十三のいま昔を歩こう

梅田の街と十三(じゅうそう)の町を中心に、大阪の近代史を歩く歴史ブログです。

2008年

04月08日

(火曜日)

キタの大火-天満焼け

キタの大火-天満焼け

けたたましい半鐘と叫び声に、弥之助少年は明け方の夢を破られた。表へ飛び出すと、東の空が真っ赤に燃えている。明治42年7月31日午前4時頃、北区空心町2の70、メリヤス製造販売業玉田庄太郎方から出た火は、連日の炎天で空気がカラカラになったところへ、10メートル前後の東風に煽られて西へと燃え広がった。「百年の大阪」より

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午前11時30分頃、火は第一防火線とされていた、天満堀川に達しました。しかし、その両岸にある竹屋が川中に差し出していた竹竿をつたって火は西岸に移ってしまいます。その後、火は西天満小学校を焼き、北区役所、北警察署、そして大阪控訴院をも火焔につつみました。火は第二防火線の梅田新道も突破、午後8時30分頃に蜆橋が焼け落ちたそうです。堂島浜通から堂島米穀取引所、曽根崎新地を焼き、第三防火線である緑橋筋(堂島掘割付近)も越え、福島に入りました。福島中の天神石垣から福島紡績の高塀に至ってようやく鎮火。時に8月1日午前4時、猛火は一昼夜にわたったそうです。

taika_map05.jpg
上は大火による焼失区画 「北区誌」より
下は明治44年製版の測量地図です。かなりの広範囲で焼けたのが分かります。

taika_map04.jpg
現在地図(Googleマップ)とも重ねてみました。大体の目安程度で見てください。

taika01.jpg
心斎橋から見た様子 「浪速写真館」より
古写真のコレクターとして有名な上田貞治郎氏の店の屋根の上から撮影されています。午前10時頃だそうです。不気味な黒煙です。煙が大きく西へ流れています。東から西に流れる風がかなり強かったことが想像できます。

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大阪控訴院 「なにわ今昔」より
堂島川に避難のため住民が家財道具を持って集まって来ています。炎が背後まで迫ってきています。

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大阪控訴院と地裁 「明治大正図誌」より
延焼する直前でしょうか。大阪控訴院はこの大火で焼失しています。

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大江橋付近を非難する住民 「大阪市100年」より

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淀屋橋から見た様子 「大阪市100年」より
中之島越しに天満方面から煙がでています。まだ、堂島まで火がきていません。まさか、堂島まで火が達するとは誰が想像していたでしょう。

taika08.jpg
非難する住民 「なにわ今昔」より
右の建物は焼け跡でしょうか、それとも建築中でしょうか。路面電車の線路が見えます。四ツ橋筋かもしれません。 

taika06.jpg
焼け跡を走る電車。 「明治大正図誌」より
おそらく大火の数日たった後かもしれません。

taika07.jpg
これも大火の後です。土蔵だけがぽつぽつと残りました 「なにわ今昔」より
火事になると土蔵の扉を泥か、なければぬかみそでめばりをするそうです。していないと、中が黒焦げになる場合もあったのだそうです。 

taika09.jpg
蜆川下流の焼失前の非難舟 「なにわ今昔」より
この大火で蜆川を舟で非難できた人は少なかったようです。家財道具を舟に積んで脱出しようとする多数の舟が、下流部で鉢合わせして動かなくなってのだそうです。先を争って命からがら逃げ出したと記されています。この写真はその後の様子でしょうか。その後、蜆川の上流部は焼け跡の瓦礫で埋め立てられられることになります。 

sizimi_panorama.jpg
大正12年頃の大阪を描いた「大阪パノラマ地図」
蜆川の上流部が埋め立てられています。この大火がきっかけで堂島新地と曽根崎新地が合わさり、北の新地と呼ばれるようになりました。

taika_map03.jpg
今回気づいた事がひとつあります。この地図は明治44年製版の測量地図ですが、赤い線の左と右で測量年が異なっています。左側が明治42年に測量されているのですが、大火の後のようです。建物がぽつぽつとあるだけです。もしかすると焼け残った土蔵の跡かもしれません。


