2022年05月22日 21:00
This is the 暗越奈良街道!
高麗橋〜深江〜暗峠〜枚岡山展望台〜枚岡神社〜寝屋川

暗越(くらがりごえ)奈良街道は、河内平野を横切り生駒山地を越えて大阪と奈良を結ぶ街道で、暗峠(くらがりとうげ)を越えることからその名が付いています。山越え道は、そのほかにも中垣内越(なかがいとごえ)の古堤(ふるづつみ)街道や、十三(じゅうさん)峠越の十三街道、竜田越(たつたごえ)の竜田越奈良街道、竹内(たけのうち)峠越の竹内街道などがあり、その他にも山越えの道が古くからありました。暗越奈良街道は、奈良時代から利用されてきた古道のひとつですが、江戸時代に脇往還(わきおうかん)として整備され、「河内名所図会」に描かれた暗峠には20軒近くの旅籠や茶店、行き交う人々などで賑わっていた様子が描かれています。今回は起点となる高麗橋から玉造、深江を通って暗峠まで自転車と徒歩で行ってきました。
スーパー地形による全ルートの記録です。総距離約61km、往復約10時間半、高低差約450m。生駒山地の麓までの低地は自転車で、山道は徒歩です。

これが全ルート。地図は1982-1919の今昔マップです。

この時代の地図は集落と旧道がよく記録されているので、街道歩きには欠かせないツールです。

旧大和川の堤防跡もよくわかります。

高麗橋の里程元標跡です。江戸時代の暗越奈良街道の起点は玉造でしたが、明治9年の里程元標設置時に高麗橋東詰へと移されたそうです。

大阪城の大手門です。

日本最古といわれる官道の起点。NHKと大阪歴史博物館がある場所です。

こちらは難波宮の大極殿跡。公園南側の道を東に進むと玉造です。

玉造稲荷神社です。

こちらに伊勢参宮本街道の旅の碑があります。

大阪から伊勢までは約5日間、奈良までは暗越奈良街道が利用されていました。

近くの二軒茶屋は奈良へ向かう街道の入口で、街道の両側に茶店があり旅人などが立ち寄り繁盛していたようで、ここで旅支度を整え見送る人達と別れを惜しんだそうです。

旧街道は大概くねくねとした裏道です。

玉津橋の欄干のところに古地図が。

玉津ハシの文字が大きく書かれています。

暗越奈良街道の立派なモニュメント。

堺屋太一氏がこの道はシルクロードの東の端だと書いておられます。たしかに。

高麗橋から4.9km。

もともと少し離れた北八尾街道との分岐地点にあった道標。

平野川分水路を越えて

脇道へ

深江の入り口です。

街道から外れて旧深江村に立ち寄り。

深江稲荷神社の入り口に「摂津笠縫邑跡」と「深江菅笠ゆかりの地」の碑がありました。大和の古代氏族である笠縫(かさぬい)氏の子孫が古くから移住したところで「菅の里」の別名があり、明治ごろまで近辺のほとんどの人たちが笠づくりに従事していたそうです。

「摂津名所図会」にはお伊勢参りと思われる旅人や菅笠(すげがさ)を買う旅人で賑わっている様子が描かれています。菅笠とは菅(すげ)と呼ばれる植物を加工しそれを編んだ笠で、深江の菅笠は古くは万葉集にも詠まれるほど有名で、今でも天皇の即位の儀式や伊勢神宮の式年遷宮に調進されています。

