2022年10月17日 02:30
そもそも登り窯とは何か?

まるで究極のスポーツカー・ブガッティのようなフォルム。これ、滋賀県信楽にある丸又窯。登り窯といえばまず思い浮かぶのがこれです。

登り窯は傾斜地を利用して、「火袋(最下部の薪を入れて燃やす燃焼室)」から焼成室となる「1の間」から上へ2、3、4、5、6とつながった燃成室を上段へ設けた連房式の窯のことをいいます。
燃料は薪で火袋から焙り始め、1の間から順に焼成し、その間が焼き上がると次の間に移り、次々と移って最後の上段まで全て焼成が終わると火止めをして焚き上げます。
登り窯の特徴は大きい物が焼けること、傾斜を利用して下の間の焼成時の余熱を上の間が効率的に利用できることです。
しかし、薪を大量に燃やすことで黒煙公害を起こし、1回燃成するには大量の焼き物を全室に仕組む必要があり、日数を要し回転率が悪いこと。さらに重労働で多くの作業員を必要とし、釉薬や焼成技術などに経験と勘が重要であったことなどもあり、焼き上がりの出来が経営の大きな要素となっていました。
登り窯は粟田焼から
京都で最初に登り窯ができたのは寛永年間(1624〜1643)頃で、粟田口に築かれたようです。その後、粟田焼は京都の代表的な焼き物として粟田神社付近から蹴上にかけて多くの登り窯立ち並びました。

「五条坂に残る粟田口の登り窯―安田家と京都陶磁器合資会社」より
明治 40〜 45年頃の粟田付近の登り窯の分布図を見ると粟田神社付近にたくさん集まっていたことがわかります。

粟田神社参道にある粟田焼発祥之地の碑

粟田神社所蔵の粟田焼
清水焼とは?
東山一帯には、粟田焼の他に、八坂焼、清水焼、音羽焼(五条坂焼)、修学院焼、 御菩薩池焼などが現れます。焼き物が東山の山麓付近に集中したのは、この地域に大阪層群が広範囲に分布していることも理由のひとつかもしれません。大阪層群には複数の粘土層が含まれているため、焼き物に適した粘土が取れたと考えられます。その後18 世紀頃には粟田焼と清水・音羽焼の2つに集約されていきました。
明治維新後、粟田焼は輸出に成功して企業化していきました。明治末から大正初期には粟田焼や清水焼の産地が手狭になり、日吉や泉涌寺にも産地が拡大していきます。ところが昭和初期の世界大恐慌の影響で、輸出に力を入れていた粟田焼が壊滅的な打撃を受け大きく衰退。時代の流れとともに清水焼ブランドだけが残り、現在ではほぼ「京焼=清水焼」という形になっています。
五条坂焼とは?
江戸時代の「五条坂」は、山科に抜ける渋谷街道で発展したエリアでした。
清水寺の音羽の滝を源流とする音羽川が作った自然の谷地形を利用して音羽焼が焼かれ、江戸中期以降に窯が増え始めます。明治末から大正期に日本経済が発展するに伴い京焼の生産も拡大し、音羽川や渋谷街道周辺が手狭になったため、まだ空き地が残されていた五条通りの北側に京都市陶磁器試験場が作られ、その周辺に新しい窯場が形成されていきました。それが五条坂焼の由来になります。

明治中期と明治後期の地図を見比べると、若宮八幡宮社周辺には何もなく、その後一気に建物が増えた様子がわかります。赤い印が、次に紹介する五条坂京焼登り窯(旧藤平)がある場所です。かつて若宮八幡宮社の南側に音羽川が流れておりその周辺が音羽焼の窯場だったようです。

「五条坂の登り窯の変遷と元藤平陶芸所有の登り窯に関する文献紹介」より
明治末期の五条坂周辺の登り窯の分布です。この辺りが京焼の一大生産地であったことがよくわかります。
残された五条坂京焼登り窯(旧藤平)

この巨大な登り窯は「五条坂京焼登り窯(旧藤平)」または「元藤平陶芸登り窯」と呼ばれています。全長19m、前幅5.5m、全高6m、9つの焼成室から成ります。ちなみに新しい木が組まれている部分は、京都市が屋根が崩れないように補強したものだそうです。もう少し登り窯が見える形になるといいのですが…

登り窯は自然地形の傾斜を使うことがほとんどですが、この登り窯は盛り土によって傾斜をつけています。さらに最下部の火袋(胴木間)は下に掘り込まれており、市街地の狭い土地に窯を作るための工夫のようです。

