
よろしくお願いいたします。
十三を通る山田街道も、準備中です。
中国街道と分岐する三差路(「浪花百景」に描かれたの「十三中道」)は、阪急十三駅構内となって消滅していますが、神津神社から十三小学校付近にかけては、ほぼ旧道をたどることができますし、一部には、昔のままの狭いくねくねした道が残っていて、明治の昔をしのびながら歩くことができました。
ところで、こちらのブログで時々引用されている「大阪圖 、明治5年」は、なかなか貴重な地図で、よく発掘されたなと感心しております。
私も資料として参照したいと思っております。
発行者などの情報をご教示いただけませんでしょうか。
また、閲覧できる図書館等がありましたら、併せてお教えいただければ助かります。
よろしくお願いいたします。
楽しみです。
今津っ子様
十三周辺を歩かれたのですね。
「山田街道」ができるのが楽しみです。
「十三中道」の「中道」とは三差路のことだったんですか。
知りませんでした。
ということは、十三駅構内辺りではないのではないでしょうか。
昔は旧中津川の南岸が十三でした。今は新淀川の下に沈んでいます。
三差路で思いつくのは、下三番(中津)の辺りで十三の渡しへ行く道(中国街道)と新橋の渡しに行く道(能勢街道)に分かれる所があります。
街道のことはあまり詳しくないのですが、そこが思い浮かびました。
「落語と十三と菜の花」のページに下三番の辺りまでのっている地図がありますので、参照いただけたらと思います。
参考
「落語と十三と菜の花」
http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-66.html
地図のデータベースはこちらです。
国際日本文化研究センター
http://www.nichibun.ac.jp/
トップページから左メニューのデータベースをクリック。
↓
データベースのページで
「所蔵地図データベース」 を探してクリック
↓
データベース検索画面ボタンを押してデータを検索してみてください。
年代別や地域別で閲覧できます。
十三周辺を歩かれたのですね。
「山田街道」ができるのが楽しみです。
「十三中道」の「中道」とは三差路のことだったんですか。
知りませんでした。
ということは、十三駅構内辺りではないのではないでしょうか。
昔は旧中津川の南岸が十三でした。今は新淀川の下に沈んでいます。
三差路で思いつくのは、下三番(中津)の辺りで十三の渡しへ行く道(中国街道)と新橋の渡しに行く道(能勢街道)に分かれる所があります。
街道のことはあまり詳しくないのですが、そこが思い浮かびました。
「落語と十三と菜の花」のページに下三番の辺りまでのっている地図がありますので、参照いただけたらと思います。
参考
「落語と十三と菜の花」
http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-66.html
地図のデータベースはこちらです。
国際日本文化研究センター
http://www.nichibun.ac.jp/
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↓
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「所蔵地図データベース」 を探してクリック
↓
データベース検索画面ボタンを押してデータを検索してみてください。
年代別や地域別で閲覧できます。
十三中道
「大阪圖」情報ありがとうございました。
活用させていただきます。
「中道」は現在では死語となっていますが、かつては様々な意味に使われていたようです。
「十三中道」の場合、十三の中央を通る道とも解釈できますし、単に十三を通る街道の意味にもとれます
従って、中国街道の十三付近のことを指すのか、中津川北岸の三差路で分岐する山田街道あるいは、中津川南岸で中国街道に合流する山田街道を指すのか判然としません。
ただ、いずれにせよ、下三番の三差路は「十三中道」とは関係ないと思われます。
それは、下三番で中国街道で分かれ、新橋で中津川を渡るルートは明治6年の新橋架橋から、新淀川開削に伴う新橋の撤去までの約30年だけ能勢街道(池田街道)として機能していたに過ぎないからです。
街道調べをされる方々がよく参照される「大阪府誌」が刊行されたのは、ちょうどこの期間に当たりますので、このルートのみが能勢街道であると思われがちですが、江戸時代には下三番から中津川までの道は整備されておらず、十三の渡しを通る方がメインでした。
それは、落語「池田の猪買い」で、「十三の渡し、三国の渡し、渡しを二つ越えて・・・」とあることによっても知ることができますし、江戸時代の各種の絵図にもそのように描かれています。