神社のとなりに深江郷土資料館があり、菅田が復元されていました。

この地域一帯には、菅の田が点在していたようです。

伊勢神宮の式年遷宮の様子ですが、菅御翳(すげのおんさしは)や菅御笠(すげのおんかさ)が描かれています。

菅御翳

菅御笠

実際に式年遷宮で使用したものだそうです。

近くで見るととても丁寧に編まれていてその素晴らしさに感激しました。

放出停車場と枚岡への道標。

御厨の道標。

菱屋東北公園前にある道標。

その斜向かいにある道標。

八剱神社境内にある道標。

菱江にある天保2年(1831)に建てられたおかげ燈籠。

松原宿跡。

街道唯一の宿場として寛永元年(1624)には16軒もの旅籠が賑わっていたようです。明治維新により宿は廃止になりました。

丁字路にある道標。

生駒山地の麓にやってきました。ここから坂道が始まります。

自転車をこぐのがそろそろ限界です。

街道沿いには川が流れています。

なんとか自転車で上がってきたところ。

ここにこんな案内板が。かつて街道沿いになった松尾芭蕉の句碑が山津波で行方不明になり、大正2年に発見されてこちらに移されたようです。

有名な「菊の香にくらがり登る節句かな」の句碑。

椋ヶ根橋横の丘の上。このあたりに自転車を置いて歩いて登っていきます。

見晴らしがいいです。左の高いビルはあべのハルカスですね。

すこし登ったところに芭蕉の句碑がありました。山津波でかつての句碑の行方不明になり明治時代に再建されたものです。

元禄7年(1694年)、病をおして伊賀を発った芭蕉は、旧暦の9月9日、重陽(じゅうよう)の節句、菊の節句とも呼ばれる日に、奈良から暗峠を越えました。その時に詠まれた句が、「菊の香に くらがり登る 節句かな」。この暗峠越えが最後の旅となり、大坂に入って間も無くの10月12日に大阪の南御堂の近くでなくなりました。享年51歳だったとか。

街道から右に入った谷筋に観音寺があります。

狭い通りを奥に行くと

滝があり観音延命の水が沸いています。

案内板には天然ミネラル水と書かれていました。

川は護岸整備されていますが、かつては滝の流れる景観が良かったのでしょう。

さらに登っていきます。

かつて社寺があった場所かもしれませんが、いろいろ祀られています。

急坂の細い道路がずっと続きますがれっきとした国道308号線で、たまに通る車やバイクを横目に息を切らしながら歩くこと約1時間で有名な難所が現れます。

俗に国道であるがそう呼ぶにふさわしくない状態の道を「ひどい」の「酷」の字を使って「酷道」と呼ぶことがありますが、まさに「酷道」と呼ぶにふさわしい場所かもしれません。

下から急坂を登ってくると90度左に回ってすぐに180度右にまわって最後に90度左に曲がるというくねくね道で、しかも最大斜度が37%といわれる急勾配。

直線で結ぶには急勾配過ぎるためにあえて大回りをして道路が通されていると思われますが、この場所ではタイヤが空回りする車が後を絶たず、黒いタイヤ痕が無数にできていいます。

実は歩くには全く問題がない場所で、この場所では人間の方が有利のようです。

暗峠まであと0.6kmです。

するとこんな場所が現れます。

ここは弘法の水が湧いている場所。古代から山道を通る人々の潤いの場所となっていました。

奥にある石柱は鎌倉時代中期の笠塔婆。旅人の安全を祈って建立されたものでしょうか。

水はきれいですが飲まないようにと書かれていました。

左の細い道を進んでいきます。

人家が現れてきました。

坂道も比較的緩やかです。

右手の石柱、

一応、道標です。たぶん。

脇道にすすむとお寺があるみたい。

生駒山地は急峻な山ですが山頂部が比較的緩やかだということがわかります。

何か燈籠が見えてきた。

地蔵尊。

暗越奈良街道と暗峠の案内板です。

やっとたどり着きました。

ここが暗峠。奈良県と大阪府の境界です。

大きな石の刻まれた「暗峠」の文字。暗峠の名前の由来は諸説ありますが、馬に乗って座るための鞍(くら)のような嶺から「鞍ヶ嶺峠」と呼ばれていたものが、木々が生い茂り暗かったことから「暗峠」と呼ばれるようになったといわれています。

