2008年03月17日 01:00
梅田北ヤードができる 6
移転先篇
そして誰もいなくなった。
大正末期、大阪駅北側の学校はそれぞれ新天地に移転していきました。まず金蘭会高等女学校が、大正11年2月に浦江に。大手前高等女学校は大正12年4月に大手前へ、そして大阪工業学校は大正14年12月に都島へ移転していきました。
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学生達は、母校の移転についてどのように感じていたのでしょうか。自分たちの学校がなくなる寂しい気持ちを、梅田高等女学校の生徒が綴っています。
「早春の午後。校庭の枯草の上に、私はじっと座っていた。(中略)あゝアカシアも取り去られた。校舎を包んで立っていた枝が、毎日のように切られていく。根を切られた黒い幹が枯草の上に横たわっている。学校はなくなってしまうのだ。私たちが卒業すればこの校舎も程なく壊されるのだろう。いくら大阪一の新しい校舎が建っても、いくらコンクリートの洋館がそびえても、そこに私等の美しい夢を育んでくれた校舎はないのだ。破れた樋、崩れた塀、私はなつかしさにじっと眺めた。短い命の校舎だ。心細い事だ。」
当時の少女の感傷が素直に書かれています。今も昔も母校がなくなってしまうのは、寂しいものですね。

大正12年頃の大阪を描いた「大阪パノラマ地図」
大阪駅北側にあった学校は描かれていません。おそらく校舎はまだ残っていたんじゃないでしょうか。この「大阪パノラマ地図」は、大阪くらしの今昔館に巨大な大きさで見ることができます。フロアの床全面に転写されているので、細かい細部まで見れて面白い場所です。ポスターも販売していました。

全体図です。1は都島工業学校、2は大手前高等女学校、3は北野中学校、4は金蘭会高等女学校です。白い場所は大阪駅の辺りです。

1の市立都島工業学校です。地図には高等工業学校となっています。移転当時の周りは、田畑の中に集落が点在する程度でのんびりした場所だったようです。

2の大手前高等女学校です。近代的な校舎に変わりました。地図にも描かれていますが、当時の写真を見ると、正門前の通りは松の並木道になっています。昔からあった木を切らずに生かしているんじゃないかな。当時はまだ大阪城の天守閣はできていませんでした。

3の北野中学校の辺りです。梅花高等女学校も見えます。明治41年に梅花女学校は北野に移転してきました。大正2年に高等女学校が開設され、大正15年に豊中に移転しています。

4の金蘭会高等女学校の新校舎です。現在の場所です。
こんな所に水路があったみたいですね。現在は埋め立てられて一部はあみだ池筋になったんじゃないかな。
この辺りも学校が多い地域でした。関西商工がある場所は、現在の朝日放送の場所です。大倉商業と合併し、現在は関西大倉中学校・高等学校になっています。
大阪商業は私立大阪商業学校です。現在の大商学園高等学校です。
関西大学は大正時代はここに学舎がありました。
大正11年に千里山学舎も竣工しています。
(関連記事)
『さよなら梅田北ヤード』 2013.11.20
『大阪七墓・梅田墓地について』 2013.09.13
『さよなら梅田貨物駅』 2013.07.24
『梅田貨物駅最後の日を微速度撮影』 2013.03.19
『うめきた・梅北(梅田北ヤード)の歴史』 2011.02.21
『梅田北ヤードができる前 6 移転先篇』 2008.03.17
『梅田北ヤードができる前 5 金蘭女学篇』 2008.03.14
『梅田北ヤードができる前 4 梅田高女篇』 2008.03.12
『梅田北ヤードができる前 3 北野中学篇』 2008.03.09
『梅田北ヤードができる前 2 工業学校篇』 2008.03.06
『梅田北ヤードができる前 1 文教地区篇』 2008.03.05
『大坂七墓巡り(梅田・南浜・葭原)』 2008.10.22
『初代大阪駅の場所』 2008.03.03
『大阪駅ができる前は墓地があった』 2008.03.01
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移転先篇
そして誰もいなくなった。
大正末期、大阪駅北側の学校はそれぞれ新天地に移転していきました。まず金蘭会高等女学校が、大正11年2月に浦江に。大手前高等女学校は大正12年4月に大手前へ、そして大阪工業学校は大正14年12月に都島へ移転していきました。
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学生達は、母校の移転についてどのように感じていたのでしょうか。自分たちの学校がなくなる寂しい気持ちを、梅田高等女学校の生徒が綴っています。
「早春の午後。校庭の枯草の上に、私はじっと座っていた。(中略)あゝアカシアも取り去られた。校舎を包んで立っていた枝が、毎日のように切られていく。根を切られた黒い幹が枯草の上に横たわっている。学校はなくなってしまうのだ。私たちが卒業すればこの校舎も程なく壊されるのだろう。いくら大阪一の新しい校舎が建っても、いくらコンクリートの洋館がそびえても、そこに私等の美しい夢を育んでくれた校舎はないのだ。破れた樋、崩れた塀、私はなつかしさにじっと眺めた。短い命の校舎だ。心細い事だ。」
当時の少女の感傷が素直に書かれています。今も昔も母校がなくなってしまうのは、寂しいものですね。

