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神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑へ

2016年01月23日 14:00

普通の靴で行くとやばい旧跡に
普通の靴で行って来た。

神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑
神武天皇聖蹟盾津顕彰碑


古事記や日本書紀に記されている神武東征(じんむとうせい)。九州を出発した神武天皇が率いる皇軍は、難波の碕を通って草香邑(くさかむら)から上陸し、大和へ入るために日下直越道(くさかただごえみち)を進むが、途中の孔舎衛坂(くさかえざか)で長髓彦(ながすねひこ)に行く手を阻まれ、紀伊半島を迂回する行動に出るのである。

昭和15年(1940)、神武天皇が大和国橿原で即位して2600年にあたる事から、神武天皇聖蹟の調査と顕彰の事業が国家事業として行われることになった。文部省は、全国19ヶ所の聖蹟を公表し顕彰碑を建てることにしたが、そのうち2つが生駒山の麓に建てられたのである。

(6〜7世紀ころの摂津・河内・和泉の景観「地形からみた歴史/日下雅義」より)
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神武天皇が率いる皇軍の船団は、瀬戸内海を通り、難波の堀江を通過して生駒山の麓である草加津から上陸したのであろうか。ちなみにこの古地理図は6〜7世紀頃だが、古事記や日本書紀が編纂されたのは8世紀頃、神武天皇が即位したのは紀元前7世紀とされているので縄文時代晩期になる。

(弥生時代ころの景観「地形からみた歴史/日下雅義」より)
kusaka_yayoi.jpg
弥生時代の古地理図だが、これで見ると神武天皇の船団は難波の堀江ではなく千里丘陵の南部を通ったことが想定できる。古事記や日本書紀は古地理図と照らし合わながら読むと面白い書物である。

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カシミール3Dで作った地形図に上記の古地理図を重ねてみた。
草加津と盾津、孔舎衛坂の位置関係である。

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河内平野が一望できる近鉄石切駅近くからの眺め。
左の高いビルはあべのハルカス。
古代の河内平野では正面のビル群まで湖が続いていたのである。

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「神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑(じんむてんのうせいせきくさかえざかけんしょうひ)」へは石切駅から約1時間ほど歩く必要がある。途中の道は日下直越道(くさかただごえみち)と呼ばれる古道で、河内と大和を結ぶ最短ルートでもあった。

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舗装された道はここまで。ここからは日下直越道を行く事になる。

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いきなりイノシシ注意である。

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すぐにイノシシの泥浴び場があった。イノシシの足跡多数。

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ほとんど獣道である。

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川をまたいで渡る。

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足下がさらに悪くなってきた。

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ブッシュでわかりにくいが、小さな滝があった。

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川に沿って直越道が続く。この時点で靴はドロドロである。

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ここが、直越道と顕彰碑との分岐点。

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左に行くと顕彰碑、川に沿って行くと直越道。

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「直越」は「ただごえ」と呼ばれているが、地元では「じきごえ」というようだ。

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相変わらずイノシシが出てきそうな道が続き、こんな倒木の障害物まで現れてしまった。

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それを越えると、標識がたくさんある場所にたどり着く。
生駒縦走道だ。神武天皇顕彰碑の案内もある。

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左側の道を行く。

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ゆるやかな坂道を上がると

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やっとたどり着いた!
どんだけ山奥やねん。

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「神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑」。高台の上にあるのだが残念ながら見晴らしはよくない。

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神武天皇は皇軍を率いて生駒山を越えて中州(奈良盆地)に入ろうとしたが、孔舎衛坂(くさかえざか)で長髓彦(ながすねひこ)軍と合戦になったのがこの辺りであるというような事が刻まれている。

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ちなみに「孔舎衛坂」は「くさかえざか」「くさかざか」「くさえざか」「くさえのさか」など様々に読まれている。

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「神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑」への古道は地図に記されていないのでおおよその場所を記しておきたい。川沿いを歩いて分岐点を道なりに。トレッキングシューズで行かれる事をお勧めする。

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帰りも同じ直越道を通り、盾津顕彰碑へ行く前に大龍禅寺不動院へ立ち寄り。

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正面にある鳥居の下に階段が続いている。もう登るしかない。

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このような石段が続く。

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するとてっぺんに大きな岩があった。
磐座(いわくら)のようだ。

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石室のようにも見えるが古墳の感じがあまりしない。
一部コンクリートで補強した跡もあるが、これが何であったのかネットで検索してもよくわからなかった。

さて、
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麓に下りて来たところにもうひとつの顕彰碑、神武天皇聖蹟盾津(たてつ)顕彰碑がある。

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神武天皇率いる皇軍は孔舎衛坂の戦いでこの津まで退き、盾を並べて雄誥(おたけび)をあげた場所で、地名が盾津になったというようなことが刻まれている。現在、盾津の地名はなくなってしまったが、雄叫びを上げたなんて、なんて素敵な伝承が残っている場所なんだろう。

(追記)
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大阪府には上記の他に2つの神武天皇顕彰碑がある。ひとつは泉南市の男(おの)神社境内にある雄水門(おのみなと)顕彰碑、もうひとつが大阪天満宮にある難波之碕顕彰碑である。