石畳が敷かれていますが、かつては大和郡山藩の本陣や旅籠、茶屋などが建ち並んでいました。

石畳は大和郡山藩・柳澤家の本陣があった時に敷かれたといわれています。

そろそろ氷が美味しくなる季節ですね。

信貴生駒スカイラインの下を抜けると、

その向こうには、

奈良盆地が開けています。奥の山地の左側の色が明るい場所は若草山です。

道路の下にはきれいな棚田が広がっています。

さて、戻りますか。

大阪高低差学会のタオルが重宝する季節になりました。

街道の脇に大阪府民の森園地内に入る柵がありますが、横から通れるようになっています。

ここは神津獄休憩所。

すぐ近くに枚岡神社神津嶽本宮へ向かう坂道があります。

丘の上にあるのが枚岡神社の神津嶽本宮(かみつだけほんぐう)。枚岡神社創祀の地です。

古くは柵が設けられた禁足地でしたが、昭和56年に石碑が建てられ平成5年に石の社殿が築かれました。この地は古代の祭祀場跡と考えられる神聖な場所です。

そこから坂道を下っていくと開けた場所が。

枚岡山展望台。

この日は天気が良かったので見晴らし最高!正面に六甲山と左に明石海峡と淡路島。六甲山の手前には上町台地に建つビル群がよく見えます。ちなみに左の高いビルがあべのハルカスです。

さて、枚岡神社まで降りてきました。

社殿は高台の上にあります。

本殿のまわりは、本殿裏から湧き出す湧水で満たされています。

その清らかな水が絶えず流れています。

本殿横の摂社若宮社奥にある出雲井の御神水。

枚岡神社は狛犬ではなく鹿です。鹿で有名な奈良の春日大社は、枚岡神社から二柱の御祭神を勧請されたと伝わり枚岡神社は「元春日」ともいわれています。

さて、広いグランドですが、四方を堤防のような高台で区切られています。

ここは花園多目的遊水地。大雨の時に横を流れる恩智川の洪水を一時的にためて洪水被害を防ぐための施設です。地盤が低く水が流れにくい寝屋川流域にはこのような洪水対策の遊水地が数カ所設けられています。

この石碑は大正4年(1915)に建てられた「贈従五位中甚兵衛翁碑」。

江戸時代中期に大和川付け替えに尽力した中甚兵衛はここ今米村が出身地でした。

すぐ横にある屋敷林は中甚兵衛ゆかりの家と言われています。

貴重な雑木屋敷林は地元のボランティアの方々によって守られています。

水路の交差点である古箕輪。江戸時代の剣先舟は、ここで樋門により水の高さを調整して、各村の井路を通って荷物を運んでいました。

現在の寝屋川です。

この高い防潮堤で市民の暮らしは守られています。
高麗橋〜深江〜暗峠〜枚岡山展望台〜枚岡神社〜寝屋川

暗越(くらがりごえ)奈良街道は、河内平野を横切り生駒山地を越えて大阪と奈良を結ぶ街道で、暗峠(くらがりとうげ)を越えることからその名が付いています。山越え道は、そのほかにも中垣内越(なかがいとごえ)の古堤(ふるづつみ)街道や、十三(じゅうさん)峠越の十三街道、竜田越(たつたごえ)の竜田越奈良街道、竹内(たけのうち)峠越の竹内街道などがあり、その他にも山越えの道が古くからありました。暗越奈良街道は、奈良時代から利用されてきた古道のひとつですが、江戸時代に脇往還(わきおうかん)として整備され、「河内名所図会」に描かれた暗峠には20軒近くの旅籠や茶店、行き交う人々などで賑わっていた様子が描かれています。今回は起点となる高麗橋から玉造、深江を通って暗峠まで自転車と徒歩で行ってきました。
スーパー地形による全ルートの記録です。総距離約61km、往復約10時間半、高低差約450m。生駒山地の麓までの低地は自転車で、山道は徒歩です。