地下に穴を掘って作られた最下部の火袋(胴木間)。中央の穴が空いているところが薪をくべる場所です。

傾斜の方向は西に高く東が低い。地形的には東が山側なので自然地形とは逆方向です。窯が築かれた当初は反対側にももう1基あり、山状に向かい合った連房式登り窯であったようです。

最下部の火袋(胴木間)を地下に作ることでかなりの傾斜角度になっています。

北側に明るい窓が設置された工房。

これはマル呂吸収塔。戦時中はこのようなものも焼いていたようです。

元藤平陶芸登り窯は、明治42年(1989)に、京都陶磁器合資会社が粟田焼の素地を焼成するために築窯して、昭和18年以降は藤平窯業合資会社に所有権が移ったとあります。もともとは粟田口にあった会社が五条坂に登り窯を作る土地を求めてやってきたようです。
※五条坂京焼登り窯(旧藤平)は普段は見学できません。今回は佐野春仁(京都建築専門学校校長)先生と 木立雅朗(立命館大学教授)先生にご案内いただきました。ありがとうございました。
レンガ煙突がある風景

五条坂地区には煙突が残っているところもありますが、登り窯ができた当初は煙突はなく、煤煙問題が発生した頃に設置されたと思われます。ちなみに元藤平の登り窯は保存時に取り壊したそうですが、近くにある河井寛次郎記念館の登り窯には煙突がありません。オリジナルのままなのかも。

煙突がある風景は五条坂の懐かしい風景になっているようですね。そんな風景も昭和46年(1971)の京都府大気汚染防止条例施行により登り窯が使用禁止になるとそのほとんどがなくなってしまいました。

「清水焼発祥之地五条坂」の碑がある若宮八幡宮。
窯も美しい河井寛次郎窯

こちらは近くにある河井寛次郎記念館の登り窯。かつての音羽焼のエリアになります。

とても素晴らしい保存状態で登り窯の形もよくわかります。

窯自体も美しい形をしています。

ここから見ると傾斜地の地形を利用して作られていることがよくわかります。方角も東の山側に向かって高くなっています。

室の中の様子。左壁の下部と右壁の少し上がった下部に隙間が空いています。右側の平らな石の上に作品を守るためのサヤを積んで並べます。

細長い敷地が段々になっているのが面白い。

住居部分から一段上がってさらに一段上がってその向こうに登り窯の傾斜地が続きます。いい高低差です。

この猫ちゃん。広い敷地の特等席を独り占めしてまったく動こうとしませんでした。

まるで究極のスポーツカー・ブガッティのようなフォルム。これ、滋賀県信楽にある丸又窯。登り窯といえばまず思い浮かぶのがこれです。

登り窯は傾斜地を利用して、「火袋(最下部の薪を入れて燃やす燃焼室)」から焼成室となる「1の間」から上へ2、3、4、5、6とつながった燃成室を上段へ設けた連房式の窯のことをいいます。
燃料は薪で火袋から焙り始め、1の間から順に焼成し、その間が焼き上がると次の間に移り、次々と移って最後の上段まで全て焼成が終わると火止めをして焚き上げます。
登り窯の特徴は大きい物が焼けること、傾斜を利用して下の間の焼成時の余熱を上の間が効率的に利用できることです。
しかし、薪を大量に燃やすことで黒煙公害を起こし、1回燃成するには大量の焼き物を全室に仕組む必要があり、日数を要し回転率が悪いこと。さらに重労働で多くの作業員を必要とし、釉薬や焼成技術などに経験と勘が重要であったことなどもあり、焼き上がりの出来が経営の大きな要素となっていました。
登り窯は粟田焼から
京都で最初に登り窯ができたのは寛永年間(1624〜1643)頃で、粟田口に築かれたようです。その後、粟田焼は京都の代表的な焼き物として粟田神社付近から蹴上にかけて多くの登り窯立ち並びました。

「五条坂に残る粟田口の登り窯―安田家と京都陶磁器合資会社」より
明治 40〜 45年頃の粟田付近の登り窯の分布図を見ると粟田神社付近にたくさん集まっていたことがわかります。

