2008年04月02日 03:00
消えた北の新地・蜆川 2
北新地は「キタシンチ」ではないのだそうです。「キタノシンチ」と読むのが正しいそうですが、現在では「キタシンチ」が一般的で、JRの駅も「キタシンチ」となっていますね。
続きを読む前にクリック。→ [人気ブログランキング]
いつもクリック ありがとうございます。
北新地は元々、蜆川を挟んで、堂島新地と曽根崎新地があり、遊女を置く茶屋を中心とした花街として栄えていました。しかし、明治42年(1909)に北の大火で焼け野原になり、その瓦礫で蜆川を埋め立て、地域の名称も北新地と一本化したのだそうです。その頃には、芸妓を抱えるお茶屋が中心の街になっていました。舞妓さんや芸妓さんというと、京都をイメージしてしまいますが、北新地もそんな場所でした。当時は芸者さんが千五百人もいたのだそうです。

明治時代の蜆川の写真 「なにわ今昔」より
蜆川の写真として象徴的に使われている写真です。おそらくこの写真しか残っていないのかもしれません。両側に茶屋が並んでいます。この場所はどこでしょうか。川の向こうが左に曲がっていますね。曽根崎橋から西方面を見ているのかな。

明治19年の地図です。
蜆川十橋といって十ヶ所に橋が架かっていました。曽根崎心中や心中天の網島でも、これらの橋の名前がたくみにとりいれられているそうです。そろそろ一度見てみようかな…。

明治時代の大江橋と難波小橋 「大阪市100年」より
難波小橋の所が蜆川に入口です。

ちなみに大江橋から写してみました。川の入口は当然ありません。変わりすぎてイメージできません…。

明治時代の蜆川の流末 「ふるさとの想い出 写真集 大阪」より
これはどの辺りでしょうね。左側は飲食店が並んでいます。汐津橋か淨正橋の辺りでしょうか。

明治時代の桜橋界隈 「ふるさとの想い出 写真集 大阪」より
手前が桜橋ですね。向こうは大阪駅方面でしょうか。右下の子供が気になります。「一人でうろうろしたら迷子になんで!」

昭和初期の曽根崎新地本通り 「古写真なにわ風景」より
街灯が格子をあしらっていて花街らしい雰囲気ですね。お金持ちそうな車が走っています。

「おおさか水辺の風景」より
昭和14年頃に撮影された石碑です。曽根崎橋跡の碑、緑橋跡の碑、汐津橋跡の碑です。現在はどれも残っていません。

「おおさか水辺の風景」より
蜆川には北から小規模な溝川が流れ込んでいて、そこに架けられていたのが梅之橋と松之橋です。梅之橋は浪花百景付都名所の錦絵にも描かれています。

曽根崎心中が初演されたのは、1703年です。大阪人は誰もが知っているタイトルですが、そのストーリーはどれだけの方が知っているのでしょうね。ちなみに私は知りません。どこで見れるんでしょう?
(追記)

「おおさか100年」より
大正11年の梅田橋付近の写真です。この時代、上流はすでに埋め立てられています。
(追記)

浄正橋の石碑です。探していたのですが、なぜか今まで見つけることができませんでした。向こうに朝日放送の新社屋が見えますね。こんな目立つところにあったとは…
(関連記事)
『消えた北の新地・蜆川 1』
応援よろしくおねがいします→ [人気ブログランキング]
←ここにも参加しています。
北新地は「キタシンチ」ではないのだそうです。「キタノシンチ」と読むのが正しいそうですが、現在では「キタシンチ」が一般的で、JRの駅も「キタシンチ」となっていますね。
続きを読む前にクリック。→ [人気ブログランキング]
いつもクリック ありがとうございます。
北新地は元々、蜆川を挟んで、堂島新地と曽根崎新地があり、遊女を置く茶屋を中心とした花街として栄えていました。しかし、明治42年(1909)に北の大火で焼け野原になり、その瓦礫で蜆川を埋め立て、地域の名称も北新地と一本化したのだそうです。その頃には、芸妓を抱えるお茶屋が中心の街になっていました。舞妓さんや芸妓さんというと、京都をイメージしてしまいますが、北新地もそんな場所でした。当時は芸者さんが千五百人もいたのだそうです。

明治時代の蜆川の写真 「なにわ今昔」より
蜆川の写真として象徴的に使われている写真です。おそらくこの写真しか残っていないのかもしれません。両側に茶屋が並んでいます。この場所はどこでしょうか。川の向こうが左に曲がっていますね。曽根崎橋から西方面を見ているのかな。