また、十三大橋架橋以後、再び神津神社前を通る山田街道が実質的な能勢街道(大正9年の道路法施行以後は「府県道大阪池田線」)となりました。
中国街道と山田街道の分岐する三差路が現在の十三駅構内であると書きましたが、その理由を2つ挙げさせていただきます。
一つは、明治大正期の地形図との対照です。
明治期の2万分の1地形図では道がかなり太く描かれていますので、現在の地図との正確な対照は困難ですが、幸い大正10年測量の1万分の1地形図にもこの三差路が残っており、こちらの方で、ほぼ確実な地点を知ることができます。
http://image.blog.livedoor.jp/imazukko/imgs/0/4/0410e9d4.jpg
もう一つ理由は、三差路にあったと思われる道標です。
「右服部池田能勢、左神崎久々知伊丹」とあり、現在は池田文庫に保管されていますが、かつては十三駅構内にありました。
少し長文になり、申し訳ございませんでした。
活用させていただきます。
「中道」は現在では死語となっていますが、かつては様々な意味に使われていたようです。
「十三中道」の場合、十三の中央を通る道とも解釈できますし、単に十三を通る街道の意味にもとれます
従って、中国街道の十三付近のことを指すのか、中津川北岸の三差路で分岐する山田街道あるいは、中津川南岸で中国街道に合流する山田街道を指すのか判然としません。
ただ、いずれにせよ、下三番の三差路は「十三中道」とは関係ないと思われます。
それは、下三番で中国街道で分かれ、新橋で中津川を渡るルートは明治6年の新橋架橋から、新淀川開削に伴う新橋の撤去までの約30年だけ能勢街道(池田街道)として機能していたに過ぎないからです。
街道調べをされる方々がよく参照される「大阪府誌」が刊行されたのは、ちょうどこの期間に当たりますので、このルートのみが能勢街道であると思われがちですが、江戸時代には下三番から中津川までの道は整備されておらず、十三の渡しを通る方がメインでした。
それは、落語「池田の猪買い」で、「十三の渡し、三国の渡し、渡しを二つ越えて・・・」とあることによっても知ることができますし、江戸時代の各種の絵図にもそのように描かれています。
また、十三大橋架橋以後、再び神津神社前を通る山田街道が実質的な能勢街道(大正9年の道路法施行以後は「府県道大阪池田線」)となりました。
中国街道と山田街道の分岐する三差路が現在の十三駅構内であると書きましたが、その理由を2つ挙げさせていただきます。
一つは、明治大正期の地形図との対照です。
明治期の2万分の1地形図では道がかなり太く描かれていますので、現在の地図との正確な対照は困難ですが、幸い大正10年測量の1万分の1地形図にもこの三差路が残っており、こちらの方で、ほぼ確実な地点を知ることができます。
http://image.blog.livedoor.jp/imazukko/imgs/0/4/0410e9d4.jpg
もう一つ理由は、三差路にあったと思われる道標です。
「右服部池田能勢、左神崎久々知伊丹」とあり、現在は池田文庫に保管されていますが、かつては十三駅構内にありました。
少し長文になり、申し訳ございませんでした。
わかりやすかったです
今津っ子様
たいへんわかりやすいご説明でした。
ありがとうございます。
私は明治18年測量の地図をよく使っているので、その地図のルートをみて能勢街道を勘違いしていました。確かに十三の渡しの上流は本庄の渡しになりますから、新橋が新しいことに気づくべきでした。
十三駅構内と書かれている場所も私の勘違いでした。画像にある三差路の場所は現在の十三駅の場所から離れています。おそらく十三駅構内にあった道標は昔あった旧十三駅の場所だと思います。
ちなみに同じような画像を私も作っています。
http://blog-imgs-12.fc2.com/a/t/a/atamatote/20071125220839.jpg
「消えた中津川4 木川篇」で使った画像です。
今津っ子様のコメントはたいへん勉強になります。これからもお気づきのことがありましたら教えてください。
たいへんわかりやすいご説明でした。
ありがとうございます。
私は明治18年測量の地図をよく使っているので、その地図のルートをみて能勢街道を勘違いしていました。確かに十三の渡しの上流は本庄の渡しになりますから、新橋が新しいことに気づくべきでした。
十三駅構内と書かれている場所も私の勘違いでした。画像にある三差路の場所は現在の十三駅の場所から離れています。おそらく十三駅構内にあった道標は昔あった旧十三駅の場所だと思います。
ちなみに同じような画像を私も作っています。
http://blog-imgs-12.fc2.com/a/t/a/atamatote/20071125220839.jpg