粟田神社参道にある粟田焼発祥之地の碑

粟田神社所蔵の粟田焼
清水焼とは?
東山一帯には、粟田焼の他に、八坂焼、清水焼、音羽焼(五条坂焼)、修学院焼、 御菩薩池焼などが現れます。焼き物が東山の山麓付近に集中したのは、この地域に大阪層群が広範囲に分布していることも理由のひとつかもしれません。大阪層群には複数の粘土層が含まれているため、焼き物に適した粘土が取れたと考えられます。その後18 世紀頃には粟田焼と清水・音羽焼の2つに集約されていきました。
明治維新後、粟田焼は輸出に成功して企業化していきました。明治末から大正初期には粟田焼や清水焼の産地が手狭になり、日吉や泉涌寺にも産地が拡大していきます。ところが昭和初期の世界大恐慌の影響で、輸出に力を入れていた粟田焼が壊滅的な打撃を受け大きく衰退。時代の流れとともに清水焼ブランドだけが残り、現在ではほぼ「京焼=清水焼」という形になっています。
五条坂焼とは?
江戸時代の「五条坂」は、山科に抜ける渋谷街道で発展したエリアでした。
清水寺の音羽の滝を源流とする音羽川が作った自然の谷地形を利用して音羽焼が焼かれ、江戸中期以降に窯が増え始めます。明治末から大正期に日本経済が発展するに伴い京焼の生産も拡大し、音羽川や渋谷街道周辺が手狭になったため、まだ空き地が残されていた五条通りの北側に京都市陶磁器試験場が作られ、その周辺に新しい窯場が形成されていきました。それが五条坂焼の由来になります。

明治中期と明治後期の地図を見比べると、若宮八幡宮社周辺には何もなく、その後一気に建物が増えた様子がわかります。赤い印が、次に紹介する五条坂京焼登り窯(旧藤平)がある場所です。かつて若宮八幡宮社の南側に音羽川が流れておりその周辺が音羽焼の窯場だったようです。

「五条坂の登り窯の変遷と元藤平陶芸所有の登り窯に関する文献紹介」より
明治末期の五条坂周辺の登り窯の分布です。この辺りが京焼の一大生産地であったことがよくわかります。
残された五条坂京焼登り窯(旧藤平)

この巨大な登り窯は「五条坂京焼登り窯(旧藤平)」または「元藤平陶芸登り窯」と呼ばれています。全長19m、前幅5.5m、全高6m、9つの焼成室から成ります。ちなみに新しい木が組まれている部分は、京都市が屋根が崩れないように補強したものだそうです。もう少し登り窯が見える形になるといいのですが…

登り窯は自然地形の傾斜を使うことがほとんどですが、この登り窯は盛り土によって傾斜をつけています。さらに最下部の火袋(胴木間)は下に掘り込まれており、市街地の狭い土地に窯を作るための工夫のようです。

地下に穴を掘って作られた最下部の火袋(胴木間)。中央の穴が空いているところが薪をくべる場所です。

傾斜の方向は西に高く東が低い。地形的には東が山側なので自然地形とは逆方向です。窯が築かれた当初は反対側にももう1基あり、山状に向かい合った連房式登り窯であったようです。

最下部の火袋(胴木間)を地下に作ることでかなりの傾斜角度になっています。

北側に明るい窓が設置された工房。

これはマル呂吸収塔。戦時中はこのようなものも焼いていたようです。

元藤平陶芸登り窯は、明治42年(1989)に、京都陶磁器合資会社が粟田焼の素地を焼成するために築窯して、昭和18年以降は藤平窯業合資会社に所有権が移ったとあります。もともとは粟田口にあった会社が五条坂に登り窯を作る土地を求めてやってきたようです。
※五条坂京焼登り窯(旧藤平)は普段は見学できません。今回は佐野春仁(京都建築専門学校校長)先生と 木立雅朗(立命館大学教授)先生にご案内いただきました。ありがとうございました。
レンガ煙突がある風景

五条坂地区には煙突が残っているところもありますが、登り窯ができた当初は煙突はなく、煤煙問題が発生した頃に設置されたと思われます。ちなみに元藤平の登り窯は保存時に取り壊したそうですが、近くにある河井寛次郎記念館の登り窯には煙突がありません。オリジナルのままなのかも。

煙突がある風景は五条坂の懐かしい風景になっているようですね。そんな風景も昭和46年(1971)の京都府大気汚染防止条例施行により登り窯が使用禁止になるとそのほとんどがなくなってしまいました。

「清水焼発祥之地五条坂」の碑がある若宮八幡宮。
窯も美しい河井寛次郎窯

こちらは近くにある河井寛次郎記念館の登り窯。かつての音羽焼のエリアになります。

とても素晴らしい保存状態で登り窯の形もよくわかります。

窯自体も美しい形をしています。

ここから見ると傾斜地の地形を利用して作られていることがよくわかります。方角も東の山側に向かって高くなっています。

室の中の様子。左壁の下部と右壁の少し上がった下部に隙間が空いています。右側の平らな石の上に作品を守るためのサヤを積んで並べます。

細長い敷地が段々になっているのが面白い。

住居部分から一段上がってさらに一段上がってその向こうに登り窯の傾斜地が続きます。いい高低差です。

この猫ちゃん。広い敷地の特等席を独り占めしてまったく動こうとしませんでした。
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