明治19年の地図です。
蜆川十橋といって十ヶ所に橋が架かっていました。曽根崎心中や心中天の網島でも、これらの橋の名前がたくみにとりいれられているそうです。そろそろ一度見てみようかな…。

明治時代の大江橋と難波小橋 「大阪市100年」より
難波小橋の所が蜆川に入口です。

ちなみに大江橋から写してみました。川の入口は当然ありません。変わりすぎてイメージできません…。

明治時代の蜆川の流末 「ふるさとの想い出 写真集 大阪」より
これはどの辺りでしょうね。左側は飲食店が並んでいます。汐津橋か淨正橋の辺りでしょうか。

明治時代の桜橋界隈 「ふるさとの想い出 写真集 大阪」より
手前が桜橋ですね。向こうは大阪駅方面でしょうか。右下の子供が気になります。「一人でうろうろしたら迷子になんで!」

昭和初期の曽根崎新地本通り 「古写真なにわ風景」より
街灯が格子をあしらっていて花街らしい雰囲気ですね。お金持ちそうな車が走っています。

「おおさか水辺の風景」より
昭和14年頃に撮影された石碑です。曽根崎橋跡の碑、緑橋跡の碑、汐津橋跡の碑です。現在はどれも残っていません。

「おおさか水辺の風景」より
蜆川には北から小規模な溝川が流れ込んでいて、そこに架けられていたのが梅之橋と松之橋です。梅之橋は浪花百景付都名所の錦絵にも描かれています。

曽根崎心中が初演されたのは、1703年です。大阪人は誰もが知っているタイトルですが、そのストーリーはどれだけの方が知っているのでしょうね。ちなみに私は知りません。どこで見れるんでしょう?
(追記)

「おおさか100年」より
大正11年の梅田橋付近の写真です。この時代、上流はすでに埋め立てられています。
(追記)

浄正橋の石碑です。探していたのですが、なぜか今まで見つけることができませんでした。向こうに朝日放送の新社屋が見えますね。こんな目立つところにあったとは…
(関連記事)
『消えた北の新地・蜆川 1』
応援よろしくおねがいします→ [人気ブログランキング]

スポンサーサイト
コメント
pinboke_planet | URL | EBUSheBA
夜は特に方向音痴なのであまり自信はないのですが、1960年代に、会社の先輩に連れて行ってもらった「カルーセル」という店は、新地本通りとかじゃなく、すこし離れた堂島側だったように思います。
店がはねたあと、タクシーで別の店へ行きましたが、隣に座ったのが後のカルーセル麻紀でした。
次のお店の小さなステージでで彼女は見事な日舞を舞いましたが、かなりあとまで彼女が当時男性だったとは知りませんでした。
( 2008年04月02日 09:29 [Edit] )
新之介 | URL | u6i4c2k.
カルーセル麻紀
pinboke_planet様
カルーセルという店で「麻紀」という名で勤めていたと昔聞いたことがあります。当時のカルーセル麻紀さんは美しかったでしょうね。僕は「ノックは無用」のイメージが強いです。おっさんキャラのカルーセル麻紀さんが好きでしたね。カルーセル麻紀といえば北新地のイメージがあります。
( 2008年04月02日 23:06 [Edit] )
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
カルーセル麻紀さん 北新地にいたのですか
銀座の山口洋子さんのお店戸言うのしか知りませんでした
きれいだったでしょうね
曽根崎心中 お初徳兵衛 名前は知っていますが 内容は 詳しくは知りませんでした
封印切りの 梅川忠兵衛 のほうが有名ですね
25年ほど前に88才で無くなった東区鍛冶屋町に住んでいたおじいちゃんは 引越しは舟でしたのだといっていました
大阪は水の都だったのですね
( 2008年04月03日 21:10 [Edit] )
新之介 | URL | -
はずかしながら
TOSSY様
こんなブログを作っておきながら
曽根崎心中も見たことがないし
梅川忠兵衛もまったく知りません。
大阪にいながら大阪のことをよく知らなかったことに
改めて気づかされました。
このブログがいいきっかけですね。
最近、大阪がさらに好きになってきました。
水の都ってピンとこないですけど
昔のことを知ると、徐々にわかってきますね。
大阪は川が少なくなってしまいました。
( 2008年04月06日 00:18 )
コメントの投稿