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生駒山地の磐座めぐり③ 岩戸神社・高御座神社の磐座

2016年01月17日 15:12

太陽が昇る高安山

古来より太陽信仰は日本各地に根ざしていたが、カワチやナニワも例外でなく、いまでも四天王寺では春と秋の彼岸の中日に日想観の法要が行われている。古代の大阪平野に暮らした人々は、生駒山地から登る太陽の位置で季節を知り、種まきや収穫の時期の目安にしていた。生駒山地にはその目印になる山がいくつか想定できるが、中でも高安山は神の山として信仰の対象になっていたのである。

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高安山の麓に岩戸神社がある。奥に見える鳥居は高御座神社だ。

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日本最初 岩谷辨財天とある。

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河内名所図絵には「崫(いはや)」と書かれており、大きな岩の上に小さな祠が描かれている。

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参道の階段を上がると、

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拝殿がある。ここからは岩の上の祠は見えない。

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下から見るとこのようになっている。
岩の穴の中に弁財天 市杵島姫大神が祀られているのだ。

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河内名所図絵に描かれていた滝はこれであろう。滝行の場所になっている。

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これは、カシミール3Dで冬至の日の出をシミュレーションしたものである。
わかりやすいように上空から見たアングルにしているが、上町台地の先端、難波宮から見るとちょうど高安山から太陽が昇ってくるのがわかる。

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高度を下げてみた。見え方がすこしリアルになる。

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住吉大社からはいつの季節に太陽が昇るか調べてみた。すると春分日に高安山から太陽が昇ることがわかる。

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ちなみに、春分日に難波宮から見ると生駒山から太陽は昇るのである。

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さて、こちらは岩戸神社の奥にある高御座神社だ。

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階段を上がると拝殿があり額束には天照大神社とある。

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後ろの岩の上に祠があるが、こちらに祀られているのは天照大神であろう。

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実はこの二社は同じ巨大な岩に祀られている。

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この大岩は、古代から磐座として信仰の対象になっていたのであろう。

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木々で覆い隠されて岩の全貌がわかりにくいが、神が宿る場所に相応しい磐座である。


(生駒山地磐座めぐり)
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生駒山地の磐座めぐり② 磐船神社・星田妙見宮

2016年01月11日 18:50

宇宙船磐船号と星の降臨

『古事記』『日本書紀』『先代旧辞本紀』によると、饒速日命(にぎはやひのみこと)は、高天原(たかまがはら)より天の磐船(あまのいわふね)に乗って河内国河上(かわちのくにかわかみ)哮ヶ峯(いかるがみね)に降臨し、のちの大和国に入り、大和河内地方を開発し建国の礎を築いた神とされている。中沢新一氏の言葉を借りると、その宇宙船磐船号の残骸が、この渓谷の中に着地したのである。

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天野川トンネルができて水の流れが少なくなった旧流路。

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天孫降臨の地と岩窟めぐりとある。

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こちらが磐船(いわふね)神社。

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こちらの祭神はもちろん天孫饒速日命(てんそんにぎはやひのみこと)である。

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社殿の後ろにある巨大な磐船。

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饒速日命が乗って来たこの磐船がご神体になる。

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この地をおさめていた饒速日命の子孫と呼ばれる物部氏が、この巨石を天の磐船として信仰の対象にした事は、ごく自然なことであったと思われる。

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境内の奥に、岩窟めぐりの入口がある。

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一人だけの拝観は禁止。

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まるで宇宙船の内部を探検するような場所なのであろう。


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磐船神社から車で15分くらいのところに星田妙見宮がある。

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名前に「星」が付いているが、「七夕伝説」などとも関係がある神社だ。

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約1280年前の奈良時代に詠まれた織女(たなばた)の一首。

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平安時代の「曾丹集(そたんしゅう)」に天の川羽衣伝説のことも書かれている。

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弘仁年間(810~824)、弘法大師空海が獅子窟寺(ししくつじ)で修法をされている時に、星がこの地を含めて三ヶ所に降臨したという。

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星にまつわる事柄がいくつもあるこの地だが、実際に弘仁7(816)年に隕石が落ちた場所でもあるのだ。隕石落下の記録としては、日本で二番目に古い記録だという。

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ここから石段を上がっていくと

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山頂近くはこのような見晴らしになる。

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石段の上に社殿はあり、

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社殿の裏側にあるのがこの磐座だ。その名も「織女石(たなばたせき)」。
隕石が落ちた山の山頂近くにこのような巨石の磐座があるというのは、なんとも不思議である。

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下りのルートは変わり、下りてきたところに滝壺がある。

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隕石の落下地点がここであったという。
最初の説明板に、隕石によって山の大部分が吹き飛ばされて、馬蹄形になったとあったが、カシミール3Dで地形をみてみよう。

妙見
するとこのような地形が現れた。中央にある山が妙見山である。
実際にえぐりとられたようなカタチになっているのがわかる。

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隕石によって吹き飛ばされた場所はこのように木々で覆われ地形がよく分からないが、宇宙のロマンを感じさせてくれる場所でもあるのだ。


(生駒山地磐座めぐり)
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