2015年08月30日 02:00
南惣構堀の場所再検証
大坂冬の陣の講和の条件で徳川陣営によって徹底的に破却されてしまった南惣構堀(空堀)。そのおおよその場所は分かっているのですが、記録がほとんど残っていないため正確な位置がわかっていません。私も何度か検証を試みているのですが、前回作った南惣構堀の形状がどう考えてもおかしいので今回はその修正データを作りました。

これが前回のデータです。
何がおかしいかというと、東横堀川との接点に無理がありました。
僊台武鑑の古地図では、長堀川らしき堀の北側に接していたのでそれに合わせたのですが、よく考えてみると長堀川が開削されたのは1625年で、大坂の陣の10年後なんですよね。

ですので、瓦屋藤右衛門請地と高津屋吉右衛門肝煎地の場所に合わせて素直にラインを引き直してみました。古地図の堀の北側に道が描かれていますが、おそらく土塁の上に作られた道ではないかと思いますのでそれも書き込んでみました。

東半分はほぼこんな感じだと思うのですが、西半分は瓦屋藤右衛門請地の枠の中にどうやっても収まらない。なので臨機応変にラインを引いていますができるだけ古地図のイメージに合わせています。

現在の地図に重ねるとこんな感じです。土塁の道と空堀商店街が重なるようにしてみました。

豊臣時代の正確な地図が存在しないだけに、なんとなくモヤモヤは残ったままなのですが、そんな中でも僊台武鑑の古地図は地形図と照らし合わせてもかなり近いと改めて思いました。堀のラインを入れていない地形図もアップしていますので、みなさんも検証してみてはいかがでしょうか。
ちょっと涼しくなってきましたので、もういちど周辺をフィールドワークして来ようと思います。
(関連記事)
『等高線で空堀(南惣構堀)の場所を探せ』2015.09.09
『秀吉大阪城の南惣構堀の場所検証』2015.08.30
『真田丸と南惣構堀(空堀)跡の場所を地形(カシミール3D)から探る』2015.01.15
『空堀(南惣構堀)の跡を探せ』2015.05.12
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これが前回のデータです。
何がおかしいかというと、東横堀川との接点に無理がありました。
僊台武鑑の古地図では、長堀川らしき堀の北側に接していたのでそれに合わせたのですが、よく考えてみると長堀川が開削されたのは1625年で、大坂の陣の10年後なんですよね。

ですので、瓦屋藤右衛門請地と高津屋吉右衛門肝煎地の場所に合わせて素直にラインを引き直してみました。古地図の堀の北側に道が描かれていますが、おそらく土塁の上に作られた道ではないかと思いますのでそれも書き込んでみました。

東半分はほぼこんな感じだと思うのですが、西半分は瓦屋藤右衛門請地の枠の中にどうやっても収まらない。なので臨機応変にラインを引いていますができるだけ古地図のイメージに合わせています。

現在の地図に重ねるとこんな感じです。土塁の道と空堀商店街が重なるようにしてみました。

豊臣時代の正確な地図が存在しないだけに、なんとなくモヤモヤは残ったままなのですが、そんな中でも僊台武鑑の古地図は地形図と照らし合わせてもかなり近いと改めて思いました。堀のラインを入れていない地形図もアップしていますので、みなさんも検証してみてはいかがでしょうか。
ちょっと涼しくなってきましたので、もういちど周辺をフィールドワークして来ようと思います。
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