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コメント

莫大小製造販売業

>>メリヤス製造販売業
たぶん当時なら[莫大小製造販売業]と表記されたのではと思います。
こどものころ、実家がメリヤス屋(・・・同業者のことをこう呼んでいました)でして、「丸八莫大小工業株式会社」という木製墨描きの表札?が、工場のやはり木製黒塗りの大きな門に懸かっていました。
丸八は父の出身地名古屋の市章から採ったものと思います。
父は明治33年生まれなので、「キタの大火」当時はまだ大阪へ出てきていなかったと思いますが、数年後に来阪、生涯「莫大小製造販売業」を北区本庄東で営んでいました。
なので、こどもの頃からやはり名古屋出身の母から、済生会病院を寄付した同業の先人・嘉門さんのことを何度も聞かされて育ちました。
両親の目標であり、最も尊敬していたのが嘉門さん夫婦ではなかったかなと思います。

追記:上田貞治郎と上田安子

実家のある一区画には、現在も長兄・次兄・弟・叔母たちが居住していますが、いま、このブログから、ぼくにとっては大変なことが分りました。

>>上田貞治郎の娘に大阪のファッション・デザイナーの先駆けで、服飾専門学校(上田安子服飾専門学校)の経営でも成功し、山崎豊子の小説『女の勲章』の主人公のモデルになった、上田安子がいる。(上田竹翁Wikipediaより)

長兄が大学(現在の大阪市立大学)山岳部時代に部員たちと出入りしていたのが上田写真機店のようです。そこへ手伝いにきていた上田安子さんと山岳部の連中が親しくなって、それ以来親交が深まったようです。山崎豊子さんは上田安子さんの友達で、どちらもたぶん山好きだったのでしょう。
詳しくは長兄に電話して、上田貞治郎氏のこともゆっくり聞いてみたいと思っています。

メモ
http://blog.livedoor.jp/enethan_fan/archives/50319006.html

追記:上田安子さんのこと

上田安子さんと、ぼくの長兄や姉とのメモはこちらでした・・・ご参考までに
メモ
http://blog.livedoor.jp/enethan_fan/archives/50311621.html

上田安子さん

pinboke_planet 様

メリヤスは「莫大小」と書くんですね。
モスリンも「毛斯倫」と書いていましたね。
なんとなくいい感じです。

嘉門長蔵氏はお名前だけはよく見ます。
立派な方ですね。
いつかちゃんと調べてみようと思っています。

上田貞治郎氏の娘さんが
上田安子さんということは知っていましたが、
pinboke_planetさんと間接的に繋がっておられたのですね。
面白いですね。
上田貞治郎氏のコレクションはすばらしいです。
そのコレクションは大阪市立大学でアーカイブ化されています。
それも縁でしょうか。

http://ucrc.lit.osaka-cu.ac.jp/photograph/jsp/index1.jsp

(※申請し許可が下り、パスワードを発行してもらわないと閲覧できません)

凄い火事ですね

北野火事といえば 私の知ってるのは 昭和30年代と40年代はじめの東通商店街の火事
喫茶MOKOや田園が燃えました

私の母親は 福島の玉川町の生まれです
このときはまだ生まれていませんでしたが 玉川町までは火は行かなかったのでしょうね
もし燃えていれば生まれる前のことでも 親からでも聞いて何か話していたと思います

玉川の手前

TOSSY様

お母様のお生まれは玉川ですか。
野田藤で有名なところですね。
火事は玉川の手前で止まりました。
なので、福島・玉川周辺は古いものが残っています。
歴史のある地域なので、今後うろうろしていく予定です。
お母様も見られたであろう藤の花を
私も見に行きたいと思っていたところです。
5月初旬らしいですよ。