大正12年頃の大阪を描いた「大阪パノラマ地図」
大阪駅北側にあった学校は描かれていません。おそらく校舎はまだ残っていたんじゃないでしょうか。この「大阪パノラマ地図」は、大阪くらしの今昔館に巨大な大きさで見ることができます。フロアの床全面に転写されているので、細かい細部まで見れて面白い場所です。ポスターも販売していました。

全体図です。1は都島工業学校、2は大手前高等女学校、3は北野中学校、4は金蘭会高等女学校です。白い場所は大阪駅の辺りです。

1の市立都島工業学校です。地図には高等工業学校となっています。移転当時の周りは、田畑の中に集落が点在する程度でのんびりした場所だったようです。

2の大手前高等女学校です。近代的な校舎に変わりました。地図にも描かれていますが、当時の写真を見ると、正門前の通りは松の並木道になっています。昔からあった木を切らずに生かしているんじゃないかな。当時はまだ大阪城の天守閣はできていませんでした。

3の北野中学校の辺りです。梅花高等女学校も見えます。明治41年に梅花女学校は北野に移転してきました。大正2年に高等女学校が開設され、大正15年に豊中に移転しています。

4の金蘭会高等女学校の新校舎です。現在の場所です。
こんな所に水路があったみたいですね。現在は埋め立てられて一部はあみだ池筋になったんじゃないかな。
この辺りも学校が多い地域でした。関西商工がある場所は、現在の朝日放送の場所です。大倉商業と合併し、現在は関西大倉中学校・高等学校になっています。
大阪商業は私立大阪商業学校です。現在の大商学園高等学校です。
関西大学は大正時代はここに学舎がありました。
大正11年に千里山学舎も竣工しています。
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コメント
むくのきやすお | URL | Y512G8yA
大阪パノラマ地図
この「大阪パノラマ地図」はワラヂヤから出されたものですよね?
ワラジヤが倒産する前に復刻版を書店で購入していて、今も持っています。美濃部政治郎という製作者名がクレジットされていて、凄い技術の持ち主(集団?)が居たんだと感心します。
( 2008年03月18日 00:03 [Edit] )
新之介 | URL | -
大阪パノラマ地図
むくのきやすお様
大阪パノラマ地図は精密ですばらしい地図ですね。芸術品だと思います。私は図書館で原物をみました。眺めるたびに新しい発見が有ります。猫間川も描かれていたんですね。美濃部政治郎というお名前まで気づきませんでした。銅版画なんですね。すごいなぁ。
むくのきやすお様も大阪パノラマ地図のことは書かれていますね。ここでご紹介させていただきます。
「猫間川をさがせ」~二軒茶屋の石橋
http://machi.monokatari.jp/muku/item_1916.html
( 2008年03月18日 12:14 )
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