これが全ルート。地図は1982-1919の今昔マップです。

この時代の地図は集落と旧道がよく記録されているので、街道歩きには欠かせないツールです。

旧大和川の堤防跡もよくわかります。

高麗橋の里程元標跡です。江戸時代の暗越奈良街道の起点は玉造でしたが、明治9年の里程元標設置時に高麗橋東詰へと移されたそうです。

大阪城の大手門です。

日本最古といわれる官道の起点。NHKと大阪歴史博物館がある場所です。

こちらは難波宮の大極殿跡。公園南側の道を東に進むと玉造です。

玉造稲荷神社です。

こちらに伊勢参宮本街道の旅の碑があります。

大阪から伊勢までは約5日間、奈良までは暗越奈良街道が利用されていました。

近くの二軒茶屋は奈良へ向かう街道の入口で、街道の両側に茶店があり旅人などが立ち寄り繁盛していたようで、ここで旅支度を整え見送る人達と別れを惜しんだそうです。

旧街道は大概くねくねとした裏道です。

玉津橋の欄干のところに古地図が。

玉津ハシの文字が大きく書かれています。

暗越奈良街道の立派なモニュメント。

堺屋太一氏がこの道はシルクロードの東の端だと書いておられます。たしかに。

高麗橋から4.9km。

もともと少し離れた北八尾街道との分岐地点にあった道標。

平野川分水路を越えて

脇道へ

深江の入り口です。

街道から外れて旧深江村に立ち寄り。

深江稲荷神社の入り口に「摂津笠縫邑跡」と「深江菅笠ゆかりの地」の碑がありました。大和の古代氏族である笠縫(かさぬい)氏の子孫が古くから移住したところで「菅の里」の別名があり、明治ごろまで近辺のほとんどの人たちが笠づくりに従事していたそうです。

「摂津名所図会」にはお伊勢参りと思われる旅人や菅笠(すげがさ)を買う旅人で賑わっている様子が描かれています。菅笠とは菅(すげ)と呼ばれる植物を加工しそれを編んだ笠で、深江の菅笠は古くは万葉集にも詠まれるほど有名で、今でも天皇の即位の儀式や伊勢神宮の式年遷宮に調進されています。

神社のとなりに深江郷土資料館があり、菅田が復元されていました。

この地域一帯には、菅の田が点在していたようです。

伊勢神宮の式年遷宮の様子ですが、菅御翳(すげのおんさしは)や菅御笠(すげのおんかさ)が描かれています。

菅御翳

菅御笠

実際に式年遷宮で使用したものだそうです。

近くで見るととても丁寧に編まれていてその素晴らしさに感激しました。

放出停車場と枚岡への道標。

御厨の道標。

菱屋東北公園前にある道標。

その斜向かいにある道標。

八剱神社境内にある道標。

菱江にある天保2年(1831)に建てられたおかげ燈籠。

松原宿跡。

街道唯一の宿場として寛永元年(1624)には16軒もの旅籠が賑わっていたようです。明治維新により宿は廃止になりました。

丁字路にある道標。

生駒山地の麓にやってきました。ここから坂道が始まります。

自転車をこぐのがそろそろ限界です。

街道沿いには川が流れています。

なんとか自転車で上がってきたところ。

ここにこんな案内板が。かつて街道沿いになった松尾芭蕉の句碑が山津波で行方不明になり、大正2年に発見されてこちらに移されたようです。

有名な「菊の香にくらがり登る節句かな」の句碑。

椋ヶ根橋横の丘の上。このあたりに自転車を置いて歩いて登っていきます。

見晴らしがいいです。左の高いビルはあべのハルカスですね。

すこし登ったところに芭蕉の句碑がありました。山津波でかつての句碑の行方不明になり明治時代に再建されたものです。

元禄7年(1694年)、病をおして伊賀を発った芭蕉は、旧暦の9月9日、重陽(じゅうよう)の節句、菊の節句とも呼ばれる日に、奈良から暗峠を越えました。その時に詠まれた句が、「菊の香に くらがり登る 節句かな」。この暗峠越えが最後の旅となり、大坂に入って間も無くの10月12日に大阪の南御堂の近くでなくなりました。享年51歳だったとか。

街道から右に入った谷筋に観音寺があります。

狭い通りを奥に行くと

滝があり観音延命の水が沸いています。

案内板には天然ミネラル水と書かれていました。

川は護岸整備されていますが、かつては滝の流れる景観が良かったのでしょう。

さらに登っていきます。

かつて社寺があった場所かもしれませんが、いろいろ祀られています。

急坂の細い道路がずっと続きますがれっきとした国道308号線で、たまに通る車やバイクを横目に息を切らしながら歩くこと約1時間で有名な難所が現れます。

俗に国道であるがそう呼ぶにふさわしくない状態の道を「ひどい」の「酷」の字を使って「酷道」と呼ぶことがありますが、まさに「酷道」と呼ぶにふさわしい場所かもしれません。

