2007年09月17日 00:28
戦争の爪あとが
北野高校の壁面に28箇所の弾丸の跡が残されている。校舎建て替え時も、この壁は「戦争の生き証人」という関係者の強い思いで残された。
空襲による弾痕「旧制北野中学校本館西壁」
太平洋戦争中、大阪は昭和19年12月以降同20年8月15日の終戦までに、50回を超える空襲を受け、多大の惨禍をこうむった。
昭和19年夏には、空襲の危難を避けるため、学童疎開がはじまり、大阪でも国民学校(現在の小学校)の児童たちは地方に疎開して行った。この頃、中学校や高等女学校(現在の高等学校。当時は男女共学生ではない)ではほとんど授業は行われず。生徒たちは軍需工場に動員されたり、食糧増産のため農場で働いたりしていた。旧制北野中学校では、昭和20年6月15日の空襲の際、学校防衛中の生徒2名が亡くなるなど、米軍の空襲により9名の生徒の尊い生命が奪われた。この壁に残る28個の弾痕は、同年7月の空襲によるものといわれ、その直径は平均約30cmあり、機銃掃射の激しさを物語っている。戦後50周年の憶いをこめて、これを残す。


(関連記事)
「北野高校の壁に戦争の爪あとが」2007.09.17
「大阪大空襲と市電」2008.06.08
「大阪大空襲 十三が焼けた日」2008.06.13
「大阪砲兵工廠本館の取り壊し」2009.01.29
「大阪砲兵工廠って?」2009.01.31
「大阪神戸西宮・空襲戦災状況地図」2012.07.11
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コメント
TOSSY | URL | mXJ0wlpU
壁の弾痕
在学中は知りませんでした
校舎が取り壊される前に同窓会をして この壁の前で記念撮影をしました
この壁について記事を書いています
ご覧になってください
大阪大空襲
http://kannnon.blog11.fc2.com/blog-entry-28.html
TBも入れさせてくださいね
この記事は できるだけ多くの人に見ていただきたいのです
( 2007年11月13日 23:58 [Edit] )
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