野田藤

今も野田藤は 咲くのでしょうか
それなら私もちょっと行ってみたいですね

母が友だちの家に遊びに行くのについていったのです

母は いつも 玉川町のことを 野田の船場といっていました
あのあたりでは一番いいところだったと自慢していました
松下幸之助氏の工場も近くにあったのです
母の兄弟は そこに勤めていました
そして 幸之助氏をおやっさんと呼んでいたそうです
後のサンヨー社長の井植歳男氏は 歳やん だったそうです

野田藤

TOSSY様

野田藤に関して勉強中ですが、一度戦争で消失しています。しかし、昭和40年代から徐々に植えだし、今では町のあちらこちらで見られます。早いのはもう咲きだしていますよ。どの場所がいいのかは私もわかりませんので、公園をいくつか回ろうかと思っています。

野田は松下電器産業のルーツの町でもありますね。通りから一筋はいったところに大きな石碑がありました。野田周辺は道路を一歩中に入ると道がくねくねしているんです。昔からの道が残ってるんですね。すきな町です。

上田貞治郎コレクション

 上田貞治郎や上田安子の存命中のエピソードをご存知の方がいらっしゃるのですね。私は貞治郎の弟竹翁の曾孫にあたるものです。貞治郎の孫順一さんも存じあげていますよ。
 上田学園は、大丸の井狩社長の御子孫が経営されているんですね。。井狩さんの奥さんはたしか貞治郎の母方、野々村家の出身の人だと順一さんにうかがいました。

 上田家の人たちは、登山好きな人が多いです。竹翁の息子竹三さんも山岳写真を撮ったカメラマンでした。毎日新聞に勤めていました。ここでも、繋がりが色々見えてきますね。私の弟も学生時代はワンダーフォーゲルに夢中になっていました。

 貞治郎の写真コレクションには、かなり弟の竹翁も関与しています。写真に記された文字を見ると、筆跡が曽祖父のものと似ているように思います。検討の余地があるところですね。

 上田貞治郎や上田安子について、面白いエピソードが分かったら、是非おしえてください。

 

上田安子さんのこと

1940年代の10年間ほど、大家族の我が家は父が開拓中の高原の農場の住居のほかに、麓の岐阜県・旧中山道落合宿の脇本陣の大きな建屋を借りて自宅として暮らしていました。

戦後間もない1947年頃、大学山岳部時代からの縁で、長兄は上田さんの学校の理事かなにか役員はしていましたが、上田安子さんは学校の先生・生徒さんたちと何度か脇本陣に泊まられたのを子供ごころに覚えています(当時わたしは小学生)。

当時は米を持参しないと、旅館にも宿泊できなかったこともあって、上高地などへの往路や帰路に調法されたようです。

物資も極端に不足していて、その頃地元の女学校へ入学した姉は、上田安子さんに採寸・作っていただいた型紙で作った、学校中でただ一人紺のセーラー服とパンツ姿(スカートは禁止?)で登校したのですが、校長に呼び出され、パンツの裾にゴムを入れてくるように言われたそうです(もんぺのイメージでしょうか・・・)。

姉は、卒業するとすぐに上田安子さんの学校へ入るため来阪しましたが、一度も授業料を払っていないそうです。(長兄も姉も大阪および近郊でまだ元気で、セーラー服のはなしは今日はじめて聞きました・・・セーラー服姿の写真はアルバムで見たことがありますが・・・)

上田貞治郎さんと上田安子さん

竹孫様
コメントありがとうございます。
竹翁さんの曾孫にあたるのですね。立派なおじい様ですね。
私自身は上田貞治郎さんや上田安子さんのエピソードは知らないのですが、貞治郎さんのコレクションの大ファンです。おじい様もそのコレクションに関係されていたのですね。おそらく、今後もこのブログで上田貞次郎コレクションを紹介させていただくことがあるかもしれません。今後ともよろしくお願いいたします。

pinboke_planet様
上田安子さんのエピソードをありがとうございました。

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新之介

Author:新之介
塚本と十三で育つ。
196X年生れ。大阪の歴史をわかりやすく伝える方法を研究中。
若い人達にも関心を持ってもらえるように、大阪の近代史を面白く伝えていきます。
目指すは『一分で読める歴史ブログ』。

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