下から急坂を登ってくると90度左に回ってすぐに180度右にまわって最後に90度左に曲がるというくねくね道で、しかも最大斜度が37%といわれる急勾配。

直線で結ぶには急勾配過ぎるためにあえて大回りをして道路が通されていると思われますが、この場所ではタイヤが空回りする車が後を絶たず、黒いタイヤ痕が無数にできていいます。

実は歩くには全く問題がない場所で、この場所では人間の方が有利のようです。

暗峠まであと0.6kmです。

するとこんな場所が現れます。

ここは弘法の水が湧いている場所。古代から山道を通る人々の潤いの場所となっていました。

奥にある石柱は鎌倉時代中期の笠塔婆。旅人の安全を祈って建立されたものでしょうか。

水はきれいですが飲まないようにと書かれていました。

左の細い道を進んでいきます。

人家が現れてきました。

坂道も比較的緩やかです。

右手の石柱、

一応、道標です。たぶん。

脇道にすすむとお寺があるみたい。

生駒山地は急峻な山ですが山頂部が比較的緩やかだということがわかります。

何か燈籠が見えてきた。

地蔵尊。

暗越奈良街道と暗峠の案内板です。

やっとたどり着きました。

ここが暗峠。奈良県と大阪府の境界です。

大きな石の刻まれた「暗峠」の文字。暗峠の名前の由来は諸説ありますが、馬に乗って座るための鞍(くら)のような嶺から「鞍ヶ嶺峠」と呼ばれていたものが、木々が生い茂り暗かったことから「暗峠」と呼ばれるようになったといわれています。

石畳が敷かれていますが、かつては大和郡山藩の本陣や旅籠、茶屋などが建ち並んでいました。

石畳は大和郡山藩・柳澤家の本陣があった時に敷かれたといわれています。

そろそろ氷が美味しくなる季節ですね。

信貴生駒スカイラインの下を抜けると、

その向こうには、

奈良盆地が開けています。奥の山地の左側の色が明るい場所は若草山です。

道路の下にはきれいな棚田が広がっています。

さて、戻りますか。

大阪高低差学会のタオルが重宝する季節になりました。

街道の脇に大阪府民の森園地内に入る柵がありますが、横から通れるようになっています。

ここは神津獄休憩所。

すぐ近くに枚岡神社神津嶽本宮へ向かう坂道があります。

丘の上にあるのが枚岡神社の神津嶽本宮(かみつだけほんぐう)。枚岡神社創祀の地です。

古くは柵が設けられた禁足地でしたが、昭和56年に石碑が建てられ平成5年に石の社殿が築かれました。この地は古代の祭祀場跡と考えられる神聖な場所です。

そこから坂道を下っていくと開けた場所が。

枚岡山展望台。

この日は天気が良かったので見晴らし最高!正面に六甲山と左に明石海峡と淡路島。六甲山の手前には上町台地に建つビル群がよく見えます。ちなみに左の高いビルがあべのハルカスです。

さて、枚岡神社まで降りてきました。

社殿は高台の上にあります。

本殿のまわりは、本殿裏から湧き出す湧水で満たされています。

その清らかな水が絶えず流れています。

本殿横の摂社若宮社奥にある出雲井の御神水。

枚岡神社は狛犬ではなく鹿です。鹿で有名な奈良の春日大社は、枚岡神社から二柱の御祭神を勧請されたと伝わり枚岡神社は「元春日」ともいわれています。

さて、広いグランドですが、四方を堤防のような高台で区切られています。

ここは花園多目的遊水地。大雨の時に横を流れる恩智川の洪水を一時的にためて洪水被害を防ぐための施設です。地盤が低く水が流れにくい寝屋川流域にはこのような洪水対策の遊水地が数カ所設けられています。

この石碑は大正4年(1915)に建てられた「贈従五位中甚兵衛翁碑」。

江戸時代中期に大和川付け替えに尽力した中甚兵衛はここ今米村が出身地でした。

すぐ横にある屋敷林は中甚兵衛ゆかりの家と言われています。

貴重な雑木屋敷林は地元のボランティアの方々によって守られています。

水路の交差点である古箕輪。江戸時代の剣先舟は、ここで樋門により水の高さを調整して、各村の井路を通って荷物を運んでいました。

現在の寝屋川です。

この高い防潮堤で市民の暮らしは守られています。
スポンサーサイト