「消えた中津川4 木川篇」で使った画像です。
今津っ子様のコメントはたいへん勉強になります。これからもお気づきのことがありましたら教えてください。
十三駅構内
「阪神電車ができた頃1」、楽しく読ませていただきました。「2」「3」と続くようですので楽しみにしております。
ところで、三叉路の位置を私が単に「十三駅構内」と書いてしまったので、混乱を招いてしまったようで申し訳ございません。
「駅構内」と言えばホームや改札、駅舎等がある部分のみをイメージされるかもしれませんが、十三駅の場合、淀川北岸の道路手前まで全てが駅構内ですので、三叉路の位置を「十三駅構内」とした次第です。
なお、余談ですが、三叉路のあった付近は、つい数年前まで神戸線所属の電車が正雀の工場に回送される際の折返し線として使用されていました。
ところが、淀川北岸の道路拡張のために、折返し線の南端が短縮されたために折り返しが不可能になってしまいました。
そこで、神戸線中津駅の梅田寄りにポイントを新設し、神戸線車両は梅田駅の宝塚線ホームに入って折返し、十三駅ホーム手前で京都線線路に移動して正雀に向かうよう変更されました。
なんとも中途半端な場所にポイントがあるのは、このような事情のためです。
阪急にご乗車の際は、是非この中津駅の梅田寄りのポイントをご確認ください。
ところで、三叉路の位置を私が単に「十三駅構内」と書いてしまったので、混乱を招いてしまったようで申し訳ございません。
「駅構内」と言えばホームや改札、駅舎等がある部分のみをイメージされるかもしれませんが、十三駅の場合、淀川北岸の道路手前まで全てが駅構内ですので、三叉路の位置を「十三駅構内」とした次第です。
なお、余談ですが、三叉路のあった付近は、つい数年前まで神戸線所属の電車が正雀の工場に回送される際の折返し線として使用されていました。
ところが、淀川北岸の道路拡張のために、折返し線の南端が短縮されたために折り返しが不可能になってしまいました。
そこで、神戸線中津駅の梅田寄りにポイントを新設し、神戸線車両は梅田駅の宝塚線ホームに入って折返し、十三駅ホーム手前で京都線線路に移動して正雀に向かうよう変更されました。
なんとも中途半端な場所にポイントがあるのは、このような事情のためです。
阪急にご乗車の際は、是非この中津駅の梅田寄りのポイントをご確認ください。
三叉路の写真
今津っ子様
コメントありがとうございます。
確認しておきます。
この三叉路の戦前の写真があります。
山田街道のご参考になればいいのですが…。
http://blog-imgs-21.fc2.com/a/t/a/atamatote/sansaro_20080503011449.jpg
昭和30年頃の写真はこちらです。
http://blog-imgs-12.fc2.com/a/t/a/atamatote/20071006235728.jpg
画質はあまりよくないですが…。
コメントありがとうございます。
確認しておきます。
この三叉路の戦前の写真があります。
山田街道のご参考になればいいのですが…。
http://blog-imgs-21.fc2.com/a/t/a/atamatote/sansaro_20080503011449.jpg
昭和30年頃の写真はこちらです。
http://blog-imgs-12.fc2.com/a/t/a/atamatote/20071006235728.jpg
画質はあまりよくないですが…。
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特に関心があった訳ではないのですが、《初代大阪駅の場所》(03/03)でコメントさせていただきしましたように、たまたま知っている会社の社史から人力車は横浜で発明されたものと漠然と思っていました。
諸説あるようですが、人力車の発展に秋葉大助商店が大きな役割を果たしたことは間違いないようですね。
・末澤産業社史
明治42年 「北の大火」により、現在の本社所在地に移転この頃、警察において剣術指南役であった末澤平次郎が、横浜で発明された人力車の大阪導入にあたり、特認置場組合初代組合長となる。
・くるま屋日本橋より
人力車の発明
http://www.kurumayanihonbashi.com/rekishi/hatsumei.html
人力車の製造 秋葉大助の貢献
http://www.kurumayanihonbashi.com/rekishi/seizou.html
わたしの父は、2代目大阪駅の上棟と完成の間、ちょうど明治33年(1900年)生まれ、その10数年後に名古屋から上阪、ほぼこれらの写真と同じ光景の地に降り立ったと思うと、やはり感慨